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キャバレーミカド |
作詞・作曲の鈴木道明は、なかなか興味深い人です。早稲田大の水泳選手として名を馳せ、幻となった1940年の東京オリンピック代表選手にも選ばれています。戦時中は、陸軍航空隊のパイロットして、南方戦線に従軍しています。戦後、ラジオ東京、今のTBSに入社し、黎明期のテレビ業界で敏腕を振るいました。赤坂が仕事と遊びの拠点だったわけです。同時に、作曲家としても活動し、日野てる子の「夏の日の思い出」や「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」、あるいはマヒナスターズの「別れても愛してる」等、 モダンな大人の曲を作っています。
徳川家康は、江戸城の西の守りを固めるために、赤坂台地に譜代大名等の武家屋敷を構えさせます。これが赤坂の始まりとされます。溜池は、外堀の一角でしたが、風光明媚だったため、茶店ができ、岡場所(遊郭)ができ、明治以降は花街となっていきます。明治以降、赤坂の大名屋敷は、政府機関、軍施設、実業家や高級官僚の邸宅、そして多くの在日大使館へと変わっていきます。また、現在、赤坂プリンスのクラシック・ハウスとなっている李王家の東京邸があったことから、朝鮮人も多く居住し、今の韓国料理店街へとつながります。
戦後は、銀座と並ぶ高級な繁華街として発展しました。大使館も多く、高級ホテルもあったことから、外国人の多い街でもありました。国際社交場と呼ばれたミカド、ホステスだったデヴィ夫人がスカルノと出会ったコパカバーナ、力道山が刺殺されたニューラテンクォーター等、戦後の東京を象徴する大型ナイトクラブは赤坂にありました。そしてゴー・ゴー・クラブのムゲンやビブロスも赤坂にありました。また、TBSに出入りする芸能人や文化人が集う、華やかな街でもありました。こうして、大人の街赤坂が出来上がったわけです。
「赤坂の夜は更けて」は、赤坂の最盛期にヒットした曲だと言えます。大型ナイトクラブの時代はとうに過ぎ去り、政治家で賑わった黒塀街も廃れ、赤坂にかつての勢いはありません。ムード歌謡も過去の遺物となり、日本の歌謡曲は、アイドル一辺倒の幼児化が進みました。とは言え、赤坂が大人の街であることには、今も変わりありません。(写真出典:peaceman88.jugem.jp)