琉球子守歌の脅し系で、良く知られているのは「大村御殿(うふむらうどぅん)」だと紹介されていました。眠らなければ耳切坊主がやってくる、という内容です。大村御殿は、17世紀の尚王家の皇子であり、北谷の按司となり、首里で王の摂政も長く務めました。ただ、男子に恵まれない家系だったようです。琉球民話の「耳切坊主」は、黒金座主という妖僧を北谷王子が殺す話ですが、この北谷王子が大村御殿であり、黒金座主の祟りで男子が生まれなかったとされるようです。大村御殿を聴きながら思い出したのが、津軽の子守歌です。泣けば、山からモッコくらーね、と唄われます。モッコとは蒙古のことだとされています。鎌倉時代、元寇の恐怖に日本中が怯えたというわけです。
しかし、元軍は、博多で追い返され、東北には来ていないわけです。来ていないからこそ、余計に恐ろしいものの象徴になったのかもしれません。不思議なのは、津軽の子守歌の”山からモッコ”というパートです。なぜ海ではないのか、よく分かりません。もはや蒙古でもなんでもなく、ただひたすら恐ろしいものになっていたということなのでしょうか。ここに、もう一つ面白い説があります。元寇、つまり文永・弘安の役と同じ頃、元は、樺太に幾度か攻め込んでいます。当時、間宮海峡あたりに居住していたギリヤーク族は、モンゴル傘下に入っていました。そこへ北海道のアイヌ族が、しばしば侵攻するので、ギリヤークは元に訴え出ます。元は、アイヌ成敗に乗り出したわけです。
元寇直後の13世紀末から14世紀初頭にかけて、北奥羽では安東氏の乱が起きています。津軽の蝦夷代官職だった安東氏の内紛ですが、そのきっかけになったのは蝦夷の蜂起によって安東氏の当主が殺されたことでした。蝦夷蜂起の遠因は、元によって樺太から追われたアイヌが南下したことにあるとされます。ひょっとすると、これが”山からモッコ”につながったのかもしれません。とは言え、それがアイヌの子守歌に唄われているのであれば理解できますが、さすがに津軽の子守歌では無理があるようにも思えます。ただ、当時の津軽の人々にとっても、南から北から攻め込んでくる蒙古なるものは、実に恐ろしい存在だったとは思います。ちなみに、元軍は、樺太に侵攻したものの、北海道までは来ていません。
ちなみに、岩手県の宮古、あるいは佐渡にもモッコの子守歌があったようです。限定的な分布に過ぎないので、恐らく津軽との交流のなかで伝わったものなでしょう。史上第2位の規模を誇ったモンゴル帝国は、東欧にも大きな爪痕を残しました。特に、1241年、ポーランド西部のワールシュタットでは、モンゴル軍がヨーロッパ連合軍を撃破し、欧州を恐怖のどん底にたたき落としています。1242年、モンゴル軍は、ウィーン近郊に迫りますが、2代目カーンのオゴデイの崩御に伴い軍を引き揚げています。東欧、特に主戦場となったポーランドには、モンゴル侵攻に関わる伝説や風習が多く残っていると聞きます。モンゴル軍の主力がタタール系だったことから、欧州ではモンゴルをタタール、ないしはタルタルと呼びました。野蛮人と同義だったようですが、生肉を使うタルタル・ステーキの語源にもなっています。(写真出典:jp.quora.com)