2020年9月30日水曜日

アフガン

1980年1月初め、コペンハーゲンから帰国する際、モスクワ経由の便に乗りました。経由地では、通常、空港ロビーで出発を待ちますが、機内で待機とのアナウンスが流れます。するとカラシニコフ突撃銃を抱えた兵士が数名乗り込んできて、通路を行き来し始めました。嫌な気分でした。実は、ソ連によるアフガン侵攻直後だったのです。ソ連は、ソ連軍派遣を要請したアフガニスタン大統領を殺害し、カブールを制圧。無論、国際社会は激しく非難します。過敏になっていたソビエト政府は、民航機にまで兵士を送り込んだわけです。

流行の世界史観からすれば、交易路の要衝にあるアフガン(山の民)の地は、常に世界史の中心でした。ゆえに、その支配を巡る争いは絶えることが無く、支配者は猫の目のように変わります。18世紀に至り、アフガンは王国として独立しますが、王朝は変わり続け、19世紀には、イギリスの保護国となります。1919年に王国として再独立しますが、国内は安定しません。1953年、親ソ連政権によって王政は廃止、共和国に移行します。共和国の宗教弾圧に対抗し、ムジャーヒディーン(ジハードを遂行する者たち)と呼ばれる武力組織が生まれます。ただ、統一された組織ではなく、多数の組織が混在し、ときには互いに争います。

1978年、親ソ連の左翼政権が誕生し、宗教弾圧を強化すると、各地のムジャーヒディーンは一斉に蜂起。劣勢となった大統領は、ソ連軍派遣を要請します。ソ連は、イラン革命の飛び火を恐れたと言われます。ソ連軍とムジャーヒディーンとの戦いは10年に及びます。複数ゲリラ組織との戦い、カイバル峠を超えてパキスタンから流入し続ける米製の武器、士気の下がった兵士の間で広がる麻薬、アフガン侵攻は、ソ連のベトナム戦争と呼ばれました。

ソ連軍撤退後、内戦が激化、1996年にはイスラム原理主義のタリバン政権が誕生。しかし、反タリバン勢力との戦闘は継続。2001年、米国で同時多発テロが起こると、ビン・ラディンのアル・カーイダを保護するタリバンに対して米国が攻撃を開始。タリバン政権は崩壊したものの、戦闘は継続し、現在に至ります。米国にとっては、史上最長の戦争となり、戦費は6兆円を超えたと言われます。

「政権は銃口から生まれる」と言ったのは毛沢東ですが、国が成立する過程では、武力による統一が必要なのでしょう。アフガンの場合、他国からの侵略が続いたために独立性の高い部族社会が存続され、国内がいまだ統一されていません。顔の見えない敵と戦うならば、泥沼化は必定と言わざるを得ません。(アフガニスタン国旗 写真出典:asahi.net)

マクア渓谷