2020年9月30日水曜日

アフガン

1980年1月初め、コペンハーゲンから帰国する際、モスクワ経由の便に乗りました。経由地では、通常、空港ロビーで出発を待ちますが、機内で待機とのアナウンスが流れます。するとカラシニコフ突撃銃を抱えた兵士が数名乗り込んできて、通路を行き来し始めました。嫌な気分でした。実は、ソ連によるアフガン侵攻直後だったのです。ソ連は、ソ連軍派遣を要請したアフガニスタン大統領を殺害し、カブールを制圧。無論、国際社会は激しく非難します。過敏になっていたソビエト政府は、民航機にまで兵士を送り込んだわけです。

流行の世界史観からすれば、交易路の要衝にあるアフガン(山の民)の地は、常に世界史の中心でした。ゆえに、その支配を巡る争いは絶えることが無く、支配者は猫の目のように変わります。18世紀に至り、アフガンは王国として独立しますが、王朝は変わり続け、19世紀には、イギリスの保護国となります。1919年に王国として再独立しますが、国内は安定しません。1953年、親ソ連政権によって王政は廃止、共和国に移行します。共和国の宗教弾圧に対抗し、ムジャーヒディーン(ジハードを遂行する者たち)と呼ばれる武力組織が生まれます。ただ、統一された組織ではなく、多数の組織が混在し、ときには互いに争います。

1978年、親ソ連の左翼政権が誕生し、宗教弾圧を強化すると、各地のムジャーヒディーンは一斉に蜂起。劣勢となった大統領は、ソ連軍派遣を要請します。ソ連は、イラン革命の飛び火を恐れたと言われます。ソ連軍とムジャーヒディーンとの戦いは10年に及びます。複数ゲリラ組織との戦い、カイバル峠を超えてパキスタンから流入し続ける米製の武器、士気の下がった兵士の間で広がる麻薬、アフガン侵攻は、ソ連のベトナム戦争と呼ばれました。

ソ連軍撤退後、内戦が激化、1996年にはイスラム原理主義のタリバン政権が誕生。しかし、反タリバン勢力との戦闘は継続。2001年、米国で同時多発テロが起こると、ビン・ラディンのアル・カーイダを保護するタリバンに対して米国が攻撃を開始。タリバン政権は崩壊したものの、戦闘は継続し、現在に至ります。米国にとっては、史上最長の戦争となり、戦費は6兆円を超えたと言われます。

「政権は銃口から生まれる」と言ったのは毛沢東ですが、国が成立する過程では、武力による統一が必要なのでしょう。アフガンの場合、他国からの侵略が続いたために独立性の高い部族社会が存続され、国内がいまだ統一されていません。顔の見えない敵と戦うならば、泥沼化は必定と言わざるを得ません。(アフガニスタン国旗 写真出典:asahi.net)

2020年9月29日火曜日

「鵞鳥湖の夜」

2019 年中国・フランス     監督:ディアオ・イーナン

 ☆☆☆☆

「薄氷の殺人」のディアオ・イーナン監督、待望の新作です。再びネオ・ノワールのスタイリッシュな映画に仕上がっています。ただ、前作に比べれば、ややガチャガチャとした印象です。前作の舞台が極寒のハルピン、今回は湿潤な南部の地方都市。いずれもその空気感が伝わりますが、前作ほどのシャープさはありません。ただ、フレンチ・フィルム・ノワールを彷彿とさせる演出や、独特の間合いは、実にいい味を出しています。ヒロインには、前作同様、台湾のグイ・ルンメイ。前作とはまるで違うキャラクターを演じますが、イーナン映画のムードを形成する重要な要素となっています。

フレンチ・ノワールを特徴づける流儀の一つは、 ダンディズムだと思います。伊達男ということではなく、プライドの在り方という意味でのダンディズムです。それがイーナン監督の描く主人公の生き様であり、映画の縦糸になっています。登場する女性、仲間たちは、主人公のダンディズムの反映として存在します。アメリカのフィルム・ノワールでは、主人公が性格破綻をきたしており、ゆえにファム・ファタールが登場し、ストーリーが展開していきます。アメリカのフィルム・ノワールの虚無感は継承しつつも、フレンチ・ノワールのダンディズムが主旋律になっているように思います。

イーナン映画の舞台は、中国の闇の世界、あるいは中国の表社会から捨て置かれた社会です。監督の目線が、批判的でも温情的でもなく、捨てられた人々と同じ地平線上にある点も大きな特徴だと思います。中国の闇の世界は、中国共産党が認めたくない存在だと想像できます。他の国々の闇社会も同様な面はありますが、それはあくまでも法の世界での話です。高度な管理社会である中国で、存在が全否定されるということは、極めて厳しい状況だと思います。

2019年、建国70周年を機に中国の検閲は強化されたと聞きます。その線引きがよく分かる例があります。中国系米国人が撮ったドキュメンタリー「一人っ子の国」(2019)は衝撃的でした。中絶を強要される母親、中絶を強要する下級幹部、双方の苦しみが語られていました。それでも生まれた二人目以降の子供は、母親から引き離され、施設に入れられます。地方幹部の一部は、その子らと欧米人との養子縁組ビジネスで私腹を肥やします。多くの賞を獲得しましたが、中国では検閲どころか完全無視。一方、同じく一人っ子政策を扱ったワン・シャオシュアイ監督の「在りし日の歌」(2019)は公開されました。政策が与えた人民の苦しみは描かれていますが、政府を直接的に批判するシーンはありません。

イーナン監督の作品は、闇社会を舞台としながらも、直接的な政府批判はありません。よって検閲は通ったのでしょう。ただ、中国第六世代から第七世代の監督たちが描く社会のひずみは、管理社会が強化されれば、その反作用も大きくなることを雄弁に語っているように思えます。(写真出典:asiapadaise.com)

2020年9月28日月曜日

クック・ブック

昔、提携していた米国の医療保険会社の本社に呼ばれました。当時、円高に伴い日経企業による米国直接進出がブームの様相を呈していました。先方のマーケティング・スタッフと共同して、日系企業開拓プランを作ってくれ、という依頼でした。ミーティング冒頭のごく短い時間、先方の社長が来てくれました。いわく「君たちは何のために集まったのか、決して忘れるな。Moneyだ。利益を生み出すために、3日間で、いわゆるマクドナルド・クック・ブックを作れ!」これだけです。見事なまでに簡潔な指示。目的を明確にし、すぐに展開可能なマニュアル作成という明確かつ単純な目標を与えられました。アメリカのビジネス・センスに触れた思いがしました。

1954年、マクドナルド・コーポレーションの創業者であるレイ・クロックは、ミキサーのセールスマンとしてマクドナルド兄弟の店を訪れます。彼が驚いたのは味ではありません。スピード・サービス・システムが実現した回転率の高さです。マックが世界を席捲できたのは、システマティックな製造過程とセルフ・サービスであり、それを世界中どの店舗でも確実に運用できるマクドナルド・クック・ブックというマニュアルの存在です。物も、金も、情報も十分ではなかった時代は、売り手主導のマス・マーケティングが主流であり、マニュアルは実に有効な手立てでした。

大統領候補にもなった実業家ロス・ペローは、イラン革命直後、革命軍に捕らえられた自社の従業員を救出するため、元軍人からなるチームを作ります。山中で訓練するチームの夕食を調達するために2人がマックに出向きます。ビッグマック50個くらいをオーダーすると、店員が「Stay or To go ?」と聞いたそうです。吹き出しました。クック・ブックの威力と弱点がよく分かる話です。物、金、情報があふれ始めると、買い手個人主導のセグメント・マーケティングの時代になり、脱マニュアル化の動きがおこります。

代表は、スターバックス。その店舗コンセプトは「街のなじみのコーヒー屋」。笑顔までマニュアル化したマックと異なり、従業員の個性を重視、一切、社内教育はしません。マーケティングは時代と共に変遷すると教わります。それを全面否定するつもりはありません。ただ、マックのビジネス・モデルは今でも有効です。マックとスタバの違いは、マーケティングの新旧ではなく、あくまでもターゲットの違いによるものだと思います。ターゲットを明確にできれば、マーケティングは、ほぼほぼ成功します。

近年、マニュアルは、従来と異なる効用が認められています。マニュアル化できる仕事は、ロボテックスとAIで自動化しやすい面があります。マニュアルは、自動化設計のたたき台として活用できるわけです。マクドナルド・クック・ブックも、クック・プログラム、あるいはクック・アルゴリズムと呼ばれる日も近いように思います。(写真出典:newsweekjapan.jp)

2020年9月27日日曜日

「TENET」

 2020年アメリカ・イギリス     監督:クリストファー・ノーラン

☆☆☆☆

映画監督の処女作には、その後、その監督が撮る映画のすべてが含まれている、とは、フランソワ・トリフォーの言葉だったと記憶します。「メメント」は、クリストファー・ノーランの二作目ですが、彼が注目された最初の作品であり、クリストファー・ノーランのすべてが詰まっていました。時系列的ではない時間の扱い方が、緊張感を高め、観客の頭脳をフル回転させます。しっかりとした映像、流れるような編集、そして緊張感ある音楽が、テンションを高めていきます。実にヒッチコック的だな、と思ってしまいます。

難解な面もありながら、1億ドル以上の製作費をまかされ、かつ勝ち続けているノーランは、いまやハリウッドの巨匠と言えます。新作「TENET」の製作費は2億ドル超という大作。パーシャル・タイム・マシーンとでも言うべき装置を使った過去と未来からの挟撃作戦は、複雑な時系列を生み出し、またまた観客の頭をフル回転させます。いつも通りの流麗なタッチもあって、150分という上映時間もアッという間に感じます。ただ、ストーリーの難解さから言えば、もう少し時間が必要だったようにも思えます。無論、長くすればテンションの維持が難しくなり、興行的にも問題が生じますので、これが限界なのでしょうが。

少し残念に思えた点が、三つあります。一つは、本作の背景にある環境問題です。行き詰った地球の環境問題,、あるいは原子力問題に対して未来人がたどり着いた対応策がストーリーのベースですが、その訴求がやや薄いように思えます。二つ目は、科学的情報の不十分さです。時間の逆行を生じるエントロピー減少に関する説明は、あまりも難しいので、これで十分だと思います。ただ、ストーリー展開上欠かせない対消滅や窒息など逆行する時間が生むリスクに関する情報が、少なすぎるように思います。三つ目は、映像の広がりということです。難解なストーリーや時系列の扱い方に映画的パースペクティブを与える印象的な映像がノーランらしさだと思います。本作では、ストーリーを追うことに時間が取られすぎている印象があります。

タイトルの「TENET」は、ラテン語の有名な回文に基づきますが、これだけでもとても深い隠喩に満ちています。そうした難解さ、かつコロナ禍での上映といった観点から、今回、ノーランの大勝は難しいかも知れません。ただ、時の魔術師ノーランの集大成的作品であることは間違いありません。(写真出典:amazo.co.jp)

2020年9月26日土曜日

ハミウリ

シルクロードを巡るツアーに参加したことがある父が、トルファンで食べたハミウリが美味しくて、また食べたいとよく言っていました。要はメロンでしょ、と言うと、もっと水分が多く甘いと言うのです。恐らくメロンとさほど変わらないと思うのですが、高温低湿地で食べれば、天国の味だったと思います。よろず食物や飲物は、それが育った土地で味わうのがベストだと思います。

中国共産党のチベットや新疆ウイグル自治区に対する対応は、国境地帯における戦略的深度の確保が狙いではありますが、組織の中央集権指向の問題という面もあります。組織は、本来的に中央集権を求めるものです。より効率的だからです。ただ、組織規模が拡大すると機能不全を起こしたり、権力の集中が腐敗を生んだり、中央集権そのものが組織目的化する、つまり保身に走ったりします。すると暴動、革命等、反政府勢力の台頭等が起こり、分権化します。ただ、新しく生まれた政権も再び集権化を目指し、集権と分権は循環していきます。

広大な多民族国家である中国は、歴史的に見れば、強力な中央集権なくして成立しません。改革開放政策が始まった時、国内外では、中国は民主化するという期待が広がりました。ただ、六四天安門事件で、それは打ち砕かれ、中国共産党の固い意志が示されました。以来、中国共産党は、法輪功事件等、反政権とは言えない団体にも強権を発動してきました。その永い歴史から、”蟻の一穴”を、先んじて塞ぎ続けることの重要性を心得ているからです。つまり、保身の段階に入っていると言えます。

中国政府は、新疆ウイグル自治区でテロ対策に取り組んでいると主張しています。確かに分離独立を求めるテロはありました。テロ対策とは、実に都合の良い大義です。380ヵ所を超える"職業技能教育訓練センター"に100万人以上が拘束されていると言います。ウイグル族の実に8人に1人が収容されていることになります。町では伝統音楽や女性のヒジャブが禁止されるなど、まさに民族浄化の様相を呈しています。国際的批判はあるものの、実態が分からないこと、また中国の経済的影響力もあり、その有効性は認められません。

チベットでも、ウイグルで”成功”した洗脳キャンプが急速に増えているという報道もあります。民族浄化は、中央集権の必然なのでしょうか。「勝って譲る」という古代ローマの寛容性が世界帝国を作ったとも言われます。ムニキピウムと呼ばれる被支配地の自治体にも、それが現れています。一定の制約の下、被支配地域は、その文化と政治を存続できました。文明の傘で文化を覆う統治です。古代ローマ没落の一つの理由は、キリスト教を国教化したことだ、と塩野七生は言います。繁栄の礎でもあった多様性を否定したからです。(写真出典:smile-chinese.sakura.ne.jp)

2020年9月25日金曜日

毘沙門天

 毘沙門天は、インド神話に由来する仏神であり、仏が住む須弥山を守る四天王のうち、北方の守護を担います。中国で軍神としての性格も帯び、日本へ伝わりました。自身、毘沙門天の生まれ変わりと称した上杉謙信の旗印は毘沙門天の「毘」でした。戦国時代、最強と言われたのは武田軍と上杉軍だったそうです。稀代の戦さ上手である謙信は、70戦負け無し。無論、負け無しも驚異ですが、15歳で初陣、48歳で没するまでに70戦、ほぼ年に2回という戦さの多さが謙信の生涯を雄弁に語ります。

謙信は、越後守護代の長尾家に生まれました。下克上の時代にあって、越後は内乱状態。越後守護である上杉家を牛耳る長尾家も、一族の争いが絶えず、謙信も若くして戦さと政争の渦中に巻き込まれます。戦さと統率の才を認められた謙信は、18歳で守護代、20歳で守護になり、21歳のおり、越後統一を果たします。ただ、統一は不安定で、その後も反乱は続きます。

越後統一以降、その武力が認められた謙信のもとには近隣他国から救援要請が寄せられます。義の人謙信は、その都度出兵します。長く続くことになる武田、北条との戦いも、要請に基づく出兵から始まっています。ついには関東管領にも就いた謙信は、17回も関東出兵を行います。ただ、領土的野心は一切なく、国を出ては戦い、勝っては国に戻ることを繰り返します。越後を脅かす一向一揆とも血みどろの戦いを繰り広げますが、領土的利害を直接原因とする戦いは例外的と言えます。

武力からすれば、上洛して天下を取ることも可能だったかも知れません。しかし、謙信の最大関心事は越後の安定だったのでしょう。救援要請を受ける形とは言え、将来、越後を脅かしかねない勢力を叩き続けたようにも思えます。関東管領を受けたのも、越後国内への影響力を増すためとも考えられます。また、反乱を誘発しかねない越後国内の武力を、可能な限り国外で戦わせ、越後の安定を狙ったのではないでしょうか。

上杉軍の強さは白兵戦にこそあったと言われます。戦さの多さが、歴戦の将兵を育てたのでしょう。当時の戦さでは当たり前だった略奪が、将兵の動機になっていた面も否定できません。加えて、越後を守るという謙信の基本スタンスが、各々の家族と土地を守るという将兵の動機と重なっていたとも言えそうです。自ら北面の守護神を任じた謙信の強さは、北面の将兵たちと利害が一致していたことにあったのかも知れません。旗印の「毘」には深い意味があったわけです。組織のニーズと個人のニーズが一致した組織ほど強いものはありません。(写真出典:zassou.net)

2020年9月24日木曜日

ミスティック・シーポート


ニューイングランドの秋は格別です。ひんやりと澄んだ空気、紅葉、落葉、祭りへの期待。I87やI95といったハイウェイを北に走ると、広大な森の紅葉が広がります。所々、村の教会の白い尖塔も見えます。正直、落葉を掃除することは大変ですが、秋を感じます。感謝祭からクリスマスまでのホリディ・シーズンはまだ先ですが、ハロウィーンもあり、祭りの前のざわめきを感じ始めます。

コネチカット州の東端、ロード・アイランド州との州境近くに、ミスティック・シーポートがあります。ミスティック・リバーが、ロングアイランド海峡に注ぐ、美しい入り江沿いの町です。古くは原住民ピーコット族が住み、ミスティックという素敵な名前も、ピーコットの言葉で、水が波で押し流される大きな川を意味します。18世紀以降は、帆船の造船拠点として栄えたようですが、大型船の時代になると役割を終え、静かな美しい村だけが残りました。


今は、ニューイングランドを代表する観光地になっています。人口4千人という小さな町ですが、シロイルカで有名な水族館、全米有数と言われる海洋博物館、開拓時代の村を模したショッピング・モール、ヨット・ハーバー等があります。しかし最大の魅力は、その美しい景色です。穏やかなミスティック・リバーも、川港に帆船が並ぶ光景もとても穏やかです。川越しに見る紅葉のなかに点在するコロニアル様式の家々はとても美しく、画家ならずとも絵筆を取りたくなります。

海洋博物館には、捕鯨船チャールズ・W・モーガン号はじめ歴史的木造船が停泊し、再現された造船所では、木造船の製作デモンストレーションも行われます。博物館のコレクションは、各種木造船はじめ、開拓時代の海や生活に関わる道具、独立戦争時の遺物等があります。お決まりですが、ミュージアム・ショップ等には、お土産品の他に、ヨット用品も含む船舶関係の品物も多くあります。そこで購入した、帆船の甲板に埋め込み、船内に光を取り込んだプリズムのレプリカは、今も私の宝物です。

秋から初冬にかけては、ぽかぽかと暖かい日もあります。アメリカ人は、インディアン・サマーと呼びます。インディアン・サマーの日、ニューイングランドの紅葉は、一段と引き立ちます。アメリカ人に、なぜインディアン・サマーと呼ぶのかと聞くと、多くの人がインディアンの逆襲のように夏が秋を攻めてるからじゃないか、と答えます。そうではありません。ただ、原住民に対する罪悪感が感じられて、面白いと思いました。(ミスティック・シーポートの秋 写真出典:seeysticct.com)

2020年9月23日水曜日

徐福伝説

斉の琅邪郡の方士徐福が、秦の始皇帝に「東方の三神山に不老不死の霊薬あり」と具申します。始皇帝は、徐福に三千人の若い男女、多くの技術者、財宝、五穀の種を持たせ、東方の海へ送り出します。しかし、徐福は、三神山に至らず、広い土地と湿地を得て王となり、秦には戻りませんでした。

史記の淮南衡山列伝に記載された徐福のくだりです。方士とは、占い、医術、錬金術等を行い、不老不死を目指した修行者です。三山とは、神仙が住むと言いう蓬莱・方丈・瀛州を指し、瀛州は日本の呼称としても使われています。史記は、正史であり、一級の歴史書ではありますが、伝聞ゆえ、矛盾も誇張もあって当然です。徐福に関する記載は短かく、物証もないので、単なる伝承と認識されています。

ただ、日本での徐福人気は大変なものです。徐福渡来伝承は、市町村単位で見れば、青森県から鹿児島県まで、なんと30を超えます。海辺ならまだしも、内陸部にまで伝承が存在することは驚きです。中国では、徐福が稲作や各種技術を日本に伝えたため日本は栄えた、という認識があったようです。日本にも関わりがある徐福伝説は、遣唐使たちの注意を引き、日本に広められたのでしょう。

日本各地の伝承に言う徐福とは、おそらく種々の技術を伝えた渡来人のことなのでしょう。最も有名な渡来人は、秦氏でしょうが、4~5世紀頃渡来し、大活躍しています。徐福ノ宮がある三重県熊野市の波田須町の古い地名は秦住だったそうです。秦代の古銭も出土し、徐福上陸地ではないかとされていますが、「秦」は秦朝を意味するのではなく、秦氏の一族が住んでいたということではないかと思います。

一国を築きあげた王たちは、不老不死を求めます。人間にとって究極の願いとも言えるのでしょう。一方、ヴァンパイアたちは、死ねない憂鬱を抱えます。日本の百歳以上の人口は8万人を超えたといいます。秦代の人々から見れば、今の日本は、まさに不老不死の霊薬のある三山なのかも知れません。(新宮市の徐福公園にある徐福像 写真出典:city.shingu.lg.jp)

2020年9月22日火曜日

ラッフルズ

宝くじに当たったら、やってみたいことの一つは、シンガポールのラッフルズ・ホテルに長逗留すること。コロニアルなムードに浸りながら、20世紀初頭のシンガポールを舞台にした短編小説を一本書きたいと思います。要は、サマセット・モームを気取りたいということです。「ラッフルズ、その名は東洋の神秘に彩られている」とはモームの言葉。まったく同感です。

ラッフルズは、1887年の開業。アルメニア人サーキーズ家が創業しました。イギリス植民地下にあって、白人専用のホテルでした。礼装軍服にターバンというインド人ドアマンに迎えられると、上質なコロニアル様式の館内は涼しく、ヤシの緑が濃い中庭にはうっとりさせられます。フランス人は、現地に溶け込む傾向が強いのに対して、イギリス人は、どこへ行ってもイギリスの生活を持ち込みます。おそらく厳しい階級社会ゆえ、どんな辺境であっても、上流の生活スタイルを誇示せざるを得なかったのでしょう。ラッフルズのコロニアル・ムードは、その産物でもあります。

サマセット・モームは、イギリスが大嫌いな生粋のイギリス人だったように思えます。モームは、1874年、イギリス人夫妻の子として、パリに生まれ育ちます。ただ、幼くして家族は離散、モームはケント州の牧師の叔父に育てられます。英語に不自由で、吃音だったモームはいじめられます。叔父との不仲、あるいは同性愛者への偏見もあり、イギリスが嫌いになったのでしょう。モームは、旅行家かと思えるほど、世界を旅しています。人気作家となった後も、旅から旅の生活でした。スペイン、イタリア、アメリカ、ロシア、南太平洋、アジア。ロシア革命時には、ロシアでMI6の諜報員までやっています。

ストーリー・テラーだったモームの作品は、読みやすいことに加え、異国情緒も人気を高めた要因だったと思います。世界が急速に狭くなった時代、特に多くの植民地を抱えるイギリスでは、モームの作品は人々の知的ニーズにうまく応えたということなのでしょう。戯曲も多く、また映画化された作品も多くあります。印象に残る作品は、やはり「月と六ペンス」です。特にポール・ゴーギャンが好きなわけではありませんが、タヒチへ渡った株式仲買人の生涯は印象に残ります。

陽が傾いたら、館内のロング・バーへ行きます。ピーナッツの殻で埋め尽くされた床を踏みしめ、この店発祥のシンガポール・スリングを注文します。南国の日暮れに、これほど合うカクテルもないように思えます。かつて女性が人前で酒を飲むことが憚れた時代、海南島出身のバーテンダーが、女性のために見た目がフルーツ・ジュースのようなシンガポール・スリングを生み出したと聞きます。(写真出典:travel.co.jp)

抹茶ババロア

入院したなら、見舞いに持ってきてほしいものは三つ。一つは、ホテル西洋銀座の「西洋肉まん」。残念ながら廃版。バターたっぷりのブリオッシュにトリュフ入りの餡が入っていました。少し温めていただけば、鳥肌ものの絶品でした。大丸東京地下に残るデリショップで、何度も復活をお願いしましたが、かないませんでした。今一つは、浅草の梅むらの「豆カン」。いつまでも食べていたくなります。残る一つは、神楽坂、紀の善の「抹茶ババロア」。甘さ控えめの濃い抹茶ババロアは、数ある抹茶スウィーツの王様だと思います。加えて、あんこ、生クリームの取り合わせが見事です。

雲南原産と言われるお茶の歴史は古く、既に4700年前、神農が野草と茶葉を食べていたという記載があるようです。紀元前の漢代には、飲用として普及していました。日本への渡来は、奈良時代から平安初期。煎じるのではなく、粉末にして飲む抹茶法は、臨済宗開祖の栄西が、13世紀に伝えました。茶を摘むまでの20日間ほど覆いの下で育て、その生葉を蒸して乾燥させ、粉末にすれば抹茶になります。蒸して揉めば玉露になります。いずれも日本独自の製法です。

お茶の歴史は、資料も多く、かなりはっきりしていますが、抹茶を使った菓子類の歴史は判然としません。昔からあったようにも思いますが、そもそも和菓子は抹茶と一緒に食べるものなので、抹茶味の和菓子は存在していなかったようです。ネットで見る限り、どうも抹茶アイスクリームが、抹茶スウィーツの草分けなのではないかと思われます。既に明治初期の宮中晩餐会のメニューにあるそうです。

近年の抹茶スウィーツの先駆けは、京はやしや。試行錯誤を重ね、1969年に三条店で出した抹茶パフェには、抹茶アイス、抹茶ソフト、抹茶ゼリー等が使われていたそうです。京はやしやは、1753年、金沢に創業し、1878年には京都に進出。お茶の将来を懸念した五代目が、もっと手軽にお茶を楽しめるようカフェを開き、抹茶パフェを開発したそうです。

その後、徐々に浸透した抹茶スウィーツは、ここ20年くらい、ブームの様相を呈します。抹茶は、日本が世界に誇る食文化。流行りのお土産、流行りのカフェ・メニューといった単なるブームではなく、しっかりと定番化を図っていただきたいと思います。30年の歴史を持ち、いまや定番化した紀の善の抹茶ババロアは、その優等生だと思います。(紀の善の抹茶ババロア  写真出典:kinozen.co.jp)

2020年9月21日月曜日

肘掛け椅子

まだ幼かった子供たちを連れて神田の藪そばへ行くと、美味しいと言って、せいろうを何枚も食べるのです。子供も、美味しいものは分かるんだ、と感心しました。決してお安い代物ではなので、予想外の出費にはなりましたが。

NYにいた頃、同じようなことがありました。観光客でごった返すメトロポリタン美術館と違い、NY近代美術館はゆったりと楽しめます。やはり幼かった子供たちを連れていき、各展示室で、一番好きな絵を見つけなさい、と言うと、具象画、抽象画に関わらず、決まって評価の高い有名な絵を選ぶのです。例えば、ジャクソン・ポロックの絵は、私にとって皆同じように見えるのですが、「One」を選ぶわけです。いい絵は子供でも分かる、ないしは子供が面白いと思った絵こそ本当にいい絵かも知れません。

子供たちのチョイスのなかに、アンリ・マティスの切り絵は、必ず入ります。シンプルで分かりやすい線と色は、誰の目にも優しく、しっくりと入るということなのでしょう。私の好きな画家は、ラファエロ、ベラスケス、マティス。なかでもマティスは格別です。よく色彩の魔術師と言われます。確かに明るい独特の色彩は魅力的ですが、同様にプリミティブな線が与える安心感も大きな魅力です。マティスは、線と色の魔術師というべきでしょうね。

マティスは、ギュスターブ・モローに師事しています。パリのモロー美術館は、彼の自宅兼アトリエ。私のお気に入りの美術館ですが、ここでマティスが学んでいたのか、と思うと感慨もひとしおです。マティスは、フォビズムの作家として世に出ましたが、3年ほどで作風は変わっていきました。マティスらしさは、彼の「私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい」という有名な言葉に集約されているのでしょう。

ただ、その言葉には欠けているものがあります。肘掛け椅子から見えるものです。自然の明るい色彩の世界です。肘掛け椅子の癒しに対して、色彩は華やかさです。癒しは安全に通じ、華やかさは自由を思わせます。マティスが近代絵画の頂点に立つのは、マティスの絵に近代人が求める安全と自由が表れているからかも知れません。(マティス「大きな赤い室内」 出典:amazo.co.jp)

2020年9月20日日曜日

大同二年の謎

大同二年創建の十和田神社(出典:towadako.or.jp)

大同二年(807)の謎という話があります。北関東から東北一円で、大同二年創建という神社が多く存在し、なかにはそれ以前から存在していたことが明確でも、同年創建と銘する神社もあると言います。他に、東北の鉱山にも大同二年開山が多いそうです。偶然にしては数が多すぎ、何があったのかを伝える資料も存在しないため、大同二年の謎と言われています。

大同年間は、806~810年。桓武天皇のあとを受けた平城天皇の治世です。桓武天皇は、長岡京遷都、平安京遷都、脱南都六宗等、強力な親政を行いました。また、四度に渡る蝦夷成敗では、本州北端まで朝廷の支配を広げました。801年、四回目の遠征では、阿弖流為(アテルイ)が坂上田村麻呂に降伏し、母である盤具公母禮(イワグノキミモレ)とともに、都に連行されます。田村麻呂は、二人を蝦夷地支配に使うことを提案しますが、結果、二人は802年に処刑されます。

翌803年、蝦夷地は、ほぼ平定されます。武力で制覇したとは言え、蝦夷は広大で、かつ部族が分散する地域ゆえ、律令体制への組み込みには時間がかかったものと思われます。各地の神社を、朝廷の体系に組み込むことも、極めて重要な取り組みだったと思われます。大同二年(807)創建の神社が多いとしても、それまでも継続的に神社の体制への組み込みが行われていたと思います。おそらく実行していったのは、比叡山を通じて朝廷の意向を受けた修験者たちだったと想像できます。その後の東北では、修験者勢力が強かったことは、よく知られています。

大同二年創建の神社が多い理由として、前年、唐から帰朝した空海との関連をあげる説がありますが、さすがに無理があります。むしろ、平城天皇が、大同元年(806)、勘解由使に替えておいた観察使が関係しているように思えます。勘解由使は、国司の引継ぎを監視する職ですが、観察使は、さらに国司の圧制から民を守る視点もあったようです。当初、六道からはじめ、翌大同二年には、東山道にも設置します。つまり、朝廷の東北に対する管理がギアアップした年と言えるのではないでしょうか。

ちなみに、平城天皇は、大同四年、病気のため嵯峨天皇に譲位し、上皇として平城京に移ります。上皇は、永年、上皇后の母である藤原薬子と情を通じており、薬子とその兄藤原仲成にそそのかされ、嵯峨天皇と対峙。東国で挙兵すべく脱出を図ったところを田村麻呂に捕らえられ、出家しました。平安の悪女と言われる薬子は服毒自殺します。いわゆる薬子の乱です。

2020年9月19日土曜日

梁盤秘抄#6 John Coltrane & Johnny Hartman

アルバム名:ジョン・コルトレーン & ジョニー・ハートマン(1963)
アーティスト:ジョン・コルトレーン、ジョニー・ハートマン

ジョニー・ハートマンは、甘いバリトンが特徴のジャズ・シンガーですが、このアルバムまでは、あまり知られていなかったようです。一方、ジョン・コルトレーンは、飛ぶ鳥を落とす勢いで、神への階段を駆け上っていました。前年、エリック・ドルフィーと別れ、マッコイ・タイナー、エルヴィン・ジョーンズ、ジミー・ギャリソンという不滅のリズム・セクションと活動を開始、翌64年には伝説の名作「至上の愛」をリリースします。

その二人が、なぜバラード・アルバムをレコーディングしたのか不思議なところです。コルトレーンは「何かは分からないけど、彼に何かを感じたんだ。彼の音楽には聴くべき何かがあると思えたんだ」と語り、ハートマンに声をかけ、レコーディングが実現します。コルトレーンの高音域を使った抑え気味のパッセージとハートマンの甘い声が良くマッチし、歴史的名盤が生まれました。

それ以上に驚くべきは、マッコイ・タイナーの音量を保ったままのリリカルな演奏です。疾走するコルトレーンと並走する、いつもの激しいマッコイからは想像もできないほどです。マッコイ・タイナーと、一度、握手したことがあります。よくグローブのような手という表現がありますが、そんなものではありませんでした。まるでコンクリート・ブロックのような手でした。とてもピアニストの手とは思えませんでした。

アルバムの中では「マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブ」が人気があるようです。とても甘い仕上がりで、いつまでも耳に残ります。私が最も気になる曲は「ラッシュ・ライフ」です。Lush は、青々しい、とかみずみずしいといった意味ですが、実は、酒とか大酒飲みという意味もあります。荒んだ生活を送る若者が、かすかな恋さえ失い、飲んだくれ人生を送ってやると歌います。自身も大酒飲みだったビリー・ストレーホーンの名曲。自己憐憫の歌ですが、Lush Life とはダブル・ミーニングかもしれない、と思わせる名演です。

ハートマンが来日した時、クラブでライブを聞きました。ピアノに寄りかかりタバコを吸いながら歌うハートマンの横には大きなトール・グラスがありました。後で店の人に聞くと、水ではなく、ジンのストレートでした。この人、長生きできないだろうな、と思いました。ハートマンは、1983年、60歳で亡くなります。早い死ですが、コルトレーンよりは20年長く生きました。(写真出典:amazon.com)

おかずや

加島屋の瓶詰のさけ茶漬は、デパ地下グルメの定番。安政2年創業の加島屋は、新潟市の古町に本店があります。鮭、鱒、鱈等の塩蔵品や塩干物から始め、扱い品目を増やしていきました。ちょうど60年前、四代目の加島長作氏は、母親がまかないに作ってくれたさけ茶漬を商品化、大ヒットさせます。当初、北海道産のキングサーモンを使っていましたが、より良い天然の鮭を求め、アラスカのユーコン・リバーにたどり着きます。

養殖サーモンの出荷量世界一はノルウェー。商社を通じて発注すれば、サーモンの色合まで指定でき、楽に入荷できるそうです。ただ、長作氏は、天然のキングサーモンにこだわり続けます。「いい鮭さえあれば、おいしいさけ茶漬が作れます」とは長作氏の弁。長作氏は、毎年、自らユーコン・リバーに出かけ、永い付合いとなったエスキモーの家族と一緒にキングサーモンを獲り続けます。加島屋が一年間に使う量以上は、決して獲らなかったと言います。

加島屋で買い物すると、しっかりとした紙袋に入れてくれます。白と濃紺のすっきりとしたデザインは、遠目にも加島屋の袋とすぐ分かります。紙袋がしっかりしているのは、瓶詰が重いからという理由だけではありません。しっかりとした紙袋は、様々に使いまわしがきき、実に便利です。袋だけがメルカリで取引されるくらいです。これこそ長作氏のねらい。皆が、加島屋の紙袋を使いまわせば、いい宣伝になります。加島屋は、広告宣伝費を一切使わず、紙袋のコストを吸収しています。

加島屋は、さけ茶漬だけではなく、多様な食品を扱っています。なかでも切り身の粕漬や味噌漬は絶品です。それを上手に焼いて、美味しいコシヒカリとともに食べさせてくれるのが、本店2階の長作茶屋。加島屋の商品を実食できる大人気店です。東京から訪問客があった際、よく昼食に連れていきました。皆、大喜びでした。ただ、一切、予約を取らないので、タイミング如何では随分と待たされます。

長作氏に、これだけ人気なのだから、店を拡張し、予約も取ってください、とお願いしたことがあります。長作氏は、ニコニコと笑いながら「やりませんよ。私は、ただのおかずやですから」とおっしゃっていました。筋を通す、という長作氏の姿勢に、あらためてさけ茶漬の美味しさを思い起こしました。(写真出典:tobu-dept.com)

2020年9月18日金曜日

浅草の賑わい

アサクサノリが絶滅危惧種だと聞き、驚きました。学名だったことを知りませんでした。そもそも海辺でもない浅草で、なぜ浅草海苔なのかも不思議でした。もともと蔵前から浅草にかけては、入江に近い微高地であり、自生する海苔が食べられていたようです。江戸初期からは、葛西で養殖した海苔が、江戸随一の繁華街である浅草で、「浅草海苔」として販売されていたようです。

浅草は、低地帯のなかの微高地だったため、古くから集落が存在したようです。628年、兄弟の漁師が、墨田川で網にかかった観音像を引き上げます。金龍山浅草寺の縁起です。高さ5.5cmと伝わる観音像は今も浅草寺のご本尊ですが、秘仏であるため、実態は不明とのこと。浅草は浅草寺の門前町として栄えました。江戸期になると、微高地であり、水運の要所でもあった浅草に米蔵が建てられ、いわば江戸の食糧基地として、多くの役人や商人が集まります。蔵前という地名が往時を伝えます。

商人のなかに札差という業種がありました。侍が持ち込む給金の米を現金化し、それを米屋に卸す商売ですが、買いと売り、両方でサヤを抜き、かつ金貸もやって大儲けしたようです。この札差たちが豪遊したことで浅草は大いに賑わいます。歓楽街浅草の始まりです。さらに江戸の大火の都度、当時最大の繁華街だった日本橋から吉原遊郭、芝居小屋等が順次浅草へと移り、浅草は、江戸随一の繁華街になっていきます。

以降も、日本初の遊園地である花やしき、当時日本一の高さを誇った凌雲閣等もオープンし、また各種興行のメッカでもあり、浅草は総合アミューズメント・シティとして発展を続けます。これほど総合的な歓楽街は世界でも類を見ないと思います。60年代からTVの影響でさびれた時期もありましたが、墨田川花火大会の再開等をきっかけに80年代には復活、近年は、東京一の観光地として海外からの観光客で賑わいます。

ブラタモリ風に言えば、微高地、観音様、水運の要所、米蔵と、浅草の賑わいは墨田川がもたらした、ということになるのでしょう。(写真出典:inshokuten.com)

2020年9月17日木曜日

キャッチ22

かつて、スペインに6か月以上滞在するためには、滞在ビザが必要であり、その滞在ビザの取得条件の一つが、スペインに6か月以上滞在していることだったと聞きました。事の真偽ははっきりしませんが、アメリカ人が使うイディオム「キャッチ22」の実例として、友人のアメリカ人が話してくれました。キャッチ22は単語ではないこともあり、適切な日本語訳が存在しないように思います。要は、二律背反的な状況、ということです。

キャッチ22は、ジョゼフ・ヘラーの小説「キャッチ22」(1961)に由来します。軍規第22条は「精神に異常をきたした者は、自ら出頭してその旨を申告すれば、飛行免除になる」という規定ですが、自ら出頭できるということは正常な証拠なので飛行免除にはならない。これが22条の落とし穴、つまりキャッチ22というわけです。戦争の不条理を、独特なユーモアをもって描いたベストセラーであり、アメリカでは20世紀を代表する名著の一つとされています。

1970年、マイク・ニコルズ監督が映画化。アメリカン・ニュー・シネマの巨匠が「卒業」の次に監督した作品です。不条理が積み重なっていく世界を、斬新なアングルと、フェリー二ばりの幻想的な映像で構成した作品です。特に印象的だったのは、爆撃機の描き方。ヨタヨタとタキシングし、無様な編隊で出撃する姿は、戦争映画では決して見ることのない映像でした。主演はアラン・アーキン、脇を固めるのはオーソン・ウェルズ、マーティン・バルサム、アンソニー・パーキンス等々と名優揃いの映画でした。

同じ年に公開され、同じように戦争の不条理をユーモラスに描いた「M★A★S★H」は高い評価を得て大ヒット。対して「キャッチ22」は、あまりパッとしませんでした。特に日本では、映画だけでなく、小説もパッとしません。やや病的で難解な不条理の世界、あるいは独特のユーモア・センスが日本人の感覚に合わなかったのでしょう。

思えば、戦争自体がキャッチ22的だとも言えます。平和を守るために戦争する、戦争すれば平和は守れない。作中、様々なバリエーションで繰り返される「狂っているのは誰だ」というフレーズは、常に発し続けるべき、大事な問いかけのように思います。(写真:machinationlog.com)

恐山

学生時代に占い研究会で活躍していたという後輩がいて、何度か手相を見てもらいました。そのうちに、手相見のテクニックの一端が見えてきました。まずは、手を握っても、しばらく何も言わないことです。見てもらう側の不安が募ります。そして「う~む」とうなります。ここで、見てもらう側の不安感は最高に高まり、もう何を言われても信じる態勢が出来上がります。

いわゆる霊媒師も同じなのではないでしょうか。そもそも親しい人の霊を降ろすと決めた段階で、既に信じる気持ちになっています。下北半島の恐山は、霊媒師イタコで有名ですが、イタコが霊を降ろした際、最初の一言は決まって「痛でじゃ、痛でじゃ」だと聞きます。確かに死ぬときは、どこか痛いものなのかも知れません。依頼した側は、この一言で、ドォーと涙を流し始めるそうです。なお、霊が語る内容は、仏事や火の用心等、家に関わる一般的な戒めが多いと聞きます。

恐山は活火山です。カルデラ湖である宇曽利山湖のほとりに硫黄の吹き出す荒涼とした地獄が広がります。中心には恐山菩提寺があります。第3代天台座主の円仁が、862年に創建したとされます。円仁創建という寺は、浅草寺、中尊寺、瑞巌寺、山寺等々、東国に山ほどあります。801年に、阿弖流為が坂上田村麻呂に降伏し、ほどなく朝廷軍は本州北端に達します。おそらく、その時、恐山の異様な光景も都にも伝えられたのでしょう。朝廷が、蝦夷地管理のために延暦寺も活用したことは想像に難くありません。天台座主自らというよりは、延暦寺の僧侶が東北一円に散ったのだと思います。

恐山は、日本三大霊場の一つとされます。他の二つは、比叡山と高野山です。密教の両本山と同列とは、いささか言い過ぎのようにも思います。ただ、最果ての地の異様な光景は、地獄、あるいはあの世の入り口として、誠に相応しいとも思えます。ゆえに霊媒師イタコも集まるのでしょう。イタコは、蚕の神おしら様信仰の盲目の巫女であり、恐山の大祭等のおりにだけ、北奥羽一円から集まるようです。

昔、雑誌記者が、イタコに、マリリン・モンローを降ろしてもらった、という話がありました。やはり第一声は「痛でじゃ、痛でじゃ」だったそうです。モンローもなまっていた、という落ちですが、そもそも英語じゃないの、とも思いました。(写真出典:aptinet.jp)

2020年9月16日水曜日

ワイルド・ウェスト

アメリカは、植民地から独立したこともあり、当初、帝国主義や植民地には反対の立場をとっていたようです。ただ、産業革命とともに、海外領土の獲得に動いていきます。ロシアから購入したアラスカを別とすれば、19世紀末、ハワイの準州化、米西戦争によるフィリッピンやプエルトリコ等の獲得等から本格化します。ただ、実態的には、第一次産業革命で工業生産力を高めた北部の産業資本が、南北戦争では南部を、インディアン戦争では西部を植民地化したと言えるのではないかと思います。

南北戦争後、南部を軍事支配した北部は、リコンストラクション政策によって、穏健に南部諸州の合衆国復帰を図ります。ただ、北部工業の労働力確保という観点から黒人奴隷の解放には力を入れますが、結果、完全な姿での解放はできませんでした。戦後処理として、大問題だったのは、戦時に高い戦闘能力を示した南軍兵士の扱いです。そこで行われた政策が、西部開拓への投入でした。これがワイルド・ウェストを生む一因となります。

南北戦争が終わると、西武開拓は、カリフォルニアのゴールド・ラッシュもあり、鉄道敷設もあり、加速していきます。それは、とりもなおさずインディアン戦争の激化でもありました。政府の管理が及ばない辺境は無法地帯であり、開拓民たちは、インディアンとの戦い、牧場主と農民の土地や水を巡る争い、南軍くずれの盗賊の群れとの戦い等に直面し、そこはガンマン活躍の場となります。

1893年にはフロンティアの終わりが宣言されます。人口密度に基づく判断ですが、恐慌、あるいはジャクソン郡戦争にともなう連邦政府の管理拡大も背景にあるのでしょう。西部劇の設定に多用されるジャクソン郡戦争は、牧場主たちが雇ったガンマンが、入植者たちを虐殺した事件です。連保伊政府が介入し、ここでワイルド・ウェストは終ったと言われます。

ワイルド・ウェストと呼ばれた期間は、わずかに20~30年。にもかかわらず有名ガンマンたちがひしめく理由は、産業革命によって、紙が安くなり、印刷機械が進化し、新聞が大量に発行されたからです。ガンマンたちのストーリーは、誇張され人気の記事になります。例えばビリー・ザ・キッドは、21歳で射殺されるまでに21人を殺したと言われますが、実際に自ら殺したのは4人でした。(写真出典:ja.wikipedia.org)
ビリー・ザ・キッド

2020年9月15日火曜日

稲とアイドル

日本のアイドル文化は、マーケティングの成功もあり、独特な世界を築いていると思います。もちろん、アイドルの文化自体は世界中にあります。そもそもアイドルという定義もはっきりしないのですが、歌手、俳優に比べ、より全人格的に愛される人たちのように思われます。フランク・シナトラが女学生のアイドルと呼ばれたことが初出のようです。恐らくTVの普及が背景にあるのでしょう。歌や演技のうまさとは別に、歌手や俳優を個人としてより身近に感じられるようになったということだと思います。

日本の女性アイドルは、なぜ幼稚な印象の少女ばかりなのか、不思議だと思ったことがあります。大人っぽさやセクシーさを強調する欧米の同年代のスターたちとは好対照です。女性の幼稚さが好まれる傾向は、東南アジア全域に見られるようです。その究極が中国の纏足なのではないでしょうか。女性のよちよち歩く姿が、性的意味合いも含めて好まれたことから、唐代に始まりました。女性蔑視の典型のようなとんでもない風習です。女性の幼稚さを良しとする背景には、稲作の文化があると、何かで読んだことがあります。

20世紀初頭のデータでは、欧州の小麦農家の年間労働時間は1,600時間ほど。対して、中国長江流域の稲作農家は3,000時間だというのです。水耕栽培は、生産性を飛躍的に高めたわけですが、実に手間のかかる栽培法でもあるわけです。家族総出、集落総出での作業も多く、とにかく多くの人手が必要となります。乳幼児の死亡率の高さも考慮すれば、女性は沢山の子供を産むことが要求されました。多産か否かは、見た目で判断できないので、とりあえず若い女性ほど多産の可能性が高いとされたわけです。幼稚さは、私はこれから沢山の子供を産めますよ、というアピールだったと言えます。

欧州の小麦農家も人手は必要なのでしょうが、比較的短時間に重労働をこなすためには、頑健な体が求められます。女性には、体格の良い子を産むことが求められたのでしょう。しっかりとした骨盤で、今すぐ立派な子供を産めそうな女性が好まれたと想像できます。ある調査で、欧州の男性は、女性の臀部に最も魅力を感じるという結果がでていました。うなずけます。ちなみに、女性の魅力は臀部と答える人が世界で一番多いのは、サブ・サハラ地域だそうです。若い女性たちは、一生懸命、お尻を大きくするクリームを塗るそうです。サブ・サハラで、日本の女性アイドルは、まったくウケないものと確信します。
纏足靴    写真出典:ricosta.jp

2020年9月14日月曜日

仮名

古代中国の文は、少ない文字で、実に深く広い内容を伝えます。例えば、史記に言う「鶏口たりとも牛後となるなかれ」は「寧為鶏口、無為牛後」とわずか8文字。その簡潔さには驚嘆を禁じ得ません。熟考の成果でもありますが、紙が発明されるまでは、木簡や竹簡という制約も大きかったのでしょう。加えて、漢字が表意文字であることが文字数の少なさを実現しているわけです。

古代文明と認められるものは、文字を持った文明です。文字は、当然、必要性があって生まれるわけですが、それは農耕の始まり、集団作業、余剰の発生、社会的分業の始まり等が背景にあったと考えられます。文字を必要としない高度な文明の存在も知られていますが、文字無しでは限界があるように思われます。文字は、象形文字からスタートします。それを使い勝手良く簡素化したものが、表意文字や表語文字であり、さらに思いっきり簡易にしたものが表音文字です。

表音文字の起源はフェニキア文字と言われますが、それ以前に原シナイ文字と原カナン文字がありました。いずれもエジプトのヒエログリフをベースに、紀元前2000年頃に作られています。見た目はヒエログリフの簡略版ですが、大事なことは、20数文字の組み合わせで、すべての言葉に対応できる汎用性です。一文字一意味の表意文字は、限りなく多くの文字が必要となり、それを使いこなせる人は限られます。表音文字の誕生は、文字の大衆化だったわけです。

表意文字と表音文字を併用する国は日本だけだそうです。中国伝来の漢字では、固有名詞等、日本独自の言葉に当たる文字はありません。そこで音だけを利用する借字、要するに当て字が使われます。平安初期の万葉仮名です。その草書体から平仮名、漢字の一部を使う片仮名が生まれます。いずれも仮の漢字であり、仮名と呼ぶわけです。

例えばベトナムや韓国でも事情は同じです。ただ、この二カ国は、独自の表音文字を正式な文字にしていきます。いまだに両国とも、名前を始め、多くの言葉が漢字で表記可能であり、ベトナムでは7割が漢字化できると言います。では、何故、日本だけが、漢字と仮名の併用を続けているのでしょうか?いくつかの要因が考えられますが、おそらく最も大きな理由は、江戸期の識字率の高さ、ことに漢字の普及率の高さだったのではないでしょうか。戦後、GHQが日本語のアルファベット化を検討したものの、識字率の高さに断念したという話も伝わります。
写真出典:edusup.jp

2020年9月12日土曜日

マリオと魔術師

トマス・マンの「マリオと魔術師」(1930)は、台頭するファシズムに警鐘を鳴らすため、ファシズムの心理学を描いた作品と言われます。イタリアのリゾートに滞在するドイツ人家族が感じる町の違和感と、そこで体験した不思議な魔術師のショーの顛末が描かれます。当時、イタリアは、ムッソリーニの独裁体制に入っており、ティレニア海に面したビーチ・リゾートにもファシズムの空気が漂っています。直接的にファッショと向き合うビーチでの嫌な出来事があっても、家族は「何となく」滞在を続けます。

家族は、町にやってきた魔術師のショーにでかけます。30分遅れて登場した異様な風体の魔術師は、高圧的な態度と話し方で観客を圧倒し、催眠術を使いながら、鞭を鳴らし、観客を支配していきます。身体障害が故か、ゆがんだ支配欲は、反発をも巧みに誘導し、支配を強めます。ローマから来たと思しき青年紳士が、絶対に支配されないぞ、と魔術師に挑みますが、破れます。「彼の闘争の姿勢が否定的であるが故に、敗北した。」

何かを欲しないということと、自己の意思を持たないことは、非常に近いことだ、とトマス・マンは書きます。家族は嫌なムードが漂う町を「何となく」離れません。気色悪いショーを「何となく」離れられません。受動的な大衆の無作為こそがファシズムを育てる温床であり、大衆を受動的にさせて誘導することがファシズムの心理学だということなのでしょう。ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」にも通じるものがあります。

ウェイターのマリオは、催眠術にかかり、秘めた恋を曝され、魔術師を憧れの人と錯覚してキスします。侮辱され、凌辱されたマリオは、魔術師を撃ち殺します。知識階級のローマの青年は、反発を御され破れます。民衆の代表たるマリオは、凌辱に対して直情的に引き金を引きます。ムッソリーニの最後を予感させる、とも言われますが、むしろ、大衆が早く目を覚まして欲しいと願うトマス・マンの期待であり、淡い期待しか持てなかったほどファシズムの勢いが強かった時代とも言えます。

今、世界には、独裁的なリーダーが多く見られます。独裁は、国民に求められたかのような体裁を採りつつ、確実にファッショ化していきます。マリオの銃弾に匹敵するものが必要な時代のように思えます。
トマス・マン  写真出典:en.wikipedia.org

2020年9月11日金曜日

プリンス・マルコ

中学時代、日曜の日程は完璧に同じでした。剣道部の朝稽古、焼きそば屋、その後夕方まで洋画三本立てのセカンド映画館。三本100円だったと記憶します。プログラムは玉石混合ながら、ほぼマカロニ・ウェスタン、スパイもの、軽いお色気系という三本。週替わりのプログラムで、マカロニ・ウェスタンもスパイものも、よくネタが切れなかったものだと思います。なお、お色気ものは、一瞬でも女性のヌード・シーンがあれば内容は関係なくOKだったようで、ここでアントニオーニやパゾリーニ等、多くの名作を見ることができました。

スパイものは、007のヒットにあやかろうと、映画も小説も山ほどありました。そのなかに、フランスのジェラール・ド・ヴィリエの「SASプリンス・マルコ」シリーズがありました。オーストリア王子にして、CIAエージェントのプリンス・マルコが、世界各地で敵と戦い、美女と恋におちます。シリーズはトータル174巻、ド・ヴィリエの死まで続きました。典型的な表紙は、肌を露出した美女が銃器を持っている写真。内容は、実にマンガ的で、軽い暇つぶし系でした。

ただ、舞台となる世界各地の街の風情やその国が抱える問題が、うまく書かれており、スパイ小説というよりは、世界のガイドブックでした。長寿シリーズの秘けつは、ここにあるのではないか、とさえ思います。例えば「ソマリア人質奪回作戦」の舞台は、ソマリアの首都モガディシオ。イブン・バトゥータや鄭和も訪れた古くからの交易港。美しい町並みに美しい女性たちと魅力的に描かれています。いつか行ってみたいと思ったものです。残念ながら、現在のモガディシオは、内戦で徹底的に破壊され、廃墟となっています。

東西冷戦が終わると、エスピオナージ系は勢いを失います。スパイの存在意義が無くなったからです。エージェントたちの敵は、ソビエトからテロリストやナルコ(麻薬密輸業者)へと移ります。プリンス・マルコも同様の道を進んだようですが、1980年を境に翻訳本は、3冊の例外を除き、出版されていません。それでも計63冊の翻訳本が出版されたわけで、驚異的と言えます。私も30冊くらいは読みましたが、さすがにそのくだらなさに力尽きました。

007の著者イアン・フレミングが、パーティでジョン・F・ケネディに紹介された際、大統領から「私は007シリーズの大ファンです」と言われます。イアン・フレミングは「ありがとうございます。ただ、大統領閣下には、もっとマシな本をお読みいただきたい」と応えたそうです。
写真出典:books.rakuten.co.jp

黒い霧事件

1969年、旧西鉄ライオンズに起きた八百長疑惑は、他球団へも飛び火し、さらにオートレース八百長、野球賭博、暴力団との関係等へと広がり、ついには国会でも取り上げられる社会問題になりました。いわゆる「黒い霧事件」です。結果、19人の野球選手が処分され、うち6人は永久追放となりました。主力選手たちが処分されたライオンズは最下位に低迷し、西鉄は球団を売却。太平洋クラブ、クラウンライターを経て西武ライオンズへとつながります。事件当時、二軍でくすぶっていた東尾修は、主力を失った一軍に上がり、もまれて開花、ライオンズ不動のエースになります。

永久追放された選手のなかに、西鉄ライオンズのエース池永正明投手がいました。下関商業時代、甲子園で優勝もしています。65年、ライオンズに入団すると、剛速球とクレバーなピッチングを武器に、1年目から20勝をあげ、300勝も夢ではない、とまで言われます。ライオンズに同期で入団した尾崎将司投手は、こんなすごい奴がいたんじゃ自分の出番はない、と3年で退団、後にプロゴルファーとして一時代を築いたことはご存知のとおり。また、野村克也監督が、ID野球の原点は池永のクレバーなピッチングだったと語っています。

池永氏は、先輩から「預かってくれ」と100万円を押し付けられますが、八百長は行っていません。それでも日本野球機構は、返金していないこと、虚偽の報告があったこと等を理由に永久追放としました。問題が大きくなりすぎたので、スケープゴートにされた面があるのでしょう。当初から処分が厳しすぎるとの声が多かったと聞きます。その後、池永氏は、博多の中州でバー「ドーベル」を開きます。私も、先輩に連れられ、何度か行きました。池永氏は、口数少なく、朴訥とした印象ですが、実に気さくな方です。上下関係に厳しい体育会系の世界しか知らない野球バカの自分は、先輩に言われたことに逆らえなかった、と話してくれました。

池永氏はゴルフの達人でもあります。親友のジャンボ尾崎から幾度もプロゴルファーに誘われたそうです。やれば相当稼げたはずです。「性に合わないと思って」と言っていましたが、球界への復帰にかける思いが強かったということだと思います。ドーベルのトイレは圧巻でした。壁という壁が、池永氏の復権を求める落書きで埋め尽くされていました。球界、政治家、文学者、芸能人、あらゆる人々から支援された池永氏は、2005年、念願の処分解除、球界復帰を果たしました。事件から実に35年の月日がたっていました。
ドーベルでの池永夫妻     写真出典:gensun.org

2020年9月10日木曜日

チェック&バランス

ジョン・アクトン卿の「権力は腐敗の傾向がある。絶対的権力は、絶対的に腐敗する」は、あまりにも有名な言葉ですが、農耕と共に組織が形成されて以降、人類は、権力の腐敗と戦ってきたと言えます。組織の持つ効率性と表裏一体を成し、避けて通れない悪なのでしょう。その対策が本格化したのは、古代ギリシャや古代ローマ。考えられる対策のほぼ全てが試されています。近代以降の諸対策は、ギリシャ・ローマの制度を洗練させたものと考えられます。

代表的な対策の一つが民主主義であり、その実効性を担保するのが三権分立です。ロック、モンテスキューによって唱えられ、いまや近代国家成立の主要要件とも言えます。とりわけアメリカ憲法に記載される三権分立は、チェック&バランスと呼ばれ、米国政治の基本中の基本と言えます。しかし、ドナルド・トランプは、いとも易々と、これを逆回転させ、独裁に近い政治体制を作り上げました。恐ろしいと思うのは、トランプが、憲法や法令を変えて独裁を実現したわけではない、という点です。

つまり、完璧と思われた米国のチェック&バランス・システムは、まっとうな政治家によるまっとうな政治を前提に構成されており、政治経験もなく自己顕示欲ばかりが強いTVタレントによる売名目的の行為を想定していなかった、ということになります。あたかも国政が乗っ取られた印象です。共和党も乗っ取られました。もはやアメリカに二大政党制は存在しません。とは言え、先人たちを、制度設計が甘かったと責めることはできないでしょう。

トランプが、反エスタブリッシュメントの新たな政治体制を作るというのなら、まだ分かります。ただ、そんな気も、そんな動きもありません。ひたすらイメージづくりと支持者からの人気取りにまい進する姿は、視聴率獲得をねらうタレントそのもの。そして実に巧みだと言わざるを得ません。敵・味方の作り方、公私の不明確なSNSの使い方、人事のメリハリ、グッズの使い方等々、感覚的にせよTV界で鍛えた技が光ります。

数年前、「近い将来、日本に独裁は生まれるか?」というジョークがはやりました。答えはNO。なぜなら、既に独裁化しているから、という落ちです。日米のトップに、まっとうな政治家が就くことを祈るばかりです。
写真出典:amazon.co.jp

2020年9月9日水曜日

書を捨てよ

客席のない劇場に立つ観客の間を、扇動者が「バスティーユへ!」と叫びながら走り去り、大八車が全力疾走で駆け抜ける。観客のある者は逃げまどい、ある者は先導者の後を追う。フランスの劇団テアトル・ド・ソレイユの70年代のヒット作「1789」です。ライブで行われる芸術や芸能の魅力の一つが臨場感だとすれば、観客をフランス革命、バステューユ牢獄襲撃に巻き込む「1789」は究極の演劇かもしれません。

同じ頃、日本でも演劇の創造的破壊者が大暴れしていました。寺山修司とその劇団「天井桟敷」です。寺山は、青森県三沢市の生まれ。複雑な家庭環境で育ち、中学・高校は青森市で卒業、早稲田大に入学します。中学の頃から俳句の才能が認められ、高校では全国学生俳句会議を主催するなど早熟ぶりを発揮します。大学では短歌にのめり込み、病気で学校は中退するものの、1957年、22歳で歌集を出します。

マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 我が身を捨つる 祖国はありや
大工町 寺町米町 仏町 老婆買う町 あらずやつばめよ

暗く荒涼とした情念の光景、そして巧みな言葉使いが寺山の特徴だと思います、言葉を操る才能は、小説、演劇、映画、評論、作詞等へと、活躍の場を広げます。安保から学生運動へ向かう時代の空気も相まって、若者たちのカリスマとなっていきます。ただ、暗く深い彼の原風景は変わることなく、表現の世界は短歌から演劇へと集中していきます。60年代後半、天井桟敷は、国際的な活動を開始し、横尾忠則、宇野亜喜良、JAシーザー、頭脳警察、カルメン・マキといった才能を世に送り出します。

日常を非日常的に客体化し、そこに真実や自由を見せてくれるのがポップ・アートだと思います。寺山の演劇は、目の前で日常を切り刻むことで、そこから垣間見える心の闇、誰もが心の奥深く封じ込めている闇を引きずり出します。演劇こそ、寺山の暗い原風景を表現する最高の手法だったのではないかと思います。「書を捨てよ町へ出よう」、「田園に死す」といった国際的評価を得た映画ですら、寺山演劇が持つ情念のパワーは伝えきれていないように思えます。

寺山修司は、青森高校の先輩です。私が高校一年のおり、来校し、講演しました。過激な発言を恐れた学校は、放課後、自由参加という形で講演を実現させました。「いい大学を出て、いい会社に入って、君たちが一年で稼ぐ金など知れたもの。勝新太郎は、映画一本で、その何倍も稼ぐ。君たちの受験勉強などまったく無意味だ」と語ります。校長の話ですら、騒然たる野次でかき消す校風ながら、この時ばかりは水を打ったように静かでした。
写真出典:amazon.com

2020年9月8日火曜日

地名と災害

皇居やバチカン宮殿に絨毯を納めるオリエンタル・カーペット社は、山形県山辺町にあります。小高い丘の上に立つ風情ある木造のご本社が歴史を感じさせます。400年前の一時期、平山城の山辺城があった場所とのこと。城跡だけに地盤が固く、木々が大きく育たない。と聞きました。山の辺ゆえ見通しも良かったのでしょうが、地盤調査の技術など無かった時代、よく地盤の良さを見抜いたものだと感心しました。

逆に地盤の弱い土地は、地名で分かるという話を、名古屋大の地震学の権威から聞きました。例えば沼とつく地名は、明らかに沼沢地だったわけです。また、田とつけば、田んぼを埋め立てた土地だと見当がつきます。長らく田んぼだった土地は、いつまでも水が上がってくるとも聞きます。津は港のことです。小型の木造船が主体の時代、多くは砂地の浜だったと想定されます。いずれも、地盤の弱い土地だと言えます。日本で一番地盤の弱そうな地名はどこか分かりますか、と聞かれ、即座に津田沼と答えました。正解でした。

谷とつく地名も、災害に弱そうな気がします。水害や崖崩れのリスクが高かそうです。かつて渋谷の街は、雨が降ると水があふれていました。最近は、地下に巨大な貯水施設が作られ、これがうまく機能しているようです。江戸は、東側は墨田川一帯や墨東の湿原、北や西側は台地のヘリに築かれた町なので、坂も多く、谷も多い街です。浮世絵を見ると、江戸の地形がよく分かります。お気に入りは、北斎が描く九段坂。なかなか厳しい坂であることがよく分かります。広重の江戸百景を見ると、多くは湿原を思わせる光景です。概ね、皇居の東は地盤の悪い土地柄と言えます。

江東区や江戸川区は、海面より低い土地という大問題がありますが、これは昭和になって、町工場が地下水をくみ上げすぎたために起こった現象です。今の江東区東陽町界隈は、かつて洲崎と呼ばれ、潮干狩りの名所だったようです。洲崎という名称が、既に危ない地名です。洲崎の西は木場。川や海から運ばれた木材を貯めるには、その低い土地が好都合だったわけです。江戸期、洲崎は高潮の被害が多く、家を建てることは禁じられていたそうです。江戸幕府の防災意識もなかなかのものだったと思います。

歌川広重名所江戸百景「深川洲崎十万坪」    写真出典:adachi-hanga.com

2020年9月7日月曜日

フリーク・ウェーブ

18世紀、英国、とある港の居酒屋。船乗りでごった返す店の隅で、片足のない老人が、ぶつぶつと独り言を言っている。新入りが「あいつは何だ?」と聞けば、「ああ、ブラウン爺さんか。あれで昔は大型艦の船長よ。ある時、 嵐にやられ、船は沈み、 本人だけは通りかかった船に救われたってわけよ。それ以来、俺はクラーケンを見た、と繰り返す、 ただの狂人になっちまった。気にするな」

こんな話が、 世界中の港にあったのだろうと思います。 昔から、船乗りは、海にまつわる多くの伝説を共有してきました。最も有名なものはフライング・ダッチマンの幽霊船かも知れません、また、セント・エルモス・ファイヤーのように科学的に解明されたものもあります。ことに巨大な化け物系クラーケンやリヴァイアサンの類いは大人気。俺は見た、 という狂人には事欠かなかったと思います。

実は、彼らは、だたの狂人ではなく、確かに尋常ならざるものに遭遇していたのではないか、と思うのです。それは、化け物ではなく、巨大な波、フリーク・ウェーブだったのではないでしょうか。木造帆船、航海技術も航海機器も不十分だった時代、数十メートルの波に出会えば、即刻沈没だったと思います。生存者などあり得ません。ただ、何人か、奇跡的に生還した場合もあったはずです。命からがら港に戻った彼らは、俺は見た!と叫び、狂人扱いされたわけです。

船舶の大型化、気象衛星による観測等で、従来、あり得ないとされていたフリーク・ウェーブの存在が明らかになりつつあります。気象学的に言う波高とは有義波高であり、波の高さ上位3割の平均であり、理論的には有義波高の倍の波高もあり得ると言います。世界気象機関によれば、有義波高の世界記録は、北大西洋で記録された18.9m。ということは40m近い波もあり得るということになります。通常、波は各々異なる周期や位相を持ち、それらが打ち消し合い、極端に高い波は存在しません。ただ、偶然にも周期も位相も全く同じ波がぶつかれば、フリーク・ウェーブが発生し得ます。

大昔から世界中の港町で狂人扱いされた老船乗りたちに言ってあげたいものです。あんたは、間違っていない! 狂人なんかじゃない!
北海で撮影された25mの波    写真出典:the maritime executive

2020年9月6日日曜日

チュロとチョコラーテ

スペインの伝統的な朝食と言えば、チュロとチョコラーテ。いわゆるチュロスとホット・チョコレートです。朝には和食が多い私にとっては、かなり違和感があります。スペインのチュロは、砂糖をまぶしていません。要は揚げパンです。バルセロナでは、飲んだ後の締めはチュロが定番。チュロテリアは24時間営業が多いそうです。チュロは、スペインの羊飼いたちの簡易パンが発祥と、スペイン人は言います。中国の油条がポルトガル経由で広まったという説もあります。

一方、チョコラーテの氏素性は明確です。カカオは、3000年以上前からオルメカの人々が栽培し、飲料としてきました。16世紀、コルテスがアステカからスペインにカカオを持ち帰ります。スペインの貴族たちが、門外不出の飲料として楽しんでいたようです。その後、欧州に広がったホット・チョコレートは、19世紀に大きな進化を見せます。一つは、オランダのヴァン・ホーテンによるココア・パウダーの生産、そして英国のジョゼフ・フライによる固形チョコレートの開発です。

固形チョコレートの登場によって、従来の飲料タイプは、ホット・チョコレートと呼ばれるようになります。同時に、ホット・チョコレートの作り方も変わります。大雑把に言えば二つの方法に分かれます。ミルクに固形チョコレートを混ぜるスタイルは、ホット・チョレートと呼ばれることが多く、欧州に多く見られます。今一つは、ミルクとココア・パウダーを混ぜるもので、ホット・ココアと言われます。ホット・チョコレートは、概ね、ドロッとした濃さが特徴です。フィレンツエのシニョーリ広場に面したホット・チョコレートの名店リヴォワールも濃さが特徴。ほぼ溶けた固形チョコレート。

世界的なチョコレートの消費量は増えているようですが、大きな問題を二つ抱えています。一つは児童労働問題を含むフェア・トレードの問題。様々な取り組みがなされていますが、状況を変えるまでには至っていません。今一つは、地球温暖化に伴う生産量の減少です。すでにコスタリカの輸出量は96%減少しています。2050年にはカカオは絶滅危惧種になるという予想もあります。

そんな状況下、京都のショコラティエ「ダリ・K」の取り組みは注目に値します。インドネシアのスラウェシ島で、生産指導から始め、品質の高いカカオを適正な価格で買い取ります。そして、豆からチョコレートまでの工程をすべて自社内で行い、品質の高いチョコレートを作っています。まさにウィンウィンの関係と言えます。
真出典:oggi,jp

ドロミテ遭難記

2017年10月、家族で出かけたイタリア・アルプス、ドロミテのトレ・チーメ・ディ・ラヴァレード山で転倒、骨折しました。登山していたわけではありません。中腹まで車で行き、いいアングルで写真を撮ろうとガレキの斜面を降り、足を滑らせました。前は氷河が削った深い谷。無理に後ろへ倒れようとしたのが災いしたようです。一緒に行ったイタリア人の青年と山小屋から助けにきてくれた若者に支えられ、足場の悪い斜面を降りました。山小屋の若者は、さすがに慣れたもので、アイシングをしてくれました。

コルティナ・ダンベッツォ経由でベルーノまで車で降り、総合病院の救急治療室に入りました。当直医は私と同年齢とおぼしき女性。「あんた、英語は話せるか?」と聞くので、「少し」と答えました。すると医師は「良かった。私も話せないから」と言います。不思議な会話ですが、重要なやり取りは、同行したイタリア人の青年と長女がイタリア語で対応してくれました。いずれにしても左足首あたりを3カ所骨折。ただ、複雑骨折ではなかったので、ギプスを装着しただけでした。実は、骨折した瞬間から痛みも全くありませんでした。特筆すべきは医療費の安さ。恐らく国の医療への補助が大きいのでしょう。そしてギプスは石膏。帰国後、整形外科の看護師が、今時、石膏ですか、と驚いていました。近年は、軽いガラス繊維を使うようです。

そもそもベネチア・ビエンナーレを楽しむために、ベネチアにアパートを借りていました。ただ、車が入れず、どこへ行くのも橋の階段を上下するベネチアには戻れないと思い、長女の友人が働くトレヴィーゾのホテルを取りました。あいにくホテルは満室が続くと言うので、翌日から急遽アパートを借り、一週間ばかり滞在しました。家族はベネチアのアパートから通い、世話をしてくれました。以降の旅程は崩壊です。また、同行したイタリア人の青年の実家がトレヴィーゾにあり、数日前、ベネチアでご両親とも食事していました。気晴らしに昼食はどうか、と招待され、古い農家をリノベートした素敵な家で、ゆっくりさせていただきました。

帰国も苦労しました。左足全体がギプスという状態では、飛行機はビジネス・クラス以上限定。しかもベネチア空港からビジネス・クラス設定のある便は極めて限られています。結果、ネットに強い次女が頑張り、ドバイ経由のエミレーツで席が取れました。家族を先に帰し、欧州に住む長女とイタリア人の青年に手伝ってもらい、空路は一人で帰国しました。事前に予約したのですが、各空港では職員が一人つき、車椅子でサポートしてくれました。ことにドバイ空港では、タバコが吸いたくなり、パキスタン人の青年に、巨大な空港の端にある喫煙所まで押してもらいました。ちなみに、昨年のドバイ空港は、喫煙所が増えていました。いずれにしても、多くの人々、家族に助けられました。心から感謝。完全に骨が回復するまで、結果、9か月もかかってしまいました。

2020年9月5日土曜日

ブルースの息子、ロックの父親

見逃していた音楽ドキュメンタリー2本を立て続けに見ることができました。一本は「約束の地、メンフィス ~テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー~」、そして「サイドマン;スターを輝かせた男たち」です。

"Take me to the river" は、メンフィスの黄金時代を支えたミュージシャンたちの今を追ったドキュメンタリー。生き残っていた連中を集め、若い連中とのレコーディングにこぎつけるまで過程と、過去の映像の組み合わせが、たまらない絶品です。メンフィス・サウンドの継承が一つのテーマになっています。ヒューバート・サムリン、ブッカーT、スキップ・ピッツ、ボビー・ブランド、メイヴィス・ステイプル等々伝説のミュージシャンが登場する2014年の映画です。巨人たちとスタックスの音楽教室に通う少年たちとのセッションもありました。少年の一人が「彼らはブルースの息子でロックの父親だ」と言います。名言です。一言でメンフィスの音楽をも語っています。

"Sidemen Long road to glory" は、ハウリン・ウルフのギタリストのヒューバート・サムリン、マディ・ウォータースのピアノのパイントップ・パーキンス、同じくドラムのビッグアイズ・スミスの3人に焦点を当て、多くのミュージシャンのインタビューを交えた2016年の映画です。ハウリン・ウルフとマディ・ウォータースは、ギター・バンドが特徴のシカゴ・ブルースの二大巨星であり、デルタ・ブルースとロックの橋渡しをしたと言われます。その二人を支えたサイドマンは、名のあるロックバンドのすべてに影響を与えたと言われます。特に、ヒューバート・サムリンは、ロック・ギタリスト憧れの的であり、ジミー・ヘンドリックスは、サムリンの音量を上げたバージョンだとさえ言われます。

もともと陽の当たらないブルース界ですが、50~60年代、世界を席捲した英国のロック・スターたちがリスペクトしていたことで、彼らは表舞台に登場します。ただ、ハウリン・ウルフ、マディ・ウォータースが死ぬと、ブルースも下火になり、彼らは失業します。サイドマンの宿命かもしれませんが、永らく極貧の生活を送ります。再び注目されたのは、ダンス音楽の嵐が去った90年代後半のこと。皆、既に老境に入っていました。奇しくも3人は、2011年に相次いで逝去しています。ミシシッピ・デルタから腕一本で抜け出した3人でもありました。
写真出典:eiga.com

スガキヤ・スーちゃん

全国を対象とした投票型のラーメン・ランキングは意味がありません。ラーメンは、店舗での実食が基本ですから、人口密集地の人気店が必ず上位にくることになります。十数年前、それでもネット投票が行われたこともあります。その時の結果が衝撃的でした。第一位は、名古屋・東海地区に展開するスガキヤでした。名古屋に赴任する前でしたので、スガキヤは未知の存在であり、大いに驚きました。ランキング結果は、大規模にチェーン展開しているからこその結果です。ただ、名古屋に行って分かったことですが、単に規模の問題だけでもなかったのです。

名古屋に赴任して早々に、気になっていたスガキヤへラーメンを食べにいきました。安い、小ぶり、豚骨と魚介のWスープ。はっきり言って美味しものではありませんでした。ただ、店は、中学生や高校生で大混雑。フードコートへの出店の多いスガキヤは、中高生の放課後のたまり場だったのです。名古屋の人に聞けば、特に女子は、皆、放課後にスガキヤで長時間おしゃべりするのが定番だったと言います。言ってみれば、スガキヤのマスコット、スガキヤ・スーちゃんで店は満杯だったわけです。

これがスガキヤのビジネス・モデルだと思い、スガキヤの本社を訪問した際、話してみました。ところが、スガキヤが言うには、メインの顧客層は、30歳代の主婦とのこと。なるほど、スーパーに買い物に来た主婦たちが食べているということです。しかし、考えてみると、彼女たちこそ、中高生の頃、毎日のようにスガキヤに陣取り、おしゃべりしていた連中です。舌がスガキヤになっているわけです。スガキヤの超長期戦略です。

かつてスガキヤは首都圏にも進出していました。今は、完全に撤退。味の好みの問題かと思いきや、儲かってはいたが利益率が10%以下だったので撤退したというのです。スガキヤが言うには、人口が多すぎると顧客の選択肢も増え、利益率が下がるようです。それにしても出退店の基準が利益率10%とは、なかなかの強気。スガキヤの強さを見た思いがしました。

2008年、スガキヤ自慢のラーメン・フォークが、ニューヨーク近代美術館のグッド・デザイン・グッズに認定され、MoMAショップで販売開始されました。ラーメン・フォークは、環境保全に配慮して、割りばしから置き換えるために、ノリタケと共同開発されました。フォークとスプーンを合体させたもので、先割れスプーンの進化系と言えます。使い勝手のいいものではありません。MoMAショップで、値付けを問われたスガキヤは、店舗での販売価格400円ほどを提案します。MoMA側から、うちには10ドル以下の商品はないといわれ、12ドルにしたと言います。販売開始に際し、2,000本を持ち込みましたが、なんと2日で完売したそうです。
写真出典:zazacity.jp

「この世の果て、数多の終焉」

2018年フランス      監督:ギヨーム・二クルー

☆☆+

1945年、仏領インドシナ、兄夫婦を日本軍に惨殺されたフランス兵が、それを笑いながら見ていたベトミンの司令官に対する復讐に執着し、我を失っていく。ベトナム北部のジャングルのむせかえるような湿度が伝わってくる映像、戦争の残忍さを伝えるえげつない映像が印象的でした。映像に頼りすぎる面があり、脚本が映画としてのドラマを作れていない、かつ演出もそれに引きずられ、映像詩としてもドラマとしても中途半端になっていました。

フランスは、19世紀半ば、インドシナ半島の東部一帯を植民地化します。第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツに占領されたフランスにヴィシー政権が誕生。日本は、ヴィシー政権との合意のもと、インドシナに進駐します。ヴィシー政権が倒れると、日本軍は連合国側となった仏軍を制圧。日本の敗戦とともに、仏軍はインドシナを再度支配します。その間も、ホー・チミン率いるベトミンのゲリラ戦は続いていました。ベトミンと日本軍が協力して仏軍を攻撃するなど聞いたことがありません。ただ、三者が入り乱れる戦場では、様々なことが起きていたとしても不思議ではありません。

やや文学的になりすぎる傾向のある映画ですが、構図的な部分も見えます。ジャングルの奥へ奥へと引きずり込まれる主人公はフランスそのもの。少女時代に主人公を助けた娼婦の存在は人間性の象徴。戦友たちは、敵の銃弾と同時にジャングルの自然によって死んでいきます。また、名優ジェラール・ドバルデュー演じる文化人の存在は、アジアを愛しながらも何もできないフランスの文化を皮肉的に捉えていように見えます。

世界の果てのジャングルに、数多の終焉が訪れます。ただ、ベトミンだけは生き残るわけです。ホー・チミンの訓えのなかで今でも最も重要なものは何か、ということをベトナム人から教わりました。それは「最も大事なことは民族の独立」だというのです。フランス、アメリカとの戦争で、数多どころではないベトナム人が終焉を迎えました。しかし、彼らは、民族の独立という大義に殉じたのであり、この世の果てで、何のために戦うのかも分らぬまま、姿の見えない敵と戦い、死んでいったフランス、アメリカの若者たちとは大いに異なるわけです。
写真出典:eiga.com

2020年9月4日金曜日

江戸前

松原久子著「驕れる白人と戦うための日本近代史」は痛快な本でした。70年代、ドイツに留学し、著作活動をしていた松原久子は、TVの討論番組に出演し、白人優位の歴史観を振りかざすドイツ人たちと激論を交わします。例えば、日本の近代化は、開国後、西洋からもたらされた知識と技術によって、はじめて実現した、とドイツ人。対して、松原久子は、違う、日本の近代化は、経済、交通、教育等々、江戸期に成熟した社会インフラがあったからだ、と反論します。

あらためて、松原久子の言う通りだな、と思わされたのが「おいしい浮世絵展」です。江戸期の食文化を描いた浮世絵を集めた森アーツ・センターの企画展です。江戸の名物「寿司、蕎麦、天ぷら」と言いますが、当時確立した調理法は、ほぼ現代と変わりません。そして、それらが成立した背景には、多くの技術革新がありました。そもそも浮世絵自体、製紙技術、彩色技術、分業体制、物流等の革新のうえに成り立っています。

江戸前と言えば、東京湾の魚介類全般ですが、そもそもは鰻のことだったそうです。鰻の蒲焼も、今と変わらぬ製法です。実は、蒲焼流行の影にも、多くの革新がありました。まずは醤油です。和歌山県の湯浅発祥と言われる醤油ですが、いわゆる溜り醤油が基本。江戸初期は、関西からの「下り醤油」がほとんどであり、高級品だったようです。ところが、17世紀末頃から、安房、下総、上総あたりで製造法の革新があり、「地廻り醤油」として濃口醤油が安価に江戸に流れ込みます。水運による物流革命の恩恵も大きかったわけです。この濃口醤油が江戸の食文化を飛躍的に進歩させます。

日本酒は、1600年に鴻池善右衛門が大量生産技術を開発し、一気に生産量が増えています。味醂は、江戸初期、甘い酒に焼酎を加えて作る手法が確立し、甘酒のみならず調味料としての利用が広まります。砂糖は高価な輸入品でしたが、徳川吉宗の肝いりもあって、急速に国産化が進みます。さらにうな重まで考えれば、江戸期は、新田開発と生産技術の改良で、米の生産量は一気に拡大しています。

そもそも江戸前の鰻自体ですが、家康が江戸の整備のために江戸湾の干拓を進めた結果、湿地が多く出現し、鰻の漁獲量が増えたようです。鰻の蒲焼には、近世日本が成し遂げた革新が詰まっていたわけです。
写真出典:iwasaki-art.com

2020年9月3日木曜日

微笑みの国で

タイのホンダカーズ、日本フォルクスワーゲン、日本GMの社長を歴任したコンサルタントの佐藤満先生から聞いた話です。1985年、佐藤先生がタイに赴任した頃、ホンダのシェアは1~2%と惨憺たるものだったそうです。そこで先生は一計を案じます。タイの人々は王室好き。ことにプミポン・アドゥンヤデード国王は絶大な人気を誇っていました。先生は、王の誕生日にホンダ車をプレゼントすることを思いつきます。

近所のおじさんにプレゼントするわけではないので、その道のりは実に大変だったようです。何とか王室の了解を取り付け、アコードを1台プレゼントします。国王の誕生日には、TVが様々な行事等を終日中継するそうです。すると、あろうことか国王自身が宮廷の敷地内でアコードを運転する姿が映し出されたというのです。ホンダ車のシェアは、あっと言う間に12%まで上がりました。

十年くらい前のことですが、イッセイ・ミヤケのBao Bao というバッグが、突然、品薄になります。タイから訪日した人たちが、店にあるだけのBao Baoを買っていくというのです。理由は分かりやすいものでした。タイ王室のファッション・リーダー的なプリンセスがBao Bao を愛用していたらしいのです。

タイのマーケティングは簡単だな、と思ってします。ただ、残念ながら、現国王の人気はいまひとつ。コロナを避け、欧州の山中に20人の愛妾とともにこもっているとか、不実を理由に幽閉した王妃を側室として復権させた、とかロクなニュースはありません。それでもタイ王室の影響力の大きさは何一つ変わりません。

微笑みの国の名物の一つがクーデター。90年間に19回行われています。クーデターを合憲とする憲法、軍の強さ、民主主義の手続上の不備、貧富の差等が理由として挙げられます。興味深いことにクーデターはほぼ無血です。しかも民政化以降、クーデターを起こした軍は政権を返還しています。もはやクーデターという範疇では捉えられないようにも思います。その構図には、恐らく、影響力絶大ながら、それを能動的に行使することの少ない王室の存在があるように思います。ある意味、民衆も、政府も、軍も、王室の存在に甘え、民主主義を追求するプロセスに緩みがあるようにも見えます。立憲君主制の難しさが象徴的に現れているように思えます。
故プミポン・アドゥンヤデード国王    写真出典:plaza.rakuten.co.jp

2020年9月1日火曜日

輪違屋

輪違屋(わちがいや)は、京都の島原にあって、今も営業を続ける唯一のお茶屋兼置屋です。壬生浪士芹沢鴨が島原角屋で暗殺された際に、逃げ延びた芸妓の一人が輪違屋糸里。浅田次郎が小説にし、有名になりました。島原は、足利義満によって許可された日本初の花街です。幾度かの移転を経て、現在の島原に落ち着いたようです。当時は、京の西はずれ。田んぼのなかに塀を回し、今も残る東大門が作られました。

なにせ立地が悪く、祇園町等、今に続く五花街に客が流れ、大火も重なり、廃れていったようです。客足が遠のいた大きな理由が、格式の高さ。島原の芸妓の最高ランクは太夫(たゆう)、こったいとも呼ばれます。公家をはじめとする上流階級専属の芸妓であり、宮中から正五位という位を授かり、御所にも出入りしたとされます。姿形の美しさ、性格の良さ、頭の良さに加え、琴、三味線、胡弓、笙、地唄、舞踊については家元クラス、書、茶、花、香、和歌、囲碁といった教養にも高いレベルが求められたようです。

そんな立派な人は滅多にいないと思うのですが、没落した公家の娘たちが太夫になったと聞き、納得しました。かつて公家は、娘たちに最高級の教育を施し、御所に入れ、あわよくば帝の側室をねらったものだそうです。何から何まで完璧にこなす芸妓など、一朝一夕に育てられるものではありません。太夫には、お金と時間が随分かかっていたわけです。ちなみに、江戸吉原の花魁は、形だけ太夫をまねたもので、雲泥の差があったようです。

縁あって、一度、輪違屋に上がらせていただきました、輪違屋は、元禄の創業。江戸末期に再建したという立派な建物に入ると、まずは館内をツアーし、二階の立派なお座敷に通されます。しばらく喉を湿らせていると、いよいよ太夫の登場。大きな和蝋燭に火が灯り、電気は消されます。まるで江戸時代にワープしたような感覚に陥ります。太夫お成り、の声とともに、禿(かむろ)と呼ばれる二人の子供に先導され、付き人や地方数名を引き連れた太夫が登場します。

大きな髷に鼈甲の簪等の髪飾り、豪華な刺繍を施した厚い打掛。総重量は40キロを超すといいます。踊り、和楽器の演奏等を披露いただき、酌をしてもらいました。太夫の話術も見事でしたが、かつてコシノジュンコさんに連れられ、パリで道行(みちゆき)をしたという話にはたまげました。いずれにしても、京都島原、幽玄の一夜でした。
写真出典:matome.never.jp

夜行バス