2021年4月30日金曜日

モンゴリアン・ヒップ・ホップ

日本のヒップホップ文化は、1980年代初め、ブレイクダンスから始まりました。ラップは、やや遅れて試行が始まりました。母音だらけの日本語では無理があったからだと思います。当初の日本のラップは、どうしてもモタモタした感じになり、子供向けといった風情でした。最初のヒットは、吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」だと言われます。それが大きく変わったのは90年代後半からだったと思います。象徴的には、Dragon Ashの登場だったのではないでしょうか。詞の深さもリズムのノリも日本のラップと言えるものになったと思います。リズムに乗せるために、日本語の発音を多少英語っぽくしたり、あるいは英語を多用するなどして、母音の多さをカバーしていきました。ただ、それでも母音の壁は厚く、ヴァリエーションは乏しく、メロディで変化をつけるスタイルが多いように思います。

今や世界中で、それぞれ独自のラップが歌われています。風体は、アメリカのものまねばかりですが、言葉の特性の違いが独自性も生んでいます。エスニック・ラップの時代とも言えます。モンゴルでも同じですが、その浸透度合いがすさまじく、モンゴルはラップの国になっているようです。意外な印象を受けるのは、私たちがモンゴルを知らなすぎるからなのでしょう。モンゴル語は、子音が多く、リズムに乗せやすいようです。また、祝い事の際、韻を踏んだ即興の祝詞が披露される伝統があり、ラップはモンゴル発祥だと言い切る人までいるそうです。加えて、経済格差が大きな社会問題となっており、若者たちの閉そく感が強いことが背景にあります。ラップが、NYのブロンクスで発祥した時と同じく、若者が表現せざるを得ない厳しい現実があるわけです。

モンゴルの歴史は、とても古く、中国の中原に起こった国々と常に戦ってきました。農耕民である漢民族の歴史は、北の遊牧民との戦いの歴史でもあります。モンゴル最初の統一国家は、紀元前4~5世紀の匈奴だと言われます。その後、鮮卑、突厥、契丹、金等を経て、13世紀初頭、モンゴル族のテムジン、チンギス・ハンが登場します。世界最大の帝国となったモンゴル帝国ですが、その後、分裂、衰退します。モンゴル高原も、内蒙古と外蒙古に分断され、清朝支配下に入ります。20世紀初頭には、ソヴィエトの介入のもと、外蒙古は清朝から独立し、モンゴル人民共和国が建国されました。ソヴィエト崩壊後の1992年には、社会主義を捨て現在のモンゴル国になっています。機動性に優れた騎馬戦力をもってユーラシアを席捲したモンゴルは、その後、隣接する二大国に挟まれ、難しい生き方を強いられてきたといえます。

市場経済へ移行した後は、豊富な地下資源を背景に経済成長を続けてきましたが、貧富の差の拡大、官僚の汚職といった問題に悩まされ、政治的安定も確保できていません。遊牧民は、人口の1割まで減り、国民の半数がウランバートルに住んでいます。しかもウランバートルは、富裕層が住む一部を除き、スラム化が進んでいると聞きます。モンゴルの失業率は、2020年、12%に達しています。また、1日2ドル未満で暮らす貧困層の割合は4割と言われます。320万人という人口の少なさ、政治的不安定さが、厳しい経済状態を生んでいます。若者たちの閉そく感や絶望感が、モンゴリアン・ヒップホップの原動力になっており、多くの支持を集めていることは容易に理解できます。日本のラップとの根本的な違いがここにあります。

モンゴルの畜産業は、依然として鉱業に次ぐ主要産業です。ただ、緑成す草原を馬に乗って疾走する遊牧民というモンゴルのイメージは、過去のものになりつつあるのかもしれません。数千年に及ぶ伝統が消えつつあるということは、モンゴルの文化がアイデンティティの危機にあると言えのでしょう。ここ数年、モンゴリアン・ヒップホップには、民族音楽や伝統を取り入れたものが増えているようです。危機感の現れでもありますが、エスニック・ラップとしては自然な姿だと思います。新しいモンゴル文化が生まれようとしているのかもしれません。なお、モンゴルのヒップホップ事情を紹介したドキュメンタリー映画に「モンゴリアン・ブリング」(2012)があります。残念ながら未見ですが。(写真「モンゴリアン・ブリング」ポスター 出典:filmarks.com)

2021年4月29日木曜日

「オクトパスの神秘」

 監督:ピッパ・アーリック、 ジェームス・リード   2020年南アフリカ

☆☆☆☆

実に不思議な映画です。上質な小説を読み終えたような印象を持ちました。ドキュメンタリー映画製作者のクレイグ・フォスターと真蛸との交流が、丁寧に描かれています。蛸は知能が高いとは聞いていました。擬態、あるいは足や吸盤を自在に使うわけですから、なかなかの知能と言えます。しかし、人間を認識して、交流まがいのことまでできるとは驚きです。まるで猫や犬と同じです。とても不思議な気分になります。撮影開始から公開までには10年かかっていますが、それはそれは大変な撮影だったろうと容易に想像できます。

真蛸の知能には驚かされるものの、この映画は単なる蛸の生態映画ではありません。仕事で心身ともに疲れ切ったクレイグ・フォスターが、故郷の海のケルプの森に潜り、自然と一体化することで再生するというストーリーが、しっかりと縦糸を成しています。そして、横糸として、彼女と呼ばれるメスの真蛸との交流、そして彼女の短い一生が語られます。十分に科学的でありながら、従来の科学系ドキュメンタリーとはまったく異なる映画と言えます。実に画期的であり、ドラマと言っても言い過ぎではありません。そのあたりが評価されたのか、今年のアカデミー賞の長編ドキュメンタリー映画賞はじめ、数多くの賞を獲得しています。

真蛸は、軟体動物のなかで、ほぼ最高の知能を持つと言われているようです。体表には無数の突起があります。この突起も、体表面の色を変えるのと同じ速さで出し入れできます。それによって、真蛸は、岩や海藻にも擬態できます。また、海藻を体に巻き付けたり、無数の貝殻で鎧兜のように体を覆い、サメ等の捕食者から身を守ることもできます。その映像は、はじめてみましたが、驚異的なものです。主な餌は、甲殻類や貝類です。通常、魚類は、特定の捕食方法に応じて体形を進化させます。真蛸は、状況に応じた多彩な捕食方法を繰り出します。知能の高さが理解できます。固い殻を持つ貝を食べる時には、腕の付け根にある突起を使い、貝の特定の筋肉を狙って、殻に小さな穴を開け、毒を注入すると言います。まさに注射そのものです。まさに驚異の生き物です。

真蛸との交流の話をしながら、真蛸を食べる話は、多少気が引けますが、日本で最も多く食べられている蛸は、この真蛸です。食材としての歴史は古く、弥生時代の遺跡からも蛸漁に使う蛸壺が出土するようです。欧米では、地中海沿いを除き、蛸はデビル・フィッシュと呼ばれ、食べる習慣がありません。理由としては、見た目が気持ち悪いから、とよく言われますが、これはあり得ません。人間は、なんでも食べてきました。恐らくユダヤ教のコーシャ、聖典に基づく食事規則が影響しているものと思われます。コーシャでは、ウロコとヒレのないものは不浄であり、食べてはいけない、とされています。理由は、よく分かりません。想像ですが、地中海東部にあっては、毒素を持ったものが多かったのか、痛むのが早かったからではないかでしょうか。あるいは、妙に知能を感じさせるものが多かったからかも知れません。

この映画の原題は「My Octopus Teacher」となっています。クレイグ・フォスターが、”彼女”から自然を学んだという意味なのでしょう。悩んだ末のタイトルのように思いますが、内容の深さからすれば、今一つです。もっとひどいのがこの邦題です。これでは、蛸の生態を記録したありきたりなドキュメンタリーのタイトルです。この映画の奥深さや革新性は、まったく伝わりません。しかし、自分なりにタイトルを考えてみましたが、なかなか妙案も浮かびませんでした。それくらい画期的な映画と言えるのかも知れません。(写真出典:filmarks.com)

2021年4月28日水曜日

明烏

歌川広重「新吉原仁和歌之圖」
国立演芸場で、はじめて柳家わさびの落語を聞きました。さすが人気があるだけのことはありました。演目は「明烏(あけがらす)」。奥手の倅を案じる父親に頼まれた町内の若い衆が、稲荷詣でと謀って倅を吉原へ連れ出す、という話です。”明烏”とは、朝に鳴いて、男女の一夜を邪魔する不粋な烏です。倅の奥手ぶりが面白い話ですが、若い衆が甘納豆を食べる仕草も見せ場となっています。この話を得意とした八代目桂文楽の甘納豆があまりに見事で、いつも売店の甘納豆が売り切れた、という話は有名です。「明烏」は、吉原ガイドといった風情もあります。山谷堀から土手を通って大門へ、といった道順、あるいは吉原独特の作法やしきたりも盛り込まれています。

もともと吉原は、江戸初期、今の人形町あたりに作られた幕府公認の遊郭です。当時は、海岸近くの葭の生い茂る原っぱであり、葭原と呼ばれたようです。江戸の市街地が急拡大し、この付近にも武家が住むようになり、また明暦の大火で焼け出されたこともあり、1668年、浅草浅草寺の裏手、日本堤の沼地を埋め立て、移転します。新吉原と呼ばれる所以です。18世紀初頭には、遊女2千人と記録されているようですが、最盛期には5千人いたとも言われます。当初は、武家のための遊郭でしたが、時代と共に、武家の多くは、江戸城に近い新橋、柳橋等の江戸六花街を使うようになり、吉原は庶民化していったようです。日に千両といわれ、現在価値にすれば、一日の売り上げは1億以上という賑わいをみせ、歌舞伎と並び江戸の庶民文化の花形になりました。

新吉原には、早い段階からガイドブック「吉原細見」が存在しました。地図、妓楼と所属遊女、揚げ代、茶屋、船宿などが書かれていたようです。年に2回刊行され、定期刊行物としては、明治まで続いた「役者評判記」に次ぐ息の長さを誇ります。版元は、鱗形屋と山本でしたが、18世紀後半になると、蔦屋重三郎が独占していきます。江戸を代表する出版業者となる蔦屋は、新吉原の書店からはじめ、細見や遊女の評判本等の出版へと商売を広げていきます。当時、版元が集まっていた日本橋に越した蔦屋は、洒落本、黄表紙、狂歌本でヒットを飛ばします。しかし、蔦屋と言えば、なんといっても錦絵、つまり彩色した浮世絵です。歌麿、写楽、広重等の売れっ子を抱え、大繁盛したようです。ちなみに、大阪の書店から始まったTSUTAYAは、かつて創業家が営んでいた置屋の屋号にちなみ、また蔦屋重三郎にあやかって命名されたようです。

遊郭に過ぎない吉原が、なぜ歌舞伎と並んで江戸文化の中心になれたのでしょうか。役者と遊女が出版のメイン・コンテンツであることは、人気の高さを現します。古典落語の演目からも、当時のファッションの流行からも、それはうかがい知れます。商工業の隆盛と都市化の進展に伴い、娯楽が産業化していったということですが、幕府公認ということは、特権と上納金で構成されていたことになります。とは言え、芸者中心の花街、夜鷹や湯女等もぐりの遊女といったライバルも存在しました。そこで吉原は、マーケティングに注力したのでしょう。見物だけでも入れる町は夜でも明るく、夜中まで三味線の音が響き、毎年、3月の1ヶ月間だけは、仲通りに桜の木が移植されるという大人のテーマパーク。また各種のしきたりや遊女の階層化は通を惹きつけリピーター化します。マーケターの皆さんは、フィリップ・コトラーの本を読むだけでなく、吉原を研究すべきと思います。

明治以降、キリスト教的倫理観が持ち込まれるまで、日本は性風俗に寛容だったと言われます。とは言え、「明烏」の奥手の倅は、吉原に来ることで、親戚にとがめられることを心配します。実は、商家が懸念するのは、吉原に行くことではなく、吉原に入れ込むことだったのだろうと思います。小遣いで遊ぶうちはいいのですが、遊女といい仲にでもなれば、店の売上に手をつけるのは目に見えています。華やかな吉原ですが、人身売買された遊女の悲惨さもよく知られるところです。夜も明るい遊郭は、内にも外にも、濃い影を作っていたわけです。(写真出典:news.livedoor.com)

2021年4月27日火曜日

船場言葉

船場の旧小西家住宅
近年、TVから大阪弁が聞こえない日はありません。吉本興業が、東京に再進出し、お得意のメディア・ミックスを巧みに使い、漫才ブームを起こしたのが1980年。その後も、吉本は、劇場を次々オープンし、NSC東京校からも芸人が育ち、メディアを席捲するまでになります。戦前、日本の興行界の御三家は、関西系の松竹・東宝・吉本であり、浅草での吉本の存在感も大きかったと言います。映画にも進出していましたし、プロ野球ではジャイアンツの設立にも参加し、戦後ですが、プロレスを立ち上げたのも吉本です。敗戦の影響から、戦後しばらくは大阪で映画に注力した吉本が、演芸に復帰したのが、1960年前後だったようです。以降、メディア・ミックス戦略も奏功し、関西を制覇、そして東京再進出で全国制覇を成し遂げたわけです。

大阪弁のイメージも、吉本の隆盛とともに変わってきたように思えます。かつて大阪弁の主なイメージは、商人言葉、下品といったものだったと思いますが、70年代くらいからは、怖い、というイメージが加わります。恐らく河内弁がやくざ映画等で多用された影響でしょう。そして漫才ブーム以降は、お笑いと結びつき、違和感なく受け入れられるようになりました。大阪弁と言っても、大きくは摂津弁・河内弁・泉州弁に分かれます。TVでよく耳にするのは摂津弁です。言葉は時代とともに変わっていって当然です。摂津弁も、随分、変遷があったはずです。残念なのは船場の言葉がほぼ失われたことです。商習慣の変化、船場自体の地盤沈下ゆえのことですから、致し方ありませんが。

船場は、大阪城築城後、秀吉の命によって、京都・伏見から商人が集められ形成された商人町です。江戸初期には日本の経済・流通の中心として機能しました。現在で言えば、地下鉄御堂筋線の淀屋橋から心斎橋、堺筋線では北浜から長堀橋のあたりが船場でした。その一画に、多くの商店・船宿・料亭等が集まり、経営者家族と住込みの従業員が暮らしていました。独特の習慣や言葉も形成されていきます。船場言葉は、京ことばの流れをくむ上品さがあったとも言われますが、商人の町であり、お客さまを立てる丁寧語・尊敬語が基本となっていたようです。例えば「勉強させてもらいます」は船場言葉です。標準語では「勉強させていただきます」となるところですが、随分とへりくだった言い回しになります。また、「ごりょんさん(主人の妻)」、「いとはん(長女)」、「こいはん(末娘)」なども典型的な船場言葉です。

上品な船場言葉は、谷崎潤一郎の「細雪」で楽しむことができます。大阪弁は、文字にすることが、なかなか難しい言葉です。ただ、谷崎にかかると、見事に雰囲気が伝わります。その筆力は、さすがと言わざるを得ません。谷崎自身は、東京の生まれ育ちですが、関東大震災後、神戸に移住します。そこで、当時、人妻だった森田松子と不倫関係の後、三度目の結婚をします。松子は、四人姉妹の次女として大阪の裕福な一族に育ち、老舗問屋に嫁ぎます。「細雪」は、四人姉妹が経験したことを、ほぼ忠実に書いているといわれます。時代は、昭和初期。船場は勢いを失いつつありました。「細雪」は、船場の大店の生活と文化を描き、その落日の淡い光を滲ませます。日本の近代を描いた作品とも言えます。幼少期は豊かな家に育ち、その後家業が傾き、貧乏に苦しんだ谷崎は、船場の大店の生活に深いシンパシーをもっていたのでしょう。

いつも感心させられる大阪弁があります。尊敬語の「はる」です。大阪の人たちは、ごく自然に他人の行為に「はる」を付けます。食べてはる、思うてはる、といった具合です。また、相手のことを「自分」と言います。標準語なら、君、あなた、となります。私を中心に考えれば「あなた」ですが、相手を中心に考えれば「自分」となるわけです。お客様を中心に考える船場言葉の精神が、今の大阪弁にも生きてはるのかも知れません。(写真出典:ja.wikipedia.jp)

2021年4月26日月曜日

三千世界の鴉

奇兵隊
「子曰く、学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)」は、論語の一説です。知識を学んでも、自ら考えなければ、何もわからない。自ら考えるばかりで、知識を学ばなければ、危険である、といった意味になります。実に的を得た言葉です。高杉晋作を思うと、この言葉が浮かびます。松下村塾の俊才ですから、勉学にも優れていたはずです。ただ、吉田松陰は、晋作がさっぱり勉強しない、と嘆いています。学問ではなく、行動の人だったと想像できます。では、晋作は”思いて学ばざる”人だったのでしょうか。ここが気になります。歳若くして病死し、残された文章類も少ないことから、幕末の志士としては高名ながら、やや分かりにくい人でもあります。

高杉晋作は、戦国時代から毛利家に仕える名家の生まれです。勉学にも、剣術にも非凡な少年は、1857年、18歳で松下村塾に入塾、久坂玄瑞とともに塾の双璧と呼ばれたそうです。翌年には、藩命で江戸に遊学します。その年、 幕府は、 勅許無きまま日米修好通商条約を締結します。 これに激怒した松蔭は行動にでますが、翌年、安政の大獄で捕縛されます。 晋作は 牢に通ったようですが、 国元に戻され、その後、 松蔭は死罪となります。 晋作の攘夷は、 師の志を継ぎ、 ここに始まるのでしょう。1862年には、藩命によって、幕府使節随行員として上海へ渡航します。植民地された清国を見て、攘夷の決意を新たにしたようです。ちなみに、晋作が上海で購入した拳銃は、その後、坂本龍馬に贈られ、寺田屋遭難の際、龍馬の命を救っています。

1863年、長州は外国船砲撃を行い、逆に米仏の攻撃を受けます。この下関戦争の際、下関防衛を任された晋作は奇兵隊を創設しています。武士と庶民の混成部隊である奇兵隊は、松陰の西洋歩兵論に基づいて編成されたと言います。1864年、蛤御門の変で朝敵となった長州に対して、幕府は長州征伐を行います。長州藩内では、幕府に恭順すべしとする保守派が主流となります。晋作は、下関の功山寺に諸隊を集め、挙兵。保守派を一掃し、藩の実権を握ります。功山寺挙兵は、クーデターそのものです。その後の維新への流れを左右した重要な出来事であり、晋作の維新への最大の貢献とも言えます。1866年には、晋作が進めていた薩長同盟が、龍馬の仲介で成立します。第二次長州征伐は、徳川家茂の死によって、幕府側の総崩れとなり、一気に大政奉還へと進んでいきました。ただ、晋作は、大政奉還を知ることなく、肺結核で死んでいます。享年27歳。

幕末の志士、明治の元勲たちが、口を揃えて「群を抜いた人物」と評する高杉晋作ですが、四国への逃避行の際には、愛妾おうのを同行し、三味線だけを持参したと言われます。命を狙われ逃げたわけですが、なんとも肝の据わった、粋な逃避行です。盟友龍馬の新婚旅行にも通じます。「三千世界の鴉を殺し 主と朝寝がしてみたい」という都都逸は晋作の作とされます。遊女たちは、顧客を繋ぎとめるために、神社札の裏に「あなた一筋です」と書いて渡したものだそうです。いわゆる起請文です。一番人気があったのが熊野三山の牛王法印であり、約束を破ると神の使いの鴉が死に、本人は地獄に落ちるとされていました。つまり約束を破ってでも、あなとと一夜を過ごしたいという歌です。なんとも粋なものです。

高杉晋作は、学びて思い、思いて学んだうえで、今、必要なのは”果断な行動”である、という判断をした人のように思えます。辞世の句は「おもしろきこともなき世をおもしろく」とされます。随分と高いところから時代を見切っていた数少ない天才かもしれません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年4月25日日曜日

「非情城市」

 監督:侯孝賢(ホウ・シャオシェン)    1989年台湾・香港

☆☆☆☆

確かに夜の九份は絵になります。とは言え、一角だけのことであり、印象に残ったのは、土産物屋と観光客の多さだけでした。九份が台湾きっての観光地になったのは「非情城市」がきっかけだったと聞きました。「非情城市」は、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲得した台湾ニューシネマの金字塔とも言える作品です。エドワード・ヤンと並ぶ台湾ニューシネマの旗手ホウ・シャオシェンの実写的作風も見事ながら、台湾ではタブーとされてきた国民党による白色テロが初めて描かれた作品としても、世界に衝撃を与えました。基隆港と九份を舞台に、日本から国民党へ統治者が変わるなか、船問屋の一族が時代に飲み込まれていく様が描かれています。

「犬が去って、豚が来た」は有名な言葉です。同化政策をとった日本はうるさい犬、たいして国民党、いわゆる外省人はひたすら貪るだけの豚、という意味です。国民党軍の精鋭たちは、大陸で共産党軍と交戦中であり、台湾へ来たのは二線級のモラルの低い部隊だったとされます。汚職・強姦・強盗・殺人とやりたい放題だったと言います。本省人、つまり台湾人に対する差別意識もあったのでしょう。1947年2月27日、台北でヤミの煙草を売っていた女性が、外省人官憲に摘発され、殴られたうえに商品も持金も没収されます。騒ぎに集まった本省人に対して官憲が発砲し、一人が死亡します。これが引き金となり、外省人に対する本省人の怒りが爆発し、瞬く間に全島に暴動が広がります。国民党軍は、大陸から援軍を送り込み、徹底的な武力鎮圧を行います。いわゆる「二・二八事件」です。

国民党は戒厳令を布きます。戒厳令について、日本では日清・日露戦争中の軍港に布かれた例などはあるものの、あまり馴染みがありません。戒厳令下では、憲法や法令の効力が一時停止され、軍が武力をもって、行政と司法を指揮します。実に恐ろしい話です。台湾では、本省人のエリート層が理由もなく逮捕され、拷問され、殺害されます。一般人では虐殺も起きています。犠牲者数は、いまだにはっきりせず、政府見解では1.8~2.8万人とされますが、10万人近いという説もあります。為政者によるテロ、つまり白色テロです。一度解除された戒厳令は、1949年に再発令され、結局、1987年まで続きました。70年代から台湾は、経済発展を続けてきました。その主役の多くは本省人でした。ただ、その間も戒厳令下にあったわけです。本省人が真に解き放されたのは、1988年、李登輝が本省人初の総統になってからだと言われます。

台湾ニューシネマの特徴は、対象を客体化し、より自然に撮ることで、よりリアルに台湾の現実を伝えることです。本作でも、その手法が生きています。大げさな演出や演技で本省人の無念を伝えるのではなく、日常を自然に、かつ丁寧に叙述することで、日常に浸透する恐怖や無念さをより一層際立たせています。ホウ・シャオシェンの有名な定点的カメラ・ワークも、そのために採られている手法だと思います。こうした作風は、戒厳令下で台湾社会を映し出すために必要な手法だったとも言えそうです。本省人の無念を描いたホウ・シャオシェンの「非情城市」、そして60年前後の外省人の不安定な状況や不安を描いたエドワード・ヤンの「牯嶺街少年殺人事件」は、台湾ニューシネマの対を成す名作だと思います。ちなみに、両監督とも外省人二世です。

二・二八事件の際、本省人は、台湾語と日本語が話せるかどうかで、外省人をあぶり出したと言います。本作でも、そういう場面がありました。台湾には二十を超す山岳部の少数民族がいます。なかには、台湾語も日本語もうまく話せない民族もいたようです。そこで外省人判別に使われたのが、君が代だったと言います。日本の徹底的な同化政策によって、君が代を歌えない本省人はいなかったそうです。(写真出典:movies.yahoo.co.jp)

2021年4月24日土曜日

ヴァレリー

「Valerie」は、2006年にリヴァプールのズートンズがリリースした名曲ですが、マーク・ロンソンが、エイミー・ワインハウスをフィーチャーしてヒットさせました。ズートンズが、アメリカ・ツアーの際に知り合った女性を懐かしむ歌です。イメージとして浮かぶのは、田舎町で、天然だけど気立てのいい若い女性が、仲間たちと面白おかしく青春を楽しんでいる様子です。明るい楽調ながら、哀愁も感じさせます。私には、ちょっとヤンチャな田舎の青春に対する暖かな共感と、もうそこには戻れない哀感が入り混じった曲のように思います。青春や昔の仲間たちを懐かしむ曲には、名曲が多いものです。

エイミーの”ヴァレリー”は、あの声で歌われるとやたらはまり、エイミーの短い人生を思うと、泣けてきます。エイミーも思い入れのある楽曲だったようで、”At The BBC”では、テンポを落とし、シンプルなバックで、じっくり歌い上げています。Youtubeには、楽屋で、アコースティック・ギターだけをバックに、さらに哀感たっぷりに歌い上げる映像もあります。16歳から音楽の世界に入ったエイミーにとって、仲間たちとはしゃいだ青春は、とても短く、とても愛おしいものだったのでしょう。幼少期に、離婚して家を出た父への喪失感を埋めるために始めた音楽は、彼女の類稀なる才能を開花させます。ジャズが身近だった家庭に育ち、音楽系の学校に通い、National Youth Jazz Orchestraで歌います。20歳で初リリースした”Frank”は、いきなりヒットし、賞も受けます。自作曲が大半のジャズ、あるいはジャズ・テイストのアルバムとしては、異例中の異例のヒットでした。

エイミーは、ツアーや取材といった多忙な生活に入りましたが、突然、活動を停止、アルバム用の曲作りに専念します。関係者は、ここで、彼女の性向を理解すべきだったと思います。彼女の曲は、すべて実体験に基づいています。彼女にとって、音楽はビジネスではなく、自分を表現する唯一の手段だったのだと思います。彼女にとっては、ツアーも取材も、はじめから余計なことであり、苦痛だったのでしょう。活動休止中、エイミーは、チャラいクラブ経営者のブレイク・フィールズと、嵐のような恋をします。ブレイクは、彼女の喪失感を埋めてきた音楽や親友を超える存在となり、エイミーは、彼と一体化することだけを願います。麻薬とアルコールと女が、ブレイクの全てであり、エイミーは彼の世界へと入っていきます。そして、捨てられたエイミーは、薬とアルコールに救いを求め、崩れていきます。

エイミーを救ったのは、音楽でした。薬と酒を断った彼女は、ブレイクとの失恋や麻薬漬の生活を歌にします。ソウル仕立ての2作目 ”Back to Black”は世界的大ヒットとなり、 グラミー賞も獲得します。エイミーは、トニー・ベネットがビリー・ホリディやエラ・フィッツジェラルドと並ぶとまで絶賛した生粋のジャズ・シンガーです。ただ、若い女性にとって、老成したジャズだけではしんどく、モータウンのガールズ・バンドも指向していました。大失恋して麻薬漬になったエイミーの心情を表現するにはソウルが合っていたのでしょう。一躍、 世界的セレブとなったエイミーは、 父親も含めたビジネスマンとパパラッチとファンに囲まれ、精神を病んでいきます。ブレイクと復縁したエイミーは、また、薬と酒の日々に逆戻りし、ステージにも穴を開け始めます。 

2011年7月のある朝、自宅のソファーに倒れているエイミーが発見されます。過度なアルコールが弱った心臓を破裂させていました。享年27歳。いわゆる27クラブです。音楽が彼女を救い、音楽が彼女を殺した、とも言えます。ドキュメンタリー映画「エイミー」は、アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞も獲得した傑作です。作中、トニー・ベネットが、ジャズ歌手は大きな会場で歌いたがらないものだ、と言っています。天才ジャズ・シンガーが、ジャズを歌い続けていたら、とつい思ってしまいます。ちなみに、映画「エイミー」のエンド・ロールで流れるのは、BBCで録音した「ヴァレリー」でした。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年4月23日金曜日

プロイセン参謀本部

大モルトケ
いまや軍や企業の組織では当たり前となっているスタッフ・システム、いわゆる参謀制度を完成させたのは、19世紀のプロイセンだとされます。参謀は、情報・作戦・兵站等の面から指揮官を補佐すると同時に、指揮官に対する牽制機能も持ちます。また、参謀が組織化されることで、軍全体の作戦遂行の統一を図る機能もあります。大昔から、指揮官を補佐する参謀は存在していました。軍師がそれに当たりますし、腹心、右腕、懐刀等と呼ばれた人たちは、概ね参謀と言えます。プロセインは、それを組織化し、平時から常設した点で、近代的な参謀の始まりと言われます。

プロイセンの歴史は、12世紀、ドイツ騎士団の結成から始まります。ドイツ騎士団は、パレスティナにおける十字軍国家の常備軍としての役割を果たします。十字軍が終わりを迎えると、ドイツ騎士団は、プロイセン等の異教徒のキリスト教への改宗、植民地化にあたります。16世紀には、騎士団修道院から世俗化して、プロイセン公国が初のプロテスタント国として誕生します。17世紀のフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯時代には、常備軍が創設され、当時、欧州最強と言われたスウェーデン軍を範に、兵站組織も設置されます。後のプロイセン参謀本部です。軍事力を高めたプロイセンは、18世紀、ポーランド、スウェーデンの支配から独立し、王国となりました。

プロイセン参謀本部が、その名を世界に轟かせたのは、ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ、いわゆる大モルトケが参謀総長の時でした。1866年、オーストリアを盟主とするドイツ連邦から、プロイセンが脱退したため、オーストリアはプロイセンを攻めます。普墺戦争の勃発です。結果には、短期間でプロイセンが勝利し、以降、ドイツ統一は、オーストリアを外し、プロイセン中心に進んでいきます。その際、大モルトケは、開戦前から、輸送網、情報網を敷設するとともに、各部隊に参謀を配置することで、作戦の統一を図ります。これらが、プロイセンに短期間での勝利をもたらしたとされます。

大モルトケは、戦争を変えた、とも言われます。ナポレオンの時代までは、兵力集中が軍事の基本でした。対して、大モルトケの戦術は、分散進撃、包囲、一斉攻撃を基本としていました。その思想的背景には、プロイセンの大先輩であるカール・フォン・クラウゼヴィッツの絶対的戦争論があり、それを支える技術面では、鉄道と電信の発達という近代科学の成果がありました。大モルトケ以降、包囲殲滅戦が軍事の基本となりました。1870年に普仏戦争が開戦されると、大モルトケの作戦は冴えにさえ、雌雄を決したセダンの戦いは、典型的な包囲戦となりました。普仏戦争は、ドイツ統一に向け、諸邦の一体化を図るため、ビスマルクがフランスを挑発して起こした戦争です。大モルトケの準備も万全だったわけです。なお、普仏戦争中、プロイセン国王は、ドイツ皇帝となり、ドイツ帝国が誕生しています。

普仏戦争後、世界各国の軍隊は、プロイセンの参謀システムを取り入れ、クラウゼヴィッツの戦争論を研究します。プロイセン参謀本部の大きな特徴は、既に指揮官の輔弼機関等ではなく、事実上の総司令部であったことです。また、大モルトケは、参謀主体の作戦遂行にとって、自律的に判断・行動できる参謀の養成が要であることを十分に理解し、育成に力をいれたとも言われます。プロイセン参謀は、2年周期で、前線に送り込まれ、参謀に戻されていました。2年の意味は、「鼻から硝煙の匂いが消えるころ」だったと言います。日本企業の官僚化した本社スタッフの皆さんに聞かせたい話です。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年4月22日木曜日

メンタル・トレーニング

松山英樹プロが、四大メジャーの最高峰マスターズで悲願の優勝。感動しました。実況アナウンサー、解説の中嶋常幸プロの涙に、もらい泣きしました。特に中島プロの涙には、何度もマスターズにはね返されてきた日本人プロゴルファーの歴史が詰まっています。ついに、その日が来た、ということなのでしょう。アマチュア時代から、国際級と言われた松山英樹ですが、2011年には、マスターズでロー・アマチュアを獲得しています。それから10年、生真面目な松山は、修行僧のように努力してきました。筋トレで体は倍の大きさになり、技術的にも欧米のトップ・プロと遜色ないレベルまできていました。では、昨年までの松山と何が違ったのか。恐らくメンタル面の強さだと思います。ミスしても笑顔を見せる松山には、いけるかも、と思いました。

「チーム松山」の優勝だとする報道も多くありました。目沢コーチ、早藤キャディ、飯田トレーナー、そして通訳のボブ・ターナーというメンバーです。早藤キャディは、プレイ終了後、コースに一礼する姿が米国で話題になりました。今年、新たに加わった目沢コーチは、日大ゴルフ部出身。卒業後、米国に留学して日本人では数人しかいないTPI(米国レッスンライセンス)を取得しています。米国ツアーに参戦する日本の女子プロを指導してきたそうです。メンタル・トレーナーに関する報道がないところを見ると、恐らく、この目沢コーチが、技術面に加え、メンタル・トレーニングも行っているのではないかと思われます。メンタル・トレーナー資格の有無にかかわらず、TPIなら、当然、それくらいのことはできるのでしょう。

科学的なメンタル・トレーニングの歴史は、宇宙開発から始まります。1950年代初頭、旧ソヴィエトが、有人宇宙飛行に備えて、開発したとされます。ソヴィエトのオリンピック選手を育てるエリート体育学校では、50年代後半からスポーツへの応用も始めていたようです。1976年のモントリオール・オリンピックで注目され、世界的に広がっていったようです。日本では、1984年のロサンゼルス・オリンピック以降、普及していったようです。それまでも、スポーツの心理学的側面に関する研究はあったようですが、なにせ当時のスポーツと言えば、根性論の時代でした。ちなみに、日本には「心技体」という言葉があります。道を求める武道の在り方を伝える言葉ですが、根性論とも、科学的メンタル・トレーニングとも、似て非なる言葉です。

かつてプロのメンタル・トレーナーの話を聞いたことがあります。印象に残ったのは、マイケル・ジョーダンの”リスペクト”とタイガー・ウッズの”チェアー”という話でした。マイケル・ジョーダンは、チーム・メイト、相手チームのメンバー、レフリー全てをリスペクトするよう心掛けていたと言います。そうすることで、ミスにも、ラフ・プレイにも、ミス・ジャッジにも、怒ることも、動揺することもなく、自分のプレイを続けられたと言います。また、タイガー・ウッズは、ライバルを、常に応援(チェアー)することによって、一喜一憂することなくプレイに集中できたと言います。例えば、自分がトーナメント・リーダー、一打ビハインドの選手が最終ホールでバーディ・トライという場面でも、その選手を応援することで、プレイ・オフに持ち込まれた時のショックを和らげることができると言います。

メンタル・トレーニングは、いかに平常心をキープできるか、というのがテーマなのでしょう。だとすれば、究極のメンタル・トレーニングは、仏教ではないでしょうか。武田信玄の菩提寺である恵林寺の快川禅師は、寺が織田勢の焼き討ちにあった際、「心頭滅却すれば、火自ずから涼し」と言ってのけ、火中に飛び込んだと言われます。極端な例ですが、煩悩の滅却、という意味では、まさにメンタル・トレーニングです。完璧にそれができる、つまり悟りを開けば、僧は如来になります。残念ながら、実在が確認できる如来は、釈迦如来だけです。チベットのミラレパも釈迦の境地に達したと言われます。いずれにしても、数十億人に一人というレベルです。メンタル・トレーニングも、そう簡単なことではないのでしょう。世界のトップ・プロたちは、仏教でいえば、大師の下部くらいには達しているのかもしれません。(写真出典:bbc.com)

2021年4月21日水曜日

造反有理

ユン・チアンが、1991年、ロンドンで出版した「ワイルド・スワン」は、清朝末期から現在に至る彼女の家族史でした。六四天安門事件の衝撃から2年後のことでもあり、全世界で1,000万部を売り上げるという大ベストセラーになりました。なかでも、彼女自身が紅衛兵として経験した文化大革命の記述は圧巻でした。世界は、庶民の目から見た文化大革命の現実をはじめて知ることになったのです。以降、文化大革命を経験した人々の書籍等が多く発表されます。「ワイルド・スワン」は、彼女自身が毛沢東と向き合うために書いた本だったと思います。かつて紅衛兵だった世代は、毛沢東を乗り越えなければ、先には進めなかったのでしょう。

1957年に毛沢東が発動した大躍進運動は、急激な共産主義化推進と無謀な農工業の増産政策であり、数千万人が餓死するという大惨事となります。これによって毛沢東は実権を失います。1966年、復権をもくろむ毛沢東は、学生で構成される紅衛兵を扇動して文化大革命を発動します。中ソ対立で巻き起こった修正主義批判、世界的潮流であった学生運動と呼応した大衆運動でした。毛沢東は、大躍進運動からの回復に取り組む劉少奇や鄧小平等を走資派と呼び、政権から引きずり下ろすことを目指します。文革小組と呼ばれた陳伯達・康生・江青・張春橋、いわゆる四人組を使い、旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣の四旧を打破しなければ革命は成就しないと、全国の紅衛兵を煽ります。「造反有理」、「革命無罪」、「司令部を砲撃せよ」といった言葉にマスヒステリア状態となった紅衛兵は、各地で文化財を破壊し、幹部たちを攻撃します。

行政機能がマヒしていたこともあり、紅衛兵の総数は不明です。ただ、66年8~10月、天安門広場で毛沢東の接見を受けた紅衛兵だけでも1,000万人と言われます。赤い腕章を巻き、毛沢東語録を掲げる紅衛兵たちは、毛沢東の登壇で、異様な興奮状態に入ります。大衆運動としての文革のピークでした。紅衛兵の破壊行為や暴力行為は留まることを知らず、国は無政府状態となります。ついに劉少奇や鄧小平も批闘会に引きずり出され、激しい糾弾を受けます。劉少奇は監禁され、繰り返し暴力にさらされ、亡くなりました。鄧小平も同様でしたが、毛沢東が「あれはまだ使える」と言ったことから、命と党員資格をはく奪されることはありませんでした。四人組は、各地で生じた統治機構の不在を革命委員会の設置で補います。紅衛兵たちの暴力は、委員会の主導権を握るべく、内紛へと向かいます。ついに毛沢東も、混乱の収束に乗り出します。

紅衛兵の役割は終わったということです。毛沢東は、人民解放軍を投入し、一部では紅衛兵の虐殺も起こります。さらに、農村に学べ、という毛沢東の指示によって、1,000万人の青年たちが、僻地の農村へと送り込まれます。いわゆる下放は、信じがたい政策ですが、個人崇拝が極限まで高まっていた毛沢東の指示は絶大でした。個人崇拝を進めたのは、副主席の林彪でした。林は、毛沢東の威光を借りて、全権を手中にしつつありました。これに気づいた毛沢東は、林彪批判を始めます。焦った林彪は、71年、毛沢東暗殺を画策しますが、事前に発覚。軍用機でソヴィエトへと逃亡を図ります。ただ、燃料切れのためモンゴル平原に墜落し、炎上します。林彪死亡後は、我慢を強いられてきた実務派周恩来が勢力を盛り返し、四人組との権力闘争になります。四人組は、批林批孔運動を展開。表向きは、林彪と孔子を批判しながら、周恩来追い落としを図ります。

1976年、1月に周恩来が死に、9月には毛沢東も死にます。毛沢東が後継に指名した華国鋒は、後ろ盾を失った四人組を逮捕します。10年に渡り、国を混乱に陥れた文革の終焉です。文化大革命で、政治・経済は混乱し、伝統文化が失われ、何よりも多くの人材と一世代の教育機会を失ったことは、その後の中国に大きな影響を残しました。昨今、散見される中国人の個人主義や拝金主義を生んだとも言えます。1981年に至り、中国共産党は、「文化大革命は、毛沢東が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱である」という、毛沢東に配慮した歴史決議を行いました。しかし、三度復権した鄧小平は、毛沢東について「七分功、三分過」と発言、これが現在も中国共産党の基本スタンスとなっています。(写真出典:rfi.fr)

2021年4月20日火曜日

日本一の砂丘

猿ヶ森砂丘
本州最北端の下北半島は、平安期から続く日本三大霊場の一つ恐山、あるいは大間のまぐろ等で知られます。ただ、観光地も少なく、アクセスも良いわけはなく、青森県内ですら馴染みの薄いところです。。下北半島について、ほとんどの日本人が知らないと思われることが4つあります。海上自衛隊の五大基地の一つ大湊港があること、原発関連施設が集中する原発センターであること、かつて会津藩の国替先の斗南藩が存在したこと、そして日本一の砂丘があることです。

原発関連施設としては、六ヶ所村に使用済核燃料の再処理工場、ウラン濃縮工場、放射性廃棄物埋設センターがあり、東通村には東北電力の軽水炉、および建設中の東京電力の軽水炉があります。さらに大間には、フルMOX炉の原発が建設中であり、むつ市にも、審査待ちの使用済み核燃料の中間貯蔵施設があります。もともと土壌も気候も耕作地には適さない土地でした。ゆえに1960年代、むつ小川原開発計画が策定され、巨大な石油コンビナートや製鉄所が建設される予定でした。立ち退きや農業や漁業の補償も終わったところで、オイル・ショックが勃発、計画は頓挫します。すでに広大な用地があったため、核燃料サイクル施設等の受け入れが決まり、今に至ります。もちろん、反対運動はありました。しかし、目的は違うものの、用地買収や補償問題が解決済であったことが、特殊な状況を作ったと言えます。

1869年、戊辰戦争に敗れた会津藩領は、明治政府直轄地とされ、会津松平家は、下北半島に国替えとなり、斗南藩と命名されました。斗南とは、南部藩の外という意味だとされますが、南、つまり薩長と斗う(戦う)決意を示すとも言われます。翌年には藩士・領民17,000人が、会津から下北へと移住します。痩せた土壌に、やませと呼ばれる北東の風が強い土地で、移住者たちは、地獄の苦しみを味わいます。薩長による苛烈な会津への報復と言えます。それほど会津の戦力は恐れられていたとも言えます。1871年には、廃藩置県が行われ、斗南藩は青森県に編入されます。それと同時に、移住者の多くは、会津へと帰っていったようです。一部は残留し、日本初の近代的牧場等で成功します。現在のむつ市の方言には、会津弁の影響が残っているとも言われます。

日本で砂丘と言えば、何といっても鳥取砂丘ということになります。しかし、最大の砂丘は、下北半島の太平洋側に連なる猿ヶ森砂丘です。東西2km、南北17kmという広大な砂丘です。ほとんど知られていない理由は、戦後、アメリカ空軍三沢基地の射爆場として接収されていたからです。要は日本人の入れない土地だったわけです。ただし、日曜には訓練がないので、入ることができました。私も、かつて一度だけ入ったことがあります。近隣の農家の人たちが、薬莢拾いをしていました。鉄くずとして売れたわけです。現在は、自衛隊の下北試験場となりましたが、依然として射爆場として使われています。もちろん、今も一般人は立ち入り禁止です。

下北半島は、マサカリの形をしていますが、その刃に当たる陸奥湾沿いにニホンザルが生息しており、「北限のサル」と呼ばれます。私も、奇岩の景勝地・仏が浦で見たことがあります。海藻類を主食にしているという珍しいサルです。それなりに知られている「北限のサル」ですが、多くの人は、ニホンザルの北限生息地だと思っています。それもそのとおりですが、実は、人間以外の霊長類として、世界最北に生息するサル、というのが本当の意味です。下北半島は、人間にとっては厳しい地ゆえ、自然は豊かで、半島全体が国定公園にもなっています。厳しい地ゆえ斗南藩が置かれ、厳しい地ゆえ射爆場となり、厳しい地ゆえ原発半島となっているわけです。(写真出典:travel.star.jp)

2021年4月19日月曜日

カイザー・ソゼ

※以下は、いわゆる「ネタばれ」前提の内容となっています。

若いころには、同じ映画を何度も見ました。最も多く見たのは、 クロード・ルルーシュ監督の「男と女」で、ビデオのない時代、映画館で30回くらい見ています。その後、同じ映画を何度も見ることはなくなりました。ビデオの時代に入り、いつでも見れると思うようになったからかも知れません。唯一の例外は、ブライアン・シンガー監督の「ユージャル・サスペクツ」(1995)です。 どんでん返しが売りのサスペンスと言えばそれまでですが、実は、映画史上、稀に見ると言っていいくらいユニークなプロットを持つ映画です。何度も見たくなるというか、見ざるを得ない魅力があります。

映画の中心的プロットは、謎の黒幕カイザー・ソゼの存在です。その業界では冷酷さで知られるカイザー・ソゼですが、姿を現すことはなく、その存在すら疑う者もいます。ストーリーは、ソゼを中心に回り、終盤では”ソゼは誰か”に収れんしていきます。そして、最後のどんでん返しになるわけですが、キント(ケヴィン・スペイシー)の偽装された障害、金の腕時計、左利き、迎えの車とそれを運転するコバヤシ、生き残った船員による似顔絵、と散りばめられた伏線は回収され、映像は明快にキントをソゼだと指しています。観客は、なるほど、と納得するわけですが、実は、ソゼは誰かについて、映画は明確にしていません。「解説はしない」が、この映画のコンセプトの一つです。

この映画は、二重構造になっています。関税捜査官や警察の目線から見た現在のシーン、そしてキントが語る事件の回想シーンです。キントの回想は、現在のシーンと同様フラットに提示されます。恐らくキントは、ウソをついていません。ソゼは、ウソをつく理由すらないのだと思います。なぜなら、ソゼのねらいもシナリオも、まったく別なところにあるからです。それは、正体をあばかれない、その一点です。船を襲撃したねらいも、ソゼの顔を知るアルゼンチン人の殺害でした。キートンにこだわり、彼こそソゼだという捜査官の持論についても、キントは、否定はせず、むしろ戸惑うふりで、うまく誘導しているように見えます。ここでも、映画は、何の解説もしていません。

通常のミステリー映画では、観客に重要な事柄を隠したり、登場人物が誤った方向に誘導したりします。この映画では、画面上にそうしたミスディレクションもミスディテクションもありません。ただ、画面の外に、ソゼのシナリオが流れているわけです。実に巧みな、画期的なミスディレクションを発見したものだと思います。ただ、それだけでは、エンターテイメントとしての映画は成立しにくいので、多数の伏線がバラまかれているわけです。この表面的にはシンプルながら、その構造は実に複雑という映画の成功は、見事な脚本、そしてケヴィン・スペイシーの存在によるところが大きいと言えます。スペイシーは、演技というよりも、そのキャラクターそのものがミステリーです。

今や、 話題作ともなれば、 製作費100億円以上が当たり前の時代ですが、 本作はわずか6億円。 ただ、興業成績は、4倍近い23億円を記録しました。小品ながら、大ヒットです。しかも、今だにネット配信で根強い人気だと聞きます。やはり、何度も見返すファンが多いのでしょう。世界中で高い評価を得て、クリストファー・マッカリーがアカデミー脚本賞、本作が出世作となったケヴィン・スペイシーもアカデミー助演男優賞を獲得しています。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年4月18日日曜日

白亜の霊廟

タージ・マハールは、世界で最も美しい建築だだと思います。いつまでも、いつまでも見ていたくなります。巨大さ、意匠の美しさもさることながら、今も失われることのない白亜の大理石の美しさには、人を惹きつけて止まないものがあります。タージ・マハールは、1632年着工、周辺施設も含めたすべての工事が完成したのは1653年とされます。ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、産褥熱で亡くなった妃ムムターズ・マハルのために建設した霊廟です。タージ・マハールという名称は、妃の名前に由来します。

ムムターズ・マハル妃は、享年36歳、生涯で14人の子を産んだと言われます。当時のイスラム社会にあっては、多産が奨励され、また賞賛されていたようです。シャー・ジャハーンが、美しい妃を深く愛していたことも事実でしょうが、この壮麗な建築物には、多産を称え、社会に徹底を図る意味もあったのでしょう。また、当時、ムガル帝国は、ヒンドゥー支配の途上にあり、壮大な建築で、ヒンドゥーを威圧しようとするねらいもあったと思われます。シャー・ジャハーンが、個人的に妃を偲ぶための単なる霊廟でないことは、大人数の参拝者を想定した大きな礼拝堂等付属施設からもうかがい知れます。

建設に際しては、イスラム世界各地から高名な名工たちが、高給で集められたと言います。現在確認できるだけでも37人、その下で働く腕の立つ職人も各地から2万人集められます。一説によれば、イスラム社会のみならず、イタリアからも名工を呼び寄せたと言います。使われた大理石は、ジャイプール産の白大理石です。際立った白さと汚れにくいことで知られているようです。その加工所を訪問した際、驚いたのは、石にも関わらず、うっすら光を通すことです。この白大理石でランプを作ることができます。いずれにしても、莫大な資金が投じられたということです。

最愛の妻を失い悲嘆にくれたシャー・ジャハーンでしたが、その後、見境なく女性に手を出す色情狂になったようです。皮肉なものです。催淫剤を常用し、それがもとで病に倒れたと言われます。ムガル帝国の最盛期を築いた王の後継者争いは熾烈を極め、4人の王子が王座を巡って争いました。シャー・ジャハーンが後継に指名したのは長男でしたが、最終的に勝利したのは三男でした。シャー・ジャハーンもアグラ城に幽閉され、そのまま生涯を閉じます。アグラ城からは、川越しにタージ・マハールを望むことができます。ただ、あまり大きくは見えません。これまた皮肉な運命です。

デリーのフマーユーン廟を見た時、あまりにもタージ・マハールそっくりなので驚きました。タージ・マハールの赤砂岩ヴァージョンといった風情です。これは、ムガル帝国第2代皇帝フマーユーンの霊廟です。タージ・マハールに先んじること百年。インド・イスラム文化における霊廟建築の原型になったとされます。フマーユーンの死後、そのペルシア人の妻ハージー・ベーグムが命じて建設されました。タージ・マハールとは逆の経緯です。やはり、ペルシャの名工が呼び寄せられ、設計・建築にあったようです。(写真出典:4travel.com)

2021年4月17日土曜日

朝食バイキング

城山ホテルの朝食
旅の楽しみの一つは、朝食だと思います。行き届いた味とサービスは、ホテルや宿によって特色があり、結構楽しめます。最近は、バッフェ、いわゆるバイキングが、ホテルに限らず、温泉宿でも主流になっています。ホテル側としては、食材や人件費の節約になり、最後に受けたサービスの印象が最も強く残るというピークエンド法則を重視し、チェックアウト前の朝食を充実させる傾向もあるようです。ランキングも多くみかけますが、今一つ、納得感がありません。宿泊施設というアクセス上の制約から、網羅性に欠けるからなのでしょう。

日本におけるバッフェ料理は、1958年の帝国ホテルに始まります。新館オープンにあわせて、新しいレストランを模索していた当時の社長が、北欧で”スモーガスボード”に出会ったことがきっかけとなりました。日本人にも親しみが持てるネーミングを、ということで、北欧と当時ヒットした”バイキング”という映画をかけて”バイキング”という名称が誕生しました。ネーミングの良さもあり、バイキングは、瞬く間に大ヒットとなり、日本中に広がっていったようです。ちなみに、赤坂には、日本唯一の本格的スモーガスボードの店「ストックホルム」があります。かつては、六本木のスウェーデン大使館の地下にありました。六本木ヒルズ開発とともに、赤坂に移転しました。ちなみに、昔の「ストックホルム」は、大好きな空間でした。今でも、個人的にはナンバーワンです。

そのバイキングが、ホテルの朝食として提供されたのは、いつ、どこから始まったのかは、どうもはっきりしません。昔から有名だったのは、鹿児島の城山ホテル(旧城山観光ホテル)だったと記憶します。元祖ではないかもしれませんが、かつては最強の朝食と言われていました。とにかく品数が多く、常時、和洋中60種以上が並ぶという光景は圧巻でした。すべてを食べることなど、到底できません。しかも、とても美味しく、かつ鹿児島の名産・名物も網羅していました。城山ホテルは、20年ほど前に、温泉を掘り、桜島を真正面から望む露天風呂を作りました。日本有数とも言える絶景の風呂です。噴煙たなびく桜島を眺めながら朝風呂に浸かり、日本一の朝食を食べるという、なんとも贅沢な朝が過ごせます。

北海道の朝食バイキングに革命を引き起こしたのは、2008年開業のラビスタ函館ベイでした。企業の社員食堂の受託から創業した共立メンテナンスが、ドーミー・インの経営ノウハウを活かして開業したシティ・ホテルです。赤レンガの倉庫街に立地し、大正ロマンをテーマとした部屋、屋上にある展望温泉も魅力ですが、なんといっても朝食バイキングが話題になりました。北海道の海鮮がビッシリ並び、イクラも含めて、自分で海鮮丼が作れるというバイキングは衝撃的でした。なかなか宿泊の予約がとれず、宿泊できても朝食には長蛇の列という状況が続きました。極端に言えば、函館名物朝市へ朝食を食べに行く必要がなくなったわけです。いまや北海道のホテルでは、ラビスタ方式がスタンダード化し、全国各地でも、郷土料理をバイキングの目玉に据えるホテルが増えたように思います。

私のベストの朝食バイキングは?と聞かれると、すぐに十余りのホテルの名が浮かびますが、優劣をつけるのは難しいところです。一番多く食べたのは、京都ホテルオークラだと思いますが、ここの朝食バイキングも大好きでした。一品一品が美味しく、季節メニューも楽しみでした。特に、ぐじ(甘鯛)の季節には、カマの塩焼きが限定で並び、これが絶品でした。ただ、バイキングに限定しないホテルや宿の朝食としては、山中温泉「かよう亭」が一番良かったと思います。日本一とまで言われた朝食は、実に2時間かかりました。随分と時間がかかったのは、あまりにも美味しい料理の数々に、日本酒を注文せざるを得なかったからでもありますが。(写真出典:ana.co.jp)

2021年4月16日金曜日

「異端の鳥」

監督:ヴァーツラフ・マルホウル    2019年チェコ・ スロバキア・ウクライナ

☆☆☆☆

原題の” The Painted Bird ” は、色を塗られた鳥が、群れの中で異端者として攻撃されることを象徴しています。作中でも、その現象が映し出されています。本作は、ユダヤ人の長い迫害の歴史をたどる旅でもあり、異端者に対する人間の恐怖ゆえの攻撃性、あるいは人間の持つ本質的な悪性を描いています。各映画祭で絶賛される一方、その残忍なシーンに耐えかねて退席する人の多さでも話題となりました。白黒の荘厳とも言える映像は極めて美しく、衝撃的な描写を客体化する効果も持たせているように思います。

途中退席者の多さは、残酷な描写ゆえですが、うがった見方をすれば、欧米人は、自らの醜い姿を突き付けられることに耐えられなかったからだとも言えます。一人放浪するユダヤ人の少年を虐待するのは、ナチスだけはありませんでした。キリスト教徒たちが、残忍な仕打ちを行うのです。ただ、少年を逃がすナチス古参兵や少年を助ける村の司祭など、救いは残しています。本作では、特定の国が批判されることを避けるために、インタースラーヴィクという、スラブ諸国の人々が意思疎通できるよう作られた国際言語が使われています。その歴史は古く、17世紀には、既に存在していたようです。エスペラントのように、まったく新たに開発された国際言語ではなく、各スラブ系言語に共通する要素から無理なく紡ぎ出される言葉だとされます。

異端者に対する差別は、人間の組織防衛、ひいては自己の防衛本能の成せる技でもあり、差別の根絶は、理性を持って行うしかありません。一神教の世界では、これを難しくする構図もあります。欧州の宗教戦争くらい残忍な戦争は無かったとも言われます。なぜなら、異なる信仰は邪教とされ、異教徒は悪そのものであり、人間ではないとする狂信性があるからです。人間ではない邪教者であれば、残忍に殺害しても、教団から褒められることはあっても、非難されることはありません。これが一神教の強さでもあり、怖さでもあります。異端者を目の前にした時、一神教の人々は、人間の持つ本質以上に難しい対応、あるいは信仰告白を迫られるとも言えます。

原作は、イェジー・コシンスキーが1965年に発表した同名小説です。コシンスキーはユダヤ系ポーランド人。キリスト教徒に偽装してホロコーストを逃れ、そのトラウマから失語症にもなったようです。1957年にポーランドを脱国、紆余曲折を経てアメリカで成功します。自伝的とも言える「異端の鳥」は、世界的ベストセラーになったようです。原作の方が、より残忍な描写があり、出版時には、本作同様、絶賛もされ、様々な物議も醸したようです。チェコのマルホウル監督が映画化権を取得したのは2012年でした。資金集めに苦心した後、2017年から各地で撮影を開始したようです。見事な映像を撮った撮影監督はウラジミール・スムトニー。チェコ映画界の重鎮だそうです。

本作のポスターにも使わている少年が首まで土中に埋められているシーンがあります。カラスに突かれ血を流します。衝撃的なシーンですが、実は、これは虐待ではなく、熱病に侵された少年の治療として行われたものです。日本でも、江戸時代、フグの毒にあたると、同様の治療が行われました。フグの毒にあたると、呼吸を司る胸膈が機能麻痺し、呼吸困難になるそうです。土中に埋めて胸膈を固定すると、横隔膜が緊急避難的にかすかな呼吸を可能にするそうです。その間に、体を冷やし、毒素の巡りを遅らせ、自然に解毒されるのを待つという療法だそうです。もちろん、確実性に欠ける民間療法ですが、理にはかなっているようです。(写真出典:filmarks.com)

2021年4月15日木曜日

藪入り

昭和初期の浅草六区
藪入りは、商家等に住み込んで働く奉公人に与えられた帰省休暇です。もともとは、入り嫁が実家に帰省する日だったようですが、江戸期には商家の習わしに転じたようです。藪入りは、年に2回、小正月が終わった1月16日、そして旧盆が終わる7月16日と決まっていたようです。江戸期から戦前まで続きました。店の主人たちは、奉公人に着物や履物、そして小遣いを与え、さらに手土産を持たせて実家へと送り出したものだそうです。藪とは、概ね草深い田舎にあった奉公人の実家のことです。家が遠くて帰省できない奉公人も休みとなり、小遣いをもらえたようです。藪入りの日の浅草には、そうした奉公人が押し寄せ、混みあったものだそうです。

江戸期の奉公人の休日は、年2回の藪入りだけではありません。例えば、5の付く日とか、業界によって休業日がありました。オフィスワーカーだった江戸期の武士に至っては、数日に一度、お城へ出仕すれば事足りました。他の時間は、鍛錬や学問に充てられていたのでしょう。日曜休日制は、明治時代になってからの制度です。不平等条約改正のために、欧米に劣らぬ国の姿を見せるためだったと思われます。そもそも日曜休日制は、キリスト教の文化です。キリスト復活の日の翌日が日曜だったことから、日曜にミサをあげる習慣ができました。古代ローマがキリスト教を国教化したことで、欧州全域に広がりました。他の宗教の定める休日は異なっています。条約締結国がキリスト教国ばかりですから、妥当な判断だったとは思います。

日本人は働きすぎと言われますが、週休2日制は定着し、祝日はアメリカよりも多いわけです。ということは、休暇の取得と残業時間が問題ということになります。有給休暇の日数について言えば、フランスはじめ欧州の5週間にはかないませんが、日本の20日間は、アメリカやカナダより上です。問題は取得率です。欧州の100%に対して日本は先進国中最低の50%程度です。日本人が有給休暇を取らない理由の1位は、何かあった時のために残す、ということだそうです。欧州の場合、傷病休暇は、有給、もしくは社会保障が給付されます。アメリカでは、企業保険でカバーすることが一般的です。この違いが大きいと言えます。政府は、有給休暇の取得義務よりも、傷病休暇の有給化に取り組むべきだったと思います。ただ、こちらの方が、企業負担が増えますので、避けたのかも知れません。

日本人が有給休暇を取らない理由の2位は”人手不足”、3位は”やる気を疑われる”となっています。いずれも職場の空気の問題なのだと思います。アメリカは個人主義、対して日本は組織主義と言われますが、日本の伝統的組織とは家父長組織です。近年、日本の労働生産性の低さが批判されますが、曖昧な意思決定プロセス、不明確な権限規定の運用など、家父長制的な伝統に原因があるものと思われます。雇用は、契約関係ですが、欧米の場合は職務が特定されているから契約が成り立ちます。日本では、ゼネラリスト指向が強く、企業への”奉公”といった色合いが残っています。かつて高度成長を支えた”滅私奉公”の文化は薄れてきましたが、無くなったわけではありません。無論、そのすべてが悪いとは思いませんが、技術革新とグローバル化が進む競争環境にあっては、デメリットの方が多いように思います。

戦後、労基法が整備されると、藪入りは消滅しました。しかし盆暮れの帰省という文化は根強いものがあります。フランスのヴァカンス、アメリカの夏とクリスマスのヴァケーション、中国の春節と国慶節、などと同様に、日本も、カレンダーに左右されない大型藪入りを制度化してもいいのではないでしょうか。(写真出典:asakusakanko.com)

2021年4月14日水曜日

常在戦場

河井継之助
「常在戦場」は、越後長岡藩の質実剛健の気風をよく表しています。藩内では、戦場の辛苦を忘れず、今日の安息に感謝する気持ちで忠勤せよ、と教えられていたようです。もとは藩主牧野家の家訓です。牧野家が三河牧野氏の一門であったことから、三河武士の心意気を表す言葉とも言われます。越後長岡藩は、7万4千石という小藩ながら、新田開発、新潟湊の発展によって、江戸末期の実高は14万石を超えていたようです。ただ、幕末も近づくと、新潟湊が天領になり、諸費用も嵩み、逼迫した財政の立直しが必要となります。郡奉行として改革を命じられたのは河井継之助でした。河井家は、新参の中堅家臣であり、継之助の出世は破格だったようです。

活発で利発、何よりも熱い心を持つ青年は、藩主の目にとまり、2度、江戸に遊学し、見聞を広げます。1度目は黒船来航を目の当たりにし、2度目には、西国へも赴き、備中聖人と呼ばれた山田方谷に弟子入りしています。継之助の開明的でプラグマティックなスタンスは、江戸遊学で培われたのでしょう。藩政改革にあたり、継之助は、兵制の近代化、藩学の朱子学への統一、遊郭の廃止等を打ち出しますが、最も有名なのは、家禄の見直しです。千石の士も百石の士も、君に報ずるところは首1つ、として、上を削り、下を厚くすることで中央集権体制の強化をねらったと言われます。郡奉行に就いたのは1865年のことですが、その後、小諸牧野家のお家騒動を解決するなどの活躍もあり、1867年には、家老格の家柄ではない者としては最高位の中老となります。

この年10月、ついに大政奉還が行われます。一報を受けた藩主と継之助は、急ぎ上洛し、朝廷に建言書を提出し、公武斡旋を試みています。その際、継之助が目指したのは、内戦回避と言われますが、基本的には藩と領民の安泰だったのだろうと思います。翌年正月早々、鳥羽・伏見の戦いが勃発。将軍慶喜の戦線離脱直後、継之助は、江戸で、南北戦争後流出した米国の武器を大量に購入します。当時、日本に3門しかなかったガトリング砲も2門入手しています。武器を大量調達したことから、継之助が目指したのは武装中立だったとも言われます。ただ、継之助が唱えた”獨立特行”は、武装中立のことではないようです。継之助は、早くから硬直化した江戸幕府に先はないと見ており、一方、薩長の強引な武力倒幕にも批判的でした。イメージしていたのは各藩による連合国家だったと言われます。

会津討伐に向け進軍する新政府軍と、長岡近郊の小千谷で会談に臨んだ継之助は、幕府・会津との停戦を提案します。しかし、新政府軍はこれを拒否。継之助から戊辰戦争の大義を問われた軍監岩村精一郎は、これに答えられず、交渉は決裂します。徳川に成り代わらんとする薩長の魂胆は見え透いており、痛い所を突かれたわけです。こうして戊辰戦争最大の戦いとなった北越戦争が始まります。3倍を越す兵力の新政府軍に対し、小藩長岡藩はよく戦い、攻防は3か月に及びました。ついに継之助も被弾し、残兵とともに会津を目指します。只見の塩沢村に至った継之助は、死期を悟り、自ら火葬の準備を指示して死んだとされます。その際、付き添った藩士に「これからは実力のある者の時代だ。商人になれ」と福沢諭吉への添書を書いて渡しています。藩士の名は外山脩造。後に阪神電鉄やアサヒビールを創業しました。

東北の多くの城には城郭が残っていません。朝敵とされた奥州越列藩同盟の城は、すべて薩長が破壊しています。しかし、他の同盟各藩の城跡は公園や公官庁になっているのに対し、長岡城跡はJR長岡駅になり、城の再建はおろか、偲ぶことすら出来ません。薩長の長岡藩に対する遺恨は深く、長く深く朝敵の烙印を押されていたわけです。筆頭家老格の家柄ながら継之助をよく補佐した山本帯刀は、北越戦争で戦死、お家断絶とされます。その後、家系断絶は解かれたものの、跡取りがおらず、長岡の人たちは相談のうえ、町で一番優秀な少年を山本家の養子にします。後の海軍大将山本五十六です。山本五十六は、長岡藩の怨念を背負っていたとも言えます。田中角栄の秘書だった早坂茂三は、長岡藩怨念の系譜として、河井継之助、山本五十六、田中角栄の3人を挙げています。見事に常在戦場を地でいった人たちとも言えます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年4月13日火曜日

コストコ

倉庫型店舗のコストコ・ホールセールは、1976年にサンディエゴで、原点となる倉庫をスタートし、1983年には、コストコとして、シアトルで開業しています。会員制によるスモール・ビジネス向け店舗、パレットのままの陳列によるコストカット、大ロット販売による低価格化、といったビジネス・モデルは、決してコストコの発明ではありません。コストコは、順調に拡大し、今や世界12カ国で、800を超える倉庫を運営しています。日本への進出は2000年、福岡と幕張を皮切りに、現在は28倉庫まで伸ばし、さらに新しい倉庫も計画されています。我が家も、幕張倉庫オープン時からのファンです。

オープン当初の幕張倉庫は、知名度の低さもあり、週末でもさほど混んでいませんでした。客は、アメリカ人、あるいは日本人も含めてアメリカに居住経験のある人たちが中心でした。そこはアメリカそのものでした。倉庫に入った瞬間から、懐かしいアメリカの匂いがしました。実は、ベーカリーの匂いです。日本のパン屋とは、まったく異なるアメリカ独特の匂いがします。商品もほとんどが、カリフォルニアから運んできたものでした。品揃えは、その後もアメリカで仕入れたものが大半を占めたものの、日本で仕入れたものも増えていきました。また、世界各国で営業している利点も取り入れ、他国で調達したものもあります。コストコの商材の特徴は、自社ブランドに加え、常に最新のトレンドを取り入れていることです。例えば、食品では、オーガニックへの対応等、とても早かったと思います。

我が家も、子供たちが独立すると、コストコの大ロットは、高いハードルになりました。ただ、それでも月1回くらいは通っています。近年、平日のコストコでは、主婦の皆さんのグループ買いが目立つようになりました。マスコミへの露出が増えた影響でもあるのでしょう。なかなか賢い消費行動ですが、必要なものも、好みも異なるのでしょうから、結構、難しいようにも思えます。週末は、家族連れが、遠方からも押し寄せ、大混雑です。ほとんど、行楽地化しています。倉庫は、基本10時オープンですが、9時頃には開けています。ちなみに、コロナ禍以降、障害者や老人向けを対象に、週2日、8時30分からオープンします。これは大助かり。ゆっくり買い物できます。ただ、見ていると、入店時のチェックもなく、一般の人たちも入れます。障害者や老人の買い物に支障のない限り入れる、というコストコらしい実際的な対応だと思います。

コストコの魅力の一つは、フードコートです。代表的なメニューは、でかいホットドッグということになります。トッピングは自由、リフィルOKのソーダが付いて180円。かつては、150円でした。ここで利益を出そうとしていないことがよく分かります。私のお気に入りは、ピッツアです。直径45cmのホールサイズで、1,580円。チーズたっぷりのアメリカの味です。その背徳感は半端なく、カロリーなど聞きたくもない感じです。ピッツアは、スライスでも買えます。1/6カットのスライスでも食べ応え十分です。5種類のチーズを載せたチーズ・ピッツアは、実はスライスの方がチーズの厚みがあります。350円ですから、ホールよりも割高な分、チーズ山盛りなのでしょう。

コストコが日本に進出しきた頃、日本での仕入れには苦労したようです。いち早く、コストコのコンセプトを理解し、協力してくれたのがでん六豆でおなじみの「でん六」だったそうです。でん六は、山形市に本社を置くメーカーです。コストコが、東北初の倉庫をオープンすることになった際の話です。当然、仙台市郊外がベストな立地ということになります。しかし、コストコは、でん六の恩を忘れていませんでした。山形県の上山に東北第一号となる倉庫を開きました。コストコの意外とウェットな対応に感動しました。(写真出典:jp.linkedin.com)

2021年4月12日月曜日

梁盤秘抄 #15 A Seat at the Table

アルバム名:A Seat at the Table (2016)                     アーティスト名:ソランジュ

"A Seat at the Table"は、ソランジュの大ヒット・アルバムです。自身の3枚目のアルバムですが、初めてチャート第1位を獲得しました。同じ年、姉ビヨンセの"Lemonade"も第1位になったことから、同じ年に姉妹でチャート第1位を獲得した初めてのケースとなりました。反人種差別というスタンスは明確ながら、楽曲自体は、ソランジュの多様なバックグランドが反映された斬新のものでした。ずっと聞いていたくなるような心地良さすら感じます。十分にソウルらしさを保ちながら、ネオ・ソウルの新しい流れを感じさせます。

 ソランジュは、音楽一家に生まれました。13歳の時には、ビヨンセが所属したデスティニーズ・チャイルドのツアーに同行し、メンバーの一人が怪我をした際には、代役まで勤めています。また、作詞・作曲も開始し、プロへの楽曲提供まで行っています。14歳でシングル・デビュー、17歳で出したアルバム”Solo Star”は、ヒットを記録しています。まさに早熟の天才です。その後、音楽活動よりも、女優としての活躍が続きます。20歳で、姉に楽曲を提供したことをきっかけに、再び、音楽活動を開始しました。彼女の楽曲は、R&Bを基本としながらも、ジャズやブルースの要素もあり、それらをモダンにまとめあげている印象があります。歌手、作曲家、女優、モデル等、クロス・オーバーに活躍するソランジュ自身を反映しているようでもあります。

ネオ・ソウルは、定義もあいまい、ジャンルとしても確立していません。私は、結構、好きなジャンルです。モータウンの本質的な部分は残しつつ、伝統的なシャウト・スタイル、あるいはヒットの法則に満ちた定型的アレンジに関しては、もっと自由な表現を試しているのが、ネオ・ソウルだと思っています。そういう意味では、このアルバムなど、まさに典型だと思います。また、ネオ・ソウルの元祖マーヴィン・ゲイのアプローチとも異なる、都会的で、知的で、今日的なソウルだと思います。ネオ・ソウルというと必ず名前があがるエリカ・バトゥの油抜きしたような歌い方とも異なり、ファルセットをうまく使いながら、洗練された新しいソウルを表現しています。

また、曲と曲の間に”Interrude”として、メッセージ性の強い語りを入れていますが、ローリン・ヒルが名作”The Miseducation of Lauryn Hill”で取り入れた手法を意識しているのでしょう。間違いなくアルバムの統一感は高まり、メッセージ性も強く成りますし、それぞれのInterrudeも味わい深いのですが、何度も聞いていると、Interrudeをスキップしたヴァージョンが欲しくなります。ちなみに、本作の歌詞には、かなり汚い言葉や差別用語も使われています。魅力的なメロディと好対照です。ミュージック・ヴィデオには、汚い言葉を消したクリーン・ヴァージョンというのがあります。誰が制作したのか分かりませんが、くだらないことをするものだと思います。

2019年には、次のアルバム”When I Get Home”がリリースされ、高評価を得ています。”A Seat at the Table”の延長線上にありながら、より自分の世界へ埋没していっているように思いました。ライブの舞台が現代アート的であったり、あるいはNYのグッゲンハイム美術館でライブを行ったことなどからしても、よりアーティスティックな世界観を指向しているように思えます。いわゆる作家主義的指向なのでしょう。ただ、その世界は、まだまだ未完成です。モータウン、ジャズ、BLM、アート、これらが融合した先には何があるのか、あるいは何もないのか、次回作への興味が湧きます。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年4月11日日曜日

ヒッピー・トレイル

BBCが制作し、Netflixで配信されたミニ・シリーズ「サーペント」 を見ました。久々にハマり、一気見しました。1970年代、バンコックを中心に起こった連続殺人事件を題材としています。稀代のシリアル・キラーと言われるシャルル・ソブラジが起こした事件を、ほぼ忠実に踏まえながら、スリリングなエンターテイメントに仕立てています。シリアル・キラーは、皆、病気ではありますが、とりわけソブラジは、複雑で、興味深い人物です。ただ、ソブラジの内面をえぐるのではなく、エンターテイメントに徹したところが成功している最大の要因だと思います。また、当時のヒッピー文化、当時のアジアの街角、当時の音楽等は、私の年代には、たまらなく訴えるものがあります。

当時、世界中の若者たちが、ヒッピー・トレイルと呼ばれた東南アジアからインド、ネパール、アフガニスタンあたりを、バックパックを背負い旅をしました。古い社会体制からドロップ・アウトし、東洋哲学にあこがれ、一方では大麻を求める旅でもありました。ゼミの先輩に、インドを1年間、放浪してきた人がおり、あこがれたものです。私も、パキスタン留学の話がありました。旅費は自前ながら、1年間、パキスタン政府が月2万円の小遣いをくれると言うので、行く気満々でした。ただ、留年もしていたので、親父から一喝され、断念しました。私の替わりに留学した知人は、帰国時、インドに立ち寄り、赤痢を罹患。1ヶ月間、カルカッタで入院しました。やはり、欧米人や日本人にとって、衛生状態は、かなり厳しいものがありました。

ソブラジは、ヒッピーを餌食とし、衛生環境の悪さを手口に使います。親切にして、近づき薬を盛り、介抱すると見せかけ、殺して金品とパスポートを奪うという手口です。殺人そのものを目的とするシリアル・キラーとは異なります。ソブラジは、妻と称するカナダ女性マリー・アンドレ・ルクレール、インド人のアジェを従えて犯行を重ねます。自国民が犠牲になったことから、オランダ大使館員クニッペンベルグは、ソブラジに疑念を抱きます。地元警察から相手にされなかったため、独自に捜査を進めます。彼と協力者たちの活躍で、事件の全容解明が進みます。結果、ソブラジは、インドで逮捕。収監されます。ただ、刑期満了直前に脱獄。再逮捕され、刑期は延長されます。その間に、死刑確実なタイの事件は、すべて時効を迎え、インドで刑期を終えたソブラジは、自由人としてフランスに戻りました。計算づくの脱獄だったわけです。

「サーペント」が面白くなったのは、上述のとおり、ソブラジを深堀せず、ストーリー・テリングに徹しているからですが、他にもいくつかの理由があります。テクニカルには、頻繁なタイム・ホッピングが、テンポを落とさない、緊張感を持続する、ムードを一定に保つ、といった効果をあげています。これは、場面毎の感情の動きやドラマを構成しにくいという欠点を生みますが、一方で、ストーリー展開は早くなります。表面的に過ぎるドラマだという批判はあるでしょうが、覚悟のうえだと思います。実話、かつ多数の題材が存在する「サーペント」には適しています。マリ―とのからみ、クニッケンベルグの謎解きには、創作部分も多いのだと思われますが、ストーリーに、実話以上の広がりを持たせています。

ソブラジは、フランス・ヴェトナムのハーフです。「サーペント」では、ソブラジの犯行の背景として、不遇な家庭環境、フランスで受けた差別を示唆しています。ヒッピーを標的にしたのは、彼らのアジアを見下す一面ゆえかもしれません。ソブラジの本質は、極めてIQの高い、生来の詐欺師なのだと思います。取材や映画化権で得た収入で、豊かに暮していたソブラジは、2003年、突如カトマンズに現れ、警察に拘束されます。彼は、カトマンズでも殺人を犯しており、起訴される可能性が残る唯一の国でした。証拠不十分で不起訴となることを確信し、インド、タイと同様、法的に全てをクリアーにしたかったのかも知れません。ところが、かつてマリーがインドで行った証言が証拠として採用され、終身刑を宣告されます。ソブラジは、現在もネパールで収監されています。マリーの証言を提供したは、クニッケンベルグでした。ちなみに、クニッケンベルグ夫妻は、後に離婚します。その後、妻のアンゲラは、国連に勤務、事務次長にまでなりました。(写真出典:imdb.com)

2021年4月10日土曜日

具眼の徒

「千載具眼の徒を竢つ」とは、伊藤若冲55歳のおり、相国寺に「釈迦三尊像」の周囲を飾るための「動植綵絵」30幅を全て寄進した際の言葉だと言われます。見る目を持った人が現れるのを千年でも待とう、といった意味で解釈されています。若冲ブームが起こったのは、2000年、京都国立博物館にて没後200年を記念して開催された『若冲展』からだとされます。永らく忘れられていた画家の、予言的で、かつ正鵠を射たとも言える言葉としてもてはやされました。しかし、この言葉には、少し不思議な面があります。生前の若冲は、既に高い評価を得た高名な絵師でした。わざわざ千年も具眼の徒を待つ必要はなかったはずです。しかし、若冲は、没後、しばらくの間、忘れられた存在となります。若冲は、そのことを見通していたのでしょうか。また、なぜ、そのように考えたのでしょうか。

若冲ブームの最中、2016年、東京都美術館で「生誕300年記念若冲展」が開催され、相国寺の「釈迦三尊図」と相国寺が皇室に献上した「動植綵絵」全30幅の同時公開ということで、大人気になりました。私も、かつて「バーンズ・コレクション展」で2時間行列に並んだ経験があったので、ある程度、覚悟を決めて出かけました。ところが、そんな覚悟では及びもつかない3~5時間待ちという、まさに異常事態。もちろん、断念しました。空前の若冲ブームに会期はわずか1か月という設定。開催側は責められるべきだと思いました。いずれにしても、いまや若冲の二文字が入った展覧会は、どこでも大入り満員状態です。私は、若冲の墨絵が好きです。「鹿苑寺大書院障壁画」などの大胆な構図はモダンさすら感じさせ、若冲の異才が際立ちます。多くのファンの好みは、「動植綵絵」に代表される極彩色の細密画なのでしょう。

若冲は、宋代の花鳥画の模写に専念し、後には実物写生へと移ったようです。しかし、若冲は、いずれとも異なる画風を持ち、その最大の違いは、超絶技法による細密性だと思います。それはリアルさの追求ではなく、ディテールの追及による新たな実在の創造だと言えるのではないでしょうか。その意味において、超現実的であり、独特なシュール・リアリズムだとも言えます。若冲の鶏は、すでに鶏ではなく、鶏の細部から再構成された何か別の存在です。もはや天地創造神の領域であり、当時、その絵が高く評価されたとしても、その超現実性については、世間の理解をはるかに超えていたのでないでしょうか。生前の若冲がそのことを認識していたとすれば、あえてそれを語らず、あるいは語ることはできなかったのではないかと思います。せいぜい言えた言葉が「千載具眼の徒を竢つ」だったのではないでしょうか。

若冲が、しばらく奇想の画家としてキワモノ扱いを受けていた理由は、かつての日本に、リアルさを追求するという画風が存在しなかったからだと思います。画材、特に油絵具を持たなかったこともありますが、何よりも仏教の影響から、精神性が重視されたからだと思います。リアルさは低俗だとされていたのでしょう。例えば、日本の花鳥画と英国のボタニカルアートでは、目指しているものがまるで違います。それが変わったのが文明開化だったということになります。本格的に西洋画がもたらされ、その前提である油絵具や遠近法、そしてその背景にある自然科学が伝わり、絵画は変わります。安土桃山の頃、宣教師たちが西洋画を持ち込んではいましたが、日本の絵画に大きな影響を与える前に、禁教令によって影を潜めました。若冲も、西洋画は目にしていたのではないでしょうか。恐らく、他の人たちとは異なる視点で見ていたようにも思えます。

若冲とヨハネス・フェルメールは、似たところがあると思います。ディテールへのこだわり、超絶技法、高価な画材、そして、没後、独自の画風もあって、しばらく忘れられていたこと等です。絵画は、強大な権力、膨大な財力の庇護のもと、発展する傾向があり、また、そこで生まれた作品は後世へと伝わりやすくなります。若冲と相国寺との関係、フェルメールの事業家のパトロンはあるにしても、二人とも、幕府や王侯貴族の庇護は受けていません。若冲のプルシアン・ブルー、フェルメールのラピスラズリといった高価な画材の使用は、ほぼ個人的裕福さを背景にしています。権力との関係が無かったことは、若冲が、具眼の徒を待たなければならなかった理由の一つかも知れません。(「群鶏図」東京富士美術館蔵 写真出典:fujibi.or.jp)

2021年4月9日金曜日

熊野(ゆや)

能楽の世界には、昔から「熊野松風に米の飯」という言葉があり、「熊野(ゆや)」と「松風」は、米の飯のごとく、何度観ても飽きることがない演目だと言われているそうです。それほどまでの傑作、あるいは能楽らしい能楽ということなのでしょう。いずれも、シテは女性で、和歌が重要なモティーフになっています。桜の「熊野」は春に演じられ、月の「松風」は秋に演じられることが多いようです。今回、初めて観世流の「熊野 村雨留」を見てきました。

平家物語に題材をとった「熊野」のあらすじは、次のようなものです。平宗盛が遠江国池田宿から連れてきた愛妾の熊野は、病に倒れた国の母親が気がかりで、一刻も早く、故郷に戻りたいと思っています。宗盛に暇を願い出ますが、断られています。宗盛は、東山で花見の宴を開き、熊野を慰めたいと考えます。熊野を乗せた牛車は、春の都を清水寺へと向かいます。春の都の道中は、熊野の心情に重なっていきます。清水寺に着き、観音堂で祈っていた熊野は、宴の場へと呼び出され、舞います。その時、突然、村雨が降り、花を散らします。熊野は「いかにせん 都の春も 惜しけれど 馴れし東の 花や散るらん」と歌を詠み、宗盛に差し出します。さすがに宗盛も負けて、熊野に暇を出します。熊野は、その場から遠江国を目指します。

一見、シンプルなストーリーに見える「熊野」には、いくつかの対比構造が埋め込まれ、深みのある展開になっています。帰りたい熊野と帰したくない宗盛、京の春のあでやかさと熊野の憂鬱が重なる東山の暗い一面、清水寺における観音堂の祈りと花見の宴席、華やかな舞と熊野の憂い、舞と無常観、宗盛の栄華を誇る宴席と忍び寄る滅亡の気配、等です。それらが、美しい詞の謡、緩急をつけた囃子、そして実に能を感じさせる舞とともに情感を深めていきます。いわば対比の美学によって、一曲のなかに濃密な世界を築いています。「米の飯」と言われるだけのことはあります。なお、小書(特殊演出)の「村雨留」は、中ノ舞が村雨によって終わることで、熊野が歌を差し出す場面を、より効果的に演出していました。

平宗盛は、清盛の三男で、清盛が没した後、平家の頭領となります。宗盛の責任とばかりは言えないにしても、平家一門を、都落ちから壇ノ浦での滅亡まで追いやりました。壇ノ浦で、一門が入水するなか、一命をとりとめ、捕虜になります。死にきれなかったのは、泳ぎが上手かったからとも、肥満体が水に浮いたからだとも言われます。宗盛は、愚鈍、かつ傲慢だったと言われます。父に先立ち病死した兄重盛が人望の厚い武将だったことと比較されがちな面もあります。捕虜として鎌倉に連行され、見苦しく命乞いをするなど、やはり頭領に相応しい人だったとは思えません。ただ、一方で、情に厚い、優しい人柄だったとも言われます。特に家族への愛情は強く、妻に先立たれた時には、官職を辞し、ふさぎ込んでいたようです。この性格が、熊野への複雑な思いの伏線にもなっているのでしょう。

熊野は、遠江国池田宿の遊女ですが、実在した人とされています。池田宿は、現在の磐田市池田に名を残し、天竜川沿いの行興寺には熊野の墓があります。行興寺は、樹齢850年という長藤がよく知られており、「熊野御前ゆかりの藤」と呼ばれているそうです。熊野は、本尊の十一面観世音菩薩を深く信仰し、境内に長藤を植えたと伝えられているそうです。(写真出典:shitashimu.dreamlog.jp)

2021年4月8日木曜日

あおり運転

あおり運転はじめ、道路上でのトラブルは、昔から、国を問わず、頻発してきました。キレやすい人、つまりアンガー・マネジメントができない人がいる以上、この先も絶えることはないでしょう。 あおり運転を行った理由は「進行の邪魔をされた」、「割り込まれた」、「追い抜かれた」が多いようです。あおり運転と言えば、思い出すのはスティーヴン・スピルバーグの出世作「激突!」(1971)です。映画も、主人公がタンクローリーを追い越したことから、恐怖が始まりました。あおり運転は、概ね、ドライバーの身勝手な思い込みによるものであり、些細なことが些細に思えない心理状況の反映でもあります。

ある調査によれば、ドライバーの7割が、あおり運転をされた経験があり、うち8割が、後ろから接近されたり、幅寄せされたケースだったようです。自分の経験からしても、高速道路の追越車線で、高速で接近した車がピタリと後ろに付き、車線変更を迫る、いわゆる「あおり」は、よく見かける行為です。とは言え、あおられてスピードを上げた結果、速度違反で捕まっても、危険回避には相当しないようです。幅寄せになると、これはかなりの悪意をもって行われる危険な行為であり、犯罪そのものだと思えます。さすがに、私も経験がありません。また、あおられる車の多くは、軽自動車だとも聞きます。分かる気がします。

あおり運転は、2020年、道路交通法が改正され、危険な方法で、故意に妨害運転を行った場合、処罰の対象となることになりました。従前は、危険運転によって事故が起きた場合、あるいは車間距離不保持のみが処罰対象でした。改正のきっかけになったのは、2017年に東名高速で起きた死亡事故です。執拗なあおり運転を繰り返していた犯人は、被害者の車の前で停車、そこへ後続のトラックが追突し、運転していた夫婦は死亡、子供2人は重症を負います。この事件を契機に、多くの異常なあおり運転が、TVで報道されます。背景として、ドライブ・レコーダーの普及によって、あおり運転が映像に記録されるようになったことが挙げられます。また、それによってドライブ・レコーダーは、爆発的に売れました。

あおり運転については、日本独特の車文化も関係しているように思います。パッシング・ライトとクラクションを使わないことです。かつてパッシング・ライトは、しばしば見かけましたが、近年、受けたことも、やったこともありません。理由は分かりません。クラクションは、日本の道路交通法上、例外を除いて、原則、鳴らしてはいけないことになっています。日本以外では、やたらクラクションが鳴っています。発展途上国では、エンジンが回っている間中、クラクションが鳴らされています。これはこれで問題ですが、クラクションは、ある意味、車によるコミュニケーション手段という面があります。うるさくなるのは困りものですが、クラクションを鳴らすことによって、多少は苛立ちが解放される可能性があります。また、先行する車が、早めに道を譲り、後続車のいらだちを減らす効果も期待できます。ある程度ではありますが、クラクションの解禁による効果も望めるのではないでしょうか。

昔から、車に乗ると人が変わる、と言われる人がいます。変わるのではなく、元々の人格の一部が増幅されるということだと思います。危険な運転も、身勝手な運転もなくなることはないでしょう。将来、自動運転や半自動運転が普及すれば、高齢者の運転ミスやドライバーの過労による事故も含め、ヒューマン・ファクターによる事件や事故は、かなり解消されます。ただ、もう少し時間がかかります。それまでの間、あおり運転対策としては、法的な面や技術的な面からの取組も大事ですが、もう少しドライバーの心理的な面からのアプローチもあって然るべきだと思います。(写真出典:smartdrive.fleet.jp)

2021年4月7日水曜日

三百年の争い

燕三条地場産業振興センター
新潟で聞いた面白い言葉に「はんばぎ脱ぎ」があります。古い言葉ですが、新潟なら、だれでも知ってると聞きました。「はんばぎ」とは、「脛巾(はばき)」がなまった言葉です。脛巾は、農作業や旅の際、動きやすくするために、すねに巻き付けたもので、藁で作れていました。後の布や革製の脚絆やゲートルと同じものと言えます。「はんばぎ脱ぎ」の意味は、旅装を解く、ということですが、翻って、旅から帰ってきた際のご苦労さん会、反省会、あるいは土産話を聞かせる会のことです。酒好きの新潟のことゆえ、なんでも酒を飲む理由にしたようにも思います。ただ、興味深いのは、江戸期から続く風習だという点です。

江戸期、農民の移動は原則禁止されていました。ただ、お伊勢参りといった宗教行事、あるいは湯治などの旅に関してはお目こぼしがあり、比較的緩やかに運用されていたようです。とは言え、滅多に旅など行けない時代から、はんばぎ脱ぎという言葉が一般的だったとすれば、新潟の農民は、比較的多く旅をしていた可能性が高いということになります。そこで思いつくのが、家内手工業です。冬場、雪に閉ざされる新潟では、農家の内職が盛んで、織物、日本酒、金属加工、漆器、箪笥などは、後に産業化され、現在では新潟の名産になっています。昔は、仲買人や問屋が、発注し、製品を回収してまわっていたようですが、農民が、直接、江戸や関東の問屋へ持ち込む場合もあり、また、行商も行っていたようです。

内職が産業化した代表例の一つが、燕市と三条市の金属加工です。燕・三条には、家族で営む小さな工場がひしめき、両市とも社長さんの多い町です。江戸初期、毎年、水害等に苦しむ領民を見た代官が、江戸から和釘職人を呼び、農民に技術を伝えたといいます。時代とともに、製品は多様化し、会津から伝わった鋸(のこぎり)や鉋(かんな)、仙台から伝わった銅器、あるいは煙管等も作るようになります。隣接する二つの町ですが、次第に製品や商売に違いが生まれます。行商をよく行った三条は商人の町、一方の燕は職人の町と言われます。三条の行商人は、燕の製品を買いたたき、職人を泣かせたものだ、と燕の人たちは言います。三条の人に限らず、それが商売だとは思いますが、燕の人たちの恨みは蓄積されていきます。一方、三条の人たちにも許せないことが起こります。

戦後、アルミ加工に長けた燕は、カトラリーの輸出で大成功します。三条の人たちに言わせると、その頃、燕の人たちは大儲けして、傲慢になり、三条を見下した、今でもそれは許せない、ということになります。もちろん、やっかみという部分も大きいとは思います。その対立が、世間にも広く知れ渡ったのは、新幹線の駅、そして高速道路のインターを巡る問題でした。どこに作るか、名称には両市の名前を入れるとして、燕が先か、三条が先か、という問題でした。場所は、真ん中しかないでしょうが、名称は、理詰めの議論で答えが出るものでもありません。これには田中角栄も頭を抱えたようです。天下の知恵者といわれた角さんの出した答えは、駅名は”燕三条”とし、場所は三条市におく、インター名は”三条燕”とし、燕市におく、という、いわば痛み分けでした。

いつの世でも、妥協が生むのは不満だけです。角さんの裁定で、上越新幹線と北陸自動車道の建設は進みましたが、両市の仲が良くなったわけでもなく、不満だけが残りました。ところが、平成の大合併のおり、地元財界から両市合併の話が出されます。世界的な企業も存在する金属加工のメッカは、ブランド力強化のために、二つの町名よりも一つの名前の方がいいと思います。ところが、案の定、すったもんだの議論が巻き起こり、住民投票の結果、合併案は否決されました。合併否決については、今でも、双方を非難する声があるようです。三百年の争いは、まだまだ続きそうです。ちなみに、燕三条駅の前には、珍しく両市が共同して設立した「燕三条地場産業振興センター」があります。1986年にオープンし、今は、道の駅としても運営されています。共同事業ですが、ある意味、きっちり伝統に則り、名前は燕三条ですが、住所は三条となっています。(写真出典:iri.pref.niigata.jp)

2021年4月6日火曜日

焼売

同発の焼売
横浜の人たちは、崎陽軒の「シウマイ弁当」をソウル・フードとしてリスペクトしています。中華街はもとより、今では、もっと美味しい焼売が、いくらでも存在します。にもかかわらず依然として高い人気を誇ります。「シウマイ弁当」が、横浜駅の駅弁として発売されたのは、1954年のことです。その味だけではなく、永い歴史を持つ、横浜を代表する駅弁であることもリスペクトされる要因ではあります。崎陽軒は、1908年、4代目横浜駅長が、退職後に初代横浜駅構内に出した売店から始まります。飲み物や餅等を商っていたようです。東京駅から近すぎて、駅弁の売上がいまいちだったので、横浜名物を作ろうと思案した結果、1928年、焼売の販売を開始しています。1950年には、ホームで立ち売りする「シウマイ娘」が登場、小説や映画にも取り上げられたそうです。

実は、私も「シウマイ弁当」好きです。若いころ、休日出勤した際には、必ず東京駅で「シウマイ弁当」を買ってから出勤していました。当時の丸の内には、休日に開いている店はなく、弁当を持参する必要があったのです。休日出勤など、モチベーションが上がるわけもなく、唯一の楽しみが弁当でした。もともと弁当を好まない私にとって、食欲をそそられるのは「シウマイ弁当」くらいでした。「シウマイ弁当」は、思い出の味といったところです。そもそも焼売は、私の大好物の一つです。私が好んで食べる焼売は、横浜中華街の「同発」、日本橋の「小洞天」のものです。ふんわりとしたタイプより、肉をギュッと詰め、豚肉の甘味を楽しめるタイプが好みです。

焼売は、モンゴル自治区の発祥といわれます。また、料理店で残った食材を混ぜて餃子の皮に包んで売り始めたものが起源という説もあります。ただ、この説に関しては、どこで、という話が一切出てこないという胡散臭さがあります。文献上、モンゴルが築いた元朝の大都(北京)には既に存在していたようです。北京では、焼売を「焼麦」と表記する場合があるようです。病気になった麦を、蔓延防止のために焼いた姿に似ていたことから焼麦と称され、同じ発音の焼売に変じたという説もあるようです。ちなみに、佐賀県鳥栖の中央軒は、1956年から「焼麦」を発売しています。1892年創業、九州を代表する駅弁の中央軒は、長崎の中国人の指導のもと焼麦を開発したといいます。

日本の焼売の歴史は、1899年、伊勢佐木町にあった「博雅亭」から始まっているようです。博雅亭は、1881年に開店していますが、その後、紆余曲折を経て、現在は、片倉町で「シウマイの博雅」として販売されているようです。国産材料、無添加、手包みにこだわり、創業時の味を再現してるようです。明治時代の発売となると、崎陽軒同様「シウマイ」という表記になるわけです。焼かないのに焼売というのは何故か、という疑問をよく聞きます。中国語の「焼(シャオ)」は、高熱で調理するといった意味だそうです。叉焼は炙り焼き、上海料理の紅焼(ホンシャオ)は醤油煮込みですから理解できます。一方、「蒸(ジョン)」という言葉もあるのに、なぜ焼売なのか、また、なぜ”売”なのか、という疑問も残ります。焼売の起源に関わる疑問かも知れません。

昨今の焼売は、ヴァリエーションも実に豊富です。飲茶の焼売メニューは、オリジナルに加え、海老焼売、海鮮焼売、揚げ焼売等とにぎやかです。中華料理の焼売とは、まったく異なりますが、佐賀県呼子の萬坊が開発した「いかしゅうまい」も絶品です。あの甘味とふわふわ感は、ちょっとクセになります。イカで有名な呼子にあって、海中レストランの萬坊は、人気ナンバーワンの店です。呼子名物は、何といっても新鮮なイカの刺身です。いかしゅうまいは、恐らく売れ残ったイカの活用法として開発されたのでしょう。焼売の起源に関する一説に通じるものがあります。(写真出典:item.rakuten.co.jp)

2021年4月5日月曜日

ハマム

 私は、サウナが大好きです。気のせいかもませんが、たまった疲れが取れるように思います。若いころは、なんとなく行っていただけですが、営業現場でセールス・マネージャーを始めた30歳ころから、折に触れて通うようになりました。かつては、かなり我慢して入り、水風呂に飛び込むスタイルでしたが、最近は無理をしません。さらにコロナ・ウィルスの感染が広まってからは、スティーム・サウナ専門になりました。空気中のミストがウィルスを床に落とす効果がありそうだからです。もっとも、近所のスーパー銭湯では、浴室内での会話は禁止になっており、ドライ・サウナでも問題ないとは思います。

40年ほど前のことですが、イスタンブールに旅をした際、ハマムと呼ばれるトルコ式の公衆浴場に行きました。入場すると、まずは2~3畳ほどの簡易なベッドのある個室に通されます。脱衣して腰布を巻いた状態で、浴室に案内されます。円形の広い浴室は、全体が蒸し風呂になっています。中央の台座の上に横たわり、しばし体を温めます。頃合いを見計らって、三助が洗い場へ連れていき、あかすりを行い、泡で全身を洗ってくれます。再び台座の上に横たわっていると、プロレスラーのようなオッサンが登場して、マッサージが始まります。正直、痛いほどの激しいマッサージでした。しばらく体を休めていると、いたいけな少年が、個室へ連れ戻してくれます。お茶が出され、ベッドのうえで香油を塗ってくれます。

これで一通りでした。恐らく少年は、他のサービスも提供するのでしょう。ハマムの料金は覚えていませんが、とても安かったと思います。ローマ帝国時代の浴場に起源を持つというハマムの文化は、中東のイスラム世界に広がっており、都市には、モスクとスーク(市場)とハマムがある、とまで言われます。決して男性専用ではなく、女性用も併設されています。女性は、浴室でベールを付ける必要がなく、階級や貧富の差を問わず、入浴とおしゃべりを楽しんだもののようです。これが欧州人には神秘的な印象を与えたようで、絵画の題材にもなっています。ルーヴル美術館が所蔵するアングルの「トルコ風呂」が最も有名です。

人間は、古来、衛生上、あるいは宗教的理由から沐浴を行っていたようです。お湯を沸かして、あるいは蒸気を発生させて入浴する浴場の歴史も古く、現在確認されている最古の浴場は、5,000年前のモヘンジョダロ遺跡にあります。その起源は、さらに古く、6,000年前のメソポタミアという説もあります。浴場は、世界中に広がりますが、欧州では、キリスト教の普及とともに廃れていきます。キリスト教において、全裸で多くの人が集まることは好ましくない、とされたためです。欧州人が、ハマムにエキゾチシズムを感じるわけです。日本では、仏教の伝来とともに、浴場の歴史が始まります。大きな寺院には、古くから、必ず浴場があります。ちなみに、もともと”風呂”は蒸し風呂を指し、温水浴する場所は”湯殿”と呼ばれたようです。いずれにしても、蒸し風呂の歴史は、入浴の歴史でもあったわけです。

かつてソープランドは「トルコ風呂」と呼ばれていました。もともとはハマムに着想を得た蒸し風呂とあかすりの組み合わせでしたが、60年代頃から、性風俗化します。トルコ風呂、あるいは略してトルコと呼ばれました。怒ったのはトルコの人々です。抗議運動が起こり、結果、名称が公募され、ソープランドになります。83年のことでした。公募というのも、実におおらかな話です。その際、トルコ人の抗議運動を支援したジャーナリストが名を挙げました。カイロ大学出身の小池百合子です。(アングル「トルコ風呂」写真出典:ja.wikipedia.org)

2021年4月4日日曜日

「ミナリ」

 監督:リー・アイザック・チョン   2020年アメリカ

☆☆☆+

80年代のアーカンソーで、農業に挑戦する韓国系家族の苦難を描いた映画です。そつのない演出、見事な演技で、上質な家族の物語に仕上がっています。韓国語のセリフが多い映画ですが、古き良きアメリカ映画を見ているような感覚に捉われました。逆に言えば、80年代までさかのぼり、韓国系をモデルにしなければ、伝統的な家族映画は作れない、とも言えそうです。ただ、伝統的に過ぎて、今日性に欠けるようにも思えます。普遍的家族の映画というよりも、移民映画のようにも思えます。ゴールデン・グローブ賞では、外国語映画賞を獲得しています。外国語映画ではなく、アメリカ映画だとする声も多いようでが、言語の問題だけではないようにも思えます。アカデミー作品賞にもノミネートされ、有力候補と言われています。

監督のリー・アイザック・チョンは、韓国系二世として、1978年にデンバーで生まれ、アーカンソーで育っています。「ミナリ」は、彼の生い立ちに基づいているようです。家族の描き方に、彼の思い入れの深さを感じます。イェール大で生物学を学び、医師を目指していたようですが、映画製作に目覚め、中退しています。2007年に、ルワンダを舞台に処女作「ムニュランガボ」を撮り、カンヌはじめ多くの映画祭で高い評価を得ます。以降の作品も高い評価を得たものの、彼自身は映画製作に行き詰まりを感じ、韓国で教鞭をとっていたようです。ただ、もう一本だけ、全てを注ぎ込んだ自伝的な映画を撮らなければならないという思いが強くなり、「ミナリ」に至ったようです。次回作は、日本で大ヒットしたアニメ「君の名は。」の実写化と発表されています。

20年以上前のことですが、日経新聞が、海外駐在員経験者に対するアンケートを実施しました。駐在員を経験して良かったことという設問で、一番多かった回答は、家族との絆が強まった、ということでした。私も、ちょうどミナリの時代設定と同じ頃、NYに駐在していましたので、この回答結果には共感できます。企業の駐在員、かつ日本人の多いNYですら、やはり異国の地での慣れない生活は、家族の団結を強めます。それが、アーカンソーの田舎、慣れない農業、子供の病気と来れば、本当に家族だけが頼りだったと思います。妻のカリフォルニアへのこだわりも理解できます。心細い時、同胞の存在は、言葉の問題以上に大きいものがあります。

祖母と、祖母が韓国から持ち込み育てるセリ(ミナリ)が、家族を一つにまとめ上げる象徴となっています。あえて韓国語の多いセリフ回しにしていることも含め考えると、他国にあっても、韓国人としてのプライド、文化伝統が重要であることを訴えているように思えます。NYでは、韓国人、中国人、インド人の団結は強く、自国文化へのこだわりが強いことで知られていました。NYのグロサリー・ストアは、韓国人の経営が多く、危険な目にあっても24時間営業にこだわり、確実に生活基盤を固めている印象でした。また縄張り意識も強く、90年前後、後から入ってきたヴェトナム人と韓国人との喧嘩が街中で繰り広げられた時期もありました。

セリは、日本原産の多年草で、東アジア一帯に分布しています。「競る」ように盛んに青葉を出すことからセリと名付けられたと言います。春の七草ですが、仙台のセリ鍋、秋田のきりたんぽ鍋の具材としても知られています。香りやシャキシャキとした食感が魅力ですが、多くの薬効も認められてます。水さえあれば、田んぼのあぜ道でもドンドン育つ強さが、韓国系移民を象徴し、群生する様が、家族を象徴しているのでしょう。(写真出典:eiga.com)

2021年4月3日土曜日

レトルト・パウチ

 1992年、5年間のNY駐在を終えて帰国した際、喫茶店で食べるハンバーグとカレーのレベルが上がっていることに気付きました。かつては、店によって大きな違いがあり、不味い店も多くありました。ところが、どこでも食べても一定レベル以上の味になっているのです。ハンバーグは、ふっくらとして、上出来のデミグラ・ソースがかかっていました。カレーは、スパイスの調合が上手で、よく煮込んでありました。変われば変わるものだと感心していましたが、ある日、皆、同じような味であることに気付きました。要は、業務用のレトルト・パウチ食品を使っていたのです。

食事をメイン・メニューとしない店では、実に効率的な方法です。しかも、一定レベル以上の安定的な味を提供できるわけです。もちろん、面白みは失われました。レトルト・パウチ食品は、1950年頃、アメリカ陸軍の研究所で、缶詰に替わる軍事糧食、いわゆるレーションとして開発されました。缶詰は、重く、空き缶の処理に困ることから、研究されたようです。密閉後に加熱殺菌することは同じなので、要は、缶をパウチ(小袋)に替えたというわけです。そもそも1804年にフランスで発明された缶詰も、レーションとして開発されたものです。缶詰は、一般用としても、大いに普及しましたが、レトルト・パウチはアメリカの家庭には浸透しませんでした。当時のアメリカの家庭には、既に大型フリーザーがあり、冷凍食品が普及していたからでした。

レトルト・パウチが一般用として普及したのは日本でした。1968年、大塚食品が発売した「ボン・カレー」は、世界初の家庭用レトルト食品です。カレー粉の在庫を減らすために考案されたと言います。従来のレトルト・パウチを改良し、アルミ製のパウチを使うことで、賞味期限を2年まで伸ばします。当時としては、衝撃的な賞味期限です。ただ、発売当初は、苦戦したようです。きつい防腐剤を使っているのではないか、あるいは値段が高いといった声が多かったようです。大塚食品は、知名度を上げるために、イメージ・キャラクターの松山容子がパッケージを持っているホーロー引きの看板を全国津々浦々に貼り付けます。その数、実に9万5千枚と言いますから、もはやギネス・クラスです。加えて、ボン・カレーが全国に浸透したのは、おそらく笑福亭仁鶴のTVCMの効果だったと思われます。当時、人気だった「子連れ狼」の名セリフをパロって「3分待つのだぞ。じっと我慢の子であった」というフレーズが大評判となりました。

数年前のデータですが、日本のレトルト・カレーは、3,000種類と言われます。近年、ご当地カレーがブームとなり、各地の土産物店には、レトルト・カレーが並びます。ついに国技館まで、大相撲カレーを発売し、相撲観戦の土産として売れています。カレーの種類は、今現在、優に3,000を超えてことでしょう。カレーの他にも、シチュー、スープ、丼物の具、パスタ・ソース等、数多くあります。総じて、味の濃いものが多いのは、加熱した際に出ることのあるレトルト臭が気ならないためだと言われます。その加熱方法も、熱湯3分タイプに加え、レンジ・タイプも多く見かけるようになりました。レトルト・パウチ食品は、まだまだ進化、拡大していきそうです。家庭の食事は、SF映画の宇宙船内での食事のようになるのかも知れません。

日本の世帯に占める一人世帯数は25%を超えています。65歳以上人口に限れば、約17%が独居老人となり、しかも日々増えていると言います。興味深いことに、その8割近くが、一人暮らしを望んでると言います。孫子と暮らすのは煩わしい、と思うのでしょうね。スーパーやコンビニでは、個食用の小さな総菜が売れています。これからは、さらに大きな市場となるのでしょう。レトルト・パウチの出番は、まだまだ増えていきそうです。(写真出典:amazon.co.jp)

2021年4月2日金曜日

バイリンガル

昔、アメリカで、米社と組んで、日系の小規模団体向けの医療保険を開発し、発売しました。日系企業を対象に、商品を説明するセミナーを、シカゴとNYで数回開きました。アメリカ人のマーケティング担当者が説明し、米社のバイリンガル・スタッフが通訳するという段取りでした。その女性スタッフは、アメリカ人と日本人のハーフで、完璧な日本語と完璧な英語を話し、かつ商品開発にも関わってきたので、商品に関する知識も完璧でした。ところが、セミナー本番になると、しどろもどろになり、セミナーは惨憺たるものになりました。マーケティング担当者は怒り、通訳した彼女は頭を抱えて涙ぐんでいました。その時、バイリンガルの人たちの頭の中が理解できたように思いました。

翌日からは、私が通訳を務めました。私は、英語を聞くと、単語をいちいち日本語に転換しながら、話の内容を日本語で理解し、日本語で話します。バイリンガルの人は、英語の話は英語で理解し、そのうえで英語の文章を日本文に翻訳するという作業を行って、はじめて日本語を発します。英語を自らの言葉として完璧に理解するがゆえに、文章の翻訳という手間のかかる別作業が必要になるわけです。結果、英語であっても、完全に日本語ベースでしか理解しない私の方が早く通訳できることになります。もちろん、日本語への通訳に限っての話ですが。通訳という仕事は、見事に一つの技術であり、特に同時通訳となると、極めて特殊な技術なのだと思いました。

そもそも、日本語で理解しようが、英語で理解しようが、理解した内容は同じではないか、という意見もあると思います。ただ、抽象的な事柄を表す単語には、多少ニュアンスが違う場合もありますし、翻訳できない言葉もあります。また、文法の違いが思考経路の違いを生じている場合もあります。言語は思考に影響するか、という議論は大昔からあったようです。近年の代表として言語的相対論があります。言語は認識に影響を与える思考の習性を提供する、というものですが、あくまでも仮説です。実例や実験結果等もありますが、メカニズムが解明できていない分野だと言えます。

世界の言語数は、定義如何ですが、3,000とも、8,000とも言われます。集団がおかれた環境や歴史的経緯のなかで、それぞれの思考や文化が育ち、それらを基盤に、それぞれの言語が形成されます。そして、言語は、基盤となった思考を再現し、共有化し、さらに抽象的思考を拡大していきます。科学的に証明できずとも、言語による思考への影響は明白だと思えます。例えば、常に主語・動詞・目的語がセットになる英語を使うアメリカ人は、自己の主張を明確にする傾向があります。対して、日本人は、より曖昧な表現を好みます。しかし、その日本人が、アメリカに長く暮らすと、アメリカ人と同様な傾向を持つに至ります。

ちなみに、日本語は曖昧で、英語は論理的構成を持っている。ゆえに日本人は、英米人に比べて論理的思考に欠ける。と言った人がいます。違うと思います。そもそも、すべての言語は、体系的、論理的に構成されていると思います。日本語の曖昧表現は、そのうえに築かれた日本独自のコミュニケーション技法なのだと思います。日本語は、英語に比べて、より高度な言語表現を持っているとも言えます。(写真出典:swedishnomado.com)

2021年4月1日木曜日

神奈川宿田中屋

初めて横浜の「割烹 田中屋」に行ってきました。文久三年(1863)創業、旧東海道沿いの割烹料亭です。広重の東海道五十三次「神奈川」にも描かれている老舗です。浮世絵ついでに言えば、北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」とは、まさにここ神奈川湊の沖ということです。古くからの湊があり、東海道があり、多摩へぬける道があり、かつては随分栄えたものだったようです。安政5年(1858年)、神奈川湊沖に碇泊していたポーハタン号上で日米修好通商条約が締結され、神奈川湊は、開港五港の一つとなります。湊近くには、各国の領事館等も設置されていきます。

しかし、実際に開港されたのは、神奈川湊ではなく、対岸の寒村横浜でした。幕府は、往来の多い神奈川宿と外国人の間に距離を置き、もめ事を避けたかったようです。横浜村は、港が整備され、外国人居留地が作られます。以降の横浜の発展は、よく知られるとおりですが、神奈川宿も、港を横浜村にとられたとはいえ、宿泊や食事の拠点として栄えたようです。最盛期、神奈川宿には、1,300軒の宿屋や飯屋が軒を並べ、芸者衆も600人いたようです。明治5年(1872)には鉄道が開通します。当時の横浜駅は、現在の桜木町駅にあったようです。鉄道開設のために神奈川湊は埋め立てられました。それでも東京湾越しに房総半島を望む神奈川宿は、京浜随一の景勝を誇っていたようです。

なかでも田中屋は、200畳敷の座敷を擁する神奈川宿随一の大店として繁盛したようです。加えて田中屋には、大きな利点がありました。英語に堪能、大酒飲みで男勝りの仲居がいたことで、外国人が多く集まったと言います。仲居の名前は「おりょう」、坂本龍馬の妻です。龍馬の名が世間に知られるようになったのは、明治後期のことです。当時は、龍馬の妻として世間に知られていたわけではないでしょうが、西郷隆盛、勝海舟等、幕末の志士や明治政府の重鎮たちが田中屋を使うようになります。龍馬死後、高知はじめ各地を転々としていたおりょうを田中屋に紹介したのも、勝海舟だったようです。おりょうは、京都の医者の娘で学もあり、わがままな面があったことから、海援隊の生き残りの間でも評判は良くなかったようです。仲居としても、実に使いにくい人だったと聞きました。

横浜が、国際貿易港として発展していくなか、神奈川宿は、忘れ去られていきます。二階から釣り糸が垂らせたという眼前の海は、すっかり陸地化され、今は、商業ビルやマンションが立ち並びます。店の脇に残る急な階段だけが、かつての海辺の崖を偲ばせます。田中屋は、大戦中の空襲時にも焼けずに生き延びています。この家にには何か力がある、と五代目女将が言っていました。74歳になるという女将は、田中屋の娘で、永らく海外に暮らしていましたが、後継ぎの兄が急死したことで、急遽、呼び戻され、家を継いだと言います。パワーポイントで豊富な資料を用いて、田中屋の歴史を話してくれました。横浜で最も古い店で、神奈川宿を歴史を宿す建物に対して、横浜市は、何の理解も支援もしてくれない。それどころか、木造建築禁止区域として、改築さえ許さない、と憤っていました。

田中屋の前は、旧東海道ですが、「台の坂」と呼ばれる坂道になっています。広重の浮世絵のとおり、やや急な坂道ですが、いい風情の坂道だと思います。ただ、現在、坂の両側はマンションだらけ。マンション街の谷間にひっそり佇む田中屋は、いささか侘しげにも見えます。店には、龍馬がおりょうさんに宛てた直筆の手紙が飾られています。おりょうさんは、この一通を除き、すべて焼き捨てたと語っています。店をやめる時、世話になったと、残していったそうです。田中屋には、他にも明治初期の着色写真など、貴重な資料が多く残っています。横浜市ではなく、その名の由来ともなった神奈川県が、文化財として保護すべきではないかと思います。(写真出典:restaurant.ikkyu.com)

夜行バス