ムムターズ・マハル妃は、享年36歳、生涯で14人の子を産んだと言われます。当時のイスラム社会にあっては、多産が奨励され、また賞賛されていたようです。シャー・ジャハーンが、美しい妃を深く愛していたことも事実でしょうが、この壮麗な建築物には、多産を称え、社会に徹底を図る意味もあったのでしょう。また、当時、ムガル帝国は、ヒンドゥー支配の途上にあり、壮大な建築で、ヒンドゥーを威圧しようとするねらいもあったと思われます。シャー・ジャハーンが、個人的に妃を偲ぶための単なる霊廟でないことは、大人数の参拝者を想定した大きな礼拝堂等付属施設からもうかがい知れます。
建設に際しては、イスラム世界各地から高名な名工たちが、高給で集められたと言います。現在確認できるだけでも37人、その下で働く腕の立つ職人も各地から2万人集められます。一説によれば、イスラム社会のみならず、イタリアからも名工を呼び寄せたと言います。使われた大理石は、ジャイプール産の白大理石です。際立った白さと汚れにくいことで知られているようです。その加工所を訪問した際、驚いたのは、石にも関わらず、うっすら光を通すことです。この白大理石でランプを作ることができます。いずれにしても、莫大な資金が投じられたということです。
最愛の妻を失い悲嘆にくれたシャー・ジャハーンでしたが、その後、見境なく女性に手を出す色情狂になったようです。皮肉なものです。催淫剤を常用し、それがもとで病に倒れたと言われます。ムガル帝国の最盛期を築いた王の後継者争いは熾烈を極め、4人の王子が王座を巡って争いました。シャー・ジャハーンが後継に指名したのは長男でしたが、最終的に勝利したのは三男でした。シャー・ジャハーンもアグラ城に幽閉され、そのまま生涯を閉じます。アグラ城からは、川越しにタージ・マハールを望むことができます。ただ、あまり大きくは見えません。これまた皮肉な運命です。
デリーのフマーユーン廟を見た時、あまりにもタージ・マハールそっくりなので驚きました。タージ・マハールの赤砂岩ヴァージョンといった風情です。これは、ムガル帝国第2代皇帝フマーユーンの霊廟です。タージ・マハールに先んじること百年。インド・イスラム文化における霊廟建築の原型になったとされます。フマーユーンの死後、そのペルシア人の妻ハージー・ベーグムが命じて建設されました。タージ・マハールとは逆の経緯です。やはり、ペルシャの名工が呼び寄せられ、設計・建築にあったようです。(写真出典:4travel.com)