2024年4月30日火曜日

東京ジャーミイ

100ヶ所以上あるという日本のモスクのなかで最大規模を誇るのが、代々木上原の東京ジャーミイです。ジャーミイとは、トルコ語で、金曜の合同礼拝を含む、一日5回の礼拝を行う大型モスクを指します。毎週日曜の午後に開催される見学ツアーに参加してきました。当日は、ウイグル族のジャナーザが、100名程度の参列者によって営まれた後だったらしく、モスクのロビー、集会所は混み合っていました。ジャナーザは、イスラム教における埋葬後の礼拝です。亡くなった方の遺体は宗教弾圧が続く新疆ウイグル自治区にあり、日本に逃げてきている親族、友人が集まってジャナーザを執り行ったようです。ジャナーザが行われたのは1階にある広い集会所です。東京ジャーミイのメインとなる礼拝堂は2階にあり、最大2千人が同時に礼拝できるそうです。

キリスト教や仏教とは異なり、偶像崇拝を固く禁じるイスラム教のモスクには礼拝すべき神仏像はありません。マッカの方角に向かって礼拝するものの、礼拝の対象はあくまでも唯一神アッラーです。従って、モスクは礼拝する場所を提供しているに過ぎず、いつでも、誰にでも等しく門戸が開かれています。ジャナーザがあったので、当日はウイグル族の方々が多かったわけですが、ロビーには実に様々な肌の色の人たちがいました。西アフリカのトーゴから来たという幼い兄弟たちにも合いました。イスラムはアラビア半島発祥の宗教ですが、現在、イスラム教徒の6割以上にあたる約10億人が、アジア・太平洋地域に分布しています。東京ジャーミイに集う人々も、恐らくアジア系の方々が多いのでしょう。

東京ジャーミイの建物は、二代目になります。初代は、1938年に落成しています。1917年にロシア革命が起きると、イスラム教徒の多くが国外に脱出します。日本にも千人程度が渡ってきたとされます。タタール系を中心に礼拝所建設の動きが起こり、日本政府の支援もあって「東京回教礼拝堂」が建てられました。当時の日本政府は、キリスト教国との戦争を想定しており、対イスラム宣撫政策がとられていました。東京回教礼拝堂の落成式には、大アジア主義を唱える玄洋社の頭山満、そして陸海軍の幹部たちが出席していたようです。言うまでもなく、対イスラム宣撫政策は、その後の大東亜共栄圏へとつながっていくわけです。落成から50年も経たない1984年、老朽化の進んだ初代モスクは閉鎖され、取り壊されています。

木造だった初代モスクを建てたのは宮大工だったと言います。もちろん、当時、イスラム建築のプロなどいるはずもなく、寺院だからというので宮大工が施行を任されたようです。日本の寺社仏閣は、屋根で防水する構造を持っています。檜皮も瓦も使わないイスラム建築では、結果的に防水が不十分となり、老朽化が早く進んでしまったようです。東京トルコ人協会は、モスク再建をトルコ政府に働きかけます。政府の呼びかけに応じてトルコ国内では多大な寄附が集まったといいます。それをもとにトルコ政府は、建築資材と多数の職人を送り込み、2000年、現在のモスクを完成させています。現在、東京ジャーミイの管理・運営はトルコ政府宗務庁が行い、モスクの指導者であるイマームも、宗務庁が選出し、派遣しています。

今回の見学ツアーで驚いたことの一つは、ガイドしてくれたトルコ人から聞いたチュルク系言語の話です。例えばチュルク系民族としては西端近くに存在するトルコ人と、トルコからは数千キロも東に離れたウイグル族は、さほど支障なくコミュニケートできると言うのです。ユーラシア大陸に広く分布するチュルク系民族ですが、なかでも中央アジア一帯に分布するチュルク語族同士は、会話に困らないと言います。考えてみれば、当然と言えることなのでしょうが、改めて聞くと、結構、驚きでした。イスラム化した国々では、パキスタンのウルドゥー語のようにアラビア語化している国も多くあります。また、中央アジアには長くロシアに支配されてきた国も多く、完全にロシア語化しているものだと思い込んでいました。しかし、多くの地域でチュルク語は失われていなかったわけです。(写真出典:kajima.co.jp)

2024年4月28日日曜日

「ゴッドランド」

監督:フリーヌル・パルマソン 2022年アイスランド、デンマーク、フランス、スウェーデン

☆☆

19世紀、デンマーク植民地下のアイスランド、言葉の通じない土地での布教と教会建設を命じられた若き神父、観る前から重厚感漂うお膳立てです。そして、アイスランドの厳しくも美しい自然を見事に捉えた映像、重い音楽などとくれば、高評価間違いなしの映画を予感させます。実際に、本作は、高い評価を得ています。ところが、何か決定的なものが欠けているように思いました。例えて言うなら、マグロの入っていない鉄火巻きといった風情です。重い映画であることは間違いないのですが、雰囲気だけが重く、テーマとしての重さが伝わってこないのです。何か、作品のテーマが絞りきれずに、フォーカスを失っているように思えました。

過酷な環境のなかで信仰心が試され、そして揺らいでいくというプロットなのでしょうが、そこに植民地アイスランドと宗主国デンマークとの関係という視点がかぶってきます。自然主義的な演出であれば、随分と違っていたのかもしれませんが、重く押し込んでくる展開にも関わらず、何を押し込まれてるのか判然としませんでした。様々なアイデアを、脚本段階で整理し切れていなかったように思えます。そのことは、終盤の展開によく現れていると思います。テーマが絞り切れていないために、終わり方も中途半端になり、何やら終わるに終われずズルズルしているという印象です。映画は、19世紀の牧師が残した写真にインスパイアされたとしていますが、映像イメージだけが先行してしまったのかも知れません。

深そうなテーマであり、深そうな展開なのに、結果的には表面的な印象に留まってしまったことには、私の予見が関わっているかもしれません。北欧映画と言えば、当然、ルター派の功罪に関する洞察、あるいは神の不在といったテーマだろうと思い込んでいました。マルティン・ルターの宗教改革は原理主義運動ですが、その思想を最も直接的に継承しているのがルター派なのでしょう。北欧の精神風土はルター派の信仰によるところが大きいと思います。聖書の言葉に厳格、厳密に従うルター派のもとでは、時に神の不在という問題が起こり、多くのアル中や自殺者を生む傾向も現れます。宗教的なテーマを持つ北欧映画にとって、ルター派の功罪を問うことは、避けて通れない道なのだと思っています。

無人の島だったアイスランドに人が住み始めたのは10世紀頃だったようです。アイスランドの歴史は、ヴァイキングによる植民に始まります。世界で最初の議会とされるアルシングが始まったのもこの頃とされ、中断はあったものの、現在も形を残しています。13世紀にはノルウェーの植民地となり、同時にキリスト教化されます。14世紀にはデンマークも宗主国となり、16世紀にはルター派への改宗が強要されています。国家としての独立こそ20世紀初頭になったものの、アイスランドは、経済的、政治的、文化的にも成熟を遂げていきます。映画は、まるで大航海時代に辺境の地にキリスト教の布教に出かけたかのような風情を持ちます。厳しい自然は理解できても、どうにも違和感を感じてしまいます。

アイスランドと言えば、火山です。本作にも火山の映像が登場します。ま、アイスランドだから火山も出しておくか、といった感じで、脈絡なく、こけおどし的な登場の仕方をします。牧師の心情変化を象徴したかったのかも知れませんが、そうだとすれば見事に失敗しています。映像に関する技術もセンスも優れた監督だとは思います。それだけに、映像イメージだけが先行してしまったのかも知れません。次回は、それなりの脚本家と組んだ方がいいのではないかと思います。(写真出典:eiga.com)

2024年4月26日金曜日

裏参道

会社のOB会に参加するために札幌へ行ってきました。たまたま地下鉄の西18丁目駅近くのホテルに宿泊したので、朝、円山の裏参道界隈を散歩しました。恐らく40年振りの裏参道だと思います。個性的でおしゃれな店が点在し、町並みや建物もこざっぱりと都会的に変貌を遂げていました。それは、なにも裏参道に限った話ではなく、札幌の街は、ここ数年で新しい商業ビルが多く建ち、随分と都会的になったように思います。個人住宅やマンションも同様です。もともと本州とは異なる外観を持っていた札幌の街ですが、開拓時代を彷彿とさせる風情がどんどん薄れ、何やら北欧化しているようにも思います。それはそれで結構なのですが、いささか寂しい気もします。

裏参道とは、北海道神宮の表参道とされる北一条通りに対して、南一条の通りを指します。いずれも正式地名ではなく、あくまでも通称です。表参道は、北1条西25丁目にある第一鳥居から境内入り口の第二鳥居までを指します。対して、裏参道は、公園口鳥居や第三鳥居に至る南一条の通りの西20~27丁目あたりを指します。もともとは住宅街だったのですが、1972年、札幌オリンピックにあわせて地下鉄が開通すると、円山公園駅周辺の裏参道に若い人たちが店を開き始め、いつしか裏参道として知られていきます。当時は、古い商店や民家を安く借り、手作感のある喫茶店や雑貨店がオープンしていました。ちょうど60年代のカウンター・カルチャーの時代が終わり、サブ・カルチャーの時代が始まった頃のことです。

東京では、若者たちが、カウンター・カルチャーの拠点だった新宿から、パルコに代表されるサブ・カルチャーの街・渋谷へと流れていった時代です。札幌でも学生運動等はありましたが東京ほどではなく、サブ・カルチャー化もささやかにスタートしたといった印象でした。店もわずかに点在するといった程度でした。それでも、徐々に知名度が上がってくると、商業資本が注目するところとなり、ビルやマンションが立ち始めます。若い人たちがやっている風変わりな店、面白そうな店で構成されていた裏参道は、小洒落た街へと変わっていきます。裏参道のサブ・カルチャーは、商業資本に侵略されたとも言えます。裏参道のサブカル文化には、それに抵抗するほどのエネルギーも蓄積されていなかったのでしょう。

例えば、下北沢は、いまだに若者たちのサブカル・エネルギーが街を支配しています。裏参道と下北沢との大きな違いは、文化の発信拠点を持っていたかどうかではないかと思います。つまり、下北沢には、本多劇場はじめ、演劇やライブの拠点が大小様々集まっています。多様な指向を持つ若者たちが流れ込み、常に街のエネルギーが蓄積されていくわけです。裏参道は、そうした拠点を持つ前に、商業資本に乗っ取られたようなものです。当時、まだまだ未熟だった裏参道のサブカル・エネルギーを嘆くべきなのでしょうが、ひょっとすると札幌という街が持つ文化的ポテンシャルの低さを憂えるべきかもしれません。札幌が文化的ではないと言っているのではなく、その多様性に欠ける面が気になるのです。

札幌は人口200万人に迫る大都会ですが、首都圏人口3,000万人を抱える東京と比べるのは酷というものです。ただ、地方の大都市は、いずこも特色ある多様な街区を持っているものです。例えば、札幌よりも人口の少ない福岡や神戸には、複数の繁華街が存在します。札幌では、何十年にも渡り、中心部以外の特色ある元気な街区は誕生していません。歴史の薄さと言えるのかも知れませんが、そうばかりでもないと思います。結果的に、裏参道が小洒落た街になったことは、希有な例と言えます。ただ、それも決して色合いが濃いというほどでもありません。裏参道には、マンションが多く建ち並びますが、裏道には、まだ個人住宅も残っています。その一角には、かつての裏参道を思わせる小さな店も存在していました。彼らの今後の展開に期待したいものです。(写真出典:hokkaido.press)

2024年4月24日水曜日

「フォロウィング」

監督:クリストファー・ノーラン    1999年イギリス

☆☆☆+

希代の才人クリストファー・ノーランの長編デビュー作です。「オッペンハイマー」の大ヒットを機に、公開25周年/HDレストア版として劇場公開されました。16ミリ・フィルム、モノクローム、70分、わずか6千ドルで製作された超低予算映画です。平日は他の仕事をしているスタッフ・キャストが、1年をかけて製作したようです。フィルム代を節約するために、入念なリハーサルを重ね、すべて1、2テイクで撮影されたと言います。処女作には映画監督が後に撮ることになる映画の全てが入っている、と言ったのはフランソワ・トリフォーだったと記憶します。その言葉を思い起こさせるような映画でした。まずは、クリストファー・ノーランの代名詞とも言える非線形プロットが、既に使われていることが目を引きます。 

時系列が入り乱れる非線形プロットは、次作「メメント」においては、まったくの逆時制で進行するという進化を見せ、ノーランを一躍有名にしました。非線形プロットは、観客に対する挑戦であり、映画に緊張感を生み出します。もちろん、彼の発明ではありませんが、巧みに使いこなして傑作を生み出しているという点において、ノーランは映画表現の革新者だと言えます。線形的な時制の取り扱いは、劇映画を構成する基本要素であり、映画文法上の原理原則です。ノーランの非線形プロットは、マイルス・デイビスのモードの発見に近いものがあります。さらに言えば、ノーランの興味は、単なる表現手法としての時制から、時間そのものへと移っていっているようにも思えます。

ただ、本作における非線形プロットは、十分にその効果をあげているようには思えません。緻密に構成された脚本ではありますが、やや単調なカメラ・ワークや演出ゆえに、その効果が十分には観客に届いていないように思えます。斬新な手法ですが、まだ十分にこなれていなかったとも言えますが、低予算ゆえの種々の制約が禍いしたという面もあるのでしょう。そこでの反省が活かされ、傑作メメントにつながったということになります。非線形プロットやテーマとしての時間など、ノーラン映画は難解な面があるものの、見事にエンターテイメントとして成立し、大ヒットしています。それはノーランの才能によるものですが、本作における挑戦があったからこそ、後の成功を生み出していったと言えるのでしょう。

本作におけるノーランの挑戦は、プロットや脚本に限りません。とにかく低コストで長編を撮るために、ありとあらゆる工夫が試されています。それが、後にノーラン映画に多数の技術系アカデミー賞をもたらすことになったものと思われます。ノーランは、テクニカルな面にも造詣が深く、そのこだわりがノーランの強みにもなっています。例えば、フィルム・カメラを使う、CGを極力排除する、セカンド・クルーを使わないといった点です。音楽と音響効果に何ができるのかも知り抜いています。シェパード・トーンの多用などもノーランらしさと言えます。大型予算で大作を撮る監督にも関わらず、ノーランは、ロー・テクを使った手作り映画にこだわり続けています。そのスタンスの原点は、間違いなく本作にあるのでしょう。

クリストファー・ノーランが大ヒットを連発できる理由は、非線形プロットやテクニカルな面もさることながら、映画とは何か、映画に何ができるか、などを十二分に心得ていることにあるのだと思います。予算がないなかで、知恵を絞り、すべて手作りで長編に取り組んだことが、後に報われたということなのでしょう。本作は、映画としての出来以上に、偉大な監督の原点という意味で歴史的価値が高いとも言えます。ちなみに、オッペンハイマーの成功を機に、ノーランは、53歳にしてナイトの称号を与えられています。これからは、サー・クリストファー・ノーランと呼ばれることになります。(写真出典:imdeb.com)

2024年4月22日月曜日

モッコ

那覇で、琉球子守歌の演奏会を聴く機会がありました。沖縄の子守歌は、眠らなければ怖い目にあうぞといった脅し系もありますが、多くは子供の成長や出世を願う歌なのだそうです。対して本土の子守歌と言えば、脅し系もありますが、特徴的には子守をする少女自身の恨み節が多いようです。恨み節だけに曲調もマイナー系が多く、代表曲は「五木の子守歌」ということになるのでしょう。成長を願う唄と恨み節との違いは、子守をする少女たちの境遇の違いだとされます。本土では、貧しい家の少女が、年貢の代わりに働きに出されて子守をしたものだそうです。奴隷労働に近いわけです。一方、琉球では、村落共同体のなかで、少女たちが子守役を担ったとされます。助け合い、ゆいまーるの一環だったわけです。

琉球子守歌の脅し系で、良く知られているのは「大村御殿(うふむらうどぅん)」だと紹介されていました。眠らなければ耳切坊主がやってくる、という内容です。大村御殿は、17世紀の尚王家の皇子であり、北谷の按司となり、首里で王の摂政も長く務めました。ただ、男子に恵まれない家系だったようです。琉球民話の「耳切坊主」は、黒金座主という妖僧を北谷王子が殺す話ですが、この北谷王子が大村御殿であり、黒金座主の祟りで男子が生まれなかったとされるようです。大村御殿を聴きながら思い出したのが、津軽の子守歌です。泣けば、山からモッコくらーね、と唄われます。モッコとは蒙古のことだとされています。鎌倉時代、元寇の恐怖に日本中が怯えたというわけです。

しかし、元軍は、博多で追い返され、東北には来ていないわけです。来ていないからこそ、余計に恐ろしいものの象徴になったのかもしれません。不思議なのは、津軽の子守歌の”山からモッコ”というパートです。なぜ海ではないのか、よく分かりません。もはや蒙古でもなんでもなく、ただひたすら恐ろしいものになっていたということなのでしょうか。ここに、もう一つ面白い説があります。元寇、つまり文永・弘安の役と同じ頃、元は、樺太に幾度か攻め込んでいます。当時、間宮海峡あたりに居住していたギリヤーク族は、モンゴル傘下に入っていました。そこへ北海道のアイヌ族が、しばしば侵攻するので、ギリヤークは元に訴え出ます。元は、アイヌ成敗に乗り出したわけです。

元寇直後の13世紀末から14世紀初頭にかけて、北奥羽では安東氏の乱が起きています。津軽の蝦夷代官職だった安東氏の内紛ですが、そのきっかけになったのは蝦夷の蜂起によって安東氏の当主が殺されたことでした。蝦夷蜂起の遠因は、元によって樺太から追われたアイヌが南下したことにあるとされます。ひょっとすると、これが”山からモッコ”につながったのかもしれません。とは言え、それがアイヌの子守歌に唄われているのであれば理解できますが、さすがに津軽の子守歌では無理があるようにも思えます。ただ、当時の津軽の人々にとっても、南から北から攻め込んでくる蒙古なるものは、実に恐ろしい存在だったとは思います。ちなみに、元軍は、樺太に侵攻したものの、北海道までは来ていません。

ちなみに、岩手県の宮古、あるいは佐渡にもモッコの子守歌があったようです。限定的な分布に過ぎないので、恐らく津軽との交流のなかで伝わったものなでしょう。史上第2位の規模を誇ったモンゴル帝国は、東欧にも大きな爪痕を残しました。特に、1241年、ポーランド西部のワールシュタットでは、モンゴル軍がヨーロッパ連合軍を撃破し、欧州を恐怖のどん底にたたき落としています。1242年、モンゴル軍は、ウィーン近郊に迫りますが、2代目カーンのオゴデイの崩御に伴い軍を引き揚げています。東欧、特に主戦場となったポーランドには、モンゴル侵攻に関わる伝説や風習が多く残っていると聞きます。モンゴル軍の主力がタタール系だったことから、欧州ではモンゴルをタタール、ないしはタルタルと呼びました。野蛮人と同義だったようですが、生肉を使うタルタル・ステーキの語源にもなっています。(写真出典:jp.quora.com)

2024年4月20日土曜日

「アギーレ/神の怒り」

名作映画の配信サービスであるザ・シネマ・メンバーズが、ヴェルナー・ヘルツォークの作品を数本連続して配信することになりました。まずは、代表作の一つである「アギーレ/神の怒り」(1972)を観ました。主人公は、16世紀に実在したスペインの征服者ロペ・デ・アギーレです。アギーレは、伝説の黄金郷エル・ドラードを初めて探索したゴンサロ・ピサロの副官の一人でした。アマゾンの密林のなかで進退窮まったピサロは、分遣隊を組織し、アギーレはその副隊長に任命されます。分遣隊は筏で川を下りますが、厳しい自然と敵対的なインディオに阻まれ、崩壊していきます。分遣隊長は、本隊への合流を決めますが、アギーレは反乱を起こし、あくまでもエル・ドラード探索を続けようとします。

ヘルツォークは、インカやマヤを滅ぼしたスペインの征服者たちに、近世の本質である強欲を見ているのでしょう。アギーレは、強欲の象徴です。緑濃い密林のなかで狂っていくアギーレは、自然、あるいは神のしっぺ返しを受ける人間の強欲そのものです。アギーレは、自らを神の怒りだとします。神の怒りとは一体何なのでしょう。アギーレは、神の使徒なのでしょうか、神の怒りをかった者なのでしょうか。あるいは過酷な自然に立ち向かうことで、神と同じ次元、あるいは神を越えた存在だと言うのでしょうか。いずれにしても、強欲は傲慢を生み出していきます。一人生き残り、猿の群れに囲まれたアギーレは、実の娘と結婚しアメリカ大陸に王統を築くことを夢想しながら果てていきます。

本作の主演は、怪優クラウス・キンスキーとアマゾンの自然だと言えます。ヘルツォークのリアルに自然を捉えるカメラ、自然主義的な演出、少ない台詞は、湿度の高いギリシャ悲劇を見ているかのようです。オープニング・シーンは、啓示的とも言える強烈な印象を与えます。険しい崖の道を荷物を抱えた無数の兵士やインディオが、まるで蟻のように降りていきます。それは地獄へ続く道のようにも見え、ダンテの神曲を思い起こさせます。そして、か弱く愚かな人間を見る神の目線のようにも思えます。一瞬にして、哲学的、神学的な世界を提示するパワフルな映像だと思います。映画が生み出す幻想の力を見事に示した歴史的映像だと思いました。ヘルツォークという監督の深く厳しい精神性が端的に伝わります。

ロペ・デ・アギーレは実在の人ですが、映画のストーリーは史実とは異なるようです。狂人と呼ばれた実際のアギーレは、スペイン王室、総督に敵対し、逃走と抵抗を続けた人でした。ペドロ・デ・ウルスアのエル・ドラード探索遠征隊に実の娘を連れて参加し、ウルスア等を殺害して遠征隊を乗っ取ったことは事実だったようです。遠征は失敗に終わりますが、その後、アギーレは、ベネズエラのマルガリータ島を占拠し、さらにパナマ占領を目論みます。ただ、総督軍に包囲され、娘を殺害し、自らも射殺されています。スペインによる南米征服は、組織的に遂行された印象がありますが、現地の征服者たちは、熱狂と混乱と恐怖のなかにあったのだと思います。アギーレは、征服者たちのカオスの象徴だったのでしょう。

エル・ドラードの伝説は、スペインを中心に、16世紀の欧州に熱狂を巻き起こしています。多くの南米探検の動機はエル・ドラードだったとされます。アギーレ隊も含め、実在を疑わざるを得ない結果が続きますが、取り憑かれたような探検は18世紀まで行われたようです。19世紀初頭、ドイツのアレクサンダー・フォン・フンボルトが、アンデスとアマゾン流域を詳細に調査し、エル・ドラード伝説を完全に否定しています。南米は、近世の欧州が解き放った強欲の実験場だったと言えます。そこではありとあらゆる非道が行われます。近世欧州の強欲は、今も南米諸国に政治的・経済的不安定をもたらし続けています。(写真出典:amazon.co.jp)

2024年4月18日木曜日

門中

門中墓
「門中(もんちゅう)」 は、沖縄における父系の血縁集団を指します。日本全域にも親戚、縁戚、一族といった普遍的概念はありますが、沖縄の場合、父系に限定されること、厳密な組織関係を保っている点など、大いにユニークな面があります。過日、糸満市に住む友人に町を案内してもらいました。実に興味深いツアーになりましたが、一番驚いたのが「門中墓」です。門中の一員が亡くなると門中墓に葬られます。数百人から数千人の遺骨が門中墓に安置され、墓の外見は王家の墓かと思うほど大きなものになります。友人が所属する門中は800人とのことでしたが、糸満で最も大きいとされる幸地腹門中は3.000人と言われ、その門中墓は観光地にもなっているようです。

ただ、友人の所属する門中では、遺骨を2週間だけ門中墓に安置し、その後、各家族の墓に埋葬するのだそうです。家族の墓といっても、ミニ門中墓のようなもので、大きな墓に複数家族が埋葬されています。なぜこのような風習が生まれ、なぜ今も生き残っているのか、気になりました。門中の起源は、17世紀後半、琉球王朝が、士族に対して家系図の作成・提示を命じたことにあるようです。家譜編纂は、士族支配・管理の手法として理解できますが、その後、庶民の間にも広がっていき門中の発生につながったようです。その背景には、仏教の影響による先祖崇拝の浸透があったとされます。先祖崇拝は、しばしば王朝による社会管理の手法にも使われてきました。門中の普及には琉球王朝の意図も働いていたのかもしれません。

ただ、それ以上に門中成立に大きな影響を与えたのは「ゆいまーる」の存在だったのでしょう。農業は多くの労力を必要とします。古くから行われてきた農村における共同作業体制の沖縄版がゆいまーるです。その伝統に、家譜編纂が組織的な形式を与えたものと思われます。琉球における稲作は12世紀頃に始まったようですが、稲作に適しない土壌や地形なども多くあり、早くから共同作業が必要不可欠だったのでしょう。ゆいまーるは、今も沖縄の精神風土にしっかり残っています。門中もさることながら、今も盛んな沖縄独特の互助制度「模合」も、その一例なのでしょう。糸満の友人も、複数の模合に参加していると聞きました。もっとも、現代の模合は、定期的な飲み会の仕組みのようにも思えます。

沖縄県立図書館で開催されていたブラジル移民の写真展を観てきました。ブラジルへ移民した沖縄県民たちが、ゆいまーる精神に基づき開拓にあたっていたことを知りました。沖縄の海外移民は、明治期のハワイ移民に始まります。定住率の悪さから幾度か中断されながらも継続され、戦後は基地に農地を奪われた農民の南米への移民が行われています。沖縄県の海外移民総数は、広島県に次ぐ第2位です。沖縄にルーツを持つ移民は、現在、世界各地に40万人いるとされています。なかでもブラジルが最も多いようです。およそ移民たちは辛酸をなめることになったわけですが、沖縄県出身者たちは、一致団結して共同開拓にあたり、成功を収めていきます。まさにゆいまーる、あるいは門中の力だったと言えるのでしょう。

1990年から5年に一度開催されている世界ウチナンチュ大会には、世界中から数千人の移民とその末裔たちが集まります。これもゆいまーる精神と門中の賜物なのでしょう。さらに言えば、敗戦後、困窮した沖縄県民を助けるために、世界各地の移民たちが食糧支援などを行っています。厳しい環境のなかで培われたゆいまーるの精神は、今もしっかり生きているわけです。ただ、門中や門中墓には、逆風も吹き始めているようです。負担感もあるのでしょうが、厳密に運用される父系という縛りが、現代風の家族感と相容れなくなってきたためだと聞きます。沖縄に限らず、世界中で家族の形は大きく変わりつつあります。沖縄の伝統に根ざした門中と言えども、さすがに難しいところに来ているのでしょう。(写真出典:mikuni-ohaka.com)

2024年4月16日火曜日

グスクの謎

勝連城址
沖縄のグスクは、首里城、今帰仁城などのように”城”と呼ばれます。しかし、”グ”は石、”スク”は囲われた場所を表わす言葉であり、城塞に限ったものではありません。グスクの多くは「グスク時代」と呼ばれる12~15世紀に作られており、その数は200とも300とも言われます。大型、中型のグスクは、明らかに城塞ですが、小規模なものは、遙拝所、倉庫だったとも言われます。2000年、首里城、今帰仁城、中城、座喜味城、勝連城の5つが世界遺産に登録されています。今般、浦添城、座喜味城、勝連城、山田城、島添大里城、知念城、糸数城、玉城城、具志川城、そして再建工事の様子を見たくて首里城と10のグスクを回ってきました。今帰仁と中城はお気に入りのグスクですが、幾度か行っているので今回はスキップしました。

世界遺産や国指定史跡になっているグスクは別として、他は整備も十分にされず、ほぼ荒れたままになっています。浦添グスク、および王の墳墓である”浦添ようどれ”も、国指定史跡にも関わらず、残念な整備状況にあります。浦添グスクは、伝説とされる舜天王は別としても、英祖王統、察度王統が200年間に渡り居城とし、第一尚王朝が首里に移るまで、琉球の中心だったグスクです。いわば統一琉球が生まれた歴史的な地と言えます。また浦添グスクは、太平洋戦争末期の沖縄戦有数の激戦地でもありました。戦時中は、日本軍からは前田高地、米軍からはハクソー・リッジと呼ばれ、トム・ハンクス主演の映画にも描かれています。その戦いによる破壊、そして戦死者の多さが整備を阻んでいるのかもしれません。 

沖縄学の父とされ、浦添グスクの重要性を唱えた民俗学者・伊波普猷の墓は、この浦添グスクにあります。伊波は、農耕の開始、部族社会化とグスク構築、三山時代、尚王朝による統一という琉球の歴史のスタンダードを確立した人でもあります。ただ、各地のグスクの曲面城壁、高度な石組技術、正殿の位置や向き等が、あまりにも似ている点がやや気になります。伊波説のとおり、各地の按司と呼ばれる豪族がそれぞれ勝手にグスクを建てたのであれば、もっと多様性があるはずだと思うからです。近年、伝説とも言われた英祖王の実在性とその影響力の大きさが認識されているようです。つまり、英祖王が島の大部分を支配下におき、その後、英祖王統によって各地の大型グスクが建築されていったと考えるべきなのでしょう。

琉球の稲作は、12世紀に始まります。文化人類学的には、本土や中国との交流を通じて稲作を知っていたはずなのに、なぜ琉球は稲作を選択しなかったのか、ということが謎とさているようです。素人考えでは、食料があふれていたことに加え、沖縄の土壌や地形が稲作に適していなかったからだと思います。とすれば、なぜ12世紀に至り、突然、稲作が始まったのか、という疑問が生じます。恐らく技術革新があったからであり、それは外から持ち込まれたと考えるべきなのでしょう。つまり、英祖王の一族が、稲作とグスク建築の高度な技術を持ち込み、影響力を増していったのではないでしょうか。王墓の遺骨の平均身長を比べると、尚王朝よりも英祖王統が5cm以上高いと聞きます。英祖王の一族は、中国本土から渡ってきた渡来人と考えるのが自然だと思います。

今回、勝連城址を訪れた際、現代版組踊「肝高の阿麻和利」を知りました。2000年から、うるま市の中高生によって演じられているとのこと。高い評価を得て、国立劇場や海外でも公演したことがあるそうです。勝連城主の阿麻和利は、海外との交易で利益を得るなど勢いのある按司でした。1458年、第一尚王朝時代に護佐丸・阿麻和利の乱が起こります。琉球王朝の正史では、中城城主・護佐丸は忠臣、阿麻和利は謀反人として伝えられます。しかし、尚王家が、かつての今帰仁城主であり奄美に利権を持つ護佐丸、喜界島と連合を組む阿麻和利を滅ぼし、その利権を奪取したという異説もあります。事実、乱の後、琉球王権は、奄美と喜界島に遠征し、支配下に置いています。「肝高の阿麻和利」は、民衆の人気が高かったという阿麻和利の実像に迫ろうという試みでもあるのでしょう。(写真出典:uruma-ru.jp)

2024年4月14日日曜日

津軽海峡

初めて津軽海峡を見たのは、小学生3年生の頃だと記憶します。母親が町内旅行に行くというので、ついて行きました。昔は、盛んに町内旅行が行われていたものです。高度成長期に入り、団体旅行がブームになっていた頃のことです。津軽半島を巡るバス旅行でしたが、ほぼ何も覚えていません。ただ、三厩の義経寺から見た津軽海峡と渡島半島の姿だけは鮮明に覚えています。その後、臨海学校で津軽半島を訪れた際、竜飛岬で泳いだことがあります。泳いでも泳いでも先に進みませんでした。波穏やかな陸奥湾で育ったので、潮の流れの恐ろしさを初めて体験したわけです。海峡は、いずこも潮の流れが速いものなのでしょうが、津軽海峡は、とりわけ速いと聞きます。

津軽海峡には、対馬暖流から分岐した津軽暖流が西から流れ込み、東からはオホーツク海から下ってきた親潮が入り込んでぶつかります。しかも、氷河期に深く削られたという深い海底谷があり、潮の流れが速くなるようです。世の中には、海峡を泳いで渡ろうとする人たちがいます。対岸が見えているだけに、挑戦したくなる気持ちは理解できます。しかし、見た目より距離があり、かつ速い潮の流れが難敵となります。さらに海洋生物類との接触も懸念されます。海峡横断は、かなり危険な挑戦と言っていいのでしょう。遠泳だけなら、昔からマラソンと同じ扱いで学校行事の“根性枠”に入っていたものです。近年、遠泳はオープン・ウォーター・スイミングと呼ばれ、オリンピック種目にもなっています。

オープン・ウォーター・スイミングの最高峰と言われるチャレンジが「オーシャンズセブン」です。世界の七つの海峡を泳いで渡るという挑戦であり、2012年、アイルランドのスティーブン・レッドモンドが、最初の達成者になっています。七つの海峡とは、ノース海峡 ( アイルランド・スコットランド間22km)、クック海峡(ニュージーランド北島・南島間23km)、カイウィ海峡(モロカイ島・オアフ島間41.8km)、イギリス海峡(英仏間34km)、カタリナ海峡(サンタカタリナ島・ロサンゼルス間33.7km)、ジブラルタル海峡(スペイン・モロッコ間14.4km)、そして津軽海峡の30kmです。津軽海峡は、スティーブン・レッドモンドが挑んだ七つ目の海峡であり、最も厳しい挑戦だったと語っています。

10年ほど前のことですが、役人から聞いた話があります。中国の政府要人や軍幹部が日本を訪れると、決まって津軽海峡に行きたがるというのです。中国にとって、津軽海峡は、戦略上、極めて重要性だということに他なりません。中国から北米に向う際、津軽海峡を通過する航路は、最も経済的なルートであり、また軍事面から見れば、まさにチョークポイントにもなるわけです。裏返せば、日本にとっても、津軽海峡は、戦略上、極めて重要な地点ということになります。ところが、津軽海峡の中央部は、日本の領海になっていません。領海とすることができるにも関わらず、中央部は公海とされました。昔から、まったく理解できない馬鹿な話だと思っています。

日本の領海法は、1977年に公布され、12海里(約22.2km)までが領海とされました。ただし、津軽海峡、対馬海峡、宗谷海峡等は3海里までとされます。政府見解によれば、国際的な自由通行促進の観点からの措置ということになります。領海としたうえで、航行の自由を認めればいいだけのことですし、実際、国際法上、国際海峡における通過通航権も認められています。実は、この判断の背景にあったのは、日本政府の核兵器に関する基本スタンスである非核三原則「持たず、作らず、持ち込ませず」だったと言われます。津軽海峡を領海化しても、核兵器を搭載した米海軍艦艇が通過することも想定されます。これが「持ち込まず」に抵触するという批判を避けたかったわけです。開いた口が塞がりません。目先の都合で国益を見誤ったアホな判断だと思います。(写真出典:trafficnews.jp)

2024年4月12日金曜日

厄落とし

いつまでたってもゴルフは上達しないのですが、20年ほど前に、一度だけホール・イン・ワンを達成したことがあります。ホール・イン・ワンは、技術もさることながら、運が大きな要素だと言えます。ホール・イン・ワンの発生確率は、プロから初心者まで全てのゴルファーを対象とすれば、おおよそ1/10,000と言われます。毎週1ラウンドすれば、50年弱に1回、達成する勘定になります。まさに予期せぬ出来事であり、保険も成立するわけです。ホール・イン・ワン保険は、損害を補填する損害保険の一種です。ホール・イン・ワンを達成したことによって生じた損害を補填します。自分用のゴルフ・クラブを新調することなどは損害にあたりません。

ホール・イン・ワン達成で発生する損害としては、ゴルフ場にお礼として行う植樹等、同伴したキャディさんへの心付け、そして「厄落とし」として行う記念コンペ、同伴者との会食、記念品の配布などがあります。厄落としとは、幸運なことが起こった場合、反動として不幸なことが起こることを避けるために、わざと損害等を発生させることです。不思議な習慣だと思います。厄年や厄払いに似た習慣は、海外にもあるようですが、厄落としは聞いたことがありません。他によく聞く厄落としと言えば、麻雀があります。大役満をあがると厄落としすることが常識とされます。麻雀における最高の役とされる天和(テンホー)に至っては、厄落とししないと死ぬとまで言われます。

天和(テンホー)は、親が配牌の時点であがっている状態を指します。その発生確率は33万分の一とされます。毎日、半荘を5回打ったとして、61年に1回発生するかしないかという確率です。発生すれば、大変な幸運ということになります。ちなみに、子が第一ツモであがれば地和(チーホー)、自分より先に第一ツモをした他家が捨てた牌であがれば人和(レンホー)と呼ばれます。面識はありませんが、天和をあがった会社の先輩がいたようです。厄落としとして、その時の配牌を染め抜いた手ぬぐいを会社中に配ったと聞きます。ところが、その人は「俺はついている」と思い込み、ギャンブルにのめり込んだ結果、大きな借金をつくり、会社も辞めていったそうです。厄落としが十分じゃなかったのでしょうか。

日光東照宮の陽明門の逆柱は有名です。逆柱とは、木が生えていた方向とは逆向きに立てた柱です。縁起が悪く、かつ強度にも問題があるとされます。陽明門には一本だけ逆柱があります。ミスではなく、意図的なものです。東照宮があまりにも美しく、神の領域に近づきすぎたことで神の怒りをかうことを恐れ、わざと一ヶ所だけ瑕疵を残したと言われます。知恩院御影堂に残る左甚五郎の忘れ傘には、様々な謂われが残りますが、東照宮の逆柱と同じ理由で左甚五郎があえて残したという説もあります。厄落としも、似たような発想のように思えます。つまり神懸かり的な幸運に恵まれることは、神の領域を侵すに等しく、神の怒りをかう恐れがあります。それを避けるために、自ら災難を演出して、怒りを回避しようというわけです。

余談ですが、私もホール・イン・ワン保険に加入していました。ホール・イン・ワン達成後、すぐに保険会社から給付請求書を取り寄せました。用紙の一番最初には「事故発生日」という欄がありました。ゴルフが下手くそなお前のホール・イン・ワンなど、ただの事故に過ぎない、と言われているような気がしました。保険約款上、保険事故発生日はごく正確な用語であり、またゴルフが下手なことも否定できませんが、気分はよくありません。こっちは有頂天になっているわけですから、ここは「ホール・イン・ワン達成日」と表記し、括弧書きで小さく保険事故発生日と書いておけばいいじゃないですか。その後、ホール・イン・ワンには恵まれていないので、最近の給付請求書のことは知りませんが、当時は、まだ顧客目線などといった言葉もない時代だったわけです。(写真出典:my-golfdigest.jp)

2024年4月10日水曜日

「オッペンハイマー」

監督:クリストファー・ノーラン   2023年アメリカ

☆☆☆☆ー

アカデミー作品賞、監督賞はじめ多くの賞を獲得した話題作が、世界から半年遅れで、ついに日本でも公開されました。公開の遅れは、配給元であるユニバーサルが、日本人の心情に配慮した結果とされます。8月公開を避けたことは理解できますが、ここまで遅くなったことに関しては意味不明です。原爆投下に関するアメリカ人の意識が気になるところです。原爆投下が戦争を終結させ、日米の多くの兵士の命を救ったというのが、アメリカ人の定番の理屈です。兵士の命を守るためなら多くの市民の命が犠牲になっても良い、というのはいかにも無理のある話です。アメリカ人もその論理矛盾には気付いているのだろうと思います。いかに総力戦の時代とは言え、一般市民の大量殺戮は許しがたい戦争犯罪としか言いようがありません。 

希代の才人であるクリストファー・ノーランが、そのあたりをどう描くのか、興味津々でした。結果的に言えば、オッペンハイマーの苦悩と矛盾した性格にフォーカスし、原爆に関する議論に関しては、各論併記に徹し、中立的立場を貫いていたと思います。そうしたスタンスに商業的視点も加わり、広島・長崎の悲惨な実態が映像化されていません。また、市民の大量虐殺という点に関しても、さらりと触れるに留まります。ヒューマニズムという観点からすれば、慎重になりすぎて、画竜点睛を欠く結果になったと言わざるを得ません。とは言え、核兵器を巡る議論、物理学の難解さといった難しい題材を見事にエンターテイメントに仕上げるクリストファー・ノーランの才能には、あらためて感服させられました。

本作のモティーフは、あまりにも多く、かつ、一つひとつが濃すぎます。混乱した映画になって当然とも言えますが、クリストファー・ノーランは、カットと音楽によって、巧みにすべてを処理し、流れるようなスムースさを実現しています。これまでも、時間といった物理学的モティーフをエンターテイメントに仕上げてきた監督の手腕の確かさです。その特徴は、各ファクターを疎かにすることなく、かつ決して深掘りせずに流していくというスタイルです。今回は、前半部分で、ハリウッド伝統のサクセス・ストーリーの演出手法が取り入れられています。ハリウッドが最も得意とするところであり、アメリカ人が最も好むところでもあります。クリストファー・ノーランのツボを心得た演出が光ります。

映画は、オッペンハイマーと原子力行政の担い手であったルイス・ストラウスの対立構図を縦糸に置いています。本作が成功したポイントの一つがここにあると思われます。基本構図が明確なので、モティーフの多さによる煩雑さが和らいでいます。カラーと白黒の使い分けによって、分かりやすい演出の工夫もしてあります。オッペンハイマーとストラウスとの関係は、科学と政治との関係を象徴するだけではなく、科学が宿命的に持つ進化の哲学的側面を問うているようにも思われます。20世紀は、科学的進化の時代でしたが、それを実現したのは人間の強欲でした。今、我々は地球と人類が崩壊していく過程に直面しているとも言えますが、それは前世紀の科学的進化のツケを払わされているということでもあるのでしょう。

オッペンハイマー役のキリアン・マーフィー、ストラウス役のロバート・ダウニーJrの演技が光ります。アカデミー賞では、それぞれ主演男優賞、助演男優賞を獲得しています。オッペンハイマーの恋人ジーン・タトロックを演じたフローレンス・ピューの存在感も見事でした。この人の才能には驚かされます。本作で極めて重要な役割を担ったのは音楽です。音楽のルドウィグ・ゴランソンは、本作で2度目となるアカデミー作曲賞を獲得しています。まだ若いにも関わらず、既に巨匠の領域に入りました。本作がクリストファー・ノーランの最高傑作とする声も多いようです。確かに、多くのアカデミー賞を獲得し、記録破りのヒットも成し遂げています。ただ、監督の力量の高さを余すところなく伝える傑作ではありますが、”らしさ”という点では少し違うようにと思います。(写真出典:eiga.com)

2024年4月8日月曜日

ホウレンソウ

ビジネスの世界には「ホウ・レン・ソウ」という言葉があります。報告・連絡・相談のことです。新入社員研修等でよく教えられる定番です。職場におけるコミュニケーションを良くし、円滑な組織運営を実現する手段とされます。日本のお家芸であった集団主義の基本的な作法といったところです。よくできた話ではありますが、明らかに”ホウレンソウ”に寄せたダジャレです。それが職場におけるコミュニケーションの全てでも、究極でもありません。ビジネスの現場ではなく、研修等の場に限って使われる言葉だとも思います。ちなみに、多くの会社員は、報・連・相は知っていても、野菜のホウレンソウの漢字、あるいは名前の由来も知らないと思います。ホウレンソウは漢字で「菠薐草」と書きます。馴染の薄い難字です。

7世紀、菠薐国(ペルシャ)から唐に伝えられた野菜ゆえ菠薐草と呼ばれたのだそうです。中央アジアあたりが原産地であり、一説にはイスラム勢力の拡大、あるいは巡礼にともなって世界に広がったとされます。今は、アジア全域でも、中東・西欧でも、ごく一般的な葉物野菜となっています。広範に伝播した理由は、美味しさもありますが、成長が早く、寒さにも強く、春でも秋でも栽培できる育てやすさにあったのでしょう。近年は品種改良も進み、一年中、出荷されています。日本には、16世紀頃、中国から葉がギザギザな東洋種が持ち込まれたようです。しかし、さほど一般的な野菜ではなかったようです。明治期になると葉の丸い西洋種も伝わり、交配が進んだ結果、日本固有のホウレンソウが生まれます。

日本でホウレンソウが普及した背景にはポパイ人気があったという説があります。ポパイは、1929年、NYの新聞漫画に初登場していますが、当初は端役だったようです。ところが、そのキャラクターが大人気となり、1930年代には、多くの短編アニメが製作されます。戦前の日本でも知名度は高かったようです。ポパイのエネルギー源であるホウレンソウの缶詰は、母親が野菜嫌いの子供たちに野菜を食べさせるための格好の説得材料にもなりました。1960年になると、アメリカではTV用アニメの放送が始まっています。日本でも、1959年から短編アニメ版のポパイがTVに登場します。皇太子ご成婚に伴い、TVが急速に普及した年に重なっており、ポパイは大人気となります。

我々の世代にとって、ポパイ、ホウレンソウ、オリーブ、ブルート、ポパイのテーマソングは、体の一部です。ただ、不思議なことにホウレンソウの缶詰は、まったく普及しませんでした。新鮮なホウレンソウが供給されたこともありますが、日本人の好きな調理法に合わなかったからなのでしょう。お浸し、炒め物、胡麻和えが、日本のホウレンソウ料理の定番と言えます。私がよく食べているのは、ごま油で炒め、日本酒を振りかけ、醤油で香りづけしただけの炒め物ものです。洋風にも様々な料理がありますが、なかでもクリーム・スピナッチは私の大好物です。私は、緑色の野菜が大好きなのですが、ことに味の主張が強いホウレンソウは葉物の王様だと思っています。まぁ、ポパイの影響も否定できませんが。

最近は、報・連・相つながりで「オヒタシ」というビジネス用語もあるようです。オコラナイ、ヒテイシナイ、タスケル、シジスル、の縦読みです。報・連・相を受ける上司のあるべき姿勢というわけです。最近のパワハラ告発に怯えるリーダーたちには有効なのかもしれません。否定するわけではありませんが、それが全てでもありません。リーダーに求められる強い指導力とパワハラは別物です。もちろん、人格を否定するような怒り方は問題です。その加減やパワハラの判定は難しいものですが、気の抜けたリーダーも問題です。ビタミンCや鉄分等を多く含むホウレンソウですが、灰汁の成分であるシュウ酸が体内でカルシウムと結合して結石ができやすいと聞きます。要は、美味しくて健康にも良いホウレンソウは、食べ過ぎや調理法に留意しつつも、積極的に摂取しましょうということです。(写真出典:cartoongoodies.com)

2024年4月6日土曜日

「美と殺戮のすべて」

監督:ローラ・ポイトラス 原題:All the Beauty and the Bloodshed 2022年アメリカ 

☆☆☆+

写真家ナン・ゴールディンによる反オピオイド活動を通じて、彼女の人生と作品に迫ったドキュメンタリーです。ナン・ゴールディンは、ヒッピー、同性愛、ドラッグといったサブ・カルチャー、カウンター・カルチャーを生き、作品の素材としてきた写真家です。その自伝的とも言える作品の過激さは、称賛もされ、批判もされてきました。しかし、その過酷な現実を正面から捉えた作品は、一つの時代を切り取り、かつ人間愛に満ちているとも言えます。自身もオピオイド中毒になり、立ち直った経験を持つナン・ゴールディンは、オピオイド危機に対して、アーティストの立場から行動を起こします。美術館に多額の寄付を行ってきたサックラー家を美術界から締め出すというキャンペーンでした。

サックラー一族は、大手製薬会社パーデュー・ファーマを所有していました。パーデュー・ファーマは、1995年以降、オピオイド系薬品を安全で中毒性の低い鎮痛剤として、積極的に製造販売してきました。しかし、ケシの成分から作られるオピオイド系は、中毒性が高く、多用による致死率も高い危険な薬品でした。アメリカでは、1999~2020年の間に薬物の過剰摂取で死亡した84万人のうち、実に50万人がオピオイド中毒だったとされます。サックラー家は、史上最悪の麻薬売人とも呼ばれます。そのサックラー家は、汚名を糊塗するかのように世界の名だたる美術館に多額の寄付を行ってきました。ナン・ゴールディンは、直接行動をもって抗議し、サックラー家を美術界から排除することに成功します。

ナン・ゴールディンは、趣旨一貫、弱者の立場を訴えてきたアーティストと言えます。反オピオイド活動は、その延長線上にあります。彼女の飽くなき挑戦や戦いの軌跡をたどりながら、その情熱を生み出した根源に迫ることが、本作のねらいだと思います。ローラ・ポイトラス監督は、本作で極めてユニークなアプローチを採っています。通常のドキュメンタリー映画は、多くの関係者による証言によってテーマが追求されていきます。本作は、ほぼナン・ゴールディンのモノローグだけで構成されています。本作のテーマを深掘りするためには、それが最も適した手法だったように思います。また、近年、ビジネス界で注目されるナラティブ・アプローチを思わせるところもあります。

いわゆる”ストーリー”は、客観的に完結された物語ですが、ナラティブは、あくまでも語り手の主観に基づく偏向的とも言える物語です。ビジネスの場では、顧客や部下の主観的な話に耳を傾け、そのうえで対話を通じて問題を解決するという、いわば多様性重視の手法を指します。本作では、ナン・ゴールディンが自身の芸術活動の根源にあるものを物語っていきます。そこにあったのは精神病院に入れられ自殺した姉であり、その背景には両親による育児忌避的な姿勢がありました。独善的な存在があり、それによって弱者が虐げられている状況への憤りなのでしょう。それをクリアに伝える本作は、傑作ドキュメンタリーだと思います。2022年のヴェネチアでは並み居るドラマ系の強敵を押しのけ、金獅子賞を獲得しています。

劇薬オピオイドは、医学的にはモルヒネ等と同じく有効、かつ必要性の高い鎮痛薬なのでしょう。問題は、パーデュー・ファーマ社が、医療機関や医師に過度なマーケティングを行い、安全性を謳うTVCMを流し続け、一方の医療サイドも安易に処方箋を乱発するようになったことにあるのでしょう。中毒患者が増えると、処方箋の売買、商品の横流し、違法製造された類似品や密輸等が発生し、危機が拡大していったものと思われます。2017年に至り、米国政府は危機宣言を出して規制に乗り出しています。紆余曲折はあったものの、現在、サックラー家とパーデュー・ファーマ社は、巨額の和解金を支払い多くの州政府と和解しています。和解金は、オピオイド中毒患者への補償や更生に使われるようです。アメリカは、強欲という名の牛を放し飼いにしているようなものでもあります。一部の牛が暴走しても、それに気付くことは遅れ、かつそれを止める手立ても少ないと言えます。(写真出典:eiga.com)

2024年4月4日木曜日

北上川

平泉を訪れるなら、まずは中尊寺にお参りし、藤原三代の栄華を偲ばせる金色堂を拝観すべきでしょう。中尊寺は、標高190mという丘の上に伽藍が点在しています。月見坂と呼ばれる参道は、なかなかに厳しい上りです。それだけに、上からの景色は見事なものです。東北きっての大河である北上川が、ゆったりと蛇行する姿に思わず見とれます。北上川は、岩手県北部の岩上町に発し、旧北上川は宮城県の石巻で太平洋に注ぎます。下流域での度重なる水害の対策として掘削された新北上川は、登米で分流して東へ流れます。分流工事は、明治末期から昭和初期にかけて、23年という月日を要した難工事でした。

古来、北上川は東北の大動脈でした。北上川という名前は、日高見(ひたかみ)国に由来すると言われます。日高見国とは、特定の国を意味するのではなく、おおむね東北地方を指す古代の言葉とされます。日本書紀等にも登場しますが、解釈を巡っては多くの議論があるようです。四方を見渡せる高台を意味する一般名詞とも言われ、日が昇る方角にある地域を指すという説もあります。日向に発した天孫家からすれば、大和は日高見国であり、天孫家が東進して大和に国を建てると、その東が日高見国と呼ばれることになったとも言われます。常陸(ひたち)という地名は日高見国に由来するという説もあります。いずれにしても、ヤマト王権が関東に進出すると、東北地方一円が日高見国と呼ばれるようになります。

ヤマト王権による東征の最も古い記録は、宋書・倭国伝にある倭王武の上表文だとされます。5世紀後半のことです。倭王武は、考古学上確認できる最古の天皇である雄略天皇だとする説が有力です。ただ、さらに古い伝説としては、景行天皇の子である日本武尊(ヤマトタケル)の東征があります。1世紀ころ、上総から海路で北上川流域に進出し、戦わずして蝦夷の首魁を服従させたというものです。日本武尊は、あくまでも伝説上の存在なのでしょうが、複数のヤマト王権の戦いが象徴されているとも言われます。時代が下り、7世紀後半になると、宮城県南部までは律令体制に組み込まれます。それより北に位置する北上川とその支流沿いでは、蝦夷と朝廷とのせめぎ合いが長く続くことになります。

8世紀初頭には、多賀城が塩釜に創建され、以降の陸奥経営、蝦夷征討の拠点とされます。8世紀中葉には金が発見され、朝廷による東北進出は加速されていきます。それに伴い、蝦夷の抵抗も強まり、三十八年騒乱の時代へと入ります。9世紀に入ると、征夷大将軍坂上田村麻呂が北進し、北上川とその支流沿いに胆沢城、志波城等を築き、象徴的にはアテルイの降伏もあって蝦夷征討がほぼ完了することになります。以降、東北は朝廷によって支配されるわけですが、11世紀中期、奥六郡を支配する豪族安倍氏による反乱が起こります。前九年の役です。その直後、前九年の役の収束に功があり、結果、東北を支配することになった出羽の清原氏に内紛が起こり、これに源義家が介入して後三年の役が起ります。

戦いの結果、清原氏の養子であった清衡が奥州全域を支配することになります。清衡は、実父の藤原姓を名乗り奥州藤原氏が誕生します。奥州藤原氏は、産出する金を背景に、3代100年の栄華を誇りました。その拠点が平泉です。海から北上川を遡上すると、平野部の先に山間の隘路が出てきます。一ノ関です。関を越えたところに平泉は位置します。その後背には平野部が広がり、穀倉地帯となっています。平泉は、まさに北上川の要衝に位置し、奥州を守っていたわけです。1189年、奥州藤原家は、源頼朝によって滅ぼされます。義経を匿ったことが契機となりましたが、鎌倉にとって目障りな平泉は、遅かれ早かれ攻められる運命にあったのでしょう。ちなみに、兵員輸送の担い手だった舟運は、戦国時代に入ると陰が薄くなります。応仁の乱で登場した足軽によって兵員数が増加したことが影響しているのでしょう。(写真出典:tabi-mag.jp)

2024年4月2日火曜日

「プロスペローの本」

監督:ピーター・グリーナウェイ  1991年イギリス・フランス・イタリア

☆☆☆+

巨匠とされるピーター・グリーナウェイの作品を観るのは本作が初めてとなります。本作は、一言で言うなら、ミュージカルと映像のコラボレーションといった風情です。シェークスピアの「テンペスト」が原作ですが、元ミラノ大公プロスペローの独白劇という大胆な翻案がされています。プロスペローのモノローグと幻想的な映像で構成されます。映画というよりも映像と呼ぶべき作品のように思えます。と言っても、映画の定義も曖昧なものではありますが、ごく普通にドラマが展開される映画とは大いに異なるという意味です。本作は、まず基本となるミュージカルの舞台が作られ、そこに豊穣ともいえる映像的イメージを幾重にも重ねて作られているように思います。

ミュージカルの舞台では実現できないイメージを映像に乗せていくというアプローチは理解できますが、なぜ舞台を出発点としたのでしょうか。シンプルに映像的なイメージを積み重ねる方が、舞台的演出という制約から解き放たれ、より自由に創作できると思うわけです。そもそもテンペストが舞台劇だから、と言えばそれまでですが、多才で知られるグリーナウェイの視点が映画以外にあったからなのではないでしょうか。実際、1998年には、ベルリンでオペラ「コロンブス」を大規模な舞台で演出しています。また、近年は、インスタレーションも多く手がけているようです。つまり、ピーター・グリーナウェイという人は、映画という手法を使うこともある舞台のアーティストだと理解すべきではないかと思うわけです。

テンペストは、シェークスピアの作品のなかでは最も人気が高いと聞きます。シェークスピア単独では最後の作品であり、中世の物語のようなファンタジックな要素を持つことから、ロマンス劇とも呼ばれます。タイトル通りの怨念と復讐というおどろおどろしい世界から、和解に至り、呪縛からの解放が行われます。ハッピーエンドである点もロマンス劇の特徴とされます。シェークスピアと言えば、四大悲劇とされるハムレット・マクベス・オセロ・リア王が有名ですが、初期の喜劇は祝祭的でもあり、それが晩年の作品にも顔を出しているのでしょう。グリーナウェイのテンペストは、祝祭そのもののような演出になっています。まるで夢の中にいるような印象も受けます。シェークスピアの原作に近い演出なのかも知れません。

本作も含む、グリーナウェイの多くの映画で音楽を担当しているのが現代音楽家マイケル・ナイマンです。ナイマンの音楽は、ミニマル・ミュージックと呼ばれます。音の変化を抑え、反復を多用する現代音楽で、1960年代のアメリカで生まれました。70年代のはじめ、テリー・ライリーの有名な「In C」を音楽に使った実験映画を観たことがあります。トランス状態を生み出すような音楽と映像は衝撃的でした。ナイマンは、グリーナウェイ作品に限らず、多くの映画音楽を手がけています。恐らく最も有名なのが、ジェーン・カンピオンの「ピアノ・レッスン」なのでしょう。映画のヒットとともに、テーマ曲もよく知られることになりました。ミニマル・ミュージック・スタイルですが、哀愁漂う曲になっていました。

本作でプロスペローを演じるのは、名優サー・ジョン・ギールグッドです。ほぼ一人芝居に近いわけですが、彼ほどの名優でなければ務められなかったのでしょう。本作がギリギリ映画として成立しているのは、サー・ジョン・ギールグッドゆえとも言えそうです。グリーナウェイの映画は、映画的ではない部分も含めて、一般受けするとは思いません。ただ、通常の映画とは大きく異なる独特な映像がカルト的人気を集めているのでしょう。それは、どこかアート作品を観るようでもあり、映像体験だと言ってもいいのかも知れません。最もピーター・グリーナウェイらしさが発揮されるのはインスタレーションなのだろうと思います。(写真出典:amazon.co.jp)

夜行バス