2024年1月31日水曜日

民度の高い国

ザビエル
イエズス会がインドへ派遣した宣教師フランシスコ・ザビエルは、マラッカ、モルッカまで進出します。マラッカで出会った薩摩の武士アンジロウの勧めで、ザビエルは日本への布教を目指します。明を経由して薩摩に到着したのが1549年。ザビエルは、日本に2年間滞在し、任地であるインドへ戻ります。その間に日本を語った書面が多く残されています。よく知られているのは、日本人は、アジアのなかで最高であり、日本人に勝てる他の民族はいない、という下りです。その理由として、ザビエルは、日本人が他者に優しく、貧富の差ではなく名誉を重んじ、かつ武器を愛し武芸に優れていることを挙げています。一言で言うなら「日本は民度が高い国」ということなのでしょう。 

16世紀、プロテスタントの勢いに押されたカソリックは、アジアでの信徒拡大を図ります。イエズス会は、交易や植民地拡大をねらうポルトガル王と手を組みます。ザビエルは、他のアジアの国でうまくいった武力と布教の両建て方式が、日本では通じそうにない、とも言っているのでしょう。それにしても、なぜ日本人の評価が高いのか、今一つピンとこないところがあります。ザビエルが訪れたムガール帝国初期のインド、明朝末期の中国等と比べ、戦国時代の日本にさほど大きな差があるとは思えません。ただ、ザビエルが日本人の特徴として挙げた、優しい、名誉を重んじる、丁寧、あるいは博打や盗みをしない、といった点からすれば、他国に比して、ある程度、社会的な統制が効いていたのでないかと思われます。

それは恐らく当時の社会制度や宗教観の違いに根ざしたものではなく、より個人主義的な傾向が強いインドや中国では社会的統制が緩いのに対し、日本はより集団主義的、組織重視型だったということなのではないかと思います。日本の集団主義は稲作によって形成されたという話をよく聞きます。しかし、そうだとすれば中国南部も同じはずです。個人的には、自然災害の多さが日本の集団主義を育んだのではないかと思っています。日本人は、頻発する天災を肩を寄せ合って生き延びてきわけです。もちろん、税と兵士を効率的に徴発するために、古代から村落は制度化されてきました。それはインドも中国も同じです。日本の集落においては、制度を超える、自然発生的な集団意識が強かったのではないでしょうか。

宣教師にとって、より組織的で、より統制のとれた異教徒社会へ布教することは、なかなか難しかったものと考えます。社会の底辺にいる人々への個別懐柔策が展開しにくいからです。そこで、ザビエルは、大名クラスから落としていく垂直型布教を選択し、一定の成果を得ています。しかし、上意下達式の布教スタイルでは、真のキリスト教徒をどれほど確保できたのか、大いに疑問でもあります。ザビエルも、民度の高い国での布教の難しさに気づき、あえて数だけを求める戦略を採ったのではないでしょうか。民度の高い国と言えば聞こえはいいのですが、日本は、より集団主義的な社会だったということだと思います。

民度とは、一般的に、集団の文化レベルや規範の浸透などの成熟度を指しますが、それは社会の統制の度合いとも言えます。民度は、俗語ですが、学術的な響きを持つ都合の良い言葉です。中国にも欧州にも民度という言葉はありません。明治期に生まれた和製漢語です。日本だけが、民度にこだわった点は、実に興味深いと思います。明治期は、四民平等、民権等々、”民”のつく言葉が急増しています。欧米から導入した文化に対応して、新たな訳語や日本語を作る必要があったのでしょう。また、天皇を中心とする中央集権化を目指した明治政府の意図も感じます。”民”という漢字は、目をつぶされた人間、つまり奴隷を表わす象形文字が起源とされます。民は、ヒエラルキーを前提とした言葉です。明治の驚異的な近代化の背景にも、民度の高さ、つまり日本伝統の集団主義や体に染みこんだヒエラルキーの存在があったと言えそうです。(写真出典:commons.wikimedia.org)

2024年1月29日月曜日

きりたんぽ鍋

好きな鍋物のランキングでは、キムチ鍋がトップになることが多いのだそうです。意外な感じもしますが、調査対象が若者に偏れば、理解できる面もあります。そもそも鍋物は裾野の広いメニューなので、好きな鍋物と限定したところで、ランキングに意味があるようには思えません。まったくのランキング外ですが、私の好きな鍋物に秋田名物のきりたんぽ鍋があります。スープ、そして全ての具材が存在感を示しつつ、一つの鍋として成立しているオールスター鍋だと思っています。スープは、比内地鶏の出汁に醤油と酒で味付けされます。具材は、きりたんぽ、セリ、舞茸、長ネギ、ささがきゴボウ、糸こんにゃくです。きりたんぽは、炊いた米を荒くつぶし、杉の棒にまいて炙った”たんぽ”を、食べやすく切ったものです。 

たんぽの語源とされる”たんぽ槍”とは、槍の稽古用に、棒の先端に綿を包んだ布を付けたものです。短穂とも書きます。稲の穂先に似ているということなのでしょう。また、米を荒くつぶすことを、半殺しにするとも言います。たんぽは、稽古用の槍で人は殺せないことに掛けた呼び名とも言われます。最近は、スーパーにも出来合のきりたんぽが売られていますが、秋田へ行くと、出来たてのきりたんぽが味わえます。半殺しの米を棒に巻かず、手で丸めて団子状にしたものが”だまこ”です。手間数の少ないだまこも秋田では定番の一つと聞きます。いずれも煮崩れしにくいものですが、さすがに長く鍋に入れていると崩れますので、多少スープを含んだあたりで食べます。

きりたんぽ鍋というくらいですから、きりたんぽが主役だろうと思われがちです。ところが、セリ、ゴボウも主役であり、舞茸、糸こんにゃくも主役級の活躍を見せます。仙台のセリ鍋も同じですが、セリは根っこまで使います。とても良い風味が出ます。ただ、少し苦味が気になり、私は食べません。ささがきゴボウも、良い香りと味をしっかり楽しめます。福岡県では、ごぼ天をうどんに乗せて食べます。このごぼ天も、ゴボウの味を上手に活かしています。ただ、きりたんぽ鍋ほど、香りも含めたゴボウの風味を丸ごと味わえる料理はないと思います。なお、スーパーのささがき済みのゴボウは風味が飛んでいていけません。具材の風味をそのまま活かしきれているのは、比内地鶏のスープのコクあってのことです。

秋田の地鶏である比内鶏が、天然記念物に指定されたのは、1942年のことでした。野鶏に近い種で、品種改良もされていないこと、絶滅の危機に瀕していたことから指定されたようです。そもそも品薄で、かつ天然記念物に指定されたことで、しばらくの間、秋田の人々は比内鶏を食すことができなかったようです。1973年に至り、比内鶏とロードアイランドレッド種を掛け合わせることで比内地鶏が完成します。飼育方法まで厳密に規定されたブランド認証制度のもと、名古屋コーチン、さつま地鶏と並ぶ日本三大地鶏としての地位を獲得しています。旨味の濃い肉質と脂は天下一品です。比内地鶏を使ったきりたんぽ鍋のスープは、オールスター・キャストの具材を活かす、映画監督のような存在です。

きりたんぽ鍋は、米も具材にしているので、本来、締めは不要です。ただ、スープの美味しさを味わうために、秋田名物の稲庭うどんで締めることが多いようです。これが美味いわけです。ただ、煮崩れしにくい稲庭うどんに限らす、蕎麦も中華麺も合うと思います。半殺しのきりたんぽではなく、完全に殺した餅も、当然のごとく合います。私は締めは食べずに、スープを残し、翌日、うどんか中華麺で食べるのが好みです。比内地鶏スープの底力をしみじみと感じます。ただ、かなり濃い醤油味なので、塩分は要注意です、秋田に旅行した先輩が、秋田では何を食べても濃口醤油の味がする、と言っていました。確かにそうかもしれません。秋田県は、脳卒中の死亡率が常に全国上位になっています。(写真出典:maff.go.jp)

2024年1月27日土曜日

「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」

監督:アキ・カウリスマキ     1989年フィンランド・スウェーデン

 ☆☆☆+

フィンランドのアキ・カウリスマキ監督が、その名を世界に知られるきっかけになった映画です。シベリアの冴えないバンドが、NYからメキシコまでをボロ車で旅するロード・ムービーです。自然主義的な演出、独特の間合いとユーモア、そして何よりも底辺の人々の目線で社会を見るというアキ・カウリスマキの終始一貫したスタンスが詰まった映画です。バンド名からして、シベリアの寒村にあってレニングラード、さらにアメリカの象徴でもあるカウボーイと、既に皮肉たっぷりです。異様に庇の突き出たリーゼント、異様に先のとんがった靴は、ソヴィエトの若者たちのアメリカ文化、そして自由へのあこがれをデフォルメしています。

アメリカの旅は、NYの場末から、南部の貧困地帯、メキシコの寒村へと続きます。バンドは、シベリアでは赤軍の歌”ポーリュシカ・ポーレ”、アメリカ南部では白人貧困層を前にロックやカントリー、黒人貧困層の前ではブルーズを、そしてメキシコの寒村ではマリアッチを演奏します。国によって音楽も変わるけど、音楽は音楽、人は人だと言っているかのようです。バンドの旅を率いるマネージャーは出演料を懐に入れ、分厚いビーフ・ステーキにビール三昧を続ける一方、バンド・メンバーにはろくに食事も与えません。ストレートにソヴィエトの共産党政権を批判しているのでしょう。ついにメンバーたちは、マネジャーを縛り上げ、金を巻き上げて分配し、食事を楽しみます。

そのパートには“革命”という小見出しが付けられていましたが、映画公開から2年後に起きたソヴィエト崩壊を予言しているかのようです。1985年にソヴィエト連邦の書記長に就任したゴルバチョフは、硬直化し、行き詰まったソヴィエト社会の体制改革に乗り出します。いわゆるペレストレイカです。ゴルバチョフは、社会主義体制内での改革を指向し、民主化や市場経済の導入を試みます。しかし、急激な市場経済化がもたらした社会的混乱が拡大し、1991年には守旧派によるクーデターが勃発。クーデターは失敗に終わりますが、ソヴィエトは崩壊します。同じ頃、中国では、鄧小平が改革開放を進め、やはり社会は混乱しますが、中国共産党は、これを力でねじ伏せます。結果、1989年、自由化を求める64天安門事件が発生します。

ペレストロイカは、ソヴィエト国内にある程度の自由をもたらし、東西冷戦を終わらせ、核軍縮条約を締結させ、ソヴィエトの衛星国家を独立させ、ドイツ統一を実現させ、そしてレニングラード・カウボーイズをアメリカに渡らせたわけです。レニングラード・カウボーイズとは、自由を求めつつも、市場経済にとまどうソヴィエト市民そのものなのでしょう。渡ったアメリカも、決して夢の国ではありませんでした。都市の憂鬱を抱えるNY、時代に取り残された南部の白人貧困層、奴隷時代と変わらない南部の黒人社会、アメリカ繁栄の日陰に暮らすメキシコ人。共産党による全体主義社会にあって、人々は檻のなかで暮らしていました。しかし、自由主義が進めた市場経済も、人々を豊かにしたわけではありませんでした。

フィンランドの監督が、この映画を制作したという点も興味深いところです。EU加盟国のフィンランドは、豊かで自由な国として知られます。今般、ロシアのウクライナ侵攻を受けて、NATOにも加盟しました。フィンランドの歴史は、ロシアとの戦いの歴史でもあります。ロシア革命時、帝政ロシアの支配から独立を果たしますが、ソヴィエト連邦とは冬戦争、継続戦争を戦います。領土の一部は失ったものの、独立は保持します。常にソヴィエト、ロシアの動向に目を配り、軍事的備えも怠るわけにはいかない国です。フィンランドにとって、そしてアキ・カウリスマキにとって、ペレストロイカは歓迎すべき点もありつつも、手放しでは喜べない危険な要素もはらんでいたということなのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

2024年1月25日木曜日

花筐

花筐(はながたみ)は、摘んだ草花を入れる竹かごです。世阿弥作とされる謡曲「花筐」は、継体天皇とその寵妃・照日前の物語です。上村松園の異色作にして傑作とされる「花筐」は、この能楽に基づいて描かれました。上村松園といえば、なにせ美人画ということになります。美人画は数多く存在しますが、松園の凜として気品あふれる女性たちは、日本画が到達した頂点の一つだと思います。松園の代表作としては、「序の舞」、「母子」、あるいは「草子洗小町」等が挙げられます。ことに「序の舞」は傑作中の傑作だと思います。数年前、修復された「序の舞」を東京芸大で見る機会がありましたが、その匂い立つような気高さに圧倒されました。

序の舞は、能楽の舞事の一つです。松園は、能楽に取材した作品を多く残しています。能楽の幽玄な世界と松園の凜とした作風が共鳴するからなのでしょう。ただ、能楽「花筐」は、五番立ての四番目物、物狂能とされ、松園が題材とした他の多くの曲とは趣が異なります。6世紀初頭、越前国味真野に住む応神天皇5世の来孫・大迹部皇子は、急死した武烈天皇の跡を継いで即位するよう促され、都に旅立ちます。皇子は、寵妃・照日前に使者を送り、手紙と愛用の花筐を授けます。突然の別れに、照日前は、花筐を抱きしめ、泣き崩れます。即位して継体天皇となった皇子は、ある日、紅葉狩りに出かけます。すると、行幸の列の前に一人の女物狂が現れます。護衛が女を遮り、手にした花筐を打ち落とします。

花筐の由来を語り、泣き伏す女物狂に、天皇は、面白う狂うて踊ってみよと命じます。照日前は、漢の武帝と李夫人の悲劇を物語りながら舞います。天皇は、花筐が自ら愛用したものであることに気づき、照日前の変わらぬ思いを知ります。天皇は、彼女を同行して宮へ帰ります。松園は、この恋に狂えど完全な狂人ではない照日前に惹かれます。松園は「狂人の表情を示す能面の凄美さは、何にたとえんものがないほど、息づまる雰囲気をそこに拡げるのである」と書いています。照日前を描くにあたり、その表情に苦慮した松園は、ついには精神病院にまで赴き、患者たちを観察します。松園は、表情のない患者たちの顔から能面と通じるものを感じ、増阿弥の十寸神という能面をモデルとして照日前を描きます。

通常、「花筐」には、小面、孫次郎といった若い女性のあどけなさを表わす面、あるいは若女、増女という多少年上の女性の気品や奥深さを漂わせる面が使われます。対して十寸神は主に力強い女神などを表わし、高貴さのなかに険しさも感じさせます。ただ、松園は、十寸神をそのまま写してはいません。松園の照日前の表情には、狂気も、怒気も、険しさもありません。無表情でもなく、恋に狂う女の気配すらありません。微笑んでいるようでもあり、虚脱しているようでもあり、世間を蔑んでいるかのようにも見え、実に複雑で不思議な表情を見せています。それこそが狂気が持つ凄みの本質なのかもしれません。松園自身は、それを「空虚の視線」と呼び、その表現は難しいものであると思った、と語っています。

松園の異色作と言えば「焔」が最もよく知られています。源氏物語をもとにする能楽「葵上」が題材となっています。葵上は、光源氏の寵愛を失った六条御息所が生霊となって、正妻の葵上を襲うという筋立てです。中年女の嫉妬を描いており、松園自身が「たった一枚の凄艶な絵」とも語っています。能楽では、生霊となった六条御息所が白般若という恐ろしい面を使います。焔の女性の顔は、般若ではありませんが、伏し目がちに描かれた目は、実に恐ろしく、背筋がゾッとします。複雑な表情ではありますが、嫉妬に狂う女という、ある意味、分かりやすさもあります。対して「花筐」の照日前の表情は、より複雑で、より不気味な印象を受けます。花筐も焔も、松園という天才が、女性であったがために生まれた希有な傑作と言えます。(写真出典:intojapanwaraku.com

2024年1月23日火曜日

「ポトフ 美食家と料理人」

監督:トラン・アン・ユン      2023年フランス

☆☆☆☆

19世紀フランスの美食家とその料理人でもある妻との物語です。映画のかなりの部分が、広いキッチンで料理を作るシーンで占められています。映画の大きな弱点の一つは、匂いを伝えられないことです。いわゆる4D映画による試みはありますが、限定的なものです。料理を正面から捉えた作品では、それが一つのハードルになります。ただ、本作ではそれを見事に克服しているように思います。美しい映像や長回しに加えて、劇伴を使わず環境音を丁寧に拾うといった手法も効果的です。また、TVの料理番組のように具材や手元に集中するのではなく、料理をダンスのように捉えたカメラ・ワークも見事です。それらが相まって、料理の匂いや食感までも伝えて余りある映像になっています。

トラン・アン・ユン監督は、12歳のおり、戦火を逃れて渡仏したヴェトナム人です。昨年、本作でカンヌ国際映画祭の監督賞を受賞しています。長編デビューとなった「青いパパイヤの香り」(1993)が高く評価され、1995年の「シクロ」ではヴェネツイアの金獅子賞も獲得しています。瑞々しい映像と丁寧に紡いだドラマが印象的な監督です。本作の原作となったのは、スイスのマルセル・ルーフの小説「美食家ドダン・ブーファンの生涯と情熱」(1920)です。「美味礼賛」で知られる美食家ブリア・サヴァランをモデルにした作品だそうです。主演は、世界三大映画祭すべてで女優賞を獲得している名優ジュリエット・ビノシュと「ピアニスト」(2001)の名演で知られるブノワ・マジメルです。さすがの名演を見せています。

ユーラシア皇太子から晩餐会への招待を受けたドダンは、仲間たちと参加します。ユーラシア皇太子は架空の人物ですが、スラブ系と思しき服装をしています。皇太子の晩餐会は、三部構成で数時間を要する豪華なものでした。宮廷料理に批判的なドダンは、返礼の晩餐のメニューとしてフランス伝統の家庭的な煮込み料理ポトフを選択します。例えて言うなら、宝石を散りばめた王冠と手ぬぐい鉢巻きくらいの違いがあります。その格差の大きさを懸念する周囲に対して、ドダンはポトフこそフランス的であり、ゆえにフランスの精神だと言い放ちます。当時の欧州の政治状況も背景にあるわけですが、フランス人、つまりフランス革命の伝統を共有する人々は、間違いなくこのシーンに大拍手したことでしょう。

本作において、ポトフは政治的な象徴でもありますが、それ以上に、映画の主題をストレートに表わしています。監督は、料理は芸術だが、それは高級食材や壮麗さを競うものではなく、ありふれた対象への愛情の表現なのだ、と語っているように思えます。そのことは、ドダン夫妻の愛情の有り様そのものでもあり、監督と女優トラン・ヌー・イエン・ケー夫妻の愛情なのかも知れません。作中、アウグスティヌスの格言だという「手に入れたものを追い求めることが幸せなのだ」という言葉が出てきます。食材に対する深い理解と愛情が料理を芸術の域に高め、同じ事が夫婦の間についても言えるということでしょうか。愛は凡庸なものだが対象への共感の深さが、それを非凡なものにするとも言えそうです。

フランス人からすれば、おでんもポトフの一種なのだ、という話を聞いたことがあります。近年は、洋風おでんという言葉も目にすることがあります。フランス語のポトフは、火に掛けた鍋という意味だと言いますから、分からぬではありません。おでんは、出会いの味とも言われ、素材から出る旨味が命です。ポトフも、肉や野菜、香草の旨味を引き出したスープが命なのでしょう。長時間、火に掛けた鍋で、ありふれた素材の旨味を煮出してゆく煮込み料理は、確かに夫婦の絆のあり方でもあり、家庭そのものでもあるのでしょう。日本の家庭で作られるポトフは、ソーセージやベーコンを使って簡単に作られますが、本格的なポトフは、実に時間と手間のかかる料理です。(写真出典:eiga.com)

2024年1月21日日曜日

旗本絵師

鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)は、江戸後期、喜多川歌麿と人気を二分したとされる絵師です。ただ、歌麿、写楽といった同時代の絵師たちほどの知名度はありません。不思議だと思っていましたが、どうやら明治期に作品の多くが海外に流出したことが原因だとされているようです。恐らく、その画風が上品で派手さに欠ける点も影響しているのではないかと思われます。今般、千葉市美術館が、世界初と銘打って鳥文斎栄之展を開催しています。海外に分散している錦絵や肉筆作品も集めた見応えのある展覧会でした。作品はもとより、旗本出身という鳥文斎栄之の人となり、あるいは寛政・文化期の江戸社会の様子まで伝わる企画になっていました。

鳥文斎栄之こと細田栄之は、1756年、500石取りの直参旗本の家に生まれます。勘定奉行も輩出した中堅旗本の家だったようです。狩野派6代目の狩野典信に絵を学び、10代将軍徳川家治の近侍職として、絵具方を勤めます。絵を好んだ家治の覚えめでたく、従六位に叙されています。1783年には職を辞して無職の旗本である寄合衆となり、1789年には隠居しています。この間の事情は定かではないものの、この頃、栄之は浮世絵師としての活動を開始しており、いわば脱サラして好きな画業に専念したということなのでしょう。狩野派に学んだ近侍の絵師となれば、隆盛にあった浮世絵業界からは特別待遇されて当然だったと思います。例えるなら、現役大リーガーが日本の球団に助っ人として入団したようなものです。

栄之は、いきなり大判の浮世絵を任されます。入団即、先発ローテ入りしたようなものです。他の絵師は、天才歌麿であっても、長い下積み期間を経験する必要がありました。栄之の版元は西村屋与八。西村屋は、栄之の美人画をハイマーケットへ投入します。十二頭身、細面、派手な色使いを避ける”紅嫌い”といった特徴を持つ栄之の美人画は、品があり、ハイマーケット向きだったわけです。西村屋の競争相手は蔦屋重三郎。蔦屋が抱える喜多川歌麿が得意とする美人画は、艶っぽさを強調した大首絵でした。見事なまでに対照的です。棲み分けが意図されていたのではないか、とさえ思えます。これは想像ですが、栄之の美人画は枚数が少ないものの単価が高く、歌麿の錦絵は、その逆だったのではないでしょうか。

栄之の美人画は、もちろん着物、丸髷、細い目に小さな口と浮世絵のスタイルに則ってはいますが、どこか中国的な印象を与え、文化的で知的な風情を醸しています。江戸のヴィーナスとも称される鳥居清長の八頭身美人の影響を受けていると思われますが、栄之は、そこに随唐期の中国絵画のエッセンスを持ち込んだように思えます。それが、欧米人にパン・エイジア的な印象を与え、人気があったのではないでしょうか。18世紀末、栄之は、錦絵を止めて、肉筆画に専念します。折しも、老中松平定信による寛政の改革が行われ、元旗本である栄之は、その趣旨に沿って錦絵から身を引いたのではないかとされています。他の絵師たちが、知恵を絞って幕府の規制をかいくぐり、錦絵を発表し続けたのとは対照的です。

錦絵の売れ筋は、概ね1枚20文前後だったようです。かけそば1杯が16文の時代ですから、現在価値で言えば300円前後といったところでしょうか。ただ、ものによっては高価な錦絵もあり、鈴木春信の作品などは65文という記録があるようです。寛政の改革の頃、錦絵は16~18文という価格統制が行われたようです。ハイマーケット向けだった栄之の錦絵は、恐らく、この価格ではペイしなかったのでしょう。版元の西村屋も栄之を諦めざるを得なかったというのが実情だったと思われます。また、栄之の錦絵の購入者は、裕福な町人というよりは、知識階層の武家が多かったのではないかと想像できます。幕府からお触れが出ている以上、武家はヤミで高価な錦絵を購入しにくかったという事情もあったのでしょう。なお、栄之の肉筆画は、将軍の命によって描かれた一枚が後桜町上皇のお気に入りとなったようです。天覧の誉れを得た栄之は、その名を高め、注文も増えたとされます。(写真出典:kyotobenrido.com)

2024年1月19日金曜日

「ギミー・デンジャー」

監督: ジム・ジャームッシュ      2016年アメリカ

☆☆☆☆ー

イギー・ポップは、”パンクのゴッドファーザー”と呼ばれているようです。個人的には、ロックンロールの原理主義者であり、解放者なのだろうと思っています。イギーの音楽は、新しく創造されたジャンルではありません。ロックがもともと持っていた精神に原点回帰したということだと思います。イギーの影響を受けたロッカー達が、いまだに世界中で演奏し続けています。それほどイギーの音楽はファンダメンタルな要素にあふれていると言えます。ただ、私にとってイギーは縁遠い存在です。イギーとストゥージズが世に出た頃、私はジャズやソウルに浸っていたからです。その私ですら、イギーによって解き放たれた連中が繰り広げたパンクやそれに続くガレージ・ロックといった音楽は気になったものです。

イギーは、自分のドキュメンタリーを撮影するとすれば、親交のあったジム・ジャームッシュ以外の監督は考えられないと語り、本作が実現したようです。ジム・ジャームッシュは、7年をかけてイギーやストゥージズのメンバー等へのインタビュー、あるいはライブの映像を撮り続け、本作を完成させたようです。そんじょそこらの音楽ドキュメンタリーとは大違いの作品になっています。イギーの経験したこと、周囲で起こったことなどを年代記的に記録するのではなく、イギーという一つの反逆的精神がたどった道をドラマ化したような作品です。見終わった後の印象は、まさしくジム・ジャームッシュのロード・ムービーから受ける印象そのものでした。

ロックンロールという音楽を生んだのはアメリカでも、それを若者の精神や文化の支柱にまで昇華させたのはイギリスだと思います。英国の階級社会が持つ閉塞感がゆえなのでしょう。ロックは、英国の若者たちに、怒りやいらだち、あるいは自由を希求する思いを表現する機会を与えたのだと思います。ビートルズも、当初、アンシャンレジームに対する反発心を持っていたのでしょうが、その人気が社会現象化すると、ヒット・チャートという商業システムに組み込まれていきます。それに飽き足らない若者たちは、ブルースへと走り、ニュー・ロック、アート・ロック、プログレッシブ・ロックへと展開していきます。まさにカウンター・カルチャー真っ只中という時代であり、若者達は熱狂しました。

しかし、それは反体制的であっても、ロック・スピリットからは離れていく道でもありました。そこに、プリミティブなロック・スピリットむき出しで登場してきたのがイギー・ポップでした。しかも、大都会ではなく、時流に敏感とも思えないミシガン州アナーバーから出現しました。そのことはとても重要な要素だと思います。イギーのユニークなステージ・パフォーマンスは、ドアーズのジム・モリソンに影響されているようです。演出的ではなく、よりスポンテニアスな体の反応だと思います。暗黒舞踏に通じるものも感じさせます。イギーがステージ上で派手に動く一方、他のメンバーは定位置で黙々と演奏を続けます。これも、世界初と言われるイギーのダイブと同様、その後に大きな影響を与えた演奏スタイルだと思います。

いまだに高い人気を誇るローリング・ストーンズは、商業的成功とロック・スピリットを両立させた希有なバンドだと思います。シンプルな編成に戻して行われた2014年の東京ドーム公演では、70歳を超えてなお不良であり続けるストーンズの姿に感動しました。人間、やはり体制的になってはいけない、と強く思わされたものです。週2回ほどジムへ通っていますが、有酸素運動がきつくなってきた終盤、必ず聞いているのがTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの「世界の終わり」です。10年ほど前にギターのアベフトシが亡くなり、昨年暮れにはヴォーカルのチバチャンも亡くなりました。早すぎる死です。MICHELLE GUNも、ある意味、イギーの後継者たちと言えるのでしょう。その音楽は、いまだに、なぜか力を与えてくれます。恐らく、自分は自由だ、と思わせてくれるからなのでしょう。(写真出典:filmarks.com)

2024年1月17日水曜日

大寒

鉄砲洲稲荷の寒中水浴
気温が変化する要素は、緯度、高度、風、潮、大気放射など様々ありますが、基本的に暑い寒いは日照によって決まります。日照も、太陽光の入射角度や太陽の高度によっても気温の違いが生まれます。一年で一番昼が短いのは毎年12月21か22日となり、二十四節季では冬至ということになります。冬至以降、日照は増していき、夏至でピークを迎えます。ならば、冬至以降は、気温は上がっていくものと考えられますが、最も気温が下がるのは1月20か21日、二十四節季の大寒となります。どうも1ヶ月もズレが生じる理由が、今一つ納得できません。日照の変化は、ごくわずかなものであり、そう簡単に気温は上がらないであろうことは理解できます。ただ、少なくとも冬至よりも気温は下がらないはずだと思えてならないわけです。

昼と夜の時間の長さが等しくなるのが春分、秋分ということになります。つまり、冬至から3月20か21日の春分までは夜の時間の方が長いわけです。冬至から大寒までは、夜の時間が最も長い期間であり、日照時間は徐々に長くなるものの、大気は冷やされる日々が続くことになります。大気の冷たさが累積されるのかも知れません。これが、冬至ではなく、大寒が最も寒くなる理屈ということになります。ただ、理解はできても、どうもピンとこないわけです。私は別としても、動植物は、日照時間の変化を確実に把握しているようです。それが証拠に、大寒の頃から、梅のつぼみがふくらみ始めます。長い歴史を持つ暦は、そうした動植物の変化も捉えられています。と言うか、そのための暦ということなのでしょう。

15日単位の二十四節気を、さらに初候、二候、三候と5日毎に区分したものが七十二候です。大寒における七十二候は、款冬華 水沢腹堅 鶏始乳となります。款冬華とはふきのとうが蕾を出す、水沢腹堅は沢に氷が厚くはる、鶏始乳は鶏が卵を産み始める頃とされています。実に見事に自然の変化を捉えていると思います。季節の変化を経験的に捉えただけの原始的な暦は、世界各地に存在していたようです。月の満ち欠けに基づく太陰暦は、メソポタミアや中国で生まれました。しかし、地球と月の公転のズレから、月の周期では1ヶ月が29.5日となり、1年は345日となります。閏月を設定して、そのズレを修正したものが太陰太陽暦であり、長らく暦の基本となりました。

太陰太陽暦は、中国から朝鮮半島を経て日本に渡来しました。日本書紀には、553年、百済から暦博士を招こうとしたという記述があるようです。そして604年には、日本初の暦が作られています。稲作が伝来してから、1,500年間、日本は、暦なしに稲作を行っていたわけです。3世紀末の魏志倭人伝には、倭人は、その俗正歳四節を知らず.ただ春耕秋収をはかり年紀となす、という記述があるようです。太陰太陽暦は持っていなくても、縄文時代から、夏至、冬至等、太陽の動きに関する知識があったことは分かっています。原始的な暦の類いがあったとすれば、太陽の動きに準拠していたはずです。農耕が太陽を基準とすることは理解できます。にも関わらず、太陰暦が月を基準としたのは、視覚的な分かりやすさゆえなのかも知れません。

大寒は、二十四節季の最後の節季であり、続く立春が新たな年の始まりとなります。大寒の最終日が節分になります。もともと節分は、季節を分けるという意味で、立春・立夏・立秋・立冬の前日のことでした。江戸期以降は、もっぱら立春の前日を指します。節分の豆まき以外にも、大寒には様々な習わしがあります。小寒、大寒をあわせて寒、あるいは寒中と呼びます。寒中見舞い、寒稽古、寒中水泳などは、この期間に行われます。大寒の日に生まれた大寒たまごは、縁起物というだけでなく栄養価も高いとして珍重されます。酒や醤油の寒仕込みは、雑菌が繁殖しにくいこの季節に仕込むことで、じっくり熟成されて美味になるとされます。また、大寒の朝に汲んだ水を寒の水と呼びます。寒の水でついた餅はかびないとも言われます。寒仕込みと同様、雑菌が少ないという意味でしょうが、多少、眉唾です。(写真出典:afpbb.com)

2024年1月15日月曜日

「眠りの地」

監督:マギー・ベッツ   原題:The Burial    2023年アメリカ 配給:Amazon Prime

☆☆☆+

(ネタバレ注意)

1995年、実際に行われた裁判をもとに脚色された法廷映画です。原作になったのは、1999年、ニューヨーカー誌に掲載された記事だといいます。登場する人名も地名も実名が使われています。実名を使うことも含めて、権利関係の調整には相当の期間が必要だったと思われます。そのリアルさが、ハリウッドが得意とする法廷ものやサクセスものの伝統に則りながらも、多少異なるテイストと面白さを醸し出しているように思います。そして、何よりも、ジェイミー・フォックス、トミー・リー・ジョーンズという二人のアカデミー俳優の名演が、この映画を映画らしい映画にしています。ことにジェイミー・フォックスには驚かされました。代表作の「レイ」(2004)や「ジャンゴ」(2012)とは別人かと思うほどでした。

ミシシッピ州ビロクシで、代々葬儀社を営むジェレマイア・オキーフは、併営する埋葬保険会社の資産運用で失敗し、財政難に陥ります。事業の一部を、カナダに本拠地を置く巨大葬儀社グループに売却する判断をします。大企業ローウェル・グループは、口約束で一部事業の買取に合意しますが、なかなか実行しません。オキーフの財政がさらに悪化し、事業の全てを買う機会をうかがっていたのです。オキーフは、ローウェルを訴えます。オキーフ側の地元弁護士は、法的には不利であることから和解を模索します。オキーフは、息子の友人で黒人の新米弁護士から、フロリダのやり手黒人弁護士ウィリー・ゲイリーの存在を知らされ、弁護団に加えます。土地柄、陪審員は黒人が多くなることを見越してのことでした。

ローウェル・グループも負けじと、黒人女性の超エリート弁護士を雇います。巨大企業vs田舎の零細企業、白人vs黒人、加えてエリート女性弁護士vs成り上がり弁護士という構図が生まれます。一つだけでも濃い映画が作れそうなハリウッド好みの構図が3つも重なるわけです。うまくさばかないとゴチャついた映画になることは必至です。ところが、オキーフとウィリーの間に芽生えた信頼と友情を、しっかり縦糸に置くことで、映画が成立しています。南部の保守的な町の名士である白人老人とクセの強い成り上がり黒人弁護士の友情も、それだけで映画が作れるほどの題材です。その二人の役に、アカデミー俳優二人をキャストできた段階で、ある程度、映画は成功していたのだろうとも思います。

実話であることに加え、重層的な構図を持っていることが、この映画をありきたりなハリウッドの法廷もの、サクセスものと一線を画すことになったと思います。強者vs弱者といった直線的な構図であれば、それを強調し、展開を盛り上げる伝統的な映画手法には事欠きません。本作も、そこは抜かりなく取り入れているのですが、構図が重層的であるがために、あっさり目の演出にせざるを得なかったのでしょう。そのことが、この映画を抑制の効いた味のある映画にしているように思います。監督のマギー・ベッツにとって、本作は長編2作目になります。ジョージ・W・ブッシュと家族的親交のある家庭に生まれ、ユニセフ等との関わりの中で社会意識を培ってきた人だそうです。1作目「ノビティエイト」は、サンダンス映画祭で高い評価を得ています。

埋葬保険(Burial insurance)は、日本では馴染みのない保険です。アメリカでは、葬儀費用の高騰を背景に、1990年代から始まり、コロナ禍で拡大したようです。実態的には、少額の生命保険ということになります。州によっては生保会社の設立が容易なアメリカでは、小規模な埋葬保険会社が多数存在するようです。パソコン一つで立ち上げられるような小さな保険会社は、資産運用も含め機能のほとんどを専門業者にアウトソースします。オキーフの埋葬保険会社も、そんな会社の一つだったのでしょう。たちの悪い運用会社に委託してしまい、資産を失ったわけです。日本人には分かりにくい背景ですが、ストーリーの展開にはほとんど影響ありません。(写真出典:imdb.com)

2024年1月13日土曜日

千鳥格子

コロナ禍の最中、劇場や映画館では、各座席の左右を空け、一席飛びに座らせるという対策がとられていました。丁寧なところは、空けるべき座席に✕印をつけていました。国立能楽堂も同様の対応をとっていました。加えて「コロナ感染予防の観点から、本日の座席は千鳥に配置させていただいております」 というアナウンスも流れていました。確かに、単に左右を空けるのではなく、前後も空ける設定になっていました。満席の客席では、観客たちがきれいな斜めの線を描き、それはそれで見事なものでした。また、空けるべき座席には趣のある西陣織風の柄の紙が置いてありました。さすが国立能楽堂、コロナ禍にあっても風流なことをするものだと感心しました。

千鳥とは、上下左右へ規則的にずらしながらジグザグに配置することを言います。千鳥配置とも言い、酔っ払いの千鳥足と同じく、小鳥がヨチヨチ歩く様から名付けられているようです。紋様としての千鳥は、一羽の千鳥をデザイン化した紋様です。千鳥格子となると、千鳥が群れで飛んでいるように見える格子柄を指します。水辺の野鳥である千鳥は、旅鳥でもあり、群れて飛ぶことから”千の鳥”と呼ばれました。俳句では冬の季語ともなっています。日本では、古代から親しまれてきた野鳥ですが、世界中に多くの種類が分布しているようです。英語で、千鳥は"Plover"ですが、千鳥格子は"Hounds Tooth"(犬の歯)となります。犬の歯に似ているということなのでしょう。同じ紋様ながら、随分と発想が異なるところが面白いと思います。

世界最古の千鳥格子は、スウェーデンの泥炭沼地で発掘されたもので、紀元前360〜100年頃のもと推定されています。千鳥格子は、ノルマン人によってスコットランドのローランドに持ち込まれたようです。ハイランドでは、タータン・チェックの紋様が一族の構成員であることを示しますが、ローランドでは、それが千鳥格子になるようです。千鳥格子は、1800年前後の英国でブームとなり、生地のパターンとして一般化されます。1930年代には、NYの高級衣料店デ・ピナが千鳥格子を大きくフューチャーしたことで、アメリカにも広がります。第二次世界大戦後、千鳥格子は新たな展開を見せます。ハイファッションの世界が千鳥格子を”発見”したのです。最も有名になったのはクリスチャン・ディオールだと思います。

日本の場合、最古の千鳥格子は、正倉院に所蔵されているものだそうです。正倉院にあるということは、もともとは渡来品だったということなのでしょう。数百年で、北欧から日本にまで伝わったわけです。平安期以降、和柄の一つとして広がっていったようです。また、千利休が好んだとも言われます。茶道具を入れる袋、いわゆる仕覆に千鳥格子が使われています。「利休間道」とも呼ばれる細かな千鳥格子の絹地は”名物裂”として知られます。”間道”とはは、中国南部で織られた縞や格子の絹織物です。広東や漢東と呼ばれることもあるようです。江戸期になると、パターン化された千鳥の紋様が好まれ、千鳥格子もその一つだったのでしょう。なお、当時、最も人気だったのは波と千鳥の組み合わせだったようです。

7月の異常に気温が上がった日に、丹沢の塔ノ岳へ登ったことがあります。山の上でも気温が高く、汗は止まらず、息は上がって、地獄の登山になりました。花立山荘が近づくと、建物が見える前に、青空にたなびく氷旗が見えました。地獄で仏とは、まさにこのこと。普段は食べないかき氷をおかわりしました。氷旗は、大きな赤い氷の文字、その下に青い波が描かれています。そして空には千鳥が飛んでいます。冬の鳥が描かれているのは涼をとるという意味かと思っていました。実は、明治初期、日本ではじめて氷業を営んだ中川嘉兵衛が、函館は五稜郭の氷を使っていたことから、冬の鳥である千鳥を象徴的に飛ばしたのだそうです。いずれにしても、私にとって人生最高の千鳥は、花立山荘の氷旗の千鳥です。(写真出典:tsukatte.com)

2024年1月11日木曜日

「PERFECT DAYS」

監督:ヴィム・ヴェンダース     2023年ドイツ・日本

☆☆☆+

「THE TOKYO TOILET」は、競艇の日本財団が立ち上げたプロジェクトであり、タイアップした渋谷区におしゃれな公衆トイレが17ヶ所運営されています。著名な建築家やデザイナーが設計した建屋だけでなく、丁寧なメンテナンスもプロジェクトの柱になっています。このプロジェクトを紹介する映像を作ることになり、監督に指名されたのがヴィム・ヴェンダースでした。日本をこよなく愛するヴェンダースは、単なるプロモーションではもったいないと脚本を書き、本作に仕上げたようです。プロモーション映像ではありませんが、公衆トイレの実態を通して東京の現実に切り込むといった社会派映画でもありません。主人公の人生観を切り取ってみせる佳作であり、ヴィム・ヴェンダースの才能が光ります。

 THE TOKYO TOILETプロジェクトのメンテナンスを請負う会社で、トイレ掃除を担当する寡黙な男の物語です。きっちりと同じことを繰り返す男の日々が、淡々と描写されます。男のルーティンを乱すささやかな波風が、男の内面や過去をかすかにうかがわせます。しかし、そこが映画の主題ではなく、深掘りすることもありません。様々な過去があったにせよ、しがらみを断ち切り、一人静かにルーティンを繰り返す男の日々が、あたかも禅のように心の平安をもたらしています。アップにされた男の表情を長回しで映し出すラストは、悔恨に揺れながらも、これでいいんだ、と自分に言い聞かせる男の心情を集約しています。役所広司のカンヌでの男優賞受賞は、このシーンに負うところが大きいのでしょう。  

抑揚にも会話にも乏しい展開は、平板に過ぎるとの批判もあるでしょうが、それこそがヴェンダースがねらったところであり、テーマからすれば最適な表現になっています。しかも、決して退屈させないところがヴェンダースの腕の確かさだと思います。穏やかな展開は、ヴェンダースが敬愛する小津安二郎のタッチを目指したものなのだろうとも思います。妹と会うシーンで男の過去をうかがわせるあたりも小津タッチだと思います。一方、男の内面を象徴する抽象的な映像の挿入は、ヴェンダースらしいモダンさだと言えます。田中泯演じる不思議なホームレスの存在は見事なアイデアだと思います。それが何を意味するのかについては、人それぞれの解釈があっていいと思います。私には人の孤独さの象徴だと思えました。

もはや国宝的存在の舞踊家・田中泯は、トレードマークの芝を背負って登場します。これには吹き出しました。台詞もなく、数カットだけ登場する田中泯をこのまま帰していいのか、ということになり、ヴェンダースは、わずか一日で短編「Some Body Comes Into the Light」を撮ります。東京国際映画祭で上映されました。ある意味、田中泯らしからぬ斬新な映像に驚かされました。単なる舞踊の記録映像ではありません。舞踊と映像が、新しい何かを創造していました。ヴェンダースの魔術師ぶりに驚かされました。ヴェンダースと言えば、音楽センスの良さも定評があります。今回も見事な選曲ぶりを発揮しています。主人公の世代を感じさせる選曲に、カセット・テープという演出もセンスの良さが出ています。

総じて言えば、見事な映像ながら墨絵を思わせる風情を持った映画だと思います。今回、映画を見る前から気になっていたのは、ドイツ人が日本で日本の役者を使って撮った映画は日本映画に見えるのか、ということです。当たり前ではありますが、やはり日本映画ではありませんでした。と言っても、よくあるエキゾチズムを強調した映像ではありません。ごく見慣れた東京の光景や日常が淡々と映し出されています。ところが、それがとても新鮮で瑞々しいものに見えるわけです。ただ、日本映画になっていない最も大きな要因は、台詞が少なかったことだと思います。日本の俳優が、日本語で会話劇を演じ始めると、途端に映画がベタついたものになっていくように思います。演技や演出の問題というよりは、日本語が母音だらけの言語であることがそうさせるのだと思います。(写真出典:eiga.com)

2024年1月9日火曜日

熱盛

冬の京都でのことです。今日は、ちょっと変わったものでも食べませんか、と誘われた店が丸太町の「竹邑庵太郎敦盛」でした。平家物語、能楽ファンとしては、”敦盛”という店名に心が騒ぎましたが、出てきたものは熱盛そばでした。ダジャレだったわけです。熱盛は、蒸籠蒸しにした蕎麦を、卵を溶いためんつゆに九条ねぎをどっさり入れていただきます。こんな奇妙なそばの食べ方は初めてであり、面食らいました。蒸籠の蓋を開けると、蕎麦のいい香りがします。京都だけあって、めんつゆも美味しいものでした。ただ、そばは、当然の如く、ムニュムニュしており、コシのある蕎麦に慣れ親しんでいる身としては、大いに混乱させられました。けったいな食べ物ですが、関西では、まま見かける食べ方なのだそうです。

堺には、「ちく満」という熱盛の老舗があると聞きました。創業は、なんと1695年。信州で蕎麦切りが発明されたのが17世紀頃と言いますから、当時の堺では、蕎麦切り自体が新たな食べ物だったはずです。ちく満は、創業当初から蕎麦を蒸して提供していたようです。先に普及していたうどんが蒸して食べるものなら理解もできます。ただ、初めてお目にかかる蕎麦切りを、いきなり蒸したのは何故なのか、気になるところです。熱盛は、蒸すばかりでもないようで、冷水で締めたそばを、湯に通して出す店もあるようです。かけそば等の温かいメニューは一般的なわけですから、この方が、まだ理解しやすいものがあり、蒸した蕎麦のムニュムニュ感も薄れるように思います。

蕎麦切り発祥の信州には「とうじそば」という面白いメニューがあります。今は、松本市に併合されていますが、木曽の山中にある奈川の名物と聞きます。奈川は、明治期の女工哀史を描いた山本茂実の小説「あゝ野麦峠」で知られます。山菜や鶏肉を具材とする鍋に、蕎麦を浸して食べます。予め茹でて水で締めた蕎麦は、一口大に小分けしてあります。それを、柄杓の先が竹で編んだ小ぶりなカゴになっている”とうじカゴ”に入れ、そのまま鍋に浸します。短時間、湯がいたら、椀にとり、鍋の汁と具材をかけて食べます。雪深い山村の囲炉裏端で振る舞われた温かいもてなし料理ということなのでしょう。風情あふれる料理ではありますが、山菜蕎麦をどんぶりで提供してもよかったのではないかとも思います。

極寒の木曽の山中で食べるとうじそば、木枯らし吹く江戸の町で食べる夜鳴き蕎麦等は、芯から体を温めてくれるありがたい食事だったのでしょう。とは言え、蕎麦切りの基本は、冷たいもりそばだと思います。温かい蕎麦は、寒い冬場のために、あるいは屋台の蕎麦屋のために派生した食べ物ではないでしょうか。蒸した温かい蕎麦を、年がら年中提供する熱盛は、やはり不思議な存在です。一つ考えられるのは、香りを重視したのではないか、ということです。もりそばの場合、香りは、口に入れて噛んだ時、鼻に抜けていきます。かけそばでは、つゆや具材の香りが先に立ちます。熱盛の場合、蕎麦の香りが強く立ち上がってきます。特に、蒸籠蒸しの場合、蓋を開けた瞬間はむせかえるほどです。

二度と食べることはないだろうと思っていた熱盛ですが、実は、最近、ハマっています。家で昼食を食べる際、よく蕎麦を茹でて食べますが、もりそばが基本、たまに越前おそしそばというのが私の食べ方です。とは言え、冬場に冷たい蕎麦はやや厳しいものがあり、鍋焼きうどん、釜揚げうどん、五島うどんの地獄炊きといったうどんメニューも増えます。ここのところ、急激に寒くなってきたので、熱盛を思い出しました。もりそばを湯通しして、甘めのにんべんのつゆをそば湯で割ります。麺とつゆからダブルで香りが立ち、なかなか乙なものです。蕎麦の香りに着目した関西人の発想に、あらためて感心しております。(写真出典:co-trip.jp)

2024年1月7日日曜日

タウン・ミーティング

Anne Mulcahy
アン・マルケイヒーが、ゼロックス社の社長に就任したのは、2001年のことでした。ゼロックス社にとって初めての女性社長であり、アメリカの大企業の女性社長が希な時代、話題になったものです。1976年に入社し、現場で営業担当として働いた後、1992年からは、役員として、人事部長、事務方トップ、国際部門のヘッドとして活躍しました。2001年、ゼロックスは、不正会計処理問題に揺れ、存続すら危ぶまれる事態に陥っていました。社長就任は、正に火中の栗を拾う状態だったわけです。社長に就任したアン・マルケイヒーが、最初にやったことは、現場を回って、全従業員とのミーティングを開くことでした。営業現場で育ってきた生え抜きらしい発想だったと思います。

NY州ロチェスター発祥のゼロックスは、世界で初めて普通紙を使う複写機を発明し、販売した会社です。長らく独占的に複写機分野をリードし、莫大な利益をあげます。1975年に独禁法違反を問われたゼロックスは、大きくシェアを落とすことにはなりましたが、アメリカを代表する企業であることに変わりはありませんでした。また、コンピュータの進化、普及において、同社のパロ・アルト研究所が果たした役割は大きなものがあります。同研究所を訪問し、グラフィック処理とマウスを見て衝撃を受けたスティーブ・ジョブズはマッキントッシュを、ビル・ゲイツはウィンドウスを開発することになります。まさにパーソナル・コンピュータ揺籃の地です。そのゼロックスが存亡の危機に陥っていたわけです。

各拠点のミーティングでは経営層を非難する声にさらされるものと、マルケイヒーは覚悟していたようです。当然です。ところが、最も多かった意見は、我々ががんばれば会社はどうなるか、というものだったと言います。歴史あるアメリカの会社は、終身雇用が多く、地域に密着し、親子代々勤める従業員も多く、その愛社精神は極めて高かったと言われます。ゼロックスもそういう会社だったわけです。もちろん、アン・マルケイヒーは、リストラも行わざるを得ませんでした。しかし、彼女が打ち出した種々の改革は、従業員の愛社精神に支えられ、ゼロックスを見事に再生させました。いわゆるプロ経営者が送り込まれていたら、ゼロックスは切り刻まれ、再生などあり得なかったと思います。

タウン・ミーティングは、ニューイングランドの伝統です。植民地時代にピューリタンの自治意識の高さが生んだ伝統であり、マサチューセッツ州やメイン州では、今も地方自治を支える仕組みとして残ります。また、形が変わっても、その伝統は広い地域に残っています。私が住んでいたNY州スカースデール村でも、各種公共サービスは、タウン・ミーティングと住民の寄附によって運営されていました。NY州北部にも、その伝統が残っているはずです。アン・マルケイヒーの従業員とのミーティングという発想は伝統に根ざしていたわけです。私も、勤めていた会社が不祥事で危うくなったおり、新社長にアン・マルケイヒーを引き合いに出しながら従業員ミーティング開催を提案しました。全ての支社で実施してくれました。効果を得られたものと信じています。

個人的な意見ですが、例えば社内で物事を徹底したい時、一方的に押し込むのではなく、対話の中で浸透させる方法がベストだと思い、実行してきました。納得感が、まるで違います。亡くなった三菱自工の益子社長から聞いた話があります。益子さんは、三菱自工が最も厳しい時、三菱商事から送り込まれた人です。フラッグシップの岡崎工場で大規模なリストラを実行せざるを得なくなった際、自ら工場に赴き、全従業員を集めて説明会を開きます。案の定、会場は怒号とヤジが飛び交います。その中で、ある大ベテランの工員が「社長さんよォ、会社の塩梅が良くなったら、俺たちを呼び戻してくれよ」と発言したのだそうです。場内は、一瞬、静まりかえり、そして拍手が起こったと聞きました。厳しい状況のなかではありますが、従業員の愛社精神が一つになった奇跡の瞬間です。(写真出典:cnbc.com)

2024年1月5日金曜日

真間の手児奈

手児奈霊神堂
市川市の北部は下総台地(北総台地)の西端にあたり、標高は20~30mあります。対して南部の平地は、かつて海でした。下総台地は、石器時代から人が住み、縄文期、弥生期には多くの集落があったようです。古墳時代には、畿内に匹敵するほど多くのクニが存在していたとされます。前方後円墳の分布、国造の任命期からして、5世紀頃からヤマト王権の体制に組み込まれたようです。6世紀には、江戸川沿いの国府台に、下総国の国府、国分寺、国分尼寺が置かれます。国府台の下には砂州が広がり、国府の港になっていたようです。人も暮らしていたわけですが、井戸水には塩分が多く含まれ、一つだけあった真水の井戸が、大変に重宝されていたといいます。真間井と呼ばれるその井戸は、今も日蓮宗の亀井院境内に残されています。

7世紀の前半のことですが、真間井に水を汲みにくる人々のなかに、手児奈(てこな)というひときわ目をひく美しい娘がいました。身なりは貧しいのですが、その上品さは隠しきれないものがあり、大評判となります。真間の若者たちはもとより、国府の役人たち、そして国府へ旅でやってきた都の人々も手児奈に夢中になり、求婚合戦がはじまります。しかし、手児奈は、いかなる申し出も断り続けます。求婚者のなかには病気になる者も現れ、求婚者同士の争いまで起きる始末でした。誰かの求婚を受ければ、他の人々を不幸にすると悩んだ手児奈は、ついに入水自殺します。手児奈の悲劇は、都でも評判となり、後に山部赤人や高橋虫麻呂が歌に詠み、万葉集にも収められています。

手児奈の出自については、真間の国造の娘という説もあります。その説によれば、手児奈は、他国へ嫁ぎますが、親元と嫁ぎ先との間に争いが起きたため、子供を連れて国元へ戻ります。とは言え、嫁いだ身ゆえ実家に入ることはできず、庵を組んで暮らします。しかし、その美貌ゆえ、言い寄る男が絶えず、これを苦にした手児奈は入水したとされます。737年、真間を訪れた行基上人は、手児奈の話を聞いて不憫に思い、その霊を供養するために求法寺を建立します。後に弘法大師空海が伽藍を整え、弘法寺(ぐほうじ)と改名します。鎌倉時代には日蓮宗傘下となり、由緒寺院の一つ本山真間山弘法寺として今に残ります。また、弘法寺の下、真間井のそばには、人々が手児奈を供養すべく建立した手児奈霊神堂が残っています。

国府があった時代、船を降りて国府へ向かう際には、砂州から砂州に渡した板橋を通っていたようです。その橋は“真間の継橋(つぎはし)”として知られ、歌枕にもなっています。また、江戸期に書かれた上田秋成の「雨月物語」にも登場します。歌川広重の「名所江戸百景」には、弘法寺から手児奈霊神堂と継橋を望む「真間の紅葉手古那の社つぎ橋」という一枚がありますが、既に継橋はなく、平地には水田が広がっています。今は、手児奈霊神堂の近くに石碑が残され、小ぶりな赤い欄干が申し訳程度にあります。もちろん継橋の痕跡ではありません。このあたりは、頼朝挙兵に始まり、戦国時代には幾たびか戦場となり、幕末には戊辰戦争も戦われています。手児奈と継橋は、国府があった時代の遠い記憶としてかろうじて残ったわけです。

日本各地の国府跡には、多くの伝承が残ってるのでしょう。ただ、手児奈と継橋については、多少異なる点があります。つまり、地元で細々と伝承されたのではなく、都で評判となり、和歌に詠われるなどして記録され、次代へと継承されたわけです。国府は、規模によって大・上・中・下と区分されます。下総国は大とされています。下総国は、舟運の便の良さもあり、畿内との往来が多い国だったということでもあるのでしょう。ちなみに、国名につく前・中・後、あるいは上・下は、都から近い順に名付けられます。しかし、下総と上総は逆転しているように思えます。これは畿内からの進出が、まずは房総半島への上陸に始まったからなのだそうです。歴史を学ぶ際には、古代から主な移動・輸送手段だった舟運が、常に重要なポイントになるわけです。(写真出典:tekonareijindo.com)

2024年1月3日水曜日

「ショーイング・アップ」

監督:ケリー・ライカート   2022年アメリカ (A24配給) 

☆☆☆☆ー

テアトルシネマグループが、A24の未公開映画特集を行っています。飛ぶ鳥を落とす勢いのA24ですから、いいところに目をつけたな、と思います。とりあえず2本観ました。いずれも観客の入りが良く、A24の注目度の高さを感じました。1本は、英国のジョアンナ・ホッグ監督「エターナル・ドーター」です。監督の腕の確かさは感じましたが、母娘の感情のヒダは理解できないところがあり、それをゴシック・ホラー仕立てにした理由はもっと分かりませんでした。もう1本はケリー・ライカートの最新作「ショーイング・アップ」です。ライカート映画の日本初公開となった「ファースト・カウ」と同じ時期の公開となったわけです。

「ショーイング・アップ」は、これまでのライカート作品とは、多少、毛色が違うように思いました。ライカート映画と言えば、社会の底辺にいる人々の目線から、アメリカ社会の矛盾やひずみを、寓話的に描くスタイルが特徴的でした。本作では、日々の生活のなかで生じるストレスとそこからの解放が、暖かみのある日常的視点で語られています。まるで手練れのニューヨーカー派の作家が書いた短編小説のようです。余白と余韻の多い文体で映画を撮ってきたライカートの熟練のタッチがあってこそ、はじめて成立した世界だと思います。心地よさが残る映画でした。ひょっとすると、その心地よさは、どこか郷愁のようなものに通じているのかもしれません。

社会で暮らすことでストレスは蓄積されていくものです。しかし、本作が舞台とする社会は、芸術大学であり、芸術家たちのコミュニティであり、芸術家一家です。それを社会の縮図と見ることもできますが、むしろ現実社会からある程度乖離した閉鎖的社会と言えると思います。アメリカの現実からすれば浮世離れしたコミュニティを舞台にしたところが、この映画のポイントのように思います。本作は、ライカートの特色でもある寓話的世界の一種だと理解することも出来るかもしれません。ただ、そこには、社会の矛盾を問うていく批判的精神はなく、家族や友人との絆、あるいは人間の弱さを見つめる暖かい視線だけがあります。ある意味、おとぎ話とも言えるので、その舞台は、やはり浮世離れしている方が良かったのでしょう。

人間が生きてゆくうえで、社会から受けるストレスは避け通れない代物です。ストレスという概念は、1936年、生理学者ハンス・セリエによって確立されたとされます。しかし、2,600年前、釈迦も「一切皆苦」という言葉でストレスを語っています。全てのものは変わる(諸行無常)、全てのものに本質などない(諸法無我)、よって全てのことは自分の思いどおりにはならない(一切皆苦)、というわけです。本作の主人公は、責任感や常識といった自分勝手とも言える基準と、それに沿わない現実との乖離によってストレスを貯めていきます。傷ついた鳩はストレスの象徴です。そして、傷ついた理由が自分の飼い猫にあることを隠して世話をすることが、ストレスの本質的な姿を示唆していると思います。

再び飛べるようになった鳩がストレスの解放に例えられています。鳩の世話をすることは、ストレスから逃げずに向き合うことことを意味しているのかもしれません。我々にストレスをもたらす家族、友人、仕事などは、正対することによってストレスを解き放たすものにもなり得る、それが人生だ、とライカートは語っているのかもしれません。従来のライカートの作風とは多少異なる本作は、A24とタッグを組んだことで生まれた作品かもしれません。A24は、金は出すが口は出さないことで知られます。変化が起きたとすれば、ライカートの内面においてだろうと想像します。興行的な成功を目的としないライカート映画の制作は、いつも資金調達に苦労してきたはずです。A24とのタッグが、それをある程度解消したことによって生まれた余裕なのかも知れません。このタッグの今後が大いに期待されます。(写真出典:imdb.com)

2024年1月2日火曜日

「ファースト・カウ」

監督:ケリー・ライカート      2019年アメリカ (A24配給)

☆☆☆☆ー

アメリカのインディペンデント映画の代表的作家ケリー・ライカートの作品です。本作が、彼女にとって日本の劇場で公開される初めての作品となります。A24が配給会社になったことで実現した歴史的上映です。彼女の映画はビデオや配信で観てきました。ただ、文法的に余白の多いライカート映画は、やはり映画館で観るべきだと、あらためて思いました。映画を観るということは、判断を停止して、スクリーンの向こうに没入する行為です。制作側にすれば、観客の首に縄をつけて、無理矢理、向こう側に引きずり込むということです。ライカート映画は、観客の主体性をそのままに映像と対峙させます。それが最も端的に現れているのがラストシーンです。結論めいた終わり方などなく、その後の展開は、常に観客の判断に委ねられています。

ゴールドラッシュが起こる前、まだ毛皮ハンターが跋扈していた19世紀前半のオレゴン奥地が舞台です。多くのライカート映画がオレゴンを舞台とし、オレゴンで撮影されています。ライカートの映画は、低予算で制作され、ミニマリズム映画とも呼ばれます。ロケ地も限定的、キャストもスタッフも少なく、台詞も劇伴も必要最小限、使われる英語まで簡素です。今回は、題材がゆえだと思われますが、いつもよりも多くのキャストが登場します。映画は、現代の川辺で、犬を散歩させる女性の映像から始まります。女性は、並んで横たわる白骨2体を見つけます。映画は200年前のオレゴンを舞台としていますが、決して過去の話ではないことを示唆しています。

裕福な英国人の毛皮仲買人が、ミルク・ティーを飲むためだけに、そのあたりでははじめて牛を飼います。ハンター世界ではアウトサイダーに過ぎない料理人と中国人の二人組が、ミルクを盗み、ドーナツを焼いて売ります。これが大人気となります。はじめての牛を巡る寓話は、アメリカ社会のストレートな比喩になっているように思えます。アウトサイダーの二人組は、貧しい人々や移民といった底辺にいる人々の象徴であり、そこに生まれた連帯だけが真実であり、また唯一の救いだと言っているのでしょう。英国人仲買人のミルクは独占的な贅沢品です。それを盗んで焼いたドーナツは多くの人々を幸せにし、二人組を小金持ちにします。ある意味、民主化であり、ささやかな革命とも言えそうです。

ボストン茶会事件は、英国議会が紅茶の専売権を東インド会社に与えたことがきっかけとなりました。英国人仲買人のミルク・ティーは象徴的です。また、料理人がボストンで料理を覚えたというのも象徴的です。二人組が、独占されているミルクを盗み、ドーナツという形で大衆に提供したことも象徴的です。ただ、気になるのは、二人組が仲買人に追われ、命を落としたと思われる結末です。アメリカは、独立戦争(アメリカでは革命戦争と呼ばれます)で英国に勝利し、独立を勝ち得ました。映画の展開とは大いに異なるわけです。東欧系移民と思われる料理人、そして中国人、つまり遅れてきた移民たちは、いまだ革命を成就できていない、あるいはアメリカ建国の精神を実現できていないというメッセージなのでしょう。

2010年のライカート作品「ミークス・カットオフ」も、19世紀前半のオレゴンを舞台とする映画でした。西部開拓史に残る悲劇に基づいています。ガイドのミークが、経験に基づき推定しただけの近道に開拓団を誘導し、悲惨な事態を招きます。開拓団は、ミークよりもインディアンを信じることで助かります。映画では、そこまで描かれていませんが、史実はそうなっています。ミークのような強引な政治家に頼るのではなく、多民族が協力しあうこと、民主主義にこだわり続けることで道が開けると言いたかったのでしょう。「ファースト・カウ」においても、ライカートのその主張にブレはありません。ライカートは、アメリカ社会の底辺にいる人々から目を離すことなく、多民族国家のあり方を問い続けているように思います。(写真出典:firstcow.jp)

2024年1月1日月曜日

甲辰

2024年は、十干十二支(干支)で言えば「甲辰(きのえたつ)」です。十干の最初である甲、十二支の5番目である辰の組み合わせは、干支の60年サイクルで言えば41番目となります。干支は、中国古来の陰陽五行思想に基づきます。木・火・土・金・水が、陰と陽に分かれ、世界を回しています。 その循環の姿を現わしているのが干支です。甲は、亀の甲からきており、固い種の状態を表わすとされます。すべの始まりというわけです。辰は、草木の芽吹きからの成長が一段落し、整った状態を表わし、これから大きく成長することを示しているとされます。甲も辰も陽の気に位置づけられるので、それぞれが持つ傾向が相乗的に発現されることになります。つまり、甲辰は、大きな成長、躍進、変化の年だということになります。

60年前の甲辰、つまり1964年を見ると、まさに東京オリンピックに象徴される躍進の年でした。奇跡と言われた戦後復興から高度成長期に入った日本ですが、オリンピックを機に、新幹線、高速道路網といったインフラが一気に整備されました。その後、日本は、欧米各国と肩を並べる経済大国となり、GDPにおいては米国に次ぐ世界第2位に登りつめます。まさに、その起点となった年だったとも言えます。また、この年、観光目的での海外渡航が解禁されています。日本人の目が海外へ向き始めた年でもありました。海外では、8月に発生したトンキン湾事件を機にアメリカが北爆を開始、ベトナム戦争への本格介入が始まりました。また、ブラジルやベトナムでは、アメリカ支援のもと軍事クーデターが起きています。

さらにその60年前、1904年甲辰には、日露戦争が勃発しています。満州と朝鮮半島の権益を巡る争いでした。バルチック艦隊を打ち破った日本海海戦など華々しい戦果が喧伝されますが、実態的には、ほぼ互角の消耗戦だったといいます。ロシアは、第一革命が起きたために講和を受け入れざるを得ない状況に陥ります。日本にとっても講和は渡りに船であり、辛勝ということだったのでしょう。いずれにしても、大国ロシアを東洋の小国が破ったことは世界に衝撃を与え、懸案であった不平等条約の改正にもつながりました。日本帝国は、開国から40年を経ずして、西洋近代国家に肩を並べるどころか、非白人国としては唯一”列強”諸国入りを果たすことになりました。

さて、2024年甲辰は、世界に、日本にどのような新展開をもたらすのでしょうか。ウクライナとパレスティナで続く戦争においても、新たな展開が生じることになるのでしょう。また、今年は、大統領選の年とも言われます。米国はじめ、ロシア、インド、台湾、インドネシア等で大統領選挙が予定され、EUでは欧州議会議員選挙が行われます。選挙がトリガーとなり、各国の新展開、そして世界情勢の大きな変化が生み出される可能性もあります。三流国家への道を急ぐ日本では、解散総選挙があったとしても、野党の不甲斐なさゆえ自民党政権が継続されるのでしょう。また、確実視される自民党総裁の交代があったとしても、新たな展開が生じるとは思えません。ただ、外圧による多少の変化は起こり得ます。

経済分野でも、大きな動きは考えにくいものがあります。コロナ明けで順調に回復する企業業績をうけ、昨年の株価は大きく上昇しました。”うさぎ年は跳ねる”というジンクスを地でいった感じです。株屋の世界には「辰巳天井、午尻下がり、未辛抱、申酉騒ぐ、戌は笑い、亥固まる、子は繁栄、丑はつまずき、寅千里を走り、卯は跳ねる」というジンクスがあります。”辰巳天井”ゆえ、株価の好調は持続されるのかも知れません。日銀の出口戦略が注目され、新NISAへの期待も大きいようです。辰は龍とも表わされますが、十二支のなかでは唯一架空の動物です。なぜ架空の龍が十二支に入ったのかについては不明なのだそうです。古代中国の人々は、龍を架空の動物と思っていなかったという仮説が最も納得できます。さて、甲の辰は、昇り竜か、下り龍か、気になるところですが、いずれも吉祥であることは間違いないはずです。

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