2024年11月29日金曜日

繁昌亭

大阪の「天満天神繁昌亭」は、上方落語の数少ない定席です。 2006年、上方落語協会会長だった6代目桂文枝(当時は桂三枝)の呼びかけで開場しています。繁昌亭は、大阪では、実に半世紀ぶりとなる定席の復活でした。もちろん、定席がなくても落語家は高座に上がることはできます。ホールやこじんまりとした会場での演芸会、あるいは地方での公演ということになりますが、残念ながら不定期の開催になります。大物は別として、定席がなければ、落語家は、収入を得ることも、芸を上達させることも難しくなります。そういう意味で、定席の復活は、上方落語家の悲願だったと想像できます。天満天神という名称は、土地を無償提供した大阪天満宮、開場に尽力した天神橋筋商店街に感謝してつけられたのでしょう。

今般、初めて繁昌亭に行く事ができました。平日の昼席のことですから、客もまばらだろうと思っていましたが、200席強ある客席は、ほぼ満席という繁昌ぶりでした。”伝統芸能を守る”という言葉がありますが、落語は守られるようになったらお終いだと思います。時代が変われども、人を惹きつけてこその大衆芸能だと思います。とは言え、娯楽の多様化とともに、寄席は姿を消してきました。東京には、上野の鈴本演芸場、新宿の末広亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場に、今は建替中の国立演芸場を加え、5つの定席があります。しかし、大正13年には、117の寄席があったのだそうです。現存する寄席以外で言えば、1970年に人形町末廣が閉場しています。すべて畳敷きという江戸時代さながらの寄席だったようです。

上方落語が定席を失った理由は、娯楽の多様化とは別にもう一つあったように思えます。漫才ブームです。寄席の色物に過ぎなかった漫才が、主役にのし上がるという下剋上が起きたわけです。現在の漫才につながるしゃべくり漫才は、昭和初期の横山エンタツ・花菱アチャコに始まるとされます。大人気となり、追随するコンビが多く生まれたようです。漫才が人気になった背景にはラジオの普及があったとされます。1959年の皇太子ご成婚とともにTVが普及すると、再び漫才はブームの様相を呈していきます。漫才の歴史は、マス・メディア抜きには語れないわけです。背景には、花月劇場とTVの相乗効果をねらった吉本興業の作戦があったとも言われます。漫才に押されて、落語の人気は落ち、寄席も消えていくことになりました。

凋落した落語界ですが、四天王と呼ばれた松鶴、小文枝、春団治、そして米朝が上方落語復興に向けて大活躍します。上方落語、中興の祖とも言える名人たちでした。なかでも、後に人間国宝にもなった桂米朝は、上方落語を極めると同時に、TV・ラジオでも活躍し、大人気となります。他にも三枝(後の文枝)、鶴瓶、仁鶴、ざこば、文珍等々もTVタレントとして人気を博します。また、高座では枝雀が大人気を博します。ただ、いずれも個人的な人気でした。彼らが落語を演じるとしてもホールが中心となり、寄席の人気回復にはつながらなかったと言えます。寄席が吉本の花月劇場に変わったのだと言えるのかもしれません。ただ、花月の番組は、新喜劇と漫才が中心であり、落語や他の芸が入ることは希になりました。

江戸落語は座敷噺に始まり、上方落語は辻噺が起源とされます。上方落語は、往来を行く人の足を止める必要から、親しみやすく笑いのとれる噺が多く、じっくり聞かせる世話物は少ないと言われます。また、見台や小拍子を使うことや音曲をはさむ”はめもの”を使うこと等も、人目をひく必要から生まれたとされます。客の気をそらすことなくたたみかけてくるところが、上方落語の醍醐味だと思います。繁昌亭の高座で、一人、興味深い噺家がいました。二代目桂枝曽丸です。かつらを被り、老女の出立で現れたのには驚きました。開口一番「びっくりしたでしょう。すぐ慣れますから」とやって笑いをとっていました。和歌山のおばあちゃんという設定で、ディープな和歌山弁を使って新作落語を披露します。東京ではとても考えられないことです。ある意味、最も上方落語らしい光景だと思いました。(写真出典:hanjotei.jp)

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