2024年1月23日火曜日

「ポトフ 美食家と料理人」

監督:トラン・アン・ユン      2023年フランス

☆☆☆☆

19世紀フランスの美食家とその料理人でもある妻との物語です。映画のかなりの部分が、広いキッチンで料理を作るシーンで占められています。映画の大きな弱点の一つは、匂いを伝えられないことです。いわゆる4D映画による試みはありますが、限定的なものです。料理を正面から捉えた作品では、それが一つのハードルになります。ただ、本作ではそれを見事に克服しているように思います。美しい映像や長回しに加えて、劇伴を使わず環境音を丁寧に拾うといった手法も効果的です。また、TVの料理番組のように具材や手元に集中するのではなく、料理をダンスのように捉えたカメラ・ワークも見事です。それらが相まって、料理の匂いや食感までも伝えて余りある映像になっています。

トラン・アン・ユン監督は、12歳のおり、戦火を逃れて渡仏したヴェトナム人です。昨年、本作でカンヌ国際映画祭の監督賞を受賞しています。長編デビューとなった「青いパパイヤの香り」(1993)が高く評価され、1995年の「シクロ」ではヴェネツイアの金獅子賞も獲得しています。瑞々しい映像と丁寧に紡いだドラマが印象的な監督です。本作の原作となったのは、スイスのマルセル・ルーフの小説「美食家ドダン・ブーファンの生涯と情熱」(1920)です。「美味礼賛」で知られる美食家ブリア・サヴァランをモデルにした作品だそうです。主演は、世界三大映画祭すべてで女優賞を獲得している名優ジュリエット・ビノシュと「ピアニスト」(2001)の名演で知られるブノワ・マジメルです。さすがの名演を見せています。

ユーラシア皇太子から晩餐会への招待を受けたドダンは、仲間たちと参加します。ユーラシア皇太子は架空の人物ですが、スラブ系と思しき服装をしています。皇太子の晩餐会は、三部構成で数時間を要する豪華なものでした。宮廷料理に批判的なドダンは、返礼の晩餐のメニューとしてフランス伝統の家庭的な煮込み料理ポトフを選択します。例えて言うなら、宝石を散りばめた王冠と手ぬぐい鉢巻きくらいの違いがあります。その格差の大きさを懸念する周囲に対して、ドダンはポトフこそフランス的であり、ゆえにフランスの精神だと言い放ちます。当時の欧州の政治状況も背景にあるわけですが、フランス人、つまりフランス革命の伝統を共有する人々は、間違いなくこのシーンに大拍手したことでしょう。

本作において、ポトフは政治的な象徴でもありますが、それ以上に、映画の主題をストレートに表わしています。監督は、料理は芸術だが、それは高級食材や壮麗さを競うものではなく、ありふれた対象への愛情の表現なのだ、と語っているように思えます。そのことは、ドダン夫妻の愛情の有り様そのものでもあり、監督と女優トラン・ヌー・イエン・ケー夫妻の愛情なのかも知れません。作中、アウグスティヌスの格言だという「手に入れたものを追い求めることが幸せなのだ」という言葉が出てきます。食材に対する深い理解と愛情が料理を芸術の域に高め、同じ事が夫婦の間についても言えるということでしょうか。愛は凡庸なものだが対象への共感の深さが、それを非凡なものにするとも言えそうです。

フランス人からすれば、おでんもポトフの一種なのだ、という話を聞いたことがあります。近年は、洋風おでんという言葉も目にすることがあります。フランス語のポトフは、火に掛けた鍋という意味だと言いますから、分からぬではありません。おでんは、出会いの味とも言われ、素材から出る旨味が命です。ポトフも、肉や野菜、香草の旨味を引き出したスープが命なのでしょう。長時間、火に掛けた鍋で、ありふれた素材の旨味を煮出してゆく煮込み料理は、確かに夫婦の絆のあり方でもあり、家庭そのものでもあるのでしょう。日本の家庭で作られるポトフは、ソーセージやベーコンを使って簡単に作られますが、本格的なポトフは、実に時間と手間のかかる料理です。(写真出典:eiga.com)

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