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2026年7月23日木曜日

山姥

能楽「山姥」は世阿弥の作とされています。「申楽談儀」 のなかには、世阿弥が語った「山姥、百万、これらは皆名誉の曲舞どもなり」という言葉が残されており、思い入れの深い演目だったことが分かります。「百万」は、百万という遊女が行方知れずとなった息子を探すという狂女物を代表する演目です。「山姥」は、山姥を題材とした歌舞で評判をとった遊女が善光寺にお参りする道すがら、山中で本物の山姥に出会うという話です。遊女は、”百万山姥”と呼ばれています。百万は、奈良に実在した曲舞(くせまい)の名手です。観阿弥が習った曲舞の流派の祖とも言われます。「山姥」、「百万」は、遊女・百万へのリスペクトを込めた作品でもあったのでしょう。

能楽は、申楽に曲舞を取り込むことで成立したとも言われます。その初期の姿が「山姥」、「百万」に残されているとも聞きます。さすがに、素人には舞の違いまで分かりませんが、他の謡曲と山姥が大きく異なることは分かります。能楽は、仏教思想を背景に持ちます。無常観もさることながら、亡霊が仏法によって成仏するというパターンも多くあります。しかし、人ではない妖怪の山姥が成仏することはありません。山姥と混同されがちな鬼婆は、妄執ゆえに鬼となって旅人を襲う人間です。黒塚、安達原に登場するのが鬼婆であり、最後には仏法によって成仏します。また、鬼婆と違って、山姥には二面性があり、人を襲ったり悪さをする山姥もいますが、人に優しく、福をもたらす山姥もいます。ちなみに金太郎こと坂田金時の母も山姥でした。

山姥の詞章には「よし足引の山姥が、山廻りするぞ苦しき」という詞が、二度、登場します。“よし足引”は、足の悪いという意味と良し悪しがかけられているとされます。能楽の山姥は、実際の山姥と同様、二面性が組み込まれています。山姥の世評と山姥の苦悩という二面性、遊女・百万山姥と本物の山姥という二面性、都(世俗)と山中(自然)という二面性などです。世俗の代表たる遊女が善光寺へ向かう山中で山姥に出会う設定も意味深です。世阿弥は、それらが対立する概念ではなく、表裏一体なのだと語っているのだと思います。大乗仏教の”而二不二”、あるいは”邪正一如”、つまり、善も悪も悟れば同じ、万物はあるがままで真理を示す、ということなのでしょう。曲全体や詞章が、説法そのもののようなストレートさを持っていることも山姥の特徴だと思います。

原始仏教においては、煩悩を乗り越えて涅槃に至るとされます。しかし、それは至難の業であり、涅槃の境地にたどりついたとされるのは釈迦と他にわずかしかいません。一切の衆生の救済を掲げる大乗仏教では、煩悩即菩提、つまり、煩悩があるから悟りを求めるものであると教えます。泥があって蓮が咲くという例えもあります。煩悩と菩提は、二つであっても、二つではない而二不二ということです。世阿弥は、山から山を巡る山姥に輪廻から解脱できない衆生の姿を重ね、煩悩即菩提の象徴としたのでしょう。煩悩即菩提は、最終的には色即是空に通じていくということになります。山姥は、まさに衆生そのものであり、山姥が仏法によって救済を得ないことも、禅宗の思想を直接的に表しているように思えます。山姥は、実に良く考えられた謡曲だと思います。

山姥の正体に関しては諸説ありますが、おおむね山の民、ないしは類似したものだと思われます。農耕が始まると、山の民、海の民は、独自の生活圏を確立したうえで、物々交換で農耕民と接触することになります。山の民と言えば、漂泊の民・山窩(サンカ)が有名ですが、村落で拒絶され、共同生活が困難になった者たちも山間部で生涯を送ります。伝染病患者、身体障害者、あるいは醜女などです。山から山を巡って暮らしていた人々は、昭和初期まで存在していたようです。農耕と農耕民が国の中心になると、山の民は影の部分となり、妖怪よばわりされることにもなったのでしょう。当人たちが抱える憂鬱、受ける差別は想像に難くありません。そこに世阿弥が注目したのは仏教的精神だったということになります。余談ですが、近年のドラキュラ映画には、死ねない憂鬱という側面をテーマとするものが多くあります。世阿弥は、600年も先をいっていたわけです。(写真出典:online.bunka.go.jp)

2025年11月22日土曜日

野宮

少し前になりますが、観世流宗家・観世清和の舞う「野宮(ののみや)」を観ました。スキのない見事な舞台でした。囃子方も見事でしたが、なかでも笛の竹市学は特筆に値すると思いました。月に2回ほど能楽を観ていますが、今年、最も完成度の高い舞台だったように思います。金春禅竹作の野宮は、源氏物語の「賢木」の巻に基づいています。秋の嵯峨野を舞台に、六条御息所の心の揺れが描かれています。今回は、合掌留、火宅留という小書によって、一層深みを増していました。禅竹作品の特徴は、シンプルなストーリーのなかに、人間の心情が精緻に織り込まれていることだと思います。ことに野宮は大曲(おおまがり)とされ、演者には高い技量が求められます。

旅の僧が、野宮の旧跡を訪ねると、榊を持った一人の女が現れ、毎年、この日に野宮を清めに来るのだと語ります。この日は、かつて光源氏が六条御息所を野宮に訪ねてきた日であり、自分は六条御息所の亡霊だと告げて去ります。夜になり、牛車に乗って現れた亡霊は、賀茂祭での車争いのことなどを語りつつ、月の光のもとで序の舞を舞い、妄執からの救済を願います。禅竹の義父・世阿弥の改作とされる「葵の上」では、六条御息所の生霊は修験者の祈祷によって成仏して終わります。しかし、野宮は、もう少し複雑です。序の舞を舞った亡霊は、光源氏が手紙を残した柴垣に近づき、鳥居に身を寄せた後に、妄執の極致を表す破の舞を踊ります。そして、曲調は一転し、亡霊は鳥居に合掌して、「火宅の門をや出でぬらん、火宅…」と謡われて終ります。

つまり、六条御息所の亡霊は、救われたのかどうか、判然としないのです。少なくとも、法力による救済は否定され、野宮という聖域とその背後にある伊勢神宮の神力による救済が暗示されます。ただ、終局の「火宅…」は、妄執からの解脱に懐疑的な含みを残しています。禅竹の重層的な作風の背景には、時代が色濃く反映されているように思えます。世阿弥は、将軍足利義満に庇護されましたが、晩年、足利義教の時代になると弾圧され、佐渡島へ流刑になります。不遇の世阿弥を支えたのが禅竹だとされます。世は室町幕府の衰退と共に乱れ始めていました。理不尽な弾圧に苦しんだ禅竹は、神仏による救済を否定しているわけではないとしても、距離を置いた見方をしていたのかも知れません。禅竹は、応仁の乱が起こって3年目に亡くなっています。

六条御息所は東宮妃でしたが、東宮が逝去した後、光源氏と恋仲になっていました。しかし、光源氏の気持ちが遠のくと嫉妬に狂います。葵祭で光源氏の正室・葵の上と車争いをして敗れた六条御息所は、生霊となって葵の上を祟ります。名曲「葵の上」に描かれるところです。野宮は、伊勢神宮や賀茂神社の斎宮として指名された内親王が、身を清めるために一定期間を過ごした場所です。新たな斎宮が指名される都度、嵯峨野か西院に設置されていたようです。源氏物語では、六条御息所が、斎宮に指名された娘とともに、一時期、野宮に滞在します。そこへ光源氏が訪ねてくるわけですが、既に光源氏の愛を失っていると自覚した六条御息所は、娘と共に伊勢神宮へと旅立ちます。娘の斎宮期間が終わると、彼女は都に戻り、出家して亡くなります。

能楽の大曲とは、演じるために高い技量を要する曲、演じられることが希な秘曲や一子相伝の曲などを指します。能ではない能と言われる「翁」、鐘入りで有名な「道成寺」、秘曲とされる「檜垣」・「姨捨」・「関寺小町」の三老女もの、歌舞伎の連獅子の元である「石橋」、そして「野宮」などが挙げられます。なかでも野宮は、細かな感情表現が身上という難曲であり、舞、謡、囃子のすべてに熟練の技が求められるとされます。もっとも、細やかな感情表現という意味では、「松虫」、「玉鬘」、「定家」、「芭蕉」といった禅竹の他の作品にも共通するように思います。とにかく、観世清和の野宮は、禅竹の気配を感じさせる良い舞台だったと思います。能楽堂の外に出ると、最前までの酷暑が嘘のような秋の気配が漂っていました。(写真出典:the-Noh.com)

2025年4月3日木曜日

助六

いなり寿司と太巻きがセットになれば、助六寿司、ないしは単に助六と呼ばれます。宗家成田屋の歌舞伎十八番の一つ「助六由縁江戸桜」に由来します。助六寿司は、助六のトレードマークである江戸紫の鉢巻きから太巻き、助六の恋人である遊女・揚巻の名前からいなり寿司、というシャレです。助六は、江戸中期に二代目市川團十郎が初演して以来、現在に至るまで、最も人気のある歌舞伎の演目であり続けています。助六は、上演時間が2時間に及ぶものの、場面転換が一切ないという一幕ものです。曾我兄弟の仇討ちをベースとする話ではありますが、決してストーリー・テリングをメインとした演目ではないということなのでしょう。

助六は、粋でいなせな江戸っ子気質を端的に現わしていると言われます。江戸の文化が凝縮されているからこそ、人気演目になったのでしょう。まずは衣装ですが、黒羽二重の小袖に紅裏、浅葱無垢の下着を一つ前にし、右巻きにした江戸紫の鉢巻という姿は、当時の色男のファッションを最も尖った形で現わしているのでしょう。ちなみに、左巻きの鉢巻きは病人用となります。青味の強い江戸紫という色は、武蔵野に自生するムラサキソウを用いて江戸で染めたもので、赤味の強い京紫に対抗する意味もあったとされます。江戸で大人気となり、江戸の産物の一つとされました。台詞も、べらんめえ調の名台詞が小気味よく繰り出されます。また、見得をはじめ所作もいちいち決まっています。出端の河東節も名物の一つです。

河東節は、浄瑠璃の一派とされ、江戸中期には吉原を中心に大流行したようです。その後、廃れはしたものの、艶やかな楽曲は見事なものです。いずれにしても、江戸の庶民は助六の格好良さに狂喜乱舞し、それぞれ真似をしたものと思われます。助六は、歌舞伎の華やかさや艶やかさを詰め込んだ、いわば江戸の庶民文化のショーケースと言えるのでしょう。”江戸三千両”という言葉がありますが、魚河岸、芝居小屋、吉原を指し、それぞれ日に千両の金が動くと言われたそうです。現在価値なら数億円ということになるのでしょう。助六の舞台は吉原の遊廓・三浦屋前となっています。助六の鉢巻きは魚河岸を象徴しているとされます。そういう意味でも、助六は、江戸文化の象徴だと言えますが、あくまでも江戸の華やかな面に限ってのことです。

人口100万、世界最大の都市だったと言われる江戸ですが、もちろん、人口統計など存在せず、あくまでの推定100万人ということです。武士だけは統計資料が残り、60万人だったようです。町人は推定で50万人以上とされます。ところが、土地は武家地が7割近くを占め、町人の多くは四畳半一間の長屋に家族で暮らしていました。江戸っ子は宵越しの金は持たないなどと言いますが、実際のところ、多くは日給仕事で宵越しの金など持てなかったようです。江戸っ子の気っぷの良さとは、将来のことなど考える余裕もないその日暮らしの生活が生んだものだったのでしょう。上質な商人文化も生まれた江戸ですが、庶民は刹那的な快楽を求め、芝居小屋、寄席、遊廓に出向き、博打や喧嘩に入れ込んでいたものと想像できます。

町人姿の助六ですが、本当は曾我兄弟の弟であり、武士です。二本差し(武士)が怖くて目刺しが食えるか、とは江戸庶民の心意気を表す言葉ですが、庶民は特権階級である武士に憧れも持っていたはずです。助六のモデルは、蔵前の米の仲介業者・大口屋暁雨という説があります。文化人でもあり、吉原の通人としても名を馳せた大商人です。助六の恋人・揚巻は吉原の花魁であり、現代なら超セレブです。庶民が会えるような人ではありません。つまり、助六は、その日暮らしの人々にとっては、憧れの存在であり、夢の塊だったわけです。少し前なら、ジュームス・ボンドに近いものがあるのでしょう。憧れとは、対象との距離の遠さを示すものでもあります。華やかな江戸文化の象徴としての助六人気は、江戸庶民の厳しい生活の裏返しでもあるのでしょう。(写真:13代目市川團十郎 出典:kabuki-bito.jp)

2025年3月8日土曜日

夢の酒

和歌山淡島神社
死んだ自分と相対するという落語「粗忽長屋」 は、古典落語のなかで最も奇妙な傑作だと思いますが、それに次ぐほどに奇妙な傑作が「夢の酒」だと思います。若旦那が居眠りをして寝言を言っていると女房に起こされます。何の夢を見てたのかと聞かれた若旦那は、 絶対に怒るなよ、と念を押してから話し始めます。向島へ用足しに行くと雨に降られます。ある家の軒先で雨宿りをしていると、その家に呼び込まれます。そこには若旦那を慕っていたという綺麗な御新造さんがいます。飲めない若旦那ですが、勧められるままに酒を飲んで倒れ、布団を敷いてもらいます。すると御新造さんも布団に入ってる、という夢でした。案の定、怒り狂った女房と若旦那は口論になり、心配した大旦那が仲裁に入ります。

どうにも怒りが収まらない女房は、大旦那に、向島へ行って御新造さんを叱ってくれと頼みます。夢の話だから無理だと言うと、淡島様の上の句を詠めば人の夢の中に入れると言うから行ってくれと懇願されます。大旦那は、渋々、言われたとおりにします。すると不思議なことに、夢の中で、やはり向島の綺麗な御新造さんの家にあがることになります。酒好きの大旦那は、燗酒を所望します。御新造さんは、燗がつくまでのつなぎに冷や酒を勧めます。大旦那が、私は冷や酒はやらない、と断っているところを女房に起こされます。大旦那が、惜しかった、と言うと、女房は、談判する前に起こしてしまいましたか、と聞きます。そこで大旦那が一言、いや、冷やでもよかった。これがオチになっています。

18世紀後半の作とされますが、まるで星新一が書いたショート・ショートかと思うほど奇妙な設定です。淡島様とは、和歌山市にある淡島神社を総本社とする民間信仰、あるいはその祭神を指します。淡島神は、イサナギとイザナミの2番目の子“淡島”とも、大国主の国造りに活躍した少彦名神とも言われます。江戸期には、安産や婦人病など女性に関する諸事に霊験があるとされ、信仰されていたようです。その伝道師となったのが、神棚を背負い祭文を唱えながら市中、特に色町を回ったという淡島願人だとされます。また、淡島様の上の句とされるのが「われたのむ 人の悩みの なごめずば 世にあはしまの 神といはれじ」ですが、やや押しつけがましく、また出所もはっきりしません。民間信仰ならでは、と言えるのでしょう。

この淡島様の上の句は、頼み事はなんでも叶えるという意味だと思われます。他人の夢に入ることも含まれるということなのでしょうが、夢との関係が、どうもよく分かりません。イサナギとイザナミの国産み伝説においては、淡島の前に水蛭子(ヒルコ)が生まれていますが、二人とも障害があったために葦舟に乗せて流されます。その行方に関する伝承はありません。子作りに際し、イザナミから誘ったので障害のある子が生まれた、と神から聞かされた二人は、イサナギから誘うことにします。すると次々に子が生まれ、それぞれが島になって大八島、つまり日本列島が作られるわけです。男尊女卑の匂いプンプンですが、後に淡島神が女性の味方として信仰されたのは、このあたりに基づくものなのでしょう。

向島、御新造さんとくれば、なにやら艶っぽいな、と思うわけですが、それは向島の花柳界をイメージするからなのでしょう。東京六花街といえば、もともと柳橋・芳町・新橋・赤坂・神楽坂・浅草でしたが、後に柳橋が廃れ、向島が入ります。戦前の向島には1,000人を超す芸妓がいたそうですが、今は100人ほどと聞きます。ただ、いずれにしても明治以降の話です。江戸期の向島は、墨堤の桜をはじめ風光明媚で、かつ手近な行楽地として人を集め、料亭も数件あったようです。ただ、花街はなかったわけです。にもかかわらず、艶っぽい話の舞台として向島が選ばれているのは、やはり浮世離れした土地柄だったからではないでしょうか。とりわけ、川向こうというところがポイントなのだと思います。(写真出典:wakayama.goguynet.jp)

2024年11月29日金曜日

繁昌亭

大阪の「天満天神繁昌亭」は、上方落語の数少ない定席です。 2006年、上方落語協会会長だった6代目桂文枝(当時は桂三枝)の呼びかけで開場しています。繁昌亭は、大阪では、実に半世紀ぶりとなる定席の復活でした。もちろん、定席がなくても落語家は高座に上がることはできます。ホールやこじんまりとした会場での演芸会、あるいは地方での公演ということになりますが、残念ながら不定期の開催になります。大物は別として、定席がなければ、落語家は、収入を得ることも、芸を上達させることも難しくなります。そういう意味で、定席の復活は、上方落語家の悲願だったと想像できます。天満天神という名称は、土地を無償提供した大阪天満宮、開場に尽力した天神橋筋商店街に感謝してつけられたのでしょう。

今般、初めて繁昌亭に行く事ができました。平日の昼席のことですから、客もまばらだろうと思っていましたが、200席強ある客席は、ほぼ満席という繁昌ぶりでした。”伝統芸能を守る”という言葉がありますが、落語は守られるようになったらお終いだと思います。時代が変われども、人を惹きつけてこその大衆芸能だと思います。とは言え、娯楽の多様化とともに、寄席は姿を消してきました。東京には、上野の鈴本演芸場、新宿の末広亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場に、今は建替中の国立演芸場を加え、5つの定席があります。しかし、大正13年には、117の寄席があったのだそうです。現存する寄席以外で言えば、1970年に人形町末廣が閉場しています。すべて畳敷きという江戸時代さながらの寄席だったようです。

上方落語が定席を失った理由は、娯楽の多様化とは別にもう一つあったように思えます。漫才ブームです。寄席の色物に過ぎなかった漫才が、主役にのし上がるという下剋上が起きたわけです。現在の漫才につながるしゃべくり漫才は、昭和初期の横山エンタツ・花菱アチャコに始まるとされます。大人気となり、追随するコンビが多く生まれたようです。漫才が人気になった背景にはラジオの普及があったとされます。1959年の皇太子ご成婚とともにTVが普及すると、再び漫才はブームの様相を呈していきます。漫才の歴史は、マス・メディア抜きには語れないわけです。背景には、花月劇場とTVの相乗効果をねらった吉本興業の作戦があったとも言われます。漫才に押されて、落語の人気は落ち、寄席も消えていくことになりました。

凋落した落語界ですが、四天王と呼ばれた松鶴、小文枝、春団治、そして米朝が上方落語復興に向けて大活躍します。上方落語、中興の祖とも言える名人たちでした。なかでも、後に人間国宝にもなった桂米朝は、上方落語を極めると同時に、TV・ラジオでも活躍し、大人気となります。他にも三枝(後の文枝)、鶴瓶、仁鶴、ざこば、文珍等々もTVタレントとして人気を博します。また、高座では枝雀が大人気を博します。ただ、いずれも個人的な人気でした。彼らが落語を演じるとしてもホールが中心となり、寄席の人気回復にはつながらなかったと言えます。寄席が吉本の花月劇場に変わったのだと言えるのかもしれません。ただ、花月の番組は、新喜劇と漫才が中心であり、落語や他の芸が入ることは希になりました。

江戸落語は座敷噺に始まり、上方落語は辻噺が起源とされます。上方落語は、往来を行く人の足を止める必要から、親しみやすく笑いのとれる噺が多く、じっくり聞かせる世話物は少ないと言われます。また、見台や小拍子を使うことや音曲をはさむ”はめもの”を使うこと等も、人目をひく必要から生まれたとされます。客の気をそらすことなくたたみかけてくるところが、上方落語の醍醐味だと思います。繁昌亭の高座で、一人、興味深い噺家がいました。二代目桂枝曽丸です。かつらを被り、老女の出立で現れたのには驚きました。開口一番「びっくりしたでしょう。すぐ慣れますから」とやって笑いをとっていました。和歌山のおばあちゃんという設定で、ディープな和歌山弁を使って新作落語を披露します。東京ではとても考えられないことです。ある意味、最も上方落語らしい光景だと思いました。(写真出典:hanjotei.jp)

2024年10月12日土曜日

梨園

若い頃、一時期ですが、歌舞伎座に通ったことがあります。といっても幕見専門でした。幕見とは、一幕だけを最上階の4階、いわゆる天井桟敷から見るチケットです。もう40~50年前のことですが、料金は4~500円だったと記憶します。幕見ですから、一幕で入れ替えになるわけですが、混んでいなければ、追加料金なしで続けて何幕も観ることもできました。その当時は、片岡孝夫と坂東玉三郎、いわゆる孝玉コンビが大人気でした。この二人が演じる世話物の艶やかさは語り草になっています。同じ頃、大評判を取っていたのが、三代目市川猿之助、後の二代目市川猿翁の宙乗りでした。宙乗りのロープは、幕見席の端の囲われた一角から伸びていました。幕見席は、猿之助のケレンを、他の観客とは異なるダイナミックな角度から見ることができたわけです。

ケレン(外連)とは、道具などを使った奇抜で派手な演出を指します。宙乗り、早替わり、仕掛け物などがあります。明治期以降は、演技や踊りといった芸道の本筋から外れたごまかし、邪道として扱われてきました。それを昭和の舞台に復活させたのが猿之助でした。歌舞伎界や評論家からはサーカスまがいなどと非難が殺到しますが、観客からはヤンヤの喝采を受け、歌舞伎人気を大いに盛り上げました。また、猿之助は、現代歌舞伎とも言えるスーパー歌舞伎を創作したことでも知られます。第1作は、哲学者の梅原猛が脚本を手がけた「ヤマトタケル」でした。古典とモダンを融合した派手な舞台、衣装、音楽は、世間の度肝を抜いたものです。海外からも絶賛された猿之助は、オペラの演出なども手がけ、世界的な活躍を見せました。

猿之助の派手な演出は、歌舞伎界が忘れていた芝居本来の姿への回帰だったと思います。歌舞伎の舞台は、古典芸能の高尚な鑑賞会ではありません。本質的には、客を沸かせてナンボ、という庶民的な興行の世界です。また、驚かせて終わりなら、まさにサーカスや奇術ということになりますが、想定を超えた驚きによって観客を一気に芝居の世界へと没入させる効果も大きいと思います。江戸期の歌舞伎は大人気でしたが、一方で、役者は河原者と軽蔑され、売春も当たり前という世界でした。明治になると、脱亜入欧を図る政府によって演劇改良運動が提唱されます。運動自体は、行き過ぎも揺り戻しもあって、成功とまでは言えなかったようですが、歌舞伎の近代化や地位向上には効果がありました。ただ、そこで本質が忘れられた面もあったわけです。

歌舞伎界、とりわけ団十郎を代々襲名する市川宗家を頂点とする門閥は、梨園とも呼ばれます。梨園とは、唐の玄宗皇帝が、梨を植えた庭で、自分好みの音楽や演劇を芸人に指導したことから生まれた言葉だとされます。歌舞伎界の別称として使われたのは明治期からのことだったようです。当初は、差別的な意味合いをもって使われていたようです。それが、いつの頃からか、俗世界とは隔絶された、何やら高貴な世界といった使い方に変わりました。どうにもこの使い方には違和感を覚えてしまいます。恐らく、戦後のいい加減なマスコミが誤って使い始め、一般化した言葉なのでしょう。門閥制度は悪いことばかりではないのでしょうが、新たな才能を拒むことで歌舞伎界全体を衰退させていく懸念もあります。

歌舞伎の歴史の中で、門閥外から座頭になったのは、江戸中期の初代中村仲蔵、幕末の四代目市川小團次の二人だけです。坂東玉三郎も、東京の料亭の息子であり、門閥外ですが、その芸が見込まれ、14歳で十四代目守田勘弥の芸養子になっています。人間国宝の六代目中村東蔵も門閥外の出身ですが、六代目中村歌右衛門の芸養子になっています。この芸養子、あるいは養子という仕組みが、門閥外の才能を取り込み、かつ門閥制度を保つ仕組みになっていると言えます。ちなみに、歌舞伎に変革をもたらした三代目猿之助は門閥外の才能を発掘し、育てることにも熱心だったことが知られています。なお、問題を起こした四代目猿之助は、三代目の甥です。三代目の実子は香川照之/市川中車ですが、複雑な事情で四代目を継いでいません。このあたりは実に梨園らしいとも思います。(写真:二代目市川猿翁 出典:ja.wikipedia.org)

2024年8月16日金曜日

大丸屋騒動

刀 銘 村正

国立演芸場の花形演芸会で、笑福亭喬介の噺を聞いてきました。昨年の同じ高座で上方落語の大ネタ「たちぎれ線香」を演じた喬介ですが、今年は、やはり大ネタの「大丸屋騒動」をかけました。往年の名人と比べるのは酷というものでしょうが、上方の大ネタを東京で演じるという心意気には頭が下がります。「大丸屋騒動」は、歌舞伎役者の声色を交える芝居噺風、あるいは三味線・太鼓等のはめものなど、上方落語らしい演出が特徴的な噺です。また、商人言葉による軽妙なやりとり、あるいは祇園の花街言葉はじめ京都の風情も、上手く取り込まれています。能楽、浄瑠璃、歌舞伎には、実際に起きた事件に基づく創作が多くありますが、 「大丸屋騒動」も、1773年7月、京都の暑い夜に起きた大文字屋事件を題材にしています。

烏丸通の材木商大文字屋の息子彦右衛門が、先斗町の家で出養生していたところ、心神喪失状態に陥り、手代を斬り殺します。刃を持ったまま四条通に出た彦右衛門は、烏丸通、丸太町と、往来の人々を斬りつけていきます。3名が命を落とし、21名が重軽傷をおったという凄惨な事件です。使われた刀は、粟田口近江守忠綱作の名刀と記録されます。無差別大量殺人は、今も昔もしばしば発生しています。トリガーは様々でも、犯人は、みな心神喪失状態だったのでしょう。この事件の原因は、彦右衛門の疳の虫とだけ記録されているようです。動機やトリガーが明確でないところが、戯作者たちの想像をかきたてるのでしょう。落語「大丸屋騒動」の主人公は、伏見の大商人である大丸屋宗兵衛の弟・宗三郎です。

宗三郎は、兄嫁の嫁入道具であった妖刀村正が気に入り、請うて手元に置きます。宗三郎は、祇園の芸妓おときと将来を誓う仲になります。これを親戚筋から批判された兄宗兵衛は、おときは花嫁修業、宗三郎は出養生に専念し、3ヶ月間会わないことを条件に結婚を許します。夏の暑い日、見張役の番頭と冷えた柳陰を飲み始めた宗三郎は、無性におときに会いたくなります。番頭の目を盗んだ宗三郎は、村正を腰に家を抜け出します。しかし、おときは、宗兵衛にきつく言われた婚礼の条件を頑なに守ろうとします。宗三郎は、脅すつもりで、村正を鞘ごと、おときの肩に当てます。すると鞘が割れ、抜き身となった村正がおときを切り裂きます。気が動転した宗三郎は、下女の首も落とし、先斗町から祇園へ向かい、通りの人々を切っていきます。

現在は中村楼となっている八坂神社の二軒茶屋では、おりしも盆の供養として芸妓・舞子が総出で踊りを披露しています。宗三郎は、その人だかりへと切り込み、あたりは大混乱となります。たまたま所用で上洛し、騒ぎに遭遇した兄宗兵衛は、役人に申し出て宗三郎を取り押さえます。不思議なことに、斬られても刺されても宗兵衛は血を流しません。そのことを役人に問われた宗兵衛は「これは実の弟。切っても切れない血縁。私は伏見(不死身)の商人です」と答えます。これが噺の落ちです。村正は桑名の刀工で、その作は正宗と並び称されます。美しさが際立つ正宗に対して、村正は切れ味の良さで知られます。実戦用の業物として、徳川家康や西郷隆盛などに愛されました。江戸期には、禍をもたらす、あるいは血を求める妖刀として伝説化されます。

実際に起きた大文字屋事件でも、凶器は名刀でした。商人が天下の名刀を持っていることは、いかに商人が隆盛を極めたかということでもあります。しかし、武芸に関してはずぶの素人である商人が名刀を持つことは、間違いも起こりやすいということでもあります。成功した商人たちの増長ぶりへの皮肉も込めた噺なのでしょう。いずれにしても、夏の暑い夜には、信じられないようなことも起こるということです。ちなみに、噺に登場する柳陰は、味醂を製造する際に加える焼酎の量を多くしたものです。要は、アルコール分が高い味醂です。江戸期には、これを冷やして飲むのが乙だったようです。夏の疲れを取るのに糖分が効くということなのでしょう。落語の名作「青葉」で、ご亭主が植木屋にご馳走するのも柳陰です。(写真出典:touken-world.jp)

2024年7月9日火曜日

藤戸

藤戸石
藤戸の戦いは、1185年、治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦の際、源氏方の佐々木盛綱と平清盛の孫である平行盛の間で戦われました。藤戸とは、JR倉敷駅の南に広がる一帯を指します。現在は陸地になっていますが、往時は小島が点在する海だったようです。航空写真を見ると、平行盛が陣を築いたという篝地蔵も、佐々木盛綱が陣を敷いたという藤戸も小高い緑地として確認できます。その間を隔てた海の幅は500mほどだったようです。前年、一ノ谷の合戦で敗れたものの、水軍を擁する平氏は瀬戸内海を西へと逃れます。一方、水軍を持たない源氏の追討は思うように進みません。源範頼の軍は安芸国まで進出しますが、平氏の水軍に後背を突かれ、兵站を失う事態にも陥っていました。

そんな状況下、藤戸で対陣した両軍ですが、佐々木盛綱は、水軍を持つ平行盛に翻弄されます。業を煮やした佐々木盛綱は、騎馬のまま、6騎を従えて海を渡ります。騎馬による渡海など想定外だった平氏軍500名は混乱に陥り、海へと潰走します。もちろん、佐々木盛綱は、海の上を進んだのではなく、地元の漁師に聞き出したという浅瀬を渡ったわけです。平家物語の巻十に登場する話です。読み本版の平家物語に限っては、佐々木盛綱が浅瀬を教えた漁師を殺害したという話が記載されています。奇襲の秘密を守るためでした。なんともむごい話ですが、佐々木盛綱が人一倍冷酷な武士だったわけではなく、当時の戦場にあっては、常道とも言える行動だったようです。世阿弥は、この話に基づき謡曲「藤戸」を書いています。

前シテは、殺された漁師の母親です。佐々木盛綱は、恩賞としてこの地を拝領し、領地入りします。そこに漁師の母親である老婆が現れ、息子を殺された恨みをぶつけます。盛綱は、その供養を約束します。すると殺された漁師の亡霊が後シテとして現れ、殺された状況を語ります。恨みを晴らそうとする亡霊でしたが、盛綱が手厚く回向したことで成仏し、去って行きます。時代に翻弄される庶民の目線で語られる能楽です。夢幻能を生み出した世阿弥の作品の一つの特徴が、弱者や敗者の立場から語られる物語です。世阿弥は、体制批判を行い、革命を目指していたわけではありません。その狙うところは、無常観をいかに美しく表現するか、ということだったのでしょう。無常観は仏法による救済にもつながります。

世阿弥のパトロンも観客も武士が主体でした。戦乱がうち続く世にあって、武家は、常に死を意識して生きなければならなかったものと思われます。さらに末法思想が色濃く残る時代でもありました。平安貴族の”もののあわれ”もさることながら、武家社会における無常観が、日本の文化の根底として形を成していった時代とも言えそうです。世阿弥は、平家物語を題材とする作品を多く残しています。”祇園精舍の鐘の声 諸行無常の響きあり”と始まる平家物語は、無常観を語る文学です。「藤戸」は、滅び行く平氏がシテではありませんし、世阿弥の代表作というわけでもありません。ただ、時代の犠牲となった弱者の目線で語られること、回向によって救われるあたりが、実に世阿弥らしい作品だと思います。

京都の伏見にある醍醐寺は、秀吉が豪華絢爛たる“醍醐の花見”を行ったという桜の名所です。多くの国宝を有する醍醐寺ですが、その塔頭である三宝院の庭園も、国の特別史跡・特別名勝の指定を受けています。庭園の中央に配された池の正面には天下の名石とされる「藤戸岩」が置かれています。もともとは藤戸の海にあって、干満にかかわらず頭を出していることから浮洲岩とよばれていたようです。佐々木盛綱は、これを目印に渡海したと言われ、また殺した漁師を岩の下に埋めたとも言われます。将軍足利義満がこれを気に入り、金閣寺へ移します。その後、細川管領家の庭へ、信長が二条城へ、秀吉が聚楽第へと移します。江戸期に入って、現在の三宝院に置かれることになったようです。(写真出典:daigoji.or.jp)

2024年5月6日月曜日

土蜘蛛

能楽の演目は、約250曲あると聞きます。ここ十年ほど、能楽堂に通っていますが、恐らく半分も観ていないと思います。有名な演目は、ほぼカバーしたと思うのですが、タイミングが合わず、観ていない人気演目もあります。その一つが「土蜘蛛」でした。今般、国立能楽堂でようやく観ることができました。土蜘蛛は、室町時代末期の作とされますが、作者は不明です。源頼光と土蜘蛛に関わる五番目物です。頼光に取り憑いた土蜘蛛を、頼光四天王が倒すという内容ですが、土蜘蛛が蜘蛛の糸を放つという派手な演出で人気の演目です。小道具として使われる蜘蛛の糸は、千筋の糸、蜘蛛の巣、なまり玉とも呼ばれ、明治時代に、金剛流のシテ方・金剛唯一が考案したとされます。

シテ方が、蜘蛛の糸を投げると、多くの細い和紙が、放物線を描いて拡散します。蜘蛛の糸は、細く長く切った和紙を、小さな鉛の針金を芯にして巻き込んであります。それを複数束にまとめて紙の封をしておきます。シテ方は、これを左右の袂に数個づつ入れておきます。演じている最中に、袂から取り出し、封を切って投げるわけです。目で確認しながら準備するわけにはいきませんので、見当をつけて、親指で封を切り、根本をしっかり親指で押さえながら、放ることになります。和紙の長さは、5間(約9m)、3間(約5.5m)があり、ちょうど舞台に収まる3間が多く使われるようです。5間になると、派手に舞台を越えて広がるようですが、投げるのには技術を要するとのことです。

深夜、病に伏せっている頼光の寝屋に僧形の者が現れます。お前の病気は私のせいだと言うなり、蜘蛛の糸を投げつけます。頼光は、枕元に置いた名刀膝丸を抜き、土蜘蛛に切りつけます。名刀膝丸は、源満仲が、筑前国から呼び寄せた刀鍛冶に鍛えさせたという刀です。満仲以降、清和源氏が代々継承したとされる名刀です。奇妙な名ですが、罪人相手に試し切りをしたところ、一気に膝まで切り下げたことから付けられたという物騒な名です。頼光は膝丸を蜘蛛切と改名しますが、その後も持主と名前を変えながら継承されていくことになります。源義経の薄緑としても知られ、また曾我兄弟の仇討ちにも使われたとされます。ちなみに、大覚寺、箱根神社等には、薄緑として所蔵されている刀が存在するようです。

そもそも古代において、土蜘蛛とは、ヤマト王権にまつろわぬ地方豪族を指したとされます。時代が下ると、土蜘蛛は、各地で妖怪として知られるようになっていきます。そのきっかけとなったのが平家物語における源頼光の逸話だとされます。能楽「土蜘蛛」も平家物語をもとに作られています。源頼光が土蜘蛛に取り憑かれた理由についても伝承があります。969年に起きた安和の変において、左大臣源高明は謀反を密告され、太宰府へ流されています。密告したのは、頼光の父・源満仲でした。もともと満仲は、土蜘蛛と結託して藤原氏を倒そうとしていましたが、一転、保身のために同族の源高明を密告するという裏切行為に及びます。怒った土蜘蛛は、子の頼光とその四天王に祟るようになったというわけです。

源頼光の最も有名な逸話と言えば、大江山の酒呑童子退治です。酒呑童子を切った刀は「童子切」という名で、現在は国宝として国立博物館に所蔵されます。酒呑童子退治の際、四天王も同行していますが、その筆頭は渡辺綱であり、後に一条戻橋で酒呑童子の家来・茨木童子を退治しています。その際に使った刀は髭切とされ、膝切と対を成す名刀です。四天王の末席に控えるのは坂田金時です。幼名は金太郎、足柄山で育ったとされています。それにしても、なぜ頼光の化物話がこれほど人気なのか、不思議です。紙や印刷が進化し、御伽草子のブームが起きたという背景があったと言えますが、頼光でなくても良かったわけです。ひょっとすると、頼光と名刀との関わりが人々の注目を集めていたからかも知れません。(写真出典:.nohgaku.or.jp)

2023年11月2日木曜日

女踊

三宅坂の国立劇場が、建替えのために、10月いっぱいをもって閉場しました。国立劇場は、1966年のオープン以来57年間、歌舞伎・文楽・日舞・邦楽・雅楽・琉球芸能等、伝統芸能の拠点として機能してきました。同敷地内には国立演芸場、伝統芸能情報館もありますが、これらすべてを同地に新たに建設される複合ビルに取り込み、2029年には再オープンする予定とされています。正倉院の校倉造りを模した特徴的な外観は、伝統芸能の総本山として相応しいものがあり、数々の建築賞も獲得しているようです。敷地は、もともと明石藩の江戸屋敷跡であり、明治以降は陸軍が使用していました。戦後は米軍に接収され、空軍の住宅として利用されていたようです。返還後、同地に、国立劇場と最高裁が建てられました。

ここ数年は、国立劇場で、浄瑠璃と琉球芸能を楽しんできました。私にとって最後の国立劇場は、組踊と琉球舞踊の公演とになりました。国立劇場、国立劇場おきなわ等々で、幾度も琉球芸能は観てきましたが、今回が最も感銘を受けた公演になりました。組踊「女物狂」は、人間国宝の宮城能鳳が指導、地謡には同じく人間国宝の西江喜春(唄と三線)と比嘉聰(太鼓)が並ぶという豪華版でした。演じる立方よりも、地謡の方に目がいきがちでした。それよりも感動したのは、同じく人間国宝の宮城幸子が舞う女踊「諸屯(しゅどぅん)」でした。本土の七・五調と異なり、八・八・八・六調の歌で踊られる女踊は、琉球舞踊の最高峰と言われます。なかでも玉城朝薫作の諸屯は最高傑作とされています。

尚王家の血をひく玉城朝薫は、18世紀初頭、中国の冊封使を接待する踊奉行に就任します。朝薫が接待のために創作したのが組踊でした。今も朝薫五番と呼ばれる二童敵討や女物狂は、組踊の主要演題であり、組踊は朝薫に始まり朝薫に終わると言われます。女踊も多く創作しており、諸屯と並び称される伊野波節(ぬふぁぶし)、今回も上演された「稲づまん」など古典女七踊とされる女踊は、すべて朝薫の作です。なかでも諸屯は、最も高い演技力と経験値が求められる難しい演目とされます。人間国宝クラスでなければ、踊れないとも言われるようです。諸屯は、実にゆったりとした曲調を持ちます。たゆたゆとした曲調こそ、琉球古典舞踊の本質だと思います。

諸屯は、満たされぬ恋を思う成熟した女性の情念を描いているとされます。曲は、それぞれ八・八・八・六調の仲間節・諸屯節・しょんがね節の三節で構成されます。諸屯とはどういう意味なのか気になりました。実は、諸屯節には原曲があり、加計呂麻島の「諸鈍長浜節」とされているようです。現在も諸鈍という地名が存在し、デイゴ並木で知られる長い浜があります。15~16世紀頃から存在する遊び歌だった諸鈍長浜節の一節が諸屯節と一致しているとのこと。また、首里から加計呂麻島に派遣されていた金武王子が、帰任後、恋仲だった奄美の女性を思って詠んだ歌が元歌という説もあるようです。いずれにしても、背景には、尚王朝による奄美進出があるわけです。

花笠を使う伊野波節とは異なり、諸屯は身一つで踊られます。踊りに大きな振り付けなど一切無く、ごくわずかな動きや手さばき、そして目の表情だけで踊りきります。特に印象的なのは、諸屯が、後ろ姿、それもほとんど動きのない後ろ姿で多くを語る舞だということです。YouTubeで、他の踊り手が舞う諸屯を観たことがありますが、宮城幸子の諸屯は、さらに動きがありません。それでいて、より深い情感を伝えてきます。琉球舞踊の真髄は、できるだけ手数を省くこと、と聞きます。中国の弓の名人が弓矢を使わずに鳥を射落としたという”不射の射”に通じるものがあります。名人芸の極致とは、そういうものなのでしょう。名残の国立劇場、最後の最後で、すごいものを観てしまったな、と思いました。(写真出典:okinawatimes.co.jp)

2023年6月20日火曜日

線香と雪

武原はん「雪」
国立演芸場の花形演芸会で、笑福亭喬介の「たちぎれ線香」を聴いてきました。喬介は、クセのある独特な話し方をするので、気になっていました。それが、大ネタ中の大ネタ 「たちぎれ線香」を掛けるというので、行ってきた次第です。大ネタとは、長いだけではなく、高い技量が求められる噺です。「たちぎれ線香」は、江戸末期の噺家で笑福亭一門の祖とされる初代松富久亭松竹の作とされます。桂米朝の名演でも知られます。喬介は、米朝の長男、米團治に稽古をつけてもらったようです。笑福亭一門としては外せないネタなのでしょうが、一門に稽古をつけてくれる師匠がおらず、あえて米團治に頼んだのかも知れません。米朝と比べるのは酷というものですが、喬介もなかなかに聴かせました。

大店の若旦那と、お茶屋の娘で芸子の小糸は、相思相愛の仲となります。大店では、お茶屋通いが過ぎる若旦那をどうするか話し合うために親族会議が持たれます。番頭の提案によって、若旦那は、百日間、蔵に閉じ込められます。若旦那と番頭とのやりとりは、聴かせどころの一つです。音信不通となった若旦那を恋い焦がれた小糸は衰弱し、若旦那にもらった三味線を抱えながら命を落とします。ようやく蔵を出された若旦那はお茶屋へ駆けつけますが、小糸の死を告げられます。詫びながら線香をあげていると、仏前の三味線が鳴り始め、地唄が聞こえてきます。小糸の声でした。自分が好きな地唄を唄う小糸の声に若旦那は涙を流しますが、突如、三味線は止みます。動揺する若旦那に、女将は、仏壇の線香がちょうど”たちぎれ”ました、と告げます。

かつては、芸子の花代を勘定するために線香が焚かれていました。タイム・チャージを計る時計の代わりです。京都の花街では、今も線香代という言葉が残っています。”たちぎれ”とは、経ち切れと書くのが正しいのでしょう。今となっては分かりにくい落ちですが、枕で線香代の解説が行われます。また、上方落語では、しばしば噺のなかに囃子方による演奏が入ります。ハメモノと呼ばれています。「たちぎれ線香」に入るハメモノの地唄は、名曲「雪」と決まっているようです。「黒髪」等とともに、地唄の傑作とされる「雪」は、江戸末期、流石庵羽積の歌詞に峰崎勾当が曲を付けています。男に捨てられて出家した芸妓が、雪の降る夜、かつての恋人を思い、一人寝のわびしさに涙する、といった内容の唄です。

単によく知られた地唄と言うだけでなく、「たちぎれ線香」には相応しい曲だと言えるのでしょう。後に「雪」には踊りが付けられ、地唄舞としてもよく知られた曲になります。文化功労者にも選ばれた上方舞の武原はんの代名詞でもあり、東京で、上方舞、そして「雪」が知られるようになったのは、彼女の功績だとされます。武原はんは、徳島の花街近くに生まれ、12歳で大阪・宗右衛門町の置屋に入り、14歳で芸妓となります。20歳で著名な装丁家と結婚して上京し、“なだ万”の若女将を務めながら、上方舞の普及にも努めます。離婚後、新橋で芸妓に戻りますが、後に料亭「はん居」を赤坂に開きます。上方舞の名手として名を成しながら、自らの流派を作ることもなく、弟子をとることもなかったと聞きます。

武原はんの「雪」は、YouTubeで見ることが出来ます。同じ上方舞とは言え、祇園の井上流とは大いに異なり、独特な艶っぽさを感じさせます。座敷舞の粋と言えるのでしょう。同時に、生涯を個人舞踊家として通した武原はんの芸妓としてのプライドも感じさせます。吉原に代表される江戸の廓は、遊女中心のビッグ・ビジネスといった趣きです。対して、上方のお茶屋は、芸妓中心のお座敷遊びとして文化と芸を育ててきた面があります。成り立ちの違いと言えば、それまでですが、花魁と太夫では大違いです。落語の世界で言えば、江戸の廓噺も、上方のお茶屋噺も、本質的には大差ありませんが、風情に違いが出ているように思います。「たちぎれ線香」は、東京落語でも「たちぎれ」として演じられますが、やはり上方でしか生まれ得なかった噺なのでしょう。(写真出典:waseda.jp)

2023年3月22日水曜日

琉球歌劇

毎年、三宅坂の国立劇場で行われる琉球芸能公演で、初めて琉球歌劇を観ました。琉球歌劇は、方言台詞劇とともに沖縄芝居と呼ばれます。沖縄芝居は、琉球処分によって生み出された大衆芸能です。明治政府は、1872年に琉球王国を琉球藩とし、1879年には沖縄県とする琉球処分を行います。王宮に仕えていた人々は職を失うことになります。そのなかに、中国からの冊封使を”御冠船踊”でもてなしていた人々もいました。王宮が独占していた御座楽、組踊、端踊が市中に開放されたわけです。観客が大衆に変わったことで、端踊からは雑踊、組踊からは沖縄芝居が生まれます。組踊の歌と踊りは歌劇に受け継がれ、当時、本土で流行した壮士劇等の影響をうけて方言台詞劇が始まります。

1880年代早々には、組踊を演じる粗末なむしろ掛けの小屋が登場していたようですが、1891年に、常設劇場としての仲毛演芸場が開場されます。以降、次々と常設小屋が誕生し、そこで沖縄芝居が生まれていったようです。不思議なことに、歌劇よりも方言台詞芝居の方が先にブレイクしたようです。その背景には、1896年に初めて沖縄で公演された壮士芝居が大人気だったことがあるようです。その影響を受け、より写実的で、ウチナーグチで演じられる方言台詞芝居が急速に広がっっていきます。演目は、とっつきやすい時代劇が多かったようです。一方、歌劇は、1900年以降、一幕物として登場し、次第に長尺化していきます。伴奏者ではなく演者自身が歌うように変えたことが人気を集めた要因だったようです。

当時作られ、今でも人気を集める三大歌劇というものがあるようです。身分違いの悲恋を描く「泊阿嘉」、妻子ある男にだまされた女の怨念を描く「伊江島ハンドー小」、身分違いの男との間に子を設けた女が身をひく「奥山の牡丹」です。いずれも女性が主人公の悲劇です。やはり女性を中心に人気を集めたようです。封建的だった時代の女性の地位を反映しているのでしょう。ただ、沖縄俗謡の「19の春」も同じですが、琉球の歴史と現状を悲劇的な女性になぞらえているような面もあるように思えます。この3曲に、今回観た「薬師堂」を加えて、四大歌劇とする場合もあるようです。ただ、身分違いの恋を描く「薬師堂」は、男の立身出世によってハッピーエンドを迎えます。

歌劇は、情感あふれる場面、滑稽な芝居と、テンポ良く展開されます。ウチナーグチの歌と台詞が、実に小気味よいのですが、字幕なしではほぼ理解できません。沖縄の言葉は、本土と同じ日琉語族に属します。定義如何ではありすが、沖縄の言葉は方言ということになります。ちなみに、日本の言語としては、日琉語族以外に、独立した言語としてのアイヌ語があります。戦前の軍国主義の時代、沖縄でも皇民化運動とともに方言撲滅運動が展開されます。ウチナーグチが否定されることで、沖縄芝居も弾圧されます。戦後、アメリカが軍政を敷くと、沖縄芝居は沖縄独自の文化として奨励されることになりました。恐らく、日本本土との関係を断ち切り、統治を進めやすくするための文化政策だったのでしょう。

組踊や端踊は、中国からの冊封使をもてなすために演じられたと言われるわけですが、素朴な疑問として、薩摩の役人に対しても同じことが行われたのかということが気になります。どうやら、組踊に替えて「唐躍」が演じられていたようです。現在では、ほぼ消滅した唐躍は、中国劇を琉球風にしたもので、中国語で演じられたと聞きます。うがった見方かも知れませんが、薩摩に対して、中国との関係を見せつけ、牽制することが目的だったのではないでしょうか。一方で、中国の冊封使に対しては、日本との関係の深さを強調するために組踊を見せていたと思われます。独立した王国でありながら、薩摩の実効支配を受け、中国にもに対しても冊封関係を維持するという琉球王朝の微妙な立場を反映しているように思います。(写真出典:ntj.jac.go.jp)

2023年3月13日月曜日

牡丹灯籠

「四谷怪談」、「皿屋敷」、「牡丹灯籠」は、日本三大怪談と呼ばれます。お岩さんの「四谷怪談」は、1825年に初演された鶴屋南北の「東海道四谷怪談」が有名ですが、その100年も前からよく知られた噂話だったようです。お菊さんの「皿屋敷」は、播州皿屋敷と番町皿屋敷が有名ですが、18世紀初頭から各地で広まった話を元に、歌舞伎や浄瑠璃として上演されたようです。姫路城内には、お菊さんが身投げしたとされる井戸も残っています。一方、お露の「牡丹灯籠」は、不世出の大落語家と言われる三遊亭圓朝が、江戸末期に創作した落語です。明代の怪奇小説「剪灯新話」を底本として17世紀に出版された浅井了意の「御伽婢子」に、江戸の奇っ怪な噂などを加味して、創作されたと言われます。

圓朝の「牡丹灯籠」は全22章、全巻を通しで演じれば、30時間は下らないという壮大なドラマです。近年、”通し”と称して演じられているのは、5~6時間に短縮されたバージョンです。一般的に怪談「牡丹灯籠」として知られる話は、お露・新三郎が登場するごく一部分だけを、短めの噺にまとめたものです。浪人・新三郎と旗本の娘・露は、互いに惹かれますが、内気な新三郎は、お露に会いに行けません。新三郎は、お露が恋煩いで死んだと聞かされます。ところが、夜ごと、侍女のお米を従え、お露は新三郎を訪ね、逢瀬を重ねます。お露が亡霊だと分かると、新三郎は、和尚からもらった魔除け札を家に貼り付けます。家に入れなくなったお露は、新三郎の店子の伴蔵に金を渡し、御札を外させます。翌朝、気になった伴蔵が、新三郎の家に行くと・・・。

元ネタとなった「剪灯新話」の「牡丹燈記」は、現在の寧波が舞台です。妻を亡くした喬生は、牡丹飾りの灯籠に照らされて歩く娘に惹かれます。喬生は、湖西に住むというその娘と近づきになり、娘は、伴をつれて喬生の家に通うようになります。喬生の家の話し声を訝った隣家の老人は、喬生が骸骨と抱き合う姿を見ます。それを告げられた喬生は、湖西へ行き、寺で娘のものと思しき棺桶を見つけます。怯えた喬生は、法師から朱符をもらい、家に貼り付けます。すると娘は現れなくなります。ひと月ばかり後、酒に酔った喬生は、うっかり湖西の寺の前を通ります。すると娘の伴の少女が現れ、喬生を寺に連れ込みます。そこには娘が待っており、薄情なお方、もう帰しませんよ、と言って棺桶のなかに喬生を引きずり込みます。以来、雨の夜に伴を連れて散歩する二人の姿が見かけられるようになります。

話は、その後の悪霊退治へと続きます。上田秋成の「雨月物語」(1776)も、「剪灯新話」を下敷きにした話が多いと聞きます。代表的なエピソードである「蛇性の婬」などは、まさに「牡丹燈記」が底本と言えます。溝口健二監督がヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を獲得した「雨月物語」(1953)も、「蛇性の婬」と「浅茅の宿」を組み合わせたものでした。日本で人気の怪談と言えば、恨みを抱いて死んだ女性の霊が主役と相場が決まっています。「牡丹灯籠」や「蛇性の婬」などは、極めて珍しいパターンだと思いますが、それもそのはず、舶来品だったわけです。娘盛りで亡くなった「牡丹燈記」の娘・麗卿はこの世への未練が残り、お露は新三郎への未練が残ります。未練も恨み同様ややこしいものです。

牡丹灯籠に関しては、気になることがあります。有名な「カラン、コロンと闇夜に響く下駄の音」という一節は、お露が新三郎の家を訪ねてくるくだりのものです。その際、お露を先導するお米が提げているのが、縮緬細工の牡丹芍薬などをあしらった燈籠、つまり牡丹灯籠というわけです。その当時、女性用として流行ったものだそうです。灯籠と言えば神棚か庭など屋外に据え付けてあるものであり、室内の灯りは行灯、夜道を行く際に提げる灯りは提灯と言います。牡丹灯籠は、手提げですから、牡丹提灯と言うべきところではないかと思うわけです。提灯とは、読んで字のごとく、手に提げる灯りという意味ですが、同時に折りたためる灯りの総称でもあったのでしょう。牡丹をあしらった灯りは、折りたためないので灯籠と言ったのではないでしょうか。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2023年2月24日金曜日

女殺油地獄

近松門左衛門と言えば、曾根崎心中、冥途の飛脚、心中天網島など世話物で知られます。ただ、実際のところ、近松の脚本は、時代物が大層を占めるのだそうです。浄瑠璃の影響から心中が流行り、世話物は上演禁止とされた時期もあったようですから、結果、時代物が増えたのかも知れません。そもそも見世物に始まった浄瑠璃や歌舞伎に庶民が求めたものとは、まずは取っ付きやすい時代物だったとも思われます。恐らく、世話物は、社会と芝居文化の成熟につれて人気を博していったということなのでしょう。1721年に初演された「女殺油地獄」は、近松最晩年の作品であり、キワモノ的なタイトルとは裏腹に、至ってシンプルなストーリーを持つ世話物です。2月文楽公演”近松門左衛門特集”での舞台を観てきました。

「女殺油地獄」というタイトルは、猟奇的、扇情的な芝居を思わせます。ただ、殺された”女”は町内の油屋の内儀であり、情人などではありません。”油地獄”とは、犯行現場が油屋の店先であり、油にまみれたというだけです。シンプルな話だけに、興行上、扇情的なタイトルが必要だったのかも知れません。修羅場では、人形が油に滑る様を見事に演じます。なかなかの見せ場ですが、これも地味な話ゆえの派手な演出だったのでしょう。「女殺油地獄」の主題は、今も昔も変わらぬ子育ての難しさだと思います。河内屋徳兵衛は、油屋の番頭でしたが、主の急死によって、主の妻と結婚し、店を継がされます。主の実子・与兵衛に対しては、遠慮がちに接します。与兵衛は、甘やかされ、愛情に飢えた放蕩息子に成長し、勘当され、金欲しさに凶行に及びます。

江戸幕府開闢から百年が経ち、安定した世情は、経済活動をも活発化させます。大阪では、商人が台頭し、商人文化が形成されます。「女殺油地獄」の初段は野崎参りの場面です。野崎参りは、信心もさることながら、行楽的な要素が大きく、また遊女連れの参拝などは遊郭の隆盛をも伝え、大阪の経済力の高まりを象徴しています。一方、社会が成熟すると、面倒なことも増えていきます。商人にとっては、商売を維持・拡大することが至上命題となり、与兵衛の継父・徳兵衛も、個人の意思とは関わりなく、難しい家族状況を持つ身代を継がされます。近松が注目したのは、経済成長につれて社会がいびつになり、本来的な人間の営みが疎外されていく状況だったのでしょう。

放蕩息子による殺人という話を借りながら世相を批判し、芝居的なギミックも少ない「女殺油地獄」は、興行的に大コケし、永らくお蔵入りすることになります。当時の大阪では、跡継問題や放蕩息子は、日常よく見かけるごくありふれた問題であり、共感を得るどころか、わざわざ金を払って観るまでもない、ということだったのでしょう。「女殺油地獄」が注目されるのは、約200年後のことでした。坪内逍遙が、近松研究のなかで取り上げたことから注目されるようになり、1909年、歌舞伎で再演されます。浄瑠璃での再演は、さらに遅く、戦後の1947年だったようです。近代化、西洋化が急速に進む明治の世は、江戸の初めの経済発展期に酷似していたのかも知れません。

勘当された与兵衛は、郭通いのために200匁という金を借ります。期日内に返済できなければ、5倍の1貫を返さなければならないという阿漕な契約でした。200匁は、現在価値で4~50万円ほどとのこと。勘当前なら大した金ではなかったもの、一文無しには大金です。勘当したものの倅を気遣う両親が、与兵衛に渡してくれと向かいの油屋の内儀に託した金では足りませんでした。返済期日を迎え、あせった与兵衛は、強盗殺人に及びます。ちなみに、江戸期の通貨といえば、両・分・朱という単位がよく知られます。これは金をベースとした通貨単位です。他に銀・銭も通貨として流通しており、三貨制度がとられていました。重量をベースとする銀では貫・匁・分、銅貨では文が単位として使われていました。(写真出典:ntj.jac.go.jp)

2022年11月23日水曜日

ダンス

マティス「ダンス」
ダンスに関する最も古い記録は、スペインのアルタミラ洞窟の壁画だと言われます。18,500年前のものです。ただ、それがダンスの起源だというわけではありません。恐らく、プリミティブなダンスは、人類の歴史と同じくらい古くから存在したのでしょう。人間が、生存に関わる必要性に乏しいダンスを、大昔から踊ってきたことは、実に不思議だと思います。ダンスの語源は、サンスクリット語の”tan(伸ばす)”、あるいは”tanha(生の欲望)”だとされます。日本語の踊り(をどり)は、本来、飛び跳ねることを意味したとされるようです。リズムに沿って、あるいは様式をもって踊られるダンスではなく、何らかの感情に突き動かされたような動作としての踊りは、まさに人間の根源的な欲求そのものだとも思えます。

言語は、ジェスチャー言語、あるいはノンバーバル言語から発生したという説があるようです。人間も、動物と同じように鳴き声は発していたはずですが、それが言語化するというのは、やや飛躍が過ぎるようにも思います。もしそうだとするならば、他の集団行動を行う動物も言語を獲得して当然です。直立二足歩行を始めた人間が、自在に喉を使えるようになったことも言語を獲得した大きな要因です。また、両手を自由に使えるようになったことで、道具の活用だけではなく、ジャスチャーも進化させたであろうことは想像に難くありません。コミュニケーションは、鳴き声とジェスチャーで行われ、ジャスチャーが言語へと置き換わっていったという説は納得できるストーリーです。

言語を生み出したジェスチャーは、ダンスをも誕生させたものと考えます。ダンスがコミュニケーション手段であるジェスチャーを起源とするならば、ダンスの目的も、やはりコミュニケーションだったと考えられます。ダンスは、何かを表現する、何かを伝える、何かを共有する、といったことを通じて。組織としての連帯を高める効用があったということなのでしょう。人類は、狩猟においても、農耕においても、集団行動をとることによって霊長類の頂点に立ちました。集団が効率良く機能するためには、コミュニケーションが欠かせません。そこでは、物理的効用に限らず、心情面における一体感も重要となります。言語とダンスは、ともに人類の集団性の発揮に貢献したと言えます。

広い意味での必要性に基づきダンスは誕生したといえます。ダンスの遊びや娯楽という面も、その延長線上にあるものと考えられます。娯楽化の背景には、踊ることの喜びが存在していたものと思います。個の生存に関わる集団への帰属、あるいは種の保存に関わる生殖、いずれもの場合であっても、人間にとって連帯は本能的欲求だと言えます。ダンスは、その欲求を満たしてくれるものであり、それがダンスを踊る喜びの根源なのではないでしょうか。集団性の薄い鳥類など動物の一部もダンスを行います。いわゆる求愛行動ですが、これは有性生殖におけるプロセスであって、鳥にダンスを踊っているという意識はないのでしょう。ただ、人間のダンスにも、他者の注意をひくといった要素は含まれているものと考えます。

ソロで踊るダンスは、集団性との関係が薄いように思われます。いわゆる表現としてのダンスということになりますが、自らの感情や思考を、動作で現わすという行為は、コミュニケーションの一つの形だと考えられます。内面にあるものを、ダンスを通じて、他者、あるいは神に伝えるという行為です。時代が進むと、ダンスは、神とコミュニケートする手段として、信仰のなかで様式化されていきます。日本語で言えば、舞の誕生だと言えます。ダンスにおける、リズムだけではない音楽との関係、衣装との関係、あるいは踊る場との関係も、ここで生まれたのでしょう。ひとたび様式化されると、ダンスは、音楽と共に、世界各地で独自の進化を遂げていきます。そして、祭礼から裾野も広がり、儀式、娯楽、芸術、スポーツ等へと展開を始めます。ダンスが芸術の母とも言われる所以です。(写真出典:omochi-art.com)

2022年10月29日土曜日

中村仲蔵

落語「中村仲蔵」は、サクセス・ストーリーです。天才や良い血統のもとに生まれた者が、順調に大家になるのであれば、サクセス・ストーリーは成立しません。何の後ろ盾もなく、苦労を重ね、あるいはいじめられ、後に大輪の花と咲くからこそサクセス・ストーリーです。中村仲蔵は、そういった要素をすべて持つ出世噺であり、確実に観客の涙を誘います。先日、国立名人会で、柳家さん喬の中村仲蔵を聞きました。場内では、涙を拭く観客が多くいました。さん喬は、聞かせる噺家です。国立名人会のトリの持ち時間30分では、やや短いようにも思います。六代目三遊亭圓生は、小一時間かけて話していました。もっとも、中村仲蔵を得意とした八代目林家正蔵(林家彦六)は、30分程度で話していたようです。

モデルとなった初代中村仲蔵は、江戸中期、名人と呼ばれるまでになった立志伝中の歌舞伎役者です。出生に関しては諸説ありますが、幼少期には踊りの師匠の養子となったようです。その後、踊手から役者に転じ、舞台に立ちます。一時期は、役者から身を引き、商売をしたり、踊りの稽古を付けていたようです。18歳になると、歌舞伎に復帰しますが、なかなかうまくいかず、蔑まされ、いじめも受け、自殺未遂まで起こしています。それでも、仲蔵は、一心に芸を磨き、その姿勢が、四代目市川團十郎の目にとまり、庇護をうけることになります。腕をあげ、名代となり、屋号まで持った仲蔵に、仮名手本忠臣蔵五段目の斧定九郎の役がきます。客が弁当を食べる弁当幕のセリフも少ない端役です。出世した仲蔵へのやっかみで行われた配役だったのでしょう。

定九郎は、塩冶判官の家老の息子ながら、放蕩の末に勘当され、盗賊に身をやつしています。おかるの父親を殺して金を奪いますが、猪と見間違えた勘平に鉄砲で撃たれ、あっけなく死にます。仲蔵以前の定九郎は、山賊の姿で演じられていたようです。仲蔵は、それを黒羽二重に献上博多帯、朱塗りの鞘という現在にまで至る衣装に替え、一躍、定九郎を人気の役にしました。また、破れ傘を振り回したり、血糊を使うなど演出も派手だったようですが、後の歌舞伎では、セリフも減り、かなり簡略化されました。文楽で五段目を見たことがありますが、浄瑠璃の方が、仲蔵時代に近い演出かも知れません。いずれにしても、仲蔵は評判をとり、一気に看板役者にまで登り詰めます。

落語では、仲蔵が新しい定九郎の姿を思いついた場面が語られます。人が驚くような定九郎の着想を得ようと、仲蔵は妙見様に願をかけます。良い案も浮かばぬままに満願を迎え、家路を急ぐ仲蔵は、雨に降られ、蕎麦屋で雨宿りします。そこへ黒羽二重を雨に濡らした木っ端旗本が、破れ傘を片手に駆け込んできます。それを見た仲蔵は、これだ!と思います。落語では重要な場面ですが、実際のところは、団十郎たちが定九郎の新たな衣装の話をしているのを聞いた仲蔵が、興味をひかれ、是非とも、その定九郎をやらせてくれと頼み込んだのだそうです。四代目団十郎も、芝居茶屋の次男坊から名跡を継ぐまで出世した人であり、歌舞伎を変えたとまで言われる名人です。名人の発想を名人が、見事に演じきったというわけです。

初代中村仲蔵の妻お岸は、長唄の七代目杵屋喜三郎の娘でした。落語では、このお岸さんが、実に賢く夫仲蔵を導きます。端役にくさる仲蔵を諭し、舞台に失敗したと思い込み、上方へ逃げようとする仲蔵を、快く送り出そうとします。サクセス・ストーリーにおいては、真の理解者の存在は欠かせません。主人公には、折れた心と消えない向上心の二つが同居しています。その向上心を体現しているのが、出世噺の妻ということになります。出世噺の主人公は、いつも夫と賢い妻の二人だと言えます。(写真:四代目尾上松緑の定九郎 出展:shouroku-4th.com)

2022年10月11日火曜日

厳島観月能

人間国宝・友枝昭世氏が、毎年、舞っている厳島観月能を観ることができました。毎年10月、満月か、その前後の日を選び、厳島神社の能舞台で行われます。1996年に開始され、コロナ禍で中断されたものの、2年振り、24回目となる厳島神社の恒例行事です。マイクは使わず、照明も最低限にし、客席には、厳島神社の西回廊がそのまま使われます。あたかも室町時代の能舞台が再現されているかのようです。海の上の舞台、海の上の客席、その間を隔てるのも海というしつらえです。おぼろ月に波の音、そして波に揺れる光が舞台を照らします。能の幽玄の世界が、これほど見事に出現する機会もないのではないかと思いました。

厳島神社の能舞台は、1605年に、福島正則により創建されています。1568年、毛利元就が、厳島神社に、観世太夫を招いて、能を奉納したことがきっかけとなったようです。以降、2度の建替えを経て、現在の姿になっています。2度目の建替えは、1994年に完成していますが、台風で被災した建屋の建材を用いて再建されたそうです。通常、能舞台の下には、音響効果を高めるために、甕が設置されています。海のうえに建つ厳島神社の能舞台では、甕を置くことはできません。その代り、舞台の床板自体の反響性を高めるため、根太を三角形にする等の工夫がなされているそうです。建物全体は、水に強い松材で作られていますが、能舞台、そして音響効果を高める舞台後方の鏡板はヒノキ造りとなっています。

友枝昭世氏は、現存する三人のシテ方人間国宝の一人であり、御年82歳です。その舞や所作は、無駄がなく、力まず、実に美しいものです。舞台上の、どの瞬間も絵になる能楽師です。また、朗々と響く声にも衰えがありません。個人的には、友枝昭世氏の背中がわずかに前傾するその角度が、このうえなく理想的だと思っています。それが、美しい絵姿、舞姿の根源にあるように思います。友枝昭世氏の最大の問題は、チケットが取れないことです。友の会にも入会していますが、東京での上演は、なかなかチケットが入手できません。逆に、地方での舞台の方が取りやすい面もあります。状況が許せば、毎年、厳島神社観月能を鑑賞したいものだと思います。

厳島神社は、593年、土地の豪族が神託を受け、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)を祀る社殿としいて建立されています。宗像三女神の一柱である市杵島姫命は、水の神とされます。島全体が神の島として神聖視されていたため、北側の浜辺に社殿が設けられたようです。厳島の名は、この市杵島姫命から来ているようです。1168年には、当時、安芸守でもあった平清盛によって、現在の姿に至る社殿が作られています。隆盛を誇った平家の氏神として栄えますが、平家滅亡後も信仰を集め続けます。その後、16世紀になり。毛利元就の厚い庇護を受けることになります。毛利元就にとって、厳島は、陶晴賢を破り、芸備防長雲石の6ヶ国を支配するきっかけとなった土地でもあります。一入ならぬ思い入れがあり、能楽を奉納したことも理解できます。

毛利元就が陶晴賢を破った厳島の戦いは、1555年に起こっています。陶軍25,000人に対して、毛利軍5,000人という劣勢ながら、山から毛利軍、浜では小早川軍、海は村上水軍と、三方からの奇襲をかけ、打ち破ったとされます。優れた軍略家とされる毛利元就の名を知らしめた戦いです。しかしながら、実際に、その戦場跡に立ってみると、随分と狭い土地であり、そのような大人数での戦いは考えにくいように思いました。実数はともかくとしても、現在ロープウェイが通る紅葉谷からの奇襲は、実に効果的だったものと想像できます。嵐の翌日で、陶軍は油断していたともされます。嵐のなか、奇襲の態勢を整えたことも、軍略家らしい見事な判断と言えます。なお、戦いの最中、陶軍が厳島神社に火を放ち、毛利軍が必死で消火したという逸話も残ります。(写真出典:bunka.nii.ac.jp)

2022年9月13日火曜日

奥州安達原

凶弾に倒れた安倍晋三元首相は、山口県選出の国会議員でした。長州が生んだ8人の宰相のなかでは、地元人気はいまいちだったと聞いたことがあります。その理由を聞けば「だって東北の人でしょう」という答えが返ってくるのだそうです。確かにその通りですが、千年も前の話です。安倍氏は、10~11世紀、奥六郡を中心に、現在の岩手県から青森県東部までを支配した大豪族です。安倍氏は、勢力を拡大するとともに、半独立国家的な色彩を強め、朝廷への貢租を怠るようになります。朝廷は、安倍氏追討のために、源頼義を送り出します。いわゆる前九年の役です。安倍氏は敗れ、惣領であった安倍貞任は厨川柵で討ち死に、弟である宗任らは捕縛され、伊予国、後には筑前国宗像の筑前大島に流されました。

安達原と言えば、鬼婆の話と決まっていますが、浄瑠璃の「奥州安達原」は、全く異なるストーリーを持ちます。安倍貞任・宗任兄弟は、敵である源頼義一党を打ち、天皇の弟君である環宮を抱えて、独立国家建設を計ります。環宮を奪われた養育係の平傔仗直方は、勅使によって切腹を命じられます。切腹の時が迫るなか、浪人と恋仲になり、16歳で出奔した傔仗の長女・袖萩が、娘のお君をつれて両親を訪ねます。夫と離れ、門付芸人にまで落ちぶれた袖萩は、そこひを患い視力を失っています。降りしきる雪のなか、薄着に凍えながら、袖萩は許しを請う祭文を謳います。直方は、娘を抱きしめたい気持ちを押し殺し、武家の理を通して、娘との面会を拒絶します。直方の妻・浜夕は、二人の間に立って、右往左往しますが、夫に従わざるを得ません。

袖萩が持っていた夫の書き置きから、袖萩の夫が安倍貞任であることが判明します。貞任は、環宮を誘拐し、直方を切腹に追い込んだ張本人です。無念を抱えたまま直方は切腹し、この世をはかなんだ袖萩も、後を追うように自ら胸に刃物を刺します。しかも勅使になりすましていたのは、安倍貞任本人でした。おりしも、安倍宗任を捕縛した源八幡太郎義家が居合わせます。義家は、兄弟の敵である源頼義の長男であり、その嫁は袖萩の妹です。義家は、勅使に化けた貞任を見破ります。いきりたつ貞任でしたが、義家は、娘と瀕死の嫁を抱いてやれと諭します。そして、お互い武士ゆえ、戦場で相まみえようと、兄弟を逃がします。これでもか、と因果を重ね込んだ浄瑠璃らしい展開に目頭が熱くなりました。

奥州安達原は、近松半二らの合作で、1762年に初演されています。能楽の「善知鳥」や「安達原」の要素も取り込んでいるとされます。浄瑠璃でも歌舞伎でも、主に上演されるのは、上述した”袖萩祭文の段”になります。史実との関係で言えば、もちろん貞任は既に戦死していますし、直方の娘は、源頼義に嫁ぎ、八幡太郎義家を生んでいます。例によって、虚実ごちゃ混ぜのストーリーですが、よくもここまで泣ける話を組み立てられるものだと感心します。加えて、八幡太郎義家の名声の高さは理解できますが、安倍貞任・宗任兄弟についても、当時、そこそこ知られていたことが窺い知れます。前九年の役における源頼義の活躍が、その後の源氏の隆盛や正統性の礎になった面があり、安倍兄弟もよく知られていたのかも知れません。ちなみに、安倍晋三氏は、宗任から数えて44代目にあたるようです。

浄瑠璃は、惜しげも無く人間国宝を舞台に繰り出します。現在の人間国宝は、太夫の豊竹咲太夫、三味線の鶴澤清治、人形は、吉田簑助、吉田和生、桐竹勘十郎の5人です。今般の奥州安達原でも、うち3人が共演していました。桐竹勘十郎の袖萩など、見事なもので、客席の涙を大いに誘っていました。能楽のシテ方人間国宝の舞台は、滅多に観ることができません。そこへ行くと、浄瑠璃は、誠にありがたいな、と思うわけです。と同時に、浄瑠璃界の層の薄さの現われとも言え、いささか残念な気もします。三宅坂の国立劇場は、2023年10月をもって閉場し、建て替えに入ります。再開場は、2029年秋とのこと。その間、浄瑠璃東京公演は、舞台を探しながらの不定期公演になるようです。いささか寂しくなります。(写真出典:otube.osakazine.net)

2022年6月12日日曜日

さんさ踊り

初めて、盛岡さんさ踊りを見たのは、2016年、青森開催となった「東北六魂祭」でのことでした。六魂祭は、各県を代表する祭をパレード化したイベントであり、東日本大震災の鎮魂と復興を願って、2011~2016年、東北6県持ち回りで開催されました。その後も「東北絆まつり」として継続されています。青森はねぶた、岩手はさんさ、秋田は竿灯、山形は花笠、宮城は仙台七夕に代えて雀おどり、福島はわらじ祭が披露されていました。手前味噌にはなりますが、ねぶたに敵う祭など東北にはありません。ただ、盛岡さんさ踊りの勢いには圧倒されました。もちろん、さんさは知ってはいましたが、これほど魅力的な踊りとは知りませんでした。完全になめていました。

さんさは、アップテンポなリズムに乗せて踊られます。人数も含め、中心を成すのは太鼓踊りです。体の前につけた直径約50cm、重さ6~7kgという和太鼓を叩きながら軽快に踊ります。さらに、動きの速い手踊り、歌い手、笛と鉦で構成されます。最も多い数の和太鼓の演奏としてギネス世界記録も持っているようです。また、「サッコラ チョイワヤッセ」という独特な掛け声も、なかなかいい調子です。サッコラとは幸呼来であり、チョイワヤッセは囃子声。幸せを呼ぶよう皆で踊ろうといった意味だと言われているようですが、他の民謡や踊りの掛け声と同様、意味ははっきりしていません。そもそも「さんさ」も、掛け声が起源と言われます。”さァ、さァ、踊りましょう”といった感じなのでしょう。

さんさは、江戸期から盛岡近郊で踊られていた盆踊りを、1953年に統合して今の形になりました。歴史の浅さゆえ、私にまでなめられていたわけです。さんさの起源も不明なのですが、なかば公式的に言われているのが、三ツ石伝説との関係です。盛岡で最も古いとされる三ツ石神社には、岩手山噴火の際に飛んできたとされる三つの巨石があります。これは、なかなか迫力のある岩です。かつて羅刹という鬼が出て、これを三ツ石神社の神様が退治します。その際、二度と現われない証文として、岩に鬼の手形を残させます。これが岩手の語源となりました。人々は鬼退治を祝って三ツ石の周りを踊ります。これがさんさの起源となりました。なお、鬼の手形は風化したとされ、現在は残っていません。ねぶたの坂上田村麻呂起源説と同様、観光ビジネスの匂いがする話です。

盛岡は、昔から「不来方(こずかた)」とも呼ばれます。今も、様々な形で使われている呼称です。文献としては、南北朝時代までさかぼる地名と聞きます。この不来方は、”鬼が二度と来ない土地”という意味だとされます。鬼がらみかどうかは別としても、確かに風変わりな地名です。鬼は蝦夷を指すという説もあります。ただ、大和朝廷に下ったとは言え、蝦夷だらけの土地なわけですから、さすがにあり得ません。この地に進出した初代南部藩主が、不来方という地名を忌み嫌い、森が岡、転じて盛岡になったとされます。ちなみに、岩手という地名は、三ツ石の鬼の手形のことではなく、岩手山にちなんでいます。岩手山の語源は、”岩出(いわいで)”、つまり噴火を表わす言葉だとされています。

日本三大囃子と言われるのは、江戸の「神田囃子」、京都の「祇園囃子」、そして秋田県鹿角の「花輪囃子」です。花輪囃子は、他の二つに比べて意外な感じもしますが、実は平安時代末期から続くとされる古い囃子です。飛び跳ねるようなテンポが特徴的で、太鼓、笛、鉦に、江戸期からは三味線も加わり、賑やかなものです。鹿角は、北奥羽中央に位置し、8世紀初頭に開山したとされる尾去沢鉱山の銅や金で栄えた土地です。平安期から都との交流があったわけです。江戸期には、南部藩の領地となります。個人的には、さんさ踊りは、歴史ある鹿角の花輪囃子が起源なのではないかと思っています。(写真出典:morioka.keizai.biz)

2022年5月30日月曜日

Anything Goes

よらず舞台は楽しくて、はまるものです。舞台の魅力は、様々あるのでしょうが、映画・映像と比べれば、その本質が明らかになるように思います。要は、臨場感ということになのでしょうが、生身の人間が演じているので、受ける印象も感情移入も、より現実的になります。クロード・ルルーシュ監督の「あの愛をふたたび」のなかで、ジャン・ポール・ベルモンドが、つまらないショーを見ている時には、ずっと一人の踊り子だけを見るんだ、と話していました。結構、舞台の本質をついたセリフなのではないかと思います。映画は、我々が見るものを監督がフレームとして決めます。舞台では、常に全体が視野に入っています。よって我々が見るものを決めるとも言えます。

NYにいた頃、日本から来た人たちのお付き合いで、年に2~3本、ブロードウェイ・ミュージカルを見ていました。当時は、「コーラス・ライン」、「レ・ミゼラブル」、「ミス・サイゴン」、「42nd Street」等がヒットしていました。私が、一番好きだったミュージカルは、なんといっても「エニシング・ゴーズ」です。コール・ポーターの大ヒット・ミュージカルです。コール・ポーターは、アメリカを代表する作詞・作曲家です。アイヴ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン、オール・オブ・ユー、ビギン・ザ・ビギン、ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ等々、数々のスタンダード・ナンバーを生み出しました。また、ミュージカル作者としても活躍し、映画化もされています。

ミュージカルは、大衆芸能だと思います。ブロードウェイ・ミュージカルは、かなりレベルの高い演出・パフォーマンスですが、それでもにアメリカらしい大衆芸能だと思います。シリアスなものも良いのですが、明るく、楽しく、ちょっと涙もある、というスタイルが、最もアメリカ的だと思っています。そういう意味も、「エニシング・ゴーズ」は最高だと思います。NYからロンドンに向かう豪華客船で起きるドタバタを描いたロマンティック・コメディです。ミュージカルのストーリーは、単純なものが良く、そこに、いかにヴァリエーション豊富な歌や踊りを入れられるかという勝負だと思っています。そもそもAnything Goesの意味は”何でもあり”です。「エニシング・ゴーズ」は、何度も上演されていますが、私がリンカーン・センターで見た1988年版は、トニー賞も獲得しています。 

実にアメリカ的なミュージカルを、日本で商業的に成功させたのが、浅利慶太と劇団四季です。1979年上演の「コーラスライン」の成功、そして、1984年、西新宿のテントで行った「キャッツ」のロングラン公演で人気を確立したとされます。「キャッツ」は、日本初のロングラン公演でした。多くの団員を抱え、7つの常設劇場を持ち、年間3,000ステージを公演しています。劇団四季は、とにかくチケットが入手できないほどリピーターで混んでいます。私も、何度か観ました。歌も踊りもレベルが高いと思います。ただ、演奏が生ではなくテープだという点が、ミュージカルの魅力を大きく損ねていると思います。もちろん、それが劇団四季の収支を下支えしているのでしょうが。

「42nd Street」も印象に残るミュージカルでした。1933年のミュージカル映画を舞台化したものです。アメリカ人の大好きなサクセス・ストーリーですが、ブロードウェイの内幕ものでもあります。アメリカ的なサクセス・ストーリーでは、家族や仲間たちによる支え、恋人の理解、意地悪だけど後に良きサポーターとなるライバルや上司といった要素が定番です。「42nd Street」には、その全てが入っています。そして、ミュージカル制作者たちへの深い愛情も伝わる傑作でした。ミュージカルもそうですが、舞台は、観るものも、創るものも、一度ハマったら、なかなか抜け出せない魔力があると言えます。(写真出典:anythinggoesmusicalcinema.com)

「オデュッセイア」