2021年7月31日土曜日

陰陽師

安倍晴明
今年は、安倍晴明の生誕1100年にあたるそうです。陰陽師・安倍晴明は、とても有名ですが、他の陰陽師の名前を聞いたことがありません。そもそも陰陽師は、歴史にその名が登場するような職業ではないのでしょう。陰陽師は、律令体制下の陰陽寮に所属する官吏でした。陰陽五行思想に基づき、占いを行うことや地相を見ることが職務ですが、天文、暦、儀式等にも関与し、律令体制を支えました。性格的には技官であり、位は決して高くありませんでした。また、渡来人も多く登用されていたようです。

平安期に入ると、怨霊対策としての御霊信仰が広がり、陰陽寮は、密教や道教に由来する呪術等をも担うことになります。やや怪しげな存在になっていったわけです。律令体制に緩みが生じてくると、門外不出だった陰陽道は、陰陽寮の外にも長けた者が現れ始めます。都に疫病をもたらす怨霊に呪術で立ち向かうまではいいのですが、立身出世等といった個人的な目的による呪詛が流行り始めます。その頃、陰陽寮を牛耳っていたのは、賀茂家と、その弟子である安倍晴明にはじまる安倍家でした。陰陽道のうち主に天文道を伝授された安倍晴明は、雨ごいや天皇の病封じでの実績が認められて、重用されていきます。

その道のスターとなった安倍晴明は、生前から神格化が始まっていたようです。ただ、本格的には、その死後、神社が複数創建され、神になっていきます。その動きを担ったのは、一般人ではなく、市井に溢れるようになった陰陽師たちだったようです。いわば神技を誇った匠を、その道に携わる人々が神格化したというわけです。安倍晴明の屋敷跡に創建された清明神社が、その後、縮小され、荒れたままになったのは、陰陽道の衰退と軌を一にしたということなのでしょう。明治になると、神社の格式としては最も低いものの、村社として認定されています。

清明神社が脚光を浴びるようになったのは、何といっても夢枕獏の小説「陰陽師」シリーズが生み出した安倍晴明ブーム以降ということになります。1986年、「オール讀物」に掲載された短編小説から始まったようです。大人気となり、おびただしい数の小説や関連図書が出版されていますが、93年に漫画化されると、その人気は社会現象レベルに達し、映画化、TVドラマ化、舞台化されていきます。漫画化によって、特に若い女性層を惹きつけたことが大ブームにつながったのでしょう。安倍晴明にインスパイアされた音楽と衣装で、羽生結弦がフィギア・スケートの頂点に立ったことも、いまだ清明人気が高い証左なのでしょう。

小説も、マンガも、映像も見たことがありませんが、おそらく陰陽師の怪しげなところが、人気の源なんでしょう。先の見えない時代に人気となるのは理解できます。それはそれでいいのですが、平安期における安倍晴明の位置づけを、現代に置き換えれば、恐らく、海外からもたらされた最先端技術を扱う科学者といった風情だったのではないでしょうか。ことに天文道ともなれば、数学にも通じており、実際、安倍晴明は、後年、主計寮のヘッドも務めています。主計局長では、フィギア・スケートのテーマにはなりにくいでしょうね。(写真出典:yomiuri.com)

2021年7月30日金曜日

イエロー・リボン

NYにいた頃、友達の家での誕生日会に参加した長女を迎えに行くと、もうすぐ終わるから、と言われ、大きな居間に通されました。既に10人くらいのアメリカ人のお父さんたちが待っていました。ちょうど湾岸戦争の最中であり、その日は、地上戦”デザート・ソード作戦”発動直前でした。 居間の大きなTVでは、湾岸戦争の発端となったイラクのクウェート侵攻を解説していました。解説をする軍事評論家は、クウェート侵攻を真珠湾攻撃に例えます。宣戦布告なきだまし討ちだというわけです。居間の空気が凍り付きました。

誰も話さず、目も合わせない状態がしばらく続きました。ようやく誕生日会がお開きになった時には、ホッとしました。真珠湾攻撃から半世紀を経て、ルーズベルト大統領による陰謀説もよく知られていても、「リメンバー・パール・ハーバー」というプロパガンダは、依然、大きな影響力を持っているわけです。イラクが、突如、クウェートに侵攻したのは、1991年8月2日のことです。イラン・イラク戦争の戦時債務と石油価格の低迷で経済的苦境にあったイラクは、OPECの協定を破って増産を続け、かつ隣接する油田の採掘を巡って争っていたクウェートを激しく非難していました。

各国による調停もむなしく、イラクは機甲師団をクウェートに侵攻させます。国連安保理は、即時撤退要請を決議しましたが、国連軍の編成まではできず、アメリカを中心とした有志による多国籍軍が編成されます。9月には、多国籍軍がサウジへの兵力の集結を開始。アメリカ国内では、予備役の召集が始まります。知人のなかで招集された人はわずかでしたが、その家族や友人、そして顧客企業の従業員の多くがサウジへと向かいます。TVは、連日、戦場の状況を伝え、郵便局には”戦地へ手紙を送ろう”という大きなポスターが掲げられ、そして家族を出兵させた家を中心に黄色いリボンが木々に結ばれました。突如、アメリカは、戦時下の国になりました。

イエロー・リボンの起源は、17世紀、イングランド内戦の際、ピューリタン側が黄色いリボンを身に付けて戦ったことにあります。その伝統は、新大陸にも伝えられ、アメリカ陸軍騎兵隊が黄色いバンダナを好んで使うことになります。20世紀初頭には、出征した恋人を思って、女性が黄色いリボンを首に巻く、という俗謡が流行ります。ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の「黄色いリボン(She Wore a Yellow Ribbon)」(1949)で、イエロー・リボンのイメージは定着します。それを木に結び付けるという習慣は、1973年、ドーンがヒットさせた「幸せの黄色いリボン(Tie a Yellow Ribbon Round the Ole Oak Tree)」がきっかけとなったようです。ヴェトナム戦争末期のことであり、多くの家の木にイエロー・リボンが結び付けられました。

「幸せの黄色いリボン」は、刑務所から出所した男と妻の話です。出典には、いくつかの説があります。ピート・ハミルが、フロリダで聞き、71年にニューヨーク・ポストに書いた記事が初出という説。60年代には、ある信者の話として、教会関係者の間で広まっていたという説。「幸せの黄色いリボン」の作詞者は、軍隊で聞いた話としています。山田洋次監督のヒット映画「幸せの黄色いハンカチ」は、ピート・ハミル版を原作としています。山田洋次の映画のヒットは、日本人に、黄色いハンカチと刑務所というイメージを植え付けました。アメリカでは、依然、イエロー・リボンは、出征兵士の帰還を願うサインであり、戦争の都度、多くの家で見かける光景です。(写真出典:spu.edu)

2021年7月29日木曜日

曜変天目

静嘉堂文庫蔵曜変天目茶碗
丸の内の三菱一号館美術館で「三菱の至宝展」を見てきました。オリジナルの三菱一号館は、1894年、ジョサイア・コンドルの設計で建てられました。当時、三菱ヶ原とも呼ばれた丸の内に建造され、周囲にレンガ作りの建物が次々と建てられたことから、「一丁倫敦」とも呼ばれました。1968年に、老朽化のため解体されますが、2009年、オリジナルを忠実に再現した現在の一号館が竣工しています。明治初期の煉瓦は、既に国内で焼いているところがなく、わざわざ中国奥地まで行って再現した、と聞きます。

展覧会の目玉は、静嘉堂文庫が所蔵する国宝・曜変天目茶碗です。曜変天目は、世界に3点しかありません。すべてが日本にあり、すべてが国宝となっています。東京の静嘉堂文庫、大阪の藤田美術館、京都大徳寺の塔頭龍光院に所蔵されています。曜変天目は、鉄釉を使う天目茶碗のうち、内側に大小の斑点があり、各斑点の周りに深い青色の暈がかかり、しかも玉虫色に輝いているものを言います。まるで茶碗のなかに大宇宙が広がっているかのような風情です。しかも、それが予期せぬ偶然の産物であり、自然が自ら宇宙を描いたということもできます。

曜変天目は、すべて、南宋時代に福建省の建窯で焼かれています。これほどの名品が、3点しかなく、かつすべて日本にあるのは、大きな謎だとされています。当時、曜変天目が焼きあがると、不吉なものとして、その場で割られていたのではないか、という説が有力です。完全な形で残っている茶碗は日本の3点だけですが、中国では、破片が見つかっているようです。焼き上がりに、狙いとは異なる代物が混じっているわけですから、不吉とまでは言わなくても、基本的には不良品です。それが如何に趣のあるものだとしても、量産型の窯では、歓迎されなかったのは当然です。ある意味、日本の侘茶が、曜変天目を発見したと言えるのかも知れません。

静嘉堂文庫の曜変天目は、稲葉天目とも呼ばれます。曜変天目茶碗の中でも最高の品と評されています。そもそもは、徳川将軍家が所蔵していました。三代将軍家光は、乳母である春日局が病を得た際、これを見舞いとして贈っています。その後、春日局の実家である譜代大名稲葉氏が代々所蔵し、明治になって、三菱財閥4代目総帥の岩崎小弥太が購入しました。小弥太は、今につながる三菱財閥を築け上げた人物です。曜変天目を手にした小弥太が「天下の名器を私如きが使うべきでない」として生涯使うことがなかったという話は有名です。

他の2点のうち、藤田美術館所蔵のものは、水戸徳川家に伝わっていたもので、非鉄金属で財を成した藤田財閥が、大正時代に購入しています。これは見たことがあります。斑点が外側にもあることが特徴です。残る1点、龍光院のものは、もともと堺の豪商津田宗及が所蔵していたとも、黒田長政が所蔵していたともされ、はっきりしていないようです。いずれにしても、龍光院曜変天目は非公開であり、見たことはありません。最も斑点が少ないものの、幽玄の趣があるとされます。一度、見てみたいものです。(写真出典:seikado.or.jp)

2021年7月28日水曜日

わらび餅

宝泉「わらび餅」
十年程前、下鴨神社近くの「茶寮 宝泉」で、初めてわらび粉100%のわらび餅を食べました。形を保てないほどプルプルしているにもかかわらず、食べるとキシキシとした食感がありました。たまたま、女将さんから、話を聞くことができました。稀少な国産本わらび粉と少量の砂糖のみを使って練り上げていること、商品化するまで十年近く試行錯誤を重ねたことなどを伺いました。宝泉は、京都駅の新幹線改札内の「京下鴨 宝泉」を出していますが、本わらび餅は、下鴨の本店でしか食べれません。大人気の行列店ですが、待つ価値は十分にあります。

最も好きなわらび餅は、名古屋徳川町の「芳光」のものです。賞味期限が当日ということもあり、東京にはあまり知られていないように思います。ただ、祇園の芸妓と話したら、京都の花街では有名とのこと。京都・名古屋間は、新幹線で50分程度ですから、手土産にもなるわけです。固体と液体の間くらいのプルプルの中に上品な味のあんこが包まれています。絶品としか言いようがありません。わらび餅は、夏場のお菓子と思っていましたが、芳光では、7〜9月、わらび餅は売りません。この時期のわらび餅は、保存がきかないからだと聞きました。

名古屋で、わらび餅の移動販売を見たことがあります。東日本では、まったく見たことも聞いたこともない光景に驚きました。小型トラックで、わらび餅と連呼しながら売っていました。聞けば、昔は、夏場、よく冷やしたわらび餅をリヤカーで売りにきたものだそうです。名古屋だけかと思ったら、大阪にも、わらび餅の移動販売は残っているようです。確かに、冷やしたわらび餅は、つるんとした食感が一段とよくなり、冷たい食べ物が少なかった時代には、夏場のお菓子として最適だったのでしょう。

わらび餅の起源は、よく分かっていないようですが、少なくとも醍醐天皇が好み、太夫の位を授けたという記録が残っているようです。以降、わらび餅は、別名、岡大夫とも呼ばれるそうです。わらび粉が貴重だったため、公家階級だけが楽しんでいたようです。鎌倉期以降、茶の湯の普及とともに、一般化していきます。ただ、わらび粉は高価なものだったため、くず粉等を混ぜて作るようになったようです。また、わらび粉は奈良の名産だったことから、まずは関西一円で広まり、関東へはお茶の文化とともに伝わったようです。

関西では、あんこ入りのわらび餅が、多いように思います。対して、関東では、黒蜜、きな粉をかけて食べることが一般的です。この違いが生まれた理由は、よく分かりません。ただ、いずれも美味しいと思います。東京で、国産わらび粉100%のわらび餅は聞いたことがありませんが、くず粉入りでも、十分に楽しめます。ただ、そうなると、わらび餅とくず餅の違いが判然としなくなります。関西では、明解に使う材料で違うという事になります。ところが、ややこしいことに、東京のくず餅は、くず粉ではなく、発酵させた小麦粉が使われます。(写真出典:tabelog.com)

2021年7月27日火曜日

「ライトハウス」

監督: ロバート・エガース     2019年アメリカ

☆☆☆☆

傑作ホラーと評判の高い作品です。35ミリ白黒カメラで撮った、ほぼ正方形に近い画面なので、日本の映画館で上映することは難しいとされていたようです。実際、スクリーン設定ができず、画面の両端がぼやけたままでの上映となっていました。また、これを単にホラー映画と呼ぶのも、いささか躊躇します。確かに、ホラーとしての要素はあるものの、神話的、哲学的、心理学的アスペクトも色濃く、単なるホラーとも呼べないように思います。では、何か、と問われると、なかなか答えが思いつかないユニークなエンターテイメントだと思います。

映画は、当初、エドガー・アラン・ポ―の未完の小説「灯台」の映画化という発想からスタートし、その過程で知った”スモールズ灯台の悲劇”と呼ばれる事件にインスパイアされたようです。1801年、ウェールズ沖合の岩礁に立つスモールズ灯台に、仲の悪い二人の灯台守が勤務します。一人が不慮の事故で死ぬと、自分の犯行と疑われることを恐れた灯台守は、遺体を海に捨てませんでした。悪天候が続き、交代要員が来れない状態が続き、灯台守は、腐乱した遺体とともに仕事を続けます。助け出された時、灯台守は、既に発狂していました。以降、灯台守は3名で勤務するようになったと言います。

映画は、白黒の正方形画面に加え、冒頭から、不気味な霧笛の音とおどろおどろしい音楽で、クラシックなゴシック・ホラー感を高めています。船乗り由来の海の神話や伝承が”白鯨”的な味付けをし、スカトロも含めた心理学的要素もちりばめられます。二人の灯台守の葛藤のドラマですが、片目のカモメが重要な要素を担い、かつ効果的に使われてます。大自然の象徴なのかもしれません。若い灯台守の名前に関する伏線も効いています。スモールズ灯台の悲劇の二人も同じファースト・ネームでした。これがヒントになったのでしょう。

主演二人の演技は鬼気迫るものがあります。二人芝居と言えば、ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ監督の「スルース」を思い出しますが、今回はミステリと違って、着地点が見えないだけに、一層、二人の演技のレベルの高さが求められたと思います。しかしながら、二人の演技力、様々な道具立て、それらに増して、監督の演出が見事だったと思います。最も高く評価すべきは、本格的ゴシック・ホラーを作り上げたこと以上に、それを、あくまでも上質なエンターテイメントとして実現している点だと思います。

本作は、ロバート・エガースの第2作にあたります。監督デビューとなったホラー映画「ウィッチ」(2016)も、高く評価され、大ヒットしています。17世紀のニューイングランドを舞台に、入植民一家の惨劇を、端正な画面と文法で描いていました。間違いなく、これからの映画界を背負う監督の一人だと思います。また、製作配給の「A24」は、NY拠点の独立系の会社ですが、今、エガースの他に「ミッドサマー」の奇才アリ・アスター等も抱え、波に乗っていると言えます。しばらくは映画界に大きな変化をもたらす台風の目であり続けるのでしょう。(写真出典:eiga.com)

2021年7月26日月曜日

緞通

山形緞通
昔、イスタンブールで、夜のガラタ橋に行ったところ、おじさん達がトルコの伝統酒ラクをふるまってくれました。ガラタ橋は、船が行き来する中央部を除き、下層部が飲食店街になっており、有楽町のガード下といった風情です。ラクは、ブドウから作り、ういきょう(フェンネル)で香り付けした蒸留酒です。ギリシャのウーゾ、アラブ諸国のアラックと同じ酒です。無色透明な酒で、水で割ると白濁します。おじさんたちのなかに、グラン・バザールで絨毯屋をしている人がおり、明日、店に来たら、格安で売ってやると言われました。

グラン・バザールは、一つの屋根の下に、3千数百の店が並ぶ巨大スークです。結局、玄関マット・サイズの小さな絨毯を買いました。たかだか1~2万円程度にもかかわらず、値段交渉は、トルコ・コーヒーを飲みながら、1時間程度かかりました。トルコ絨毯はペルシャ系で、足が短く薄手のカーペットです。対して、中国式の足の長い厚手のカーペットは「緞通(だんつう)」と呼ばれます。日本では、江戸期、中国から技術が入ります。日本三大緞通と言えば、鍋島、大阪、赤穂ですが、日本最高峰の緞通は、山形で作られています。

山形県山辺町にあるオリエンタル・カーペット社は、1935年、渡辺順之助が、北京から技術者たちを招き、創業しています。地域再生のために、当時、少なかった女性のための仕事を作ることが目的だったといいます。日本で唯一、糸づくり、染色、織り、アフターケアまで、一貫して行う手織緞通メーカーです。品質の高さで知られ、製品は、バチカン宮殿はじめ、皇居新宮殿、赤坂離宮、京都迎賓館、歌舞伎座、各国の在日公館等に納入されています。また、近年では、個人向けに「山形緞通」というブランドも立ち上げています。

十年ほど前、山形の本社を訪問したことがあります。かつての城跡という小高い丘に建つ本社は、木造2階建て、昔の小学校を思わせるような建屋でした。応接室に通され、驚きました。20畳ほどの部屋一面に、色鮮やかな緞通が敷かれ、歩くと足跡が残ります。何よりも、その艶やかさに驚きました。聞けば、創業間もなく織られた絹の緞通で、80年くらい経っているとのこと。その間、5回ほど洗濯はしたが、直しはしていないとのこと。緞通も、ペルシャ絨毯も、使い込むほどに美しくなると聞いていましたが、まさにその通りでした。

平織ではなく、パイルのある絨毯は、3千年前のペルシアで生まれたとされます。その技術がシルクロードを通って、中国に伝わったのが唐代のことだったようです。明代には、中国緞通が隆盛期を迎えたようです。唐以前にも中国独自のカーペットは存在し、古くは魏国が邪馬台国に贈った記録もあり、正倉院にもフェルト地のものが納められています。緞通は、ダイナミックな世界史観を雄弁に語る品物の一つだと思います。(写真出典:yamagatadantsu.co.jp)

2021年7月25日日曜日

フレンチ・ポップ

ゲンスブールとバーキン
入社して3年目、東京本社へ転勤になって、はじめての大晦日、「銀巴里」の年越しライブに行きました。海外旅行で知り合った人が、シャンソン好きで、連れて行ってくれました。銀巴里の後は、神田明神で初詣。以降、我が家の初詣は神田明神と決めていますが、銀巴里は再訪することもなく、1990年に惜しまれつつ閉店しました。ただ、先輩にシャンソン好きがいて、コリドー街の「蛙たち」には、何度か行きました。蛙たちの歌手たちは、女性は越路吹雪風、男性は若い頃の美輪明宏風とステレオタイプ化していたことを覚えています。

シャンソンは、朗々と歌い上げる曲、あるいはパリのエスプリを感じさせる小粋な歌、いずれも素晴らしいとは思いますが、さほど好みではありません。戦後すぐ多感な時期を送った先輩たちにとって、シャンソンは、粋な文化の香がしたのでしょう。シャンソンもカンツオーネも、単に”歌”を意味する言葉であり、特定のジャンルではありません。60年代になると、フランスでは、”イエイエ”と呼ばれるポップが主流となります。日本では、フレンチ・ポップと呼ばれ、ミッシェル・ポルナレフ、シルヴィ・ヴァルタン、フランソワーズ・アルディ等がヒットを飛ばしました。

フレンチ・ポップの時代を切り開き、常にビッグ・ネームであり続けたのは、セルジュ・ゲンスブールです。1965年、フランス・ギャルが歌って世界的にヒットした「夢見るシャンソン人形」は、ゲンスブールの曲です。伝統的なシャンソンとまったく異なる楽曲は、ゲンスブールの過激な言動と相まって、大いに批判されたようです。日本ではシャンソン人形とされましたが、原題は蝋人形であり、伝統的なシャンソン歌手を皮肉っているとも言われます。ただ、カウンター・カルチャーの時代にあって、フランスのみならず、世界中の若者から絶大な支持を得たわけです。

ゲンスブールの私生活もスキャンダラスでした。既婚者であったブリジット・バルドーと浮名を流し、デュエットもリリースしています。ジェーン・バーキンとは事実婚の関係となり、その性的表現ゆえ多くの国で放送禁止となった「ジュ・テーム(・モワ・ノン・プリュ )」をデュエットし、大ヒットさせています。この曲は、もともとバルドーと録音したものの、夫が激怒することをバルドーが恐れ、お蔵入りとなっていたものでした。バーキンと破局後も、ゲンスブールの女性遍歴は、亡くなるまで続きました。

ゲンスブールの墓には、今も多くの人が訪れ、花が絶えることがないと聞きます。旧体制とは一線を画すその楽曲や姿勢は、60年代の若者文化の象徴であり、同じ時代を生きた人々にとっては、青春そのものなのでしょう。そして、それ以上に、ゲンスブールの音楽的センスの良さは天才的であり、歌詞、メロディ、編曲、そして醸し出される独特なムードは、唯一無二とも言えます。フランソワーズ・アルディのカバーもヒットした”L'anamour”やカトリーヌ・ドヌーブとデュエットした”Dieu fumeur de havanes”等は、今でもよく聞きます。(写真出典:elle.com)

2021年7月24日土曜日

鵜飼

舟に乗って鵜飼見物をしたことがありません。鮎は好きですが、鵜飼を見物すること自体が面白いとは思えず、行ったことがありません。ただ、岐阜で宴席があった際、帰りしなに、土手から鵜飼を見物したことがあります。鵜の動きまでは見えませんでしたが、鵜飼船の舳先で焚かれる篝火のプリミティブな美しさにうっとりしました。 数隻の鵜飼舟が、フォーメーションを変えながら、鵜を操る様も見事で、いつまでも見飽ることがありませんでした。篝火は、鮎を驚かせるために焚かれます。ですから満月の夜には鵜飼は行われないと聞きます。

長良川の鵜匠は宮内庁職員だと聞かされ、驚きました。そもそも鵜匠とは、鵜使いの中で、宮内庁職員になっている人たちだけに許された名称だと言います。宮内庁職員の鵜匠は、代々世襲している岐阜市長良の6人、関市小瀬の3人だけとのこと。年8回行われる御料鵜飼を執り行い、獲れた鮎は皇室に献上されると言います。しかし、毎年、皇室に献上されるものを獲ったり、作ったりしている人々は、数多くいます。それを、一々宮内庁職員にしていたら、キリがありません。なぜ鵜匠だけが、宮内庁職員なのか、実に不思議なところです。

日本の鵜飼の歴史は古く、その姿の埴輪もあれば、記紀にも記載があります。また隋書には、日本へ送った使者が、変わった漁法を見たとして、鵜飼が紹介されているようです。中国にも似た漁法があるようですが、日本から伝わったものではなく、独自に生み出されたものとされています。平安の頃には、貴族たちが鵜飼を見物するという遊びも、既に行っていたようです。武家の時代になると、各大名たちが、鵜飼を保護し、見物して楽しんだようです。ちなみに、欧州の一部にも、日本、あるいは中国から伝わったと思われる鵜飼があるようです。

江戸期、鵜飼は、徐々に廃れ、一部大名に保護されるのみになったようです。長良川の鵜飼は、尾張徳川家が保護していましたが、明治になり、絶滅の危機にさらされます。明治23年、宮内省は、岐阜県知事の要請を受け、鵜匠を職員とするとともに、長良川に御料場を設置し、御料鵜飼を開始します。御料場の設置は、鵜飼を他の献上品と区別して宮内省直轄とする理由になりますが、十分ではありません。そこで持ち出されたのが、律令体制のなかで鵜匠が官吏であったという記録です。長良川の鵜匠は、かつて朝廷お抱えだったわけです。前例さえあれば、役人は安心して、事を進められます。

現在、鵜飼は全国13ヵ所で行われています。日本の鵜飼はウミウを使いますが、全国で2カ所を除き、あとは全て茨城県日立市の伊師浜海岸で捕獲されたウミウが使われています。鵜は保護鳥であり、捕獲は禁じられています。唯一、伊師浜海岸だけが例外として許可されています。喉を絞められている鵜飼の鵜は、一定サイズ以上の鮎は飲み込めず、吐き出されるわけです。ただ、小ぶりなものは胃に収まるようです。先月、琵琶湖の稚鮎を天ぷらでいただきましたが、程よい苦みが春を感じさせました。そろそろ成魚の塩焼きも食べたい季節になりました。(写真出典:mainichi.jp)

2021年7月23日金曜日

華氏451

NHKの「100分de名著」は、なかなか面白い番組です。いつも見ているわけではないのですが、先日、レイ・ブラッドベリの「華氏451度」(1953)を取り上げた放送を見ました。華氏451度は摂氏にすると233度になりますが、紙が自然発火する温度だとされています。 「華氏451度」は、本を読むこと、本を所持することが禁じられた世界を描くSF小説です。無機質で、画一化された全体主義の恐ろしさを伝え、物質文明の持つ体制順応的傾向に警告を発した本です。番組を見ているうちに、フランソワ・トリフォー監督の名作「華氏451」(1966)が、無性に見たくなりました。幸い、Amazon Primeで、久々に見ることができました。

主人公の職業ファイアマンは、消防士という意味ですが、「華氏451」の世界では、火を消すのではなく、本を見つけて、焼き尽くす仕事です。焚書は、歴史の混乱のなかで、しばしば行われてきました。最も有名なのは、秦の始皇帝による「焚書坑儒」、そしてナチスによる焚書だと思われます。始皇帝は、秦の統一国家体制を批判する儒家はじめ諸子百家の本を燃やしました。ナチスは、カール・マルクスの著書等「非ドイツ的」な書物、あるいは近代的絵画を退廃的として燃やしました。つまり、焚書は体制にとって危険な思想を弾圧していますが、「華氏451度」の世界では、すべての本とその”弊害”が弾圧されます。

ファイアマンの所長は、アリストテレスを読むと、自分が偉くなったと信じ込む、それはよくない、幸福な道は、万人が同じであることだ、と語ります。全体主義の戦略を雄弁に語るセリフです。画一的な家に住み、画一的なTV番組を見せられ、人々は思考することを止めていきます。その先に焚書があります。ブラッドベリが「華氏451度」を書いた時代、アメリカは、まさに急速な物質文明化を進めていました。郊外の家、車、家電、スーパーマーケット、これが幸福への道だと、皆が信じ始めていました。その先にある思考停止の状態を、ブラッドベリは警告したのでしょう。

斬新で美しい映像、巧みな映画文法、いつもながらトリフォーには感心させられます。英国での撮影は、英語が得意ではないトリフォーにとって苦痛だったと聞いたことがあります。確かに、いつもの流れるような演出ではないようにも思えます、しかし、それが、かえって緊張感を生み出しているようにも思えます。象徴的存在である二人の女性をジュリー・クリスティーが一人で演じ分けています。さすがの存在感です。「ダーリング」でアカデミー主演女優賞を獲っていますが、デヴィッド・リーン監督の「ドクトル・ジバコ」、あるいはハル・アシュビー監督の「シャンプー」は印象に残ります。

映画のなかで、実に多くの本が焼かれていきますが、結構、本のタイトルが分かるような撮り方をしています。つまり、トリフォーは、焼かれる本を、丁寧に選んでいるように思われます。反体制派の隠れ図書館のような家が焼かれる際、主人公は一冊の本をバッグに隠します。カスパー・ハウザーに関する本でした。19世紀初頭のニュルンベルクで発見された謎の少年です。少年は、世間と全く隔離された環境で16歳頃まで育ったと推定され、常識も、言葉も、人間としての後天的知識を一切持たず、ただ異様に鋭敏な五感を持っていたとされます。カスパー・ハウザーを、全体主義下の社会に重ね合わせていたのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年7月22日木曜日

茗荷

子供のころから、茗荷が大好きでした。薬味でも、酢の物でも、漬物でも大好きです。中でも、刻んで出汁醤油を掛け、そのままご飯に乗せて食べるのが一番好きです。うまく理由は説明できないのですが、茗荷は”食べる禅”だと思っています。茗荷は、食べ過ぎると物忘れすると言われ、八百屋の符丁でも「馬鹿」と呼ばれます。科学的根拠のない話ですが、自分の抜けたところは、人よりも茗荷を食べ過ぎたせいか、と妙に納得もしています。

茗荷を食べ過ぎると物忘れする、という話は、釈迦とその弟子・周梨槃特(シュリハンドク)の故事に基づくと言われます。周梨槃特は、物忘れがひどく、自分の名前も忘れるので、釈迦は、木札に名前を書き(名荷)首から下げさせました。周梨槃特が死ぬと、墓から出てきた植物があり、茗荷と名付けれた、という話です。もちろん仏典にある話ではなく、まったくの俗説。生姜は、食べ過ぎると腹痛を起こします。生姜の食べ過ぎを戒めた話が、ショウガ科の茗荷と混同されたという説もあります。

実は、周梨槃特は、十六羅漢に列せられる聖人です。前世の因果で愚鈍に生まれた周梨槃特に、釈迦は「塵を払う、垢を除く」と書いた布を渡し、それを唱えながら、ひたすら掃除をさせます。永年、それを続けた周梨槃特は、塵・垢とは、心の汚れであることを悟り、解脱して大悟を得ます。この周梨槃特は、「天才バカボン」の”レレレのおじさん”の原型だとする説もあります。赤塚不二夫が、そう言っているのではないようですが、赤塚不二夫が仏教に造詣が深かったことはよく知られています。

茗荷は、東アジア原産です。3世紀以前に生姜類として渡来し、香りの強いものが兄香(セノカ)、弱いものが妹香(メノカ)と呼ばれ、セノカが変じて生姜、メノカが茗荷になったといいます。茗荷を栽培し、食用とするのは日本だけです。英語でも"myoga" と呼ばれます。味の濃い中国や韓国では、香りと辛みの強い生姜が好まれ、中途半端とも言える茗荷の出番などなかったのでしょう。比較的あっさりとした味付で、素材の味を活かす日本の料理だからこそ、茗荷の居場所があったということなのでしょう。

昔、中国のある村に、禅宗の高僧が来るというので、村人たちが大勢集まりました。ところが、待てど暮せど僧は現れません。半日も経って、ついに僧が到着します。僧は、檀上に上がると、大音響で放屁し、大笑いをして、去っていったと言います。実に禅宗らしい面白い話だと思います。茗荷は、食感が良く、味は、なんとも言えない独特の風味があります。強烈に自己主張することもなく、世間に媚びることもなく、ただニヤニヤと薄笑いを浮かべているような茗荷の風味は、どことなく禅宗の匂いがするように思えます。(写真出典:mrs.living.jp)

2021年7月21日水曜日

馬頭夫人

能楽「玉鬘(たまかずら)」は、源氏物語が出典であり、夕顔の娘”玉鬘”の死してなお苦しむ霊が成仏する物語です。妄執に苦しむ玉鬘の霊が舞うカケリは見ごたえがあります。舞台は、奈良県東部、初瀬山の長谷寺です。国宝の本堂に鎮座する巨大な十一面観世音菩薩は霊験あらたかとされ、また牡丹の名所としても知られます。源氏物語でもモチーフとして登場する「二本(ふたもと)の杉」は、同じ根から二本の幹が伸びている杉ですが、長谷寺の境内に今も残ります。源氏物語と同様、能楽でも、長谷寺は”唐の国にまで知られる”寺として紹介されます。

”唐の国にまで知られる”と言われる元になったのは「馬頭夫人(めずぶにん)」の伝承です。唐の18代皇帝僖宗の第4后馬頭夫人は、優美で奥ゆかしく、皇帝の寵愛を受けます。ただ、顔が長く、鼻は馬に似ていました。嫉妬する他の后たちは、日中の宴席を設け、馬頭夫人の器量の悪さを皇帝に印象づけようとします。悩んだ夫人は、仙人に相談します。すると、日本国は長谷寺の観音様こそ極位の菩薩ゆえ、東方を礼拝せよ、と言われます。夫人は七日七夜祈り続けます。すると観音様が現れ、良い香りの瓶水を夫人の顔に注ぎます。

絶世の美女となった馬頭夫人は、小舟に御礼の財宝を積み、東方へと送り出します。小舟は、長い年月を経て、奇跡的に明石の浦に漂着し、宝は、無事、長谷寺に納められます。既に馬頭夫人は死んで護法善神となり、人々に慕われていたと言います。長谷寺は、馬頭夫人社を造り、夫人を祀りました。馬頭夫人が寄進した宝のなかに、牡丹の種があり、長谷寺は牡丹の名所になったというわけです。もちろん、信じがたい話ですが、なぜこんな話ができたのか、何か元になった逸話があったのか、といったところが気になる話ではあります。

唐の僖宗帝の在位は9世紀後半、黄巣の乱で唐が滅亡へ向かう時期にあたります。日本からの最後の遣唐使は、838~839年のことであり、僖宗帝の即位前でした。894年にも遣唐使派遣が企画されますが、唐の情勢が混乱していることから中止となっています。注目すべきは、朝廷が、唐の情勢を知っていたことです。最後の遣唐使のなかで唐に残った僧侶の記録もあり、また、空海十大弟子の一人真如こと薬子の乱で廃位された高岳親王が、864年に入唐し、その後、天竺(インド)を目指して旅立ち、消息を絶ったことも知られています。

いずれにしても、正式な遣唐使とは別に、唐との人の往来が、それなりにあったわけです。ちなみに、資治通鑑等中国の文献に、僖宗帝の后に関する記述は見当たらないようです。当時の長安で流布された噂話が伝えられ、長谷寺の箔付けに活用されたということでしょうか。それにしても、その頃、すでに長谷寺は名刹として知られ、霊験あらたかな観音様は大人気だったようなので、なぜ、あらためて箔付けの話を創作する必要があったのか、実に不可思議だと思います。(写真:馬頭夫人像 出典:moonsunwish.com)

2021年7月20日火曜日

「グッド・ワイフ」

監督:アレハンドラ・マルケス・アベーラ    2018年メキシコ

☆☆+

「トロントはじめ多くの国際映画祭で絶賛され、メキシコ・アカデミー賞で13部門ノミネート、4部門を受賞」まではいいのですが、昨年夏の日本公開に際しては「アルフォンソ・キュアロン監督の『ROMA/ローマ』から10年後のメキシコ」とか、「社会派映画」といった宣伝文が並び、さほど期待もしていない作品ながら、「ROMA/ローマ」につられて見ました。すっかりやられました。1982年のメキシコ債務危機が背景となっていますが、政治をえぐるわけでも、貧富の格差問題に切り込むでもなく、ひたすら女性のマウンティングに関する物語でした。

アレハンドラ・マルケス・アベーラ監督は、メキシコの女流監督です。これが2作目とのことですが、いいセンスと腕の良さを感じさせます。良い脚本と出会えば、期待できる人かも知れません。原題は"Las Ninas Bien(良い娘たち)"。上流階級に生まれ、上流階級の妻としてのほほんと暮らす女性たちを、皮肉ったタイトルなのでしょう。高級住宅街の邸宅と高級スポーツ・クラブに生息し、パーティとファッションと噂話が全ての生活が描かれます。その中で、女王様的存在の主人公が、債務危機のあおりを受けて、没落するという物語です。 

本来的にはコメディに仕立てるべき素材だと思えます。それを、コメディでもシリアスでもなく、客観的、中立的に提示する昨今流行のスタイルで撮っているように見えます。そのアプローチは、まさにキュアロンの「ROMA/ローマ」的ですが、そこに少し無理があるように思えます。例えば、時代を感じさせる肩パッドの使い方等も典型です。上流社会の象徴として使われていますが、本来、喜劇的な小物だと思います。監督は、これを喜劇的に扱わない努力をしており、結果、中途半端になっています。

70年代の二度に渡るオイル・ショックに、新たな油田の発見もあり、メキシコは石油ブームに沸きます。オイル・マネーを背景に政府借款を積み上げ、民間企業も海外からの融資を増加させました。81年に石油価格の暴落が始まると、メキシコの財政は破綻、ペソは暴落します。借款や融資を争うように実行してきた外国銀行は、一切の追加融資を拒否。主人公の夫の経営する企業も、まさに海外融資を得られずに破綻します。主人公のライバルである成金女の夫は金融ブローカーという設定であり、金融の時代への変化が示唆されています。

落ちぶれた主人公と夫は、ライバルの成金金融ブローカーの助けで、職を得ます。金融ブローカー夫妻との会食の際に、主人公は、化粧室で肩パッドを外します。そして、金融ブローカーに色目を使います。上流社会が、プライドを捨てて、新たな成長ビジネスに愁眉をおくる、というわけです。監督は、メキシコの上流階級は、社会の寄生虫だと言いたいのかも知れません。”良い娘(こ)たち”というタイトルは、ここで効いてくるわけです。(写真出典:movies.yahoo.co.jp)

2021年7月19日月曜日

フローラ

ルネッサンス期のヴェネツィア派は、絵画の近代を開いたとも言えるのでしょう。デッサンを重視せず、直接、絵具を塗るスタイルで、動きのある大胆な構図や色使いを見せます。ベリーニ、ジョルジョーネ、ティツィアーノ、ティントレット等が有名です。ヴェネツィア派はすごいと思いますが、好きかと言われれば、ヴェロネーゼ以外は、さほどでもありません。ただ、一枚だけお気に入りがあります。ジェンティーレ・ベリーニの弟子だとされるバルトロメオ・ヴェネトの「フローラ」あるいは「女性理想像」です。

この作品は、ルクレツィア・ボルジアの肖像だとも言われます。兄であるチェーザレ・ボルジアに操られたファム・ファタール(魔性の女)として有名なルクレツィアは、多くの絵画や文学の題材とされてきました。しかし、この絵はルクレツィアではない、とする意見が多いようです。その根拠とされるのは、フローラが手に持つ花、そして花飾りです。このスタイルは、当時、高級娼婦を描く際の定番だったようです。ルネッサンス期のヴェネツィアでは、知的な高級娼婦が上流階級でもてはやされ、社交界の花形だったといわれます。

ヴェネツィアの高級娼婦は、御所にも出入りしていたという京都島原の大夫によく似た存在だったのでしょう。ルネッサンス期の詩人ヴェロニカ・フランコも高級娼婦であり、ヴェネツィア社交界の花形だったようです。公家文化の諸芸に通じた島原の大夫も、皇族や公家とのやりとりに和歌を詠んでいたことが知られています。同じような時期に、世の東西を問わず、高級娼婦が社交界で活躍していたことは、興味深いことだと思います。肖像画で知られるバルトロメオ・ヴェネトが、社交界の花形を描いたとしても不思議はありません。

バルトロメオ・ヴェネトに関する記録は少ないようです。当時は、人気のある肖像画家だったようですが、その後は、永らく忘れられた作家でした。40点ばかりの絵画が残されていますが、その大半が肖像画であり、教会等の大きな絵や壁画は残されていません。いわゆる大家ではなかったわけです。「フローラ」も、風俗画といった風情があります。バルトロメオ・ヴェネトが再評価されたのは19世紀に入ってからのことです。その頃、盛んに売買が行われ、欧州各地やアメリカの美術館が競って購入したようです。

「フローラ」は、黒い背景に、輪郭を強調した平面的な描写で描かれています。現代のポートレートにも通じるポージングと透明感は、500年前の絵とも思えないモダンさがあるように思います。「フローラ」は、フランクフルトのシュテーデル美術館に所蔵されています。フランクフルトへ行った際、原画を見ることを楽しみにしていましたが、ちょうど休館日と重なってしまいました。もう一度、フランクフルトに行かなきゃ、と思っています。(写真出典:ja.askwiki.ru)

2021年7月18日日曜日

赤坂の夜は更けゆく

キャバレーミカド
「赤坂の夜は更けて」は、鈴木道明作詞・作曲になる、西田佐知子の1965年のヒット曲です。いわゆるムード歌謡であり、少し洋風でモダンな香りを持つ曲です。島倉千代子、和田弘とマヒナスターズ等との競作でしたが、西田佐知子版が、最もヒットし、最もよく知られています。カバーされることも多い歌ですが、やはり西田佐知子のアンニュイな声と歌い方が、大人の街赤坂のムードによく合っていると思います。赤坂は、好きな街で、たまに行く機会もあります。夜の赤坂に行くと、今もこの歌が浮かびます。

作詞・作曲の鈴木道明は、なかなか興味深い人です。早稲田大の水泳選手として名を馳せ、幻となった1940年の東京オリンピック代表選手にも選ばれています。戦時中は、陸軍航空隊のパイロットして、南方戦線に従軍しています。戦後、ラジオ東京、今のTBSに入社し、黎明期のテレビ業界で敏腕を振るいました。赤坂が仕事と遊びの拠点だったわけです。同時に、作曲家としても活動し、日野てる子の「夏の日の思い出」や「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」、あるいはマヒナスターズの「別れても愛してる」等、 モダンな大人の曲を作っています。 

徳川家康は、江戸城の西の守りを固めるために、赤坂台地に譜代大名等の武家屋敷を構えさせます。これが赤坂の始まりとされます。溜池は、外堀の一角でしたが、風光明媚だったため、茶店ができ、岡場所(遊郭)ができ、明治以降は花街となっていきます。明治以降、赤坂の大名屋敷は、政府機関、軍施設、実業家や高級官僚の邸宅、そして多くの在日大使館へと変わっていきます。また、現在、赤坂プリンスのクラシック・ハウスとなっている李王家の東京邸があったことから、朝鮮人も多く居住し、今の韓国料理店街へとつながります。

戦後は、銀座と並ぶ高級な繁華街として発展しました。大使館も多く、高級ホテルもあったことから、外国人の多い街でもありました。国際社交場と呼ばれたミカド、ホステスだったデヴィ夫人がスカルノと出会ったコパカバーナ、力道山が刺殺されたニューラテンクォーター等、戦後の東京を象徴する大型ナイトクラブは赤坂にありました。そしてゴー・ゴー・クラブのムゲンやビブロスも赤坂にありました。また、TBSに出入りする芸能人や文化人が集う、華やかな街でもありました。こうして、大人の街赤坂が出来上がったわけです。

 「赤坂の夜は更けて」は、赤坂の最盛期にヒットした曲だと言えます。大型ナイトクラブの時代はとうに過ぎ去り、政治家で賑わった黒塀街も廃れ、赤坂にかつての勢いはありません。ムード歌謡も過去の遺物となり、日本の歌謡曲は、アイドル一辺倒の幼児化が進みました。とは言え、赤坂が大人の街であることには、今も変わりありません。(写真出典:peaceman88.jugem.jp)

2021年7月17日土曜日

黒髪

地唄舞「黒髪」
年間15~16回、仕事で京都に通っていた時期があります。お茶屋や料亭で、芸妓舞妓を入れた宴席も度々ありました。そのなかで、「衿替(えりかえ)」に、何度か居合わせました。衿替は、舞妓が芸妓になることを指します。舞妓の赤い衿が、芸妓の白い衿に変わることから、衿替と呼ばれます。芸妓になるためには、中学か高校を卒業して、まずは「仕込み」と呼ばれる見習いを経験し、「店出し」というお座敷デビューを経て舞妓になり、数年後、衿替で芸妓になります。

 衿替が近づくと、舞妓は、”おふく”という少女っぽい髪型から「先笄(さっこう)」という艶やかな髪型に変わり、お歯黒をつけて2週間を過ごします。先笄は、江戸期、結婚間もない若妻の髪型だったそうです。結婚することが許されない芸妓になる前に、新妻の真似事をさせるという気遣いだと言われます。衿替の1週間前は、先笄の髪に、三本襟足と黒紋付という正装で、お座敷に上がります。いわば少女が大人の女性としてデビューするわけです。その際、お座敷で舞うのが「黒髪」です。

地唄舞「黒髪」の元は、歌舞伎「大商蛭子島」の下座音楽です。源頼朝の恋人辰姫は、頼朝が源氏再興のために北条政子と政略結婚することを泣く泣く認めます。黒髪は、頼朝を思いながら、一人寝する辰姫の切なさが歌われています。髪は自然と伸びるので、どうにもできないことの象徴とされてきました。短い歌詞に、黒髪、枕、袖、鐘の音、白雪といった象徴的な言葉が配された名作です。黒髪を舞うことは、いわゆる旦那はいたとしても、生涯独身を貫く芸妓としての覚悟を披露するという意味なのでしょう。

京都には、今でも、祇園甲部、先斗町、上七軒、祇園東、宮川町という五つの花街があります。島原も加えることもあります。京都の人々は、花街の文化を守るために、随分とお金をかけています。それが関連する京都の様々な文化を守り、それが多くの人を京都に惹きつけ、ひいては、それが京都経済の繁栄につながることを知っているからです。一方、花街の人々は、その支援に応えるべく、相当の覚悟を持って芸や伝統を守り続けるという、とても良い関係が築かれているように思います。

ホスト側が「もう一軒!」というので、芸妓たちとクラブへ繰り出したことがありました。芸妓が、置屋に電話して、何かを届けさせました。運んできたのは”仕込み”です。中学出立ての少女に、おじさんたちは、ちょっと座れ、これを食べろ、あれを食べろ、と孫娘を可愛がるように声をかけます。少女は、「おおきに、お兄さん」と「おおきに、お姉さん」の二言だけを連発して、帰りました。京風に言えば”おぼこい”となりますが、私には”いたいけ”に見えました。伝統を守るのも容易なことではありません。 (写真出典:pinterest.jp)

2021年7月16日金曜日

大いなる自由

私は、眠る前に、本を読まないと寝付けないタチです。若い頃には、朝まで読むこともありましたが、今では、数ページで、確実に気絶します。朝、起きると、文庫本がグチャグチャになっていることも多く、数年前から、AmazonのKindleを使っています。Kindleなら、気絶しても、電源が自動的に落ち、読みかけのページが保存されます。また、本が増えて、置き場所に困ることもありません。とは言え、Kindleは、すべての本をカバーしているわけではありませんので、枕元には、何冊かの本を積んでいます。

そのなかに、昔から、常に置いてある一冊があります。天沢退二郎訳になるジュリアン・グラックの散文詩集「大いなる自由」です。グラックは、フランスのシュルレアリストとして知られますが、むしろ静謐で幻想的な世界を展開するユニークなロマンチストだと思います。グラックの主なテーマは、旅、高所、空っぽの場所の三つだと言われます。「大いなる自由」は、旅立ちの散文詩だと思います。仲間たちとの旅立ちは高揚感と不安に満ちて、しかも、その旅には目的地も終りもない不透明感が漂います。

夜の気配を残す濃い霧はひんやりとして、様々な鳥たちが鳴き、僅かに吹く風には緑の匂いが漂う朝、我々は期待と不安を胸に旅立つ。そんなイメージが湧いてきます。そして、その光景には、なぜか心が癒されます。1952年に、私家版として、63部だけが発刊されたという散文詩「異国の女(ひと)に捧げる散文」は、純粋で情熱的な恋の詩のように見えますが、 実は、エキゾチシズムの本質を語っているように思えます。”異国の女”とは、エキゾチシズムそのものであり、グラックの旅の本質であるように思えます。

エキゾチシズムは、異国へのあこがれ、あるいは異国趣味のことですが、その本質は、単なる好奇心ばかりとは言えないと思います。”あこがれ”とは、対象との距離感の認識でもあります。エキゾチシズムは、今いる場所から、遠く離れた場所への逃避願望であり、そこにあるであろう大いなる自由への希求なのでしょう。でも、恐らくそこには自由などないのでしょうが…。グラックの言う大いなる自由とは、旅のことであり、もっと正確に言えば、”旅立つこと”が、大いなる自由なのではないか、と思います。

ジュリアン・グラックの小説で最も有名なのは「シルトの岸辺」だと思います。ゴンクール賞に選ばれ、かつ受賞を拒否するというエピソードまで付いています。小説というよりも静謐な散文詩といった風情の作品です。ここでも、主人公は、ある意味”旅立ち”ます。”旅立つこと”は、今いる場所からの離脱であり、”今いる場所”とは、自分や社会を規定する現状であり、現状を規定する歴史や制度でもあります。それらを否定する瞬間こそ、人間が最も自由を感じる時なのかもしれません。(写真出典:lefigaro.fr)

2021年7月15日木曜日

EGGO

「EGGO サラダ・ドレッシング」の存在を知ったのは、最近のことです。友人から、沖縄土産として、1本もらい、感動しました。聞けば、永らく沖縄で愛されるソウル・フードの一つで、沖縄でマヨネーズと言えば、EGGOだと言います。沖縄は好きで、何度も行っていますが、まったく知りませんでした。アメリカのマヨネーズ、例えば、定番の”HELLMANN’S”等は、キューピーより酸味が少なくマイルドです。EGGOは、HELLMANN’Sのマヨネーズよりも酸味と甘味が強くなっています。HELLMANN’Sの商品名は”リアル・マヨネーズ”ですが、EGGOは”サラダ・ドレッシング”となっています。要は、マヨネーズそのものではなく、マヨネーズの加工品という意味なのでしょう。

この酸味と甘味が絶妙で、卵サンドイッチやポテト・サラダ等は、材料にEGGOを混ぜるだけで、絶品ものができます。他に調味料はいりません。EGGOとトマト・ケチャップを、1対1で混ぜたものが、沖縄の定番ドレッシングだとも聞きました。言われてみれば、沖縄でよく見かけるような気がします。サウザン・アイランド・ドレッシングだとばかり思っていましたが、実はEGGOとケチャップを混ぜただけだったわけです。さすがにコールスローの場合には、レモン汁やマスタード等を加えますが、味が決まりやすい気がします。いずれにしても、EGGOをもらってから、卵サンドとポテト・サラダをよく作るようになりました。

沖縄におけるEGGOの歴史ははっきりしませんが、 間違いなく戦後の米軍統治下で広まったものでしょう。 当時は、 圧倒的国内シェアを誇るキューピーも沖縄には参入できなかったわけです。また、キューピーがアメリカ人好みの味ではなかったことも関係しているかも知れません。実は、EGGOはカナダで生産されています。なぜ、アメリカのHELLMANN’Sではなかったのかは、興味深いところです。ネットで見る限り、理由は不明です。恐らく、米軍の指定マヨネーズはHELLMANN’Sだったと思いますが、一時的な品薄等の理由で、代用品としてのEGGOが輸入されたのでしょう。HELLMANN’Sの入荷が再開されると、余ったEGGOが市中に流出し、その酸味と甘味が、沖縄の人々を虜にしたということなのでしょう。

この春、そのEGGOが、市場から消えるという事件が起きました。ネットで簡単に買えていたものが、押しなべて、売り切れ、入荷予定なし、となりました。沖縄のスーパーでも、銀座のわしたショップでも、棚から消えたと言います。ネットでは、生産中止か、輸入停止かと騒ぎになっていました。沖縄県民にとっては、ソウル・フードだけに、死活問題でした。実際に、起きていたことは、北米からの輸送船の手配がうまくいかず、一時的な品薄状態が生じていたようです。そんな状態が、 2〜3ヶ月も続いたでしょうか、 今は在庫も十分あるようです。沖縄以外にもEGGOファンは広がっており、 恐らく販売量は増えているものと思われます。 是非とも、 安定的供給をお願いしたいところです。 

琉球の歴史を思えば、心が痛むところがあります。ただ、中国や大和の文化を取り入れ、独自の文化を築いてきた歴史でもあります。同様に、いまだに続く米軍基地の問題はあるものの、一方で、アメリカ文化を取り入れてきた面もあります。食文化では、スパム、コンビーフ、タコス、ステーキ、英国製ながらアメリカ人の好きなA-1ソース等々があげられ、EGGOも、 その一つということになります。EGGOの独特な酸味と甘味は、チャンプルー文化が発見した味なのかも知れません。(写真出典:pinterest.jp)

2021年7月14日水曜日

坐禅

永平寺禅堂
うちの宗派が曹洞宗であることもあり、本山永平寺には何度か行きました。といっても宗教行事ではなく、単なる観光としてですが…。数年前には、坐禅体験をさせてもらいました。1回の坐禅は”一炷”と言われ、線香が燃え尽きるまでの約40分間行います。姿勢と呼吸を整え、半眼にして坐禅に入ると、アッと言う間に終わりの鐘が鳴りました。うまく表現できないのですが、なにかスッキリした印象があり、次は3泊4日の参禅に参加しようと思いました。ところが、参禅してきたという友人がおり、体力が持たないからやめた方がいい、と言われ、断念しました。

禅宗では、修行僧は”雲水”と呼ばれます。行く雲,流れる水のように、一切の執着を断ち、禅の境地をめざすという意味です。参禅では、雲水たちと同じ修行を行います。3時30分に起床、偈文を唱えながら洗面、すぐに1回目の坐禅に入ります。坐禅は、1日5回行われます。暁天坐禅の後は朝の勤行です。そして、道元禅師が定めた作法に則り、粥に香の物だけという、ごくわずかな朝食を取ります。その後は、全力で雑巾がけ等の作務に打ち込みます。以降、勤行、坐禅、作務を繰り返し、夜9時に就寝となります。激しい作務は体力勝負であり、少量の食事で空腹状態が続き、かつ作法だらけの食事は食べた気がしないと言います。

夕食は”薬石”と呼ばれます。かつて、雲水の食事は日に1度だけで、後は温めた石を抱き、空腹に耐えたものだそうです。薬石の由来です。雲水は、ひと月もすると少食に慣れてくるそうですが、その時点で栄養失調になっているとも聞きます。文字通り、道元禅師の「只管打坐」実践の場ということです。山に入るには、相当の覚悟が必要であり、世間との関わりを一切断つ、まさに”出家”ということになります。永平寺には、常時、150人程度の雲水がいます。寺を継ぐために修行する若い僧たちに加え、禅にあこがれて飛び込んだ人たちも多いようです。彼らは高学歴者が多く、雲水の出身大学を見れば、東大が最も多いとも聞きます。勉学に励み、エリートとして社会に出て、初めてアイデンティティの危機に直面した人たちなのでしょう。

ヒンドゥーの瞑想は、3千年を超える歴史があり、様々な形へと進化しています。仏教の中の瞑想や坐禅も、その一つと言えます。近年、アメリカ生まれのマインドフルネスが評判になっています。職場でのメンタル問題への対応として、評価されているようです。マインドフルネスは、宗教色を消した瞑想と言われます。意識を集中させる仏教の瞑想法サティが元になっています。対象に一切判断を加えずに意識を集中し、何事にも惑わされない状態を得ることが目的です。対して坐禅は、同じ仏教であっても、まったく異なります。単純に言えば、坐禅に目的はありません。ただひたすら坐禅することが目的だと言えます。まさに”只管打坐”であり、修行がそのまま悟りであるとする”修証一如”ということになります。流れ来る様々な想いを、そのまま流し、呼吸に意識を集中していきます。その先には”心身脱落”という道元禅師が悟りを得た境地があります。

私は、永平寺で坐禅の際に使う丸座布団も買い込み、家で坐禅をしておりました。しかし、家での坐禅では、今一つ没入できない面もあり、最近は、ほとんど行っていません。ただ、丸座布団は、国技館のマス席で相撲観戦をする際、私の必須アイテムとして活躍しております。道元禅師には、怒られそうですが、実に塩梅が良く、心静かに観戦しております。(写真出典:fukui-tv.co.jp)

2021年7月13日火曜日

ドギー・バッグ

アメリカの習慣で、これはいい、と思ったのがドギー・バッグ(doggy bag)です。レストラン等で、食べ残しが出た際、店の人が「ドギー・バッグはいりますか?」と聞いてくれます。犬の餌として持ち帰るという意味でドギー・バッグと呼ばれますが、お互い、人間が食べることは承知のうえです。店側としては食中毒の責任を回避する意味合い、客側は浅ましさを糊塗する便法として、犬用だとするわけです。フードロスが大問題となるなか、日本でも一般化すべき習慣だと思います。ただ、店で持ち帰り用の容器等を頼むと、保健所がうるさいからという理由で、断られる場合がほとんどです。

余った料理を持ち帰るという発想は、昔から世界中にあったのではないか、と想像します。日本でも、祝儀や不祝儀の宴席料理を折詰にして持ち帰ることは一般的でした。地方によっては、最初から持ち帰ることを前提とした宴会料理の出し方まであります。そういった際には、さすがに生ものや傷みやすいものは避けるのが常識となっています。調べてみると、実は、持ち帰りを禁止する法律は存在しません。ただ、食品衛生は、持ち帰った食品で食中毒が発生した場合でも、店側の責任が問われることがある、と解釈できます。要は、店が責任を持てない部分まで、店の責任とされかねないわけです。当然、店側の予防的措置として、持ち帰りは拒否されることになります。

2009年には、日本でもドギー・バッグを広めようという「ドギーバッグ普及委員会」が、容器メーカー、広告代理店、研究者等で結成されています。持ち帰り専用ボックス、自己責任カード等を作成し、配布しているようですし、農水省、環境庁、消費者庁とも連携しています。また、自治体でも、例えば大津市等は、独自の取組を続けているようです。ドギー・バッグ使用ガイドを作成し、「正しいドギーバッグ使用を推奨する運動」、略して「ドギーバッグ運動」を展開しています。フード・ロスは、人類共通の課題です。SDG’sに対応した自治体レベルでの取り組みは、賞賛に値します。ただ、残念ながら、いずれも浸透しているわけではないようです。

浸透しない理由は明確です。単なる呼びかけや運動だけでは、店側のリスクは残ったままだからです。アメリカも日本も、食品衛生法に大きな違いはないと思います。アメリカのドギー・バッグも、法律上、明文化されているわけではないでしょう。しかし、自己責任という思想が浸透しているアメリカでは、成り立つわけです。それが曖昧な日本でドギー・バッグを普及させるためには、何らかの法的対応が必要だと思います。保健所を所轄する厚生労働省としても、法令が無ければ、動きにくいことはよく分かります。食中毒が出れば、責められるのは厚労省ですから。保健所が動かない限り、飲食店はリスクを取るわけにはいきません。

持ち帰った食品で起こった食中毒に関しては、その都度、原因が、店側にあるか、客側にあるか、徹底調査すればいいわけですが、結構、手間もかかり、判断も難しいと思います。とすれば、店の外に出た食品に関しては、原則として客の自己責任だとする法令を整備するしかありません。英国やフランスでも、ドギー・バッグ普及に向けた行政の取り組みが始まっているようです。ことにフランスでは、ドギー・バッグ推進に向けた法制化も検討されているようです。(写真:ドギーバッグ普及委員会配布シール 出典:doggybag-japan.com)

2021年7月12日月曜日

「Mr.ノーバディ」

 監督:イリヤ・ナイシュラー       2021年アメリカ

☆☆☆

どこか懐かしさを感じさせるアクション映画です。映画の半分くらいが、キレのいいアクション・シーンになっていますが、基本的には、ほぼハリウッド伝統のアクション・コメディとなっています。さえない主人公、あり得ない主人公のバックグランド(どうせあり得ないので細かな説明はしない)、美人の奥さん、家族の絆、ラスト・シーンで悪人は斬新な方法でやっつけられる、といった基本要素が網羅されています。実に暴力的な映画ですが、安心して見ていられる娯楽映画に仕上がっています。

主役のボブ・オデンカークは、コメディアンですが、見事なアクション・シーンを見せています。コメディアンが極悪人や異常者を演じると、実に恐ろしくなることがあります。崔洋一監督の「血と骨」におけるビートたけしの演技等も典型と言えます。笑いと異常性が深く関係しているといったことではなく、もともと想像力豊かで、芝居がうまい人だったということなのでしょう。オデンカークは、冴えない父親としては同情したくなるほどみじめで、暴力を振るうと空恐ろしくなるという見事な演技を見せています。ちなみに、オデンカークの父親役として、バック・トゥ・ザ・フィーチャーのドク役で知られるクリストファー・ロイドが出ており、いい味を出しています。

伝統的なアクション・コメディと言えますが、多少、異なるテイストを感じさせる面もあります。アクション・シーンの暴力が、かなりハードな描写になっているのです。昔のアクション・コメディは、もっとユーモラスな暴力描写になっていました。ゲームの世界が暴力で溢れる時代、映画の暴力描写もハードにならざるを得ないのかも知れません。加えて、監督の持つ傾向も影響していると思います。ナイシュラーは、ロシアのミュージシャン出身。自分のバンドのミュージックビデオを監督し、好評を得たことから、映像の世界に入ったという人です。2015年に映画「ハードコア」を監督しました。映画は、トロント映画祭観客賞を受賞、90年以降、最も成功したロシア映画となりました。サイボーグの一人称視点だけで構成されたスピード感ある映画でしたが、ユニークであることを目指し過ぎる傾向、そしてえげつないほどハードコアな暴力描写が、結構、不快でした。

どうもロシア人は、極端に走る傾向を持っているように思います。世界中で、ロシア人は笑わない、と言われているようです。常日頃は、非常に抑制的で、何かあると、極端に弾ける、といった印象です。音楽や映像でも、たまに感じますし、ウォッカの飲み方にも感じます。映画のなかのロシアン・マフィアほど恐ろしい人たちはいません。この映画に登場する悪役のロシア人も、信じがたいほどに暴力的です。恐らく、厳しい気候、生活の苦しさ、長く続く抑圧的な政治体制等が、ロシア人の気質に深く影響しているのだと思えます。世界初の共産主義革命は、たまたまロシアで起こったのではなく、ロシアだからこそ起きたのでしょう。

ハリウッド伝統のアクション・コメディも、ロシア人が撮ると、味付けが異なって当然です。オデンカークの奥さんは、コニー・ニールセンが演じています。「グラディエーター」や「ワンダー・ウーマン」のシリーズで有名な、モデル出身のデンマーク人です。美人ですが、北欧的な暗さを持つ女優です。普通に考えれば、コメディへのキャスティングはあり得ません。このあたりにも、少し変わったテイストのアクション・コメディとしての特徴が出ています。(写真出典:eiga.com)

2021年7月11日日曜日

博多天ぷら

天麩羅処ひらお本店
博多への出張は、いつもアドレナリンが出ます。街も、街の人たちも、明るく元気があるので、こっちまでワクワクしていまいます。博多らしさが爆発するのは、やはり夜です。中州のネオン、立ち並ぶ屋台は、博多の真髄なのでしょう。そして、多様な博多グルメこそ、最大の楽しみです。うどん、ラーメン、水炊き、もつ鍋、呼子のイカ、ごまさば、明太子、鶏皮、鉄鍋餃子、まだまだありますが、忘れてはいけないのが”博多天ぷら”です。出張した際には、可能な限り、”ひらお”で天ぷら定食を食べていました。 

博多天ぷらが、東京の天ぷらと異なる点は、3つあると思います。まずは、揚げ出しスタイルです。例えば、”ひらお”は、全席カウンターになっており、揚げたての天ぷらを一品づつ提供してくれます。やはり天ぷらは、揚げたてが美味しいわけです。東京でも、高級店のカウンターに座れば、同じことなのですが、値段が違いすぎます。二つ目は、肉類の天ぷらです。最近、東京でも見かけるようになりましたが、伝統的には肉類の天ぷら等は外道です。とり天はうまいに決まっていますが、薄切りの豚や牛も、なかなかのものです。三つ目は、食べ放題のおかずです。”ひらお”の場合、絶品の塩辛、もやしのナムル、大根のきんぴらの三種です。明太子のやまやが経営する”やまみ”では、定番の塩辛に加え、明太子も食べ放題です。

博多天ぷらの歴史は、いま一つはっきりしないのですが、皆さんの話からすれば、どうも”ひらお”が始めたスタイルが広がっていったようです。”ひらお”は、1977年、まだ田んぼが広がる東平尾に野菜・精肉・鮮魚を同時に扱う河内商店としてオープンします。翌年、隣に”ドライブインひらお”を開きます。先代が、仕事もせず、プラプラしていた近所の若者たちの勤め口として、そして手に職を付けさせるためにオープンしたと言います。そこで評判の良かった天ぷらを専門にしたのが79年。それ以降、博多天ぷらスタイルを貫いているようです。本店は、いまでも福岡空港近くの東平尾にあり、四六時中、混雑しています。私は、天神の店へ行きますが、前の店も、移転後の店も、いつも大行列です。ただ、とても回転が速いので、並ぶ価値はあります。

博多天ぷらの魅力の一つは価格です。”ひらお”の揚げ出しの天ぷら定食が7~8百円というのは驚きです。博多の食べ物が安くておいしい理由は、食材の豊かさにあります。甘味の強い魚介類は目の前の玄界灘から、野菜類も、近隣から豊富に供給されます。近年、博多天ぷらの東京進出も増えています。前述の”やまみ”もそうですが、価格も、結構、がんばっています。さらに、日本橋の天丼の名店金子半之助も、博多天ぷらスタイルの「天ぷらめし金子半之助」を開くなど、広がりを見せています。たまに日本橋の”天ぷらめし”に行きますが、相も変わらず長蛇の列です。ただ、ここも回転が速いので、一回転待つくらいの列なら、さほど時間はかかりません。名物である卵の天ぷらをご飯に乗せて食べれば、結構、幸せになれます。

寿司屋は高級店と回転寿司に、 蕎麦屋も高級店と立ち食いに二極化していますが、天ぷらは、 やや微妙です。 天ぷら自体は庶民的な惣菜ですが、 天ぷら屋は高級なものになりました。江戸の名物、寿司・蕎麦・天ぷらは、もともと屋台の食文化です。時代が変わっても、この三品は庶民の味方であってほしいと思います。そういう意味では、博多天ぷらの江戸での頑張りを応援したいものです。(写真出典:fukuoka.bocco.com)

2021年7月10日土曜日

地球平面説

コロンブス
「昔の人は、地球が平面だと思っていた」と多くの人が、漠然と認識しているのは、実に興味深いことだと思います。試しに、友人たちに聞いてみると、皆、そう思っていました。何を根拠にそう思っているのか、と聞くと、昔、学校で習ったような気がする、と答えていました。 私も同じです。確かに、世界各地には、大昔から地球平面説があり、所によっては、あるいは宗教的観点から、近世まで残っていた例もあります。日本でも、南蛮船が渡来するまでは、地球球体説は存在しなかったようです。ところが、実際には、紀元前6世紀には、ピュタゴラスによって唱えられ、天文学の世界では常識となり、中世には、一般化していたようです。

どこで間違った認識が広がったのか、ということに関しては、諸説あるようです。コペルニクスが唱え、ガリレオ裁判でよく知られる地動説と勘違いされているという話もあります。しかし、最も有力な説は、「中世は暗黒の時代だった」という説との関連です。欧州における中世とは、ローマ帝国の滅亡後からルネサンスの時代までの間を指します。高い文明を誇った古代ローマが蛮族によって滅ぼされ、文化文明が途絶え、替わってキリスト教の重苦しい支配が続いた時代とされます。確かに、古代ローマの建築物などは破壊されたものも多く、また、神が全てを創ったと言われれば、科学が生まれる余地はなくなります。

しかし、実態は、決して文化文明が途絶えたわけではなく、連綿と継続、発展していました。14~16世紀に起きた古代文化の復興運動、つまりルネッサンスの担い手たちが、その意義を強調するために、中世は暗黒の時代だったと盛んに唱えたようです。また、プロテスタントは、カソリック批判のために、カソリックが支配した中世は暗黒の時代だったと宣言したようです。さらに啓蒙主義の時代になると、その革新的な思想を広めるために、暗黒の中世との対比が使われています。暗黒の中世というイメージは、それを利用したい人たちによって、都合よく創られ、定着していった、いわば神話に過ぎなかったわけです。これも、歴史は勝者によって創られる、という例なのでしょう。

暗黒の中世に関する典型的な例えの一つが、地球平面説だったようです。暗黒の中世に生きた人たちは、地球が平面だと思っていた、というわけです。それを覆すべく立ち上がったのが、クリストファー・コロンブスだった、というおまけも付きます。真っ赤なウソです。その時代、地球球体説は、既に一般化しており、コロンブスが実証しようとしたのはインドまでの距離でした。アラビアの文献を航海の根拠としたコロンブスは、アラビア・マイルを、より短いヨーロッパ・マイルと誤解するという間違いを起こします。かくして、ネイティブ・アメリカンはインディアンと呼ばれ、カリブの島々は西インド諸島と呼ばれることになったわけです。球体説を実証したコロンブスという話は、「リップ・ヴァン・ウィンクル」や「スリーピー・ホロー」で知られる作家ワシントン・アーヴィングの創作だと判明しています。コロンブスの伝記を書く際、話を盛ったわけです。高名な作家による話は、事実として定着していきました。

近年、勝者の歴史ではなく、世界史観のような事実に基づいた歴史研究が盛んです。「暗黒の中世」見直し論も同様の流れなのでしょう。衛星写真等によって新たに発見された文物も多くありますが、存在は知られていても、まったく無視されてきた文献も数多くあります。「歴史的事実」という言葉は、反論できない、動かし難い事実と理解してきましたが、やや疑ってみる必要がありそうです。最近は「諸説あります」という言葉を多く目にするようになったようにも思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年7月9日金曜日

「アメリカン・ユートピア」

監督:スパイク・リー       2020年アメリカ

☆☆☆☆

デヴィッド・バーンは、音楽を表現形態とするポップ・アーティストだと思っています。70歳を迎えるデヴィッド・バーンは、今や、 NYの希少生物にして、 絶滅危惧種だと思っていましたが、なんのなんの、今だに意気軒高。本作は、デヴィッド・バーンのブロードウェイでの質の高いパフォーマンスを、スパイク・リーがフィルム化するという、いわばニューヨーク・アート・シーンのエッセンスが詰まったような作品になっています。デビッド・バーンは、 2018年の同名アルバム発売に伴って行ったツアーを、多少アレンジを加えブロードウェイの舞台にかけます。2019年から4ヶ月間、ハドソン劇場で行われたパフォーマンスは大きな反響を呼び、 デビット・バーンは、 スパイク・リーを指名して舞台をフィルム化します。ちなみに、タイトル中の”Utopia”という文字は、意味深に上下逆さの表記になっています。

デビッド・バーンを含む12人のバンドは、半分がパーカッションという編成。全員がグレーのスーツ姿で、電子楽器はワイヤレスで、パーカッションはハーネスをつけて演奏します。 全員が、ケーブルや据置具から解放され、演奏しながらダンスし、 フォーメーションを組むという斬新な舞台になっています。 舞台装置は、カーテンのように三方を囲む金属のチェーンだけというシンプルさですが、効果的に使われています。演奏される曲は、同名アルバムからだけではなく、トーキング・ヘッズ時代やソロ・アルバムのヒット曲も演奏されます。トーキング・ヘッズの代名詞とも言える「ワンス・イン・ア・ライフタイム」は、往年のファンにとっては、懐かしさもあり、鳥肌ものでした。トーキング・ヘッズは、早くからアフリカのポリ・リズムを取り入れており、今回のようなパーカッションの多い編成は、実にピッタリです。 

撮影は、ハドソン劇場に満員の客を入れて、行われています。スパイク・リーは、パフォーマンスを尊重しながら、 そつなくシャープな映像に仕上げています。デヴィッド・バーンのリズムに合わせたカット割りが、音楽との相乗効果をあげています。ジャネール・モネイのプロテスト・ソングを演奏する場面では、 警官に殺害された黒人たちの写真を挿入するというスパイク・リーの演出が加えられています。しかし、それも決して流れを遮るものではなく、むしろ効果的と言える演出になっています。デヴィッド・バーンとスパイク・リーは、共に80年代のNYで頭角を現したこともあり、交流があったようです。デヴィッド・バーンはスコットランド出身、スパイク・リーはジョージア出身ですが、二人とも、NYという街に出会ったことで才能を開花させたとも言えます。

トーキング・ヘッズは、アメリカ最高峰の美術大学とされるロードアイランド・スクール・オブ・デザインの在校生だったデヴィッド・バーン、ベースのティナ・ウェイマス、ドラムのクリス・フランツの三人が、74年に結成したバンドです。当初は、インテリ・パンク・バンドと呼ばれていたようです。ブライアン・イーノがプロデューサーになると、トーキング・ヘッズはブレイクし、80年には傑作アルバム「リメイン・イン・ライト」をリリースします。音楽性の違いを理由に、91年に解散しますが、解散前から、ティナ・ウェイマスとクリス・フランツ夫妻は、バンド内プロジェクトとして、レゲエ・ベースの”トム・トム・クラブ”を結成、”Genius of Love”等の歴史に残る大ヒットを飛ばしています。数年前、東京ビルボードで、トム・トム・クラブのライブを見ましたが、ティナ・ウェイマスの衰えぬステージに感動しました。

デヴィッド・バーンは、歌が上手いわけではありませんが、独特の高い声と神経質な歌い方が耳に残ります。何を歌っても、皆、同じに聞こえるとも言えます。どんな曲を演奏していても、途中から、リズムの強いティナのベースが入り、「ワンス・イン・ア・ライフタイム」と歌い始めるような気がしてしまいます。トーキング・ヘッズも、トム・トム・クラブも、リズムのバンドだと思います。独特なリズムへのこだわりが無ければ、ただ退屈なだけのインテリ・バンドで終わっていたように思えます。デヴィッド・バーンのリズム・センスからすれば、今回のダンス・パフォーマンスは、最高に相性がいいと言えます。そういえば、 ティナがステージで見せるバク転も有名でした。東京ビルボードでは、60歳を越えて、 なお平面展開をしていました。(写真出典:cinra.net)

2021年7月8日木曜日

消費社会への皮肉


日本で初めてのアウトレット・モールは、1993年、埼玉県のふじみ野市にオープンした”アウトレットモール・リズム”だったそうです。ここは、既に閉店していますが、全国には、今現在、33ものアウトレット・モールがあります。三井不動産系と三菱地所・サイモン系が、アウトレット・モールの二大系列となっています。店舗面積で見れば、御殿場、りんくう(泉佐野)、ジャズドリーム長島が全国のトップ3となっています。関東では、木更津、御殿場、軽井沢あたりが人気を集め、週末ともなれば大混雑しています。アウトレット・モールは、いまやショッピングの一つの形として定着した感があります。

ファクトリー・アウトレット、いわゆる工場直売店は、1930年代、アメリカ東部に誕生しました。当初は、B級品等を工場の従業員向けに販売していましたが、徐々に地域住民に開放されていきます。このスタイルは、日本でもよく見かけます。例えば、新潟の米菓工場では、敷地内の売店で、割れて出荷できない煎餅等を段ボールに入れて、1箱2~3百円で売っています。また、私は、オンワード樫山の社員販売の大ファンです。スーツはじめ、洋服の多くは、年2回程度行われるオンワードの社販で買ってきました。流行を追っているわけではないので、型落ちは問題ありません。B級品といっても、目立たない糸のほつれなど気にもしません。問題は、品揃えということになります。欲しいと思った色やサイズの服が揃っているわけではありません。アウトレットでは、商品が顧客を選ぶといってもいいのかも知れません。

各地の工場等に分散していたファクトリー・アウトレットを、ショッピング・モールのように一カ所に集めたものが、アウトレット・モール、あるいはアウトレット・センターです。なかなかの発明だと思います。世界初のアウトレット・モールは、1974年、ペンシルベニア州レディングに開設されました。顧客にとってみれば、型落ちやB級品でも、その安値は魅力ですし、メーカーにとっては、廃棄するしかなかった商品をさばくことができます。87年、はじめてNY州ウッドベリー・コモンのアウトレットに行った時には、衝撃を受けました。これは、もう小売りの革命だと思いました。ウッドベリー・コモンは、85年に、チェルシーによって開設されています。日本では、三菱地所と組むサイモンの前身です。三菱地所系のアウトレットは、ウッドベリー・コモンとほぼ同じ外見となっています。

ただ、ウッドベリー・コモンは、マンハッタンからだと車で90分以上かかる山奥にあります。車社会のアメリカでも、いささかアクセスに難ありということになります。メーカーとしては、顧客である小売店との競合を避ける必要があり、アウトレット・モールは、自ずと人里離れたところに作られるわけです。ブランドの付加価値は、精緻なマーケティングを積み上げて築かれています。アウトレットは、店舗だけではなく、品質面でも、表通りを外れ、ある意味、ブランドの付加価値を否定しています。いわば、マーケティングの否定であり、ブランド主導の消費社会への皮肉とも言えます。スポーツ・マーケティングで成功したジョン・スポールストラのベストセラー「エスキモーに氷を売る」に例えれば、アウトレットにやってきたエスキモーは、氷を買う必要がないことに気づいたわけです。

確か「北回帰線」のなかだったと記憶しますが、ヘンリー・ミラーは「文明とは、それが無ければ生きていけない物が増えることだ」と言っています。電気、車、テレビ、飛行機、コンピューター等々、言われてみれば、ヘンリー・ミラーの言う通りです。そして、科学技術の進歩の留まらず、大量消費社会にドライブをかけ、物質文明化を進めたのは、マーケティングの進化だったと思います。ファクトリー・アウトレットによって、物質文明の担い手であるメーカーが、それを自ら否定するという、なんとも皮肉な構図とも言えます。(写真:御殿場プレミアム・アウトレット 出典:ja.wikipedia.org)

2021年7月7日水曜日

ハンティング

私は、移り気なのか、集中力に欠けるのか、どうもコレクターとしての才には恵まれていません。ただ、アメリカにいるとき、たまたまデコイが気に入り、そこそこ集めました。デコイは、ハンティングの際、囮として使う木彫りの鳥の模型です。もちろん、私は、ハンティングのためではなく、単なる装飾として集めました。実際にハンティングで使われるものを中心に、アンティークや工芸品、あるいは絵画等も集めてみました。用途に応じて、様々な形、色、大きさがあります。値段もピンキリで、作家によるウッド・カービングともなれば、とても美しいのですが、べらぼうな値段になることもあります。デコイという言葉は、もともとはオランダ語の”囲う”という意味の”デ・コイ”から英語化した言葉だそうです。 

アメリカでは、スポーツ・ハンティングが、ごく一般的に行われています。さすがに大都市では稀でしょうが、郊外や地方では、多く見られる趣味です。欧州でもおなじなのだと思います。対して、日本では、愛好家は限られ、特殊な趣味といった位置付けだと思われます。日本でも、 害獣駆除や毛皮のニーズに応えるために、ハンティングが行われてきました。また、平安期から狩衣という衣装が存在し、かつ普段着になったくらいですから、スポーツ・ハンティングも行われてきたわけです。公家社会では鷹狩が人気だったようですが、室町時代あたりからは、武士たちも熱をあげるようになっています。いずれにせよ、欧州と変わらぬハンティングの歴史があったようにも思います。では、なぜ、欧米との違いが生じてきたのでしょうか。

欧米は狩猟民族の国で、日本は農耕民族の国だから、という説があります。もちろん、違います。人類は、皆、農耕民族になることで文明を築いてきました。日本は狭いから、という人もいます。ただ、国土の8割が山地という土地です。ハンティングの場所に事欠くことはありません。日本は海洋国家だから、ハンティングへの情熱が釣りに向けられたという説もあります。これは、多少うなずけるものがあります。しかし、釣りとハンティングは、二者択一という関係にはありませんから、疑問は残ります。日本は仏教国であり、殺生が戒められてきたから、という説もあります。これは、かなり有力な説のようにも思えます。無益な殺生は行わないという観点からすれば、スポーツ・ハンティングが広がらなかったことは理解できます。ただ、かつては、武士や公家は、狩りを行っていたので、これも正解とまでは言えません。

そうなると、人為的、つまり政治や治世の産物のようにも思えてきます。あまりにも金がかかる鷹狩が禁止されたことは何度かあるようですが、スポーツ・ハンティング禁止令のようなものは存在しません。戦国時代末期から、秀吉によるものなど刀狩りが幾度か行われています。いわゆる兵農分離によって、治安維持と武士階級の確立をねらったわけです。江戸期には、その考え方が、さらに徹底されます。ただ、武器を一掃すること自体がねらいではなかったため、武士以外、例えば農村部にも、相当数の刀や鉄砲が残っていたようです。大きな変化を与えたのは、明治政府による廃刀令、および銃砲取締規則だったのではないでしょうか。もちろん、生業としての狩猟、害獣駆除を禁止したわけでも、スポーツ・ハンティングを禁止したものでもありません。ただ、ここで、一般人が刀や銃を持つことのハードルが、グッと上がったのではないでしょうか。

そして、決定的だったのは、敗戦後、GHQによって行われた銃砲等所持禁止令だったと思われます。日本人は好戦的と思われており、アメリカは、占領下でのゲリラ戦を、極度に警戒していました。ここでもハンティングが禁止されたわけではありませんが、銃の所持に関するハードルがさらに上がったわけです。いまでも日本の銃規制は、世界で最も厳しいと言われます。これが、日本のハンティング文化低迷の主因だったのでしょう。加えるに、欧米との大きな違いは、江戸期の平穏にあるように思います。この間、欧米は、戦争を続け、進化した銃が蔓延していきます。そのこととハンティングは密接に関係しているように思います。(写真出典:en.wikipedia,org)

2021年7月6日火曜日

薄雪

鏑木清方「薄雪」
昭和のキャバレー王と呼ばれた福富太郎の絵画コレクション展が、東京ステーション・ギャラリーで開催されました。企画したキュレーターに拍手を送りたいと思います。 福富コレクションは有名ですが、まとまった形で見ることができる機会はほぼ無く、とても良い企画だと思います。鏑木清方を中心とした美人画の数々は、コレクターのこだわりが感じられ、統一感があるだけではなく、キャバレー王の人となりまで感じさせます。

福富太郎は、戦争直後、15歳で銀座のキャバレー「モンテカルロ」のボーイになります。カフェ、ダンスホール、キャバレー等で働き、ヤミ商売にも手を出し、いわば戦後の闇社会に関わりながら、1957年、26歳の時、神田に自ら経営するキャバレーを開店します。若いながらも、経験と人脈が豊富だった福富は、店を増やしていきます。1964年には、その後、一世を風靡することになる大型キャバレー「ハリウッド」の1号店を銀座にオープンします。生バンドが入り、ショーを楽しみながら、女性の接客を受けるキャバレーは、戦後、進駐軍向けにスタートし、高度成長期には、大衆化が進み、人気を博しました。ハリウッドは、まさにその象徴的な店であり、福富は大成功します。

福富は、ハリウッド開店直後に、鏑木清方からコレクションを開始しています。父親が大事にしていた鏑木清方の掛け軸が、空襲によって家とともに焼失した体験が背景にありました。福富は「いわば仇討ちみたいなもんだな」と語っています。戦争への仇討ちなのでしょう。いずれにしても、美術愛好家の家に育ったことが福富コレクションを生んだと言えます。福富コレクションは、鏑木清方をはじめとする美人画が中心ですが、福富自身は「存在感のある女性像に惹かれる」とも「俺は、皆が好きな伊藤深水は一枚も持っていない。幽霊顔が好きなんだ」とも言っています。”艶めかしい女性”像のコレクションと評されることも多いようですが、そういった要素も含めた女性の性の実在感こそ、福富の求めたものであり、それは母親につながる面も大きいのでしょう。

鏑木清方の「薄雪」は、福富が最も愛した絵として知られ、病を得た福富は、この絵を病室にまで持ち込んだと言います。「薄雪」は、近松門左衛門の名作浄瑠璃「冥途の飛脚」から題材を取り、客の金に手をつけた飛脚問屋亀谷忠兵衛と、その金で身請けされた遊女梅川の進退窮まった様が描かれています。実際に起きた事件がもとになっています。見事な構図に描かれた梅川の表情と姿勢が、薄幸な女性の切なさだけではなく、死を意識した女性の究極のエロティシズムをも伝えます。エロティシズムは、人は何故生きるのか、という人間の根源そのものに深く関わっています。病室の福富が「薄雪」を通して見ていたのは、人間そのものだったのでしょう。今回、 注目を集めたのは清方の問題作と言われる「妖魚」ですが、見るべきは間違いなく「薄雪」です。 

箱根には良い美術館が多く集まります。なかでも、岡田美術館は最大の規模を誇ります。パチスロ製造で財を成した岡田和生の多様なコレクションを展示しています。 重要な作品も多く、それらは見応えがあります。 ただ、私は、お金の匂いが漂うこの美術館が、どうも好きになれません。 晩年、 美術蒐集の極意を問われた福富は「値上がりを期待して金で集めたコレクションはダメだね。とにかく好きな絵を買いまくることだよ」と言っています。(写真出典:tokyoartbeat.com) 

2021年7月5日月曜日

「ゴジラvsコング」

監督:アダム・ウィンガード        2021年アメリカ

☆☆☆ー

リアルなCG、斬新なアングル、スピード感ある展開、ダイナミックな音響、そしてファイト・シーンたっぷりと、現代的な映像として、よく出来ていると思います。ただ、ドラマとしてはお寒い限りです。地下世界、親子、少女とコング、といったお決まりの設定ですが、ただの飾りになっていました。むしろ、ドラマ性を犠牲にしても、スピード感あふれる映像に仕上げたかったのでしょう。欧米では、2020年11月の公開予定が、コロナ感染の広がりで、2021年3月公開となりましたが、ヒットを記録しています。映画館の再開と重なり、映画に飢えた観客が押し寄せたのでしょう。家族や友人と、ポップコーンを抱え、声を出しながら、大画面で映画を楽しみたい人たちのためには、ピッタリの映画と言えます。

ゴジラ映画としては、36作目になるようです。1954年の第1作は、今、見ても楽しめます。登場前の不気味さ、逃げまどう人々、ランドマークの破壊、あおるカメラ・アングル、自衛隊出動時の音楽はじめ、その後の特撮怪獣映画の定番となる演出が詰め込まれていました。しかし、最大の特徴は、単なる娯楽映画ではなかったことだと思います。ゴジラは、水爆実験によって生み出されました。人類の傲慢さが人類を恐怖にさらす、あるいは人類の身勝手さに自然が逆襲する、という文明批判に貫かれたテーマのシリアスさがありました。唯一の被爆国としてのメッセージが込められていたわけです。それが映画を色褪せないものにしている面があります。

ゴジラ対キングコングという対決は、今回が初めてではありません。1962年、東宝が「キングコング対ゴジラ」を製作しています。遅かれ早かれ、対決せざるを得ない両雄でしたが、原案は、アメリカから持ち込まれました。原案は”コング対フランケンシュタイン”でしたが、資金が集まらず、対戦相手をゴジラに替えて東宝に持ち込まれました。力道山のプロレスのように、何やら日米対決的な面もあり、大ヒットします。海外でも公開されています。この作品以降、ゴジラの文明批判的な位置付けは薄れ、エンターテイメント性が高くなります。その後、しばらく、ゴジラは、人類の味方として活躍します。歴代怪獣の中で、最強と言われた宇宙怪獣キングギドラの襲来は、 人類最大の危機でした。しかし、ゴジラが死力を尽くして戦い、これを撃退、人類を守りました。 

今回、メカゴジラまで登場したのには驚きました。本作の正しいタイトルは「ゴジラ&コングvsメカゴジラ」なのでしょう。「ロボ・ゴジラか?」に対して「いや、メカゴジラだ」というセリフには、頬が緩みました。あまり人気のなかったメカゴジラですが、現代風になると、なかなかのものでした。秀逸だと思ったのは、キングギドラとの合体という発想です。ゴジラ映画の流れを変えたのは、庵野秀明の「シン・ゴジラ」(2016)でした。キングギドラの頭蓋骨のなかからメカゴジラを操縦するという設定は、庵野のエヴァンゲリオンを彷彿とさせます。ひょっとすると、ウィンガード監督が庵野に捧げたオマージュなのかも知れません。庵野は「シン・メカゴジラ」を撮るべきではないか、とも思います。

地球空洞説は、大昔から大人気の話でした。神話や小説をあげれば、キリがないほどです。現代の科学では完全に否定されていますが、かつては科学者たちも仮説を提示していました。ハレ―彗星で知られる17世紀の天文学者エドモンド・ハレ―、オイラーの公式で知られる18世紀の数学者レオンハルト・オイラー等がよく知られています。また、19世紀のアメリカで出版されたシムズの同心円理論は特に有名で、多くの小説のインスピレーションともなっています。本作でも、地下世界への入り口は南極にありますが、シムズが唱えた説が根拠なのでしょう。地球空洞説では、地下世界の重力が重要なテーマとなります。本作でも、何の説明もありませんが、重力と反重力が、うまく取り込まれています。(写真出典:theater.toho.co.jp)

2021年7月4日日曜日

排骨拉麺

万世麺店有楽町店の排骨拉麺を、40年以上、食べ続けています。豚のスペアリブを薄めにスライスし、衣をつけて揚げた排骨が、うまい出汁のラーメンに乗っています。「肉の万世」は、電気部品の販売を行っていた創業者が、ドッジ・ライン不況のあおりを受け、1949年に開業しました。当初は、コロッケの店だったようですが、今や、ステーキやカツサンドといったメニューで知られ、牛の顔のロゴで関東各地にチェーン展開しています。万世橋のたもとにそびえる万世ビルは、秋葉原のランドマークでもあります。その万世が、麺店を開いたのが、1966年のことでした。毎日、大量に出る豚骨や鶏ガラを活用する狙いがありました。その1号店が、今も続く有楽町ビル地下の有楽町店でした。

もちろん、排骨が一番の売りですが、モチモチの自家製麺もなかなかのものです。ただ、万世麺店最大の魅力はスープだと思います。惜しげもなく投入された豚骨や鶏ガラから出されるスープは独特のコクがあり、中毒性が高いと思っています。私の記憶では、長い万世麺店の歴史のなかで、3度ばかり、大きく味が変っています。恐らく時代に合わせて塩分を抑えてきたのだと思います。ただ、独特のスープのコクだけは、キッチリ保たれてきました。トッピングの排骨には、通常の排骨と脂身の少ない特選排骨の2種類があり、若いころの私の定番は、特選排骨2枚乗せ、いわゆる”特ダブ”でした。これを食べると、働き盛りでも、夕方まで空腹を感じることはありませんでした。麺の大盛もあり、”洗面器”と呼ばれていました。また、排骨、手羽先のから揚げ、叉焼をトッピングする”全部乗せ”というメニューもありました。

万世麺店有楽町店は、昔からカウンターのみです。昔は、出っ張りが3~4つある変形コの字カウンターでした。昼時ともなると、近隣のサラリーマンが押しかけ、大混雑でした。自動券売機もなく、順番も関係なく、食べている客の後ろについて、席が空くのを待つというスタイル。店内は、戦場に近いカオス状態でした。要は、食べ終わりそうな客を探し、その後ろに付くというのが常道ですが、食べるスピードには個人差があります。上策は、早食いタイプを見抜くことです。食べ終わりそうでも、食べるスピードが遅く、時間のかかる人もいるわけです。食べた後、ゆっくり水を飲み、席で爪楊枝を使いだす客もいて、そんな客には、後ろから厳しい視線が降り注ぎます。食べてる間も、常に後ろからのプレッシャーを感じるので、皆、無言で排骨拉麺と格闘していました。

食べる速さには個人差があります。持論ですが、営業現場の経験がある連中は、大体、早飯です。”早飯早糞芸のうち”という高度成長期らしい言葉までありましたが、さすがに、今は死語でしょう。万世麺店有楽町店の殺気立った昼時は、まさに高度成長期を象徴する光景でした。女性客を見ることは、ほぼありませんでした。ごくごく稀に職場の女性を連れた男性客もいました。その女性が、小指でも立ててお上品に食べようものなら、敵意むき出しの厳しい視線が集まり、危険な空気すら漂ったものです。印象的には、90年代以降、女性同士の客も増えてきたように思います。味が変わったのは、この頃だったと思います。男の戦場にも平和が訪れ、店も女性を意識した味に変えていったということなのでしょう。

40歳代まで、万世の排骨拉麺は、二日酔いの特効薬だと信じていました。もちろん、科学的根拠などありません。水分補給が必要だっただけなのかも知れません。ただ、熱いスープにたっぷりのラー油と黒コショウをかけて特選排骨を食べれば、大量の汗が噴出します。この汗が二日酔いを癒すと信じていました。もう、二日酔いするほど飲むこともありませんが、今でも月に一度くらいは、特選排骨麺を食べています。もちろん、一枚ですが。(写真出典:niku-mansei.com)

2021年7月3日土曜日

出水の後

20年熊本水害・人吉市
「水が出るぞ!」という叫び声に目が覚めたのは、午前2~3時頃だったと思います。水害など経験したことのない家でしたが、家族で家財道具を2階に上げました。あらかた片が付き、畳も上げようかというところで、水が来ました。昔ながらの重い本畳でしたが、ブワブワと浮いてきます。実に気持ちの悪い経験でした。水は、床上20~30センチまで上がり、すぐに引いていきました。日ごろは、まったく意識していなかったのですが、家は多少高い所にあり、水は、我が家を通過して、低めになっていた近隣へと流れ込んでいきました。例年よりも雪解け水が多かったところへ、大雨が降ったために、近くの川が堤防を越えたのでした。堤防が決壊し、鉄砲水でも起きていたら、大災害になるところでした。中学生の頃の経験ですが、その後も水害はなく、人生、後に先にも、たった一度の経験となりました。

 鉄砲水は別として、水害で何が大変かというと、後片付けです。水が通過しただけの我が家でも、普段の生活を取り戻すのに、1か月近くかかりました。捨てるものを捨て、床下の泥を掻き出し、家の水洗いをします。しかし、洗っても、乾くと、また汚れが浮かんできます。多少低い土地にあった近所は、なかなか水が引かず、2日ほど浸かっていました。そうなると、もっと大変です。電化製品はもとより、水に浸かった家財道具は、匂いもひどく、すべて廃棄するしかありません。水害経験のある地域では、堤防を高くする、排水プンプ施設を設ける、土地を嵩上げする、床を高くする、あるいは止水板を設置する等の対策が講じられています。それでも、ひとたび水が入れば、後片付けが大変なことに変わりありません。

新潟赴任中に、県央水害がありました。堤防が決壊し、鉄砲水が三条の街を襲いました。翌日、ジャンパーを着て、長靴を履いて、お客さまのお見舞いに出かけました。被災した大手メーカーを訪問した際、取締役総務部長が、ランニング・シャツに長靴姿で、玄関まで出てきてくれました。、従業員総出で泥の掻き出しをしているとのことでした。被害の状況や近隣企業の様子を話していると、黒塗りの大型車が玄関に横付けされ、パリっとしたスーツを着込み、ピカピカの革靴を履いた大手都銀の支店長が降りてきました。もちろん、お見舞いに駆け付けたわけですが、総務部長は、挨拶することもなく、忙しいから帰ってくれ、と追い払いました。車が走り去ると、総務部長は「ふざけあがって」と吐き捨てるようにつぶやいていました。

街中が泥にまみれ、社長であろうと何であろうと、皆、総出で、家や工場の片付けをしている最中に、スーツでお見舞いは、明らかに場違いです。かえって失礼であり、気分を害してしまいます。私のジャンパーに泥まみれの長靴という姿は違和感が無かったのでしょう。訪問したお客さまは、皆、手を休め、昨夜、経験したことを話してくれました。話を聞いてくれる人間が来るのを待っていた、という印象すら受けました。私の水害体験が活きたのかも知れません。いずれにしても、それほど水害の後片付けは大変なのです。どこから手を付ければいいのか、と呆然としてしまいます。しかし、手を動かさなければ、普段の生活を取り戻すことはできません。皆、憤りと諦めが入り混じった、妙なアドレナリンが出ていました。街中が、同じ思いで、同じように片付けをしていることが、多少の慰めなのかも知れません。

近年は、台風の大型化、線状降雨帯の発生等によって、記録的な大雨が頻発しています。かつて木で覆われた山が崩れることはありませんでした。近年は、それも限界を超えて、土砂災害が多く起こります。想定を超える雨量で、万全と思われた堤防が決壊し、水害など想定していなかった土地が水没します。一昨年でしたか、全国的にハザード・マップが改訂されました。それまで”百年に一度”程度だった災害想定は、”千年に一度”に変わりました。役所の保身とも言えますが、まんざら絵空事とも思えなくなっています。ただ、千年に一度の災害に、どこまで備えるべきか、実に悩ましいところです。(写真出典:yomiuri.com)

2021年7月2日金曜日

チップ

チップや心付けという習慣は、どうもしっくりこないものがあります。チップが生きた習慣として残る国へ行けば、忘れないように気を付けています。日本では、ほぼ廃れた習慣なので、普段、気にすることはありません。今でも心付けを渡す機会としては、温泉宿や料亭の仲居さん、相撲観戦でお茶屋を通した際の出方さん、ゴルフ場のキャディーさん、タクシーの運転手さん、稀ですが引越しの際の作業員さん、といったところでしょうか。心付けを裸で渡すことは、失礼だとされています。とは言え、滅多にあることではないので、ついついポチ袋を忘れ、ティッシュ・ペーパーに包んで渡すことになります。

 チップがしっくりこない理由は、2つあります。一つはチップが、”施し”のように思える点です。いま一つは、給与との関係です。”施し”に関して言えば、イスラムのザカートと同様、儒教等にも喜捨の精神はあり、恐らく世界中、同じような考え方があるのだと思われます。ですから、寄付や援助については十分理解できます。ただ、温情的な”施し”は、身分制度や職業の貴賤を前提にしており、相手の尊厳を傷つけるのではないか、と思ってしまうわけです。また、給与との関係については、提供されるサービスのコストは、人件費として認識されて当然であり、給与化されるべきだと思います。現在の日本では、そういう考え方が主流となり、サービス料という仕組みが存在します。欧米で見られる、不確性の高いチップを前提に、給与を低く抑える方式は、いくらサービスの向上につながると言われても、どうも釈然としません。

チップや心付けの歴史は、はっきりしていません。おそらく喜捨の精神に基づく気持ちの問題として、古くから、ごく自然に行われてきたからなのでしょう。また、かつて物品やサービスの定価が無かった時代には、価格の一部という性格もありました。典型的だと思うのは、今でも酉の市で熊手を買う際、値引きしてもらった分は、心付けとして渡す習慣があります。初めから正札方式でいいじゃないかと思ってしまいます。また、江戸期の宿代は、幕府の価格統制下で低く抑えられていたため、泊り客は、お茶代として心付けを渡す習慣があったようです。このように慣習化、あるいは制度化されたものに関する歴史的記述は、多く見つけることができますが、発祥は不明なわけです。チップや心付けの語源すら判然としません。

チップ(tip)という言葉の初出は、18世紀初頭の演劇だとされます。17世紀の犯罪社会において、手渡すといった意味のスラングとして使われており、18世紀には、タブーな物品のの不必要な贈与を意味する言葉になったようです。言葉自体は、また、習慣としてのチップの語源には有名な話があります。18世紀、イギリスのパブでは、”To Insure Promptness(早いサービスを受けるため)”と書かれた箱が置いてあり、客がお金を入れ、従業員が分配していたというのです。それ自体は事実かも知れませんが、語源、あるいは発祥とは思えません。また、かつてイギリスの床屋が行っていた悪い血を抜くサービスは価格が決まっていなかったため、チップを渡す習慣が始まったという説もあります。これも事実なのでしょうが、発祥というのは眉唾です。

ざっくり言えば、気持ちとしての心付けは、古くから世界中に見られ、社会慣習化されたチップは、欧州に深く根を張っているように思えます。その違いの背景には、市民階級の発生という歴史が関わっているように思います。つまり、歴史も古く、市民革命まで起こすほど力を持った欧州のブルジョワジーの階級意識の現れだったのではないでしょうか。近年、欧米では、チップ不要論も多く議論されているようです。いささか合理性に欠けるチップですから、当然の成り行きだと思います。(写真出典:chatelaine.com)

2021年7月1日木曜日

官僚集団

 

中華人民共和国は、社会主義市場経済を標榜していますが、ジャーナリストの楊継縄は、その著書「文化大革命五十年」(2019)のなかで、これを「権力市場主義」と呼んでいます。楊継縄は、中国共産党員で、新華社の優秀な記者として表彰も受けています。2001年に新華社を退職、炎黄春秋社の副社長に就き、多くの書籍を発表しています。ただ、次第に当局から警戒されるところとなり、大躍進運動を分析した代表作「墓石」(2008)や本作も香港で出版されています。香港の一国二制度が瓦解した今、楊継縄はじめ、中国国内から香港経由で共産党批判を発信していた人たちの今後の活動が大いに懸念されます。

楊継縄は、中国現代史を、「官僚集団」というキーワードをもって、実に分かりやすく解き明かしています。1966年に発動された文化大革命は、大躍進運動の失敗で影響力を失った毛沢東による権力奪還闘争であると理解されています。それは否定できないとしても、背景には、当然、毛沢東の共産主義への狂信があります。毛沢東は、その実現に向けて、党や国家の官僚化が阻害要因となることを、早い段階から憂慮していたと考えられます。共産主義が掲げるプロレタリアート独裁は、バクーニンが指摘したとおり共産党幹部による独裁であり、ロシアでも革命直後からノーメンクラトゥーラと呼ばれる共産貴族が生まれています。毛沢東が、右派、修正主義者、走資派、実務派と呼び、趣旨一貫、闘争の対象したのは、この官僚集団の発生・拡大だったとも言えます。

国家の効率的運営にあって、官僚制は、欠くべからざる存在です。ただ、独裁体制のなかでは、その権力は絶大化し、いわば無菌状態のなかで留めもなく自己増殖していきます。官僚の肥大化を説いたパーキンソンの法則の超拡大版が展開されるわけです。文化大革命は、毛沢東の支持する革命継続派と官僚集団の戦いだったといえますが、毛沢東の死もあり、最終的に勝利したのは、官僚集団でした。10年に渡り国を混乱させた文化大革命を収束させた官僚集団が直面した課題は、経済と政治でした。官僚集団が、自らの保身、あるいは利権拡大のために出した答えが、社会主義市場経済でした。政治的には独裁を継続しつつ、経済は市場経済を導入し、その恩恵をも独占的に享受するということです。結果、生まれたのが貴族階級としての官僚集団であり、それに賄賂や縁故で連なる富裕層であり、そして取り残された大衆と言う構図です。

この構図は、独裁体制がゆえに生まれ、独裁体制がゆえに固定化していきます。官僚の子弟は、良い教育を受け、官僚になるか、厚遇をもって民間企業に迎えられます。一方、貧しい民衆の子弟は、金のかかる高等教育を受けることは出来ず、親が借金して教育を受けたとしても、就職先もままなりません。民主的と言われる国でも貧富の格差が固定化する傾向はあります。その主因は教育機会の偏在だとされています。独裁国家にあっては、賄賂とネポティズムが、格差を固定化していきます。我慢の限界を超えた貧民たちが、各地で暴動を起こしてきたようです。しかし、資金潤沢な官僚集団は、官憲を拡充し、単に暴動を鎮圧するだけではなく、未然防止のためにも徹底的な弾圧を加えます。香港で起きていることも同様の文脈にあると言えます。借金して大学を出た若者たちのなかには、絶望して自殺する者も少なからずいるようです。

民主主義揺籃の地である古代ギリシャにあって、最も民主制が隆盛を極めたと言われるのは、ペリクレスの治世下です。ただ、皮肉にも、民主制を完成させたペリクレスの政治手法は独裁的だったと言われます。そのペリクレスが行った官僚改革は、市民による無給の仕事であった官僚を給与制にして仕事に専念させ、給与を出す以上、抽選制にしたことでした。日本には、官僚を指す”公僕”という言葉があります。日本の場合、漢字の多くは中国由来ですが、公僕に関しては、英語の”public servant”に由来する訳語です。公僕という考え方は、民主国家にしかないものなのでしょう。(写真出典:viator.com)

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