鳥文斎栄之こと細田栄之は、1756年、500石取りの直参旗本の家に生まれます。勘定奉行も輩出した中堅旗本の家だったようです。狩野派6代目の狩野典信に絵を学び、10代将軍徳川家治の近侍職として、絵具方を勤めます。絵を好んだ家治の覚えめでたく、従六位に叙されています。1783年には職を辞して無職の旗本である寄合衆となり、1789年には隠居しています。この間の事情は定かではないものの、この頃、栄之は浮世絵師としての活動を開始しており、いわば脱サラして好きな画業に専念したということなのでしょう。狩野派に学んだ近侍の絵師となれば、隆盛にあった浮世絵業界からは特別待遇されて当然だったと思います。例えるなら、現役大リーガーが日本の球団に助っ人として入団したようなものです。
栄之は、いきなり大判の浮世絵を任されます。入団即、先発ローテ入りしたようなものです。他の絵師は、天才歌麿であっても、長い下積み期間を経験する必要がありました。栄之の版元は西村屋与八。西村屋は、栄之の美人画をハイマーケットへ投入します。十二頭身、細面、派手な色使いを避ける”紅嫌い”といった特徴を持つ栄之の美人画は、品があり、ハイマーケット向きだったわけです。西村屋の競争相手は蔦屋重三郎。蔦屋が抱える喜多川歌麿が得意とする美人画は、艶っぽさを強調した大首絵でした。見事なまでに対照的です。棲み分けが意図されていたのではないか、とさえ思えます。これは想像ですが、栄之の美人画は枚数が少ないものの単価が高く、歌麿の錦絵は、その逆だったのではないでしょうか。
栄之の美人画は、もちろん着物、丸髷、細い目に小さな口と浮世絵のスタイルに則ってはいますが、どこか中国的な印象を与え、文化的で知的な風情を醸しています。江戸のヴィーナスとも称される鳥居清長の八頭身美人の影響を受けていると思われますが、栄之は、そこに随唐期の中国絵画のエッセンスを持ち込んだように思えます。それが、欧米人にパン・エイジア的な印象を与え、人気があったのではないでしょうか。18世紀末、栄之は、錦絵を止めて、肉筆画に専念します。折しも、老中松平定信による寛政の改革が行われ、元旗本である栄之は、その趣旨に沿って錦絵から身を引いたのではないかとされています。他の絵師たちが、知恵を絞って幕府の規制をかいくぐり、錦絵を発表し続けたのとは対照的です。
錦絵の売れ筋は、概ね1枚20文前後だったようです。かけそば1杯が16文の時代ですから、現在価値で言えば300円前後といったところでしょうか。ただ、ものによっては高価な錦絵もあり、鈴木春信の作品などは65文という記録があるようです。寛政の改革の頃、錦絵は16~18文という価格統制が行われたようです。ハイマーケット向けだった栄之の錦絵は、恐らく、この価格ではペイしなかったのでしょう。版元の西村屋も栄之を諦めざるを得なかったというのが実情だったと思われます。また、栄之の錦絵の購入者は、裕福な町人というよりは、知識階層の武家が多かったのではないかと想像できます。幕府からお触れが出ている以上、武家はヤミで高価な錦絵を購入しにくかったという事情もあったのでしょう。なお、栄之の肉筆画は、将軍の命によって描かれた一枚が後桜町上皇のお気に入りとなったようです。天覧の誉れを得た栄之は、その名を高め、注文も増えたとされます。(写真出典:kyotobenrido.com)