序の舞は、能楽の舞事の一つです。松園は、能楽に取材した作品を多く残しています。能楽の幽玄な世界と松園の凜とした作風が共鳴するからなのでしょう。ただ、能楽「花筐」は、五番立ての四番目物、物狂能とされ、松園が題材とした他の多くの曲とは趣が異なります。6世紀初頭、越前国味真野に住む応神天皇5世の来孫・大迹部皇子は、急死した武烈天皇の跡を継いで即位するよう促され、都に旅立ちます。皇子は、寵妃・照日前に使者を送り、手紙と愛用の花筐を授けます。突然の別れに、照日前は、花筐を抱きしめ、泣き崩れます。即位して継体天皇となった皇子は、ある日、紅葉狩りに出かけます。すると、行幸の列の前に一人の女物狂が現れます。護衛が女を遮り、手にした花筐を打ち落とします。
花筐の由来を語り、泣き伏す女物狂に、天皇は、面白う狂うて踊ってみよと命じます。照日前は、漢の武帝と李夫人の悲劇を物語りながら舞います。天皇は、花筐が自ら愛用したものであることに気づき、照日前の変わらぬ思いを知ります。天皇は、彼女を同行して宮へ帰ります。松園は、この恋に狂えど完全な狂人ではない照日前に惹かれます。松園は「狂人の表情を示す能面の凄美さは、何にたとえんものがないほど、息づまる雰囲気をそこに拡げるのである」と書いています。照日前を描くにあたり、その表情に苦慮した松園は、ついには精神病院にまで赴き、患者たちを観察します。松園は、表情のない患者たちの顔から能面と通じるものを感じ、増阿弥の十寸神という能面をモデルとして照日前を描きます。
通常、「花筐」には、小面、孫次郎といった若い女性のあどけなさを表わす面、あるいは若女、増女という多少年上の女性の気品や奥深さを漂わせる面が使われます。対して十寸神は主に力強い女神などを表わし、高貴さのなかに険しさも感じさせます。ただ、松園は、十寸神をそのまま写してはいません。松園の照日前の表情には、狂気も、怒気も、険しさもありません。無表情でもなく、恋に狂う女の気配すらありません。微笑んでいるようでもあり、虚脱しているようでもあり、世間を蔑んでいるかのようにも見え、実に複雑で不思議な表情を見せています。それこそが狂気が持つ凄みの本質なのかもしれません。松園自身は、それを「空虚の視線」と呼び、その表現は難しいものであると思った、と語っています。
松園の異色作と言えば「焔」が最もよく知られています。源氏物語をもとにする能楽「葵上」が題材となっています。葵上は、光源氏の寵愛を失った六条御息所が生霊となって、正妻の葵上を襲うという筋立てです。中年女の嫉妬を描いており、松園自身が「たった一枚の凄艶な絵」とも語っています。能楽では、生霊となった六条御息所が白般若という恐ろしい面を使います。焔の女性の顔は、般若ではありませんが、伏し目がちに描かれた目は、実に恐ろしく、背筋がゾッとします。複雑な表情ではありますが、嫉妬に狂う女という、ある意味、分かりやすさもあります。対して「花筐」の照日前の表情は、より複雑で、より不気味な印象を受けます。花筐も焔も、松園という天才が、女性であったがために生まれた希有な傑作と言えます。(写真出典:intojapanwaraku.com)