2023年10月31日火曜日

寮歌

盛岡一高応援団
小学校、中学校、高校の校歌は、一切、思い出せません。体が記憶しているということもあるので、誰かが歌えば、一緒に歌えるのかも知れません。一方、大学の寮歌「都ぞ弥生」は、今でも歌えます。一番だけなら、歌詞もそらんじています。忘れていない理由は簡単です。在学中はもちろんのこと、卒業後も歌う機会がしばしばあったからです。大学OBが集まる宴会では、例え少人数であっても、会の最後には肩を組んで歌っていました。最も正しい「都ぞ弥生」は、太鼓とともに、「吾等(われら)が三年(みとせ)を契る絢爛のその饗宴(うたげ)は、げに過ぎ易し」で始まる前口上に続き「 明治45年度寮歌、横山芳介君作歌、赤木顕次君作曲、都ぞ弥生、アイン、ツヴァイ、ドライ」と掛け声がかかり、歌い出されます。

都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴遊の筵 尽きせぬ奢に濃き紅や その春暮ては移らふ色の  夢こそ一時青き繁みに 燃えなん我胸想ひを載せて 星影冴かに光れる北を 人の世の 清き国ぞとあこがれぬ

慶応の三田会、早稲田の稲門会はじめ、多くの大学が立派な同窓会組織を持っています。北海道大学にもエルム会という同窓会はありますが、組織的にはあっさりとしたものです。ただ、北大OBは、「都ぞ弥生」を歌うことで、いつでも、どこでも一つになることができます。

寮歌は、1892年、旧制第一高等学校(現東京大学)に始まるとされます。1890年、寮の自治が認められると、毎年、自治寮誕生を記念し、寮歌が作られることになります。その風習は、他の大学にも広がっていきました。明治期には、一高の「嗚呼玉杯に花うけて」など、世間でヒットした寮歌も生まれます。他にもよく知られている学生歌がありますが、早稲田の「都の西北」は校歌、慶応の「若き血潮」は応援歌、「琵琶湖周遊の歌」は三高ボート部の歌です。寮歌としては、一高の「嗚呼玉杯」はじめ、三高(現京都大学)の「紅燃ゆる丘の花」、八高(現名古屋大学)の「伊吹おろし」等があります。旧帝国大学系には校歌が存在せず、寮歌が代替している面もあります。

学生寮の自治化が寮歌誕生の背景にあるわけですが、文化的には「バンカラ」という気風と密接不可分な関係にあると思います。バンカラとは、“ハイカラ”へのアンチテーゼとして、古風な気骨を示すために生まれました。弊衣破帽、つまり貧しい服に破れた帽子と、粗野さ、むさ苦しさを強調した服装や言動を特徴とします。明治末期に、一高から始まったとされます。”ハイカラ”とは、西洋風の服装や生活スタイルを揶揄する言葉として、明治後期に生まれました。ワイシャツの襟に付けたハイ・カラーが語源とされます。当世風の浮ついた流行を批判する気持ちは、今も変わらないと思います。ただ、バンカラには、当時、数も少なかった大学生のエリート意識が、強く反映されているものと思います。

1950年の学制改革によって旧制高校が姿を消すと、寮歌の歴史も終わります。ただ、北大の自治寮である恵迪寮だけは作り続けているようです。バンカラも、すでに死語になって久しいものと思います。私が学生の頃ですら、その背後に感じられるエリート意識も含めて、すでに時代錯誤的でした。ただ、一部、伝統を重んじる応援団などには、その気風が残っているようです。国の近代化のために一身を捧げんとした明治期、軍国主義の反動から左翼闘争に明け暮れた戦後、そして目的を失いモラトリアム世代と呼ばれた昭和後期と、学生の気質は、時代とともに大きく変わってきました。失われた30年間と呼ばれる今の時代の学生気質は、どう表現すべきなのでしょうか。少なくとも、寮歌の世界観とは大いに異なるとは思いますが。(写真出典:mainichi.jp)

2023年10月30日月曜日

「平原のモーセ」

監督: チャン・ダーレイ   制作総指揮:ディアオ・イーナン  2023年中国

☆☆☆☆ー

本作は、TV用に制作されたミニ・シリーズですが、東京国際映画祭で全6話が一挙上映されました。休憩なしの432分ノン・ストップ上映でした。ただ、長すぎると感じることもなく、ポップ・コーンとコーラだけでがんばりました。中国のミニ・シリーズですから、NetflixやAmazonで配信されることもないと思い、観に行ったわけですが、なんと上映当日から配信が始まりました。中国で本作を配信した会社が、日本でも直接配信を始めたのです。知っていれば、ネットで休憩しながら楽んだのにとがっかりしました。ただ、映画館で一気に観たことで、その世界観を十分に堪能することができました。監督も才能を感じさせますが、なんと言ってもディアオ・イーナンらしい東北ルネサンスの世界が広がっていた作品だと思います。

原作は、やはり東北部出身のシュアン・シュエタオの短編集「平原のモーセ」です。物語は、内モンゴル自治区で起きた警官殺しに関するミステリを軸に展開します。しかし、主題は、1980頃から現代に至るまで政治に翻弄されてきた東北部の大衆の姿なのだろうと思います。ディアオ・イーナンが、ベルリンで金熊賞を受賞した「薄氷の殺人」がそうであったように、ミステリ仕立ては、当局の検閲をかいくぐるための手立てだと思われます。漢民族にとって東北部は、モンゴル族、満州族、朝鮮族、そして日本といった異民族が覇権を争う貧しい辺境の地でした。中華人民共和国が誕生すると、東北部は、豊富な鉱物資源を背景に工業化が進められます。大規模な国営企業と近代的な社宅が林立する都市が生まれ、共産主義の巨大な実験場、あるいはプロパガンダのショーケースになりました。

国営工場では、鉄飯椀という言葉が生まれるほど、安定した雇用が保たれていました。しかし、文化大革命の嵐が過ぎ、改革開放の時代を迎えると、歯車は逆回転を始めます。非効率的な国営工場は、民間企業に駆逐されていき、東北部は深刻で慢性的な不況へと陥ります。共産党の庇護のもと栄えた東北部では、改革開放体制への順応が大幅に遅れます。かつて共産主義の成果ともてはやされた工場、社宅、遊戯施設などは、廃墟化し、放置されます。東北部の大衆は、改革開放に沸く沿岸部とは対象的に、時代の変化に戸惑い、経済的辛酸をなめることになります。国策によって持ち上げられ、国策によってどん底に突き落とされた東北部の大衆は、釈然としないものを抱えつつ時代を生きてきたと言えます。

主知的で、理想主義的な主人公の母親は、家事や育児に興味がありません。母親は、古い中国共産党を象徴しているものと思われます。かつての紅衛兵であり、金の亡者として世間を渡る父親は、改革開放後の中国政府や中国社会の象徴です。主人公は、父にも母にも違和感を覚えながら反抗的に育ちます。成績もよく、控えめな性格の近所の少女は、主人公が唯一心を寄せる存在であり、人間が本来持つ純真さを現わしています。少女の父親は、国営企業を解雇され、殺人犯に間違えられ、もみあう中で誤って警官を殺してしまいます。その際、交通事故にあった少女は片足を失います。少女と父は姿を隠さざるを得ませんでした。純真さの象徴である少女は、時代の荒波にもまれ、日陰の人生を歩むことになります。

自然主義的タッチで描かれる映像には、劇伴音楽もほぼなく、素人役者も多く使われています。内モンゴル自治区の首都であるフフホト市で撮影されたようですが、東北部の厳しい風土、寂れた街の様子がよく伝わります。餃子や焼売が頻繁に登場するのも、東北部を象徴しているのでしょう。きっちりと同じテンポを刻む展開には、監督の才能を感じます。TVのミニ・シリーズにはそぐわないほど映画的な作品ですが、映画にすれば、かなり長時間の映画にせざるを得ず、ミニ・シリーズが選択されたのかも知れません。いずれにしても長い映画でした。空腹を抱えながら映画館を出て、まず向かった先は中華料理屋でした。もちろん、焼売を食べるためです。(写真出典:filmarks.com)

2023年10月27日金曜日

一斗二升五合

伝法院通りの地口行灯
「一斗二升五合」は、そのまま読めば”いっと・にしょう・ごんごう”となります。一斗は十升に相当し、五升の倍ですから「ごしょうばい」、二升は「ますます」と読み、五合は一升の半分で「はんじょう」、あわせて「御商売益々繁盛」となります。「春夏冬二升五合」と言えば「商い益々繁盛」となります。もともとは江戸の言葉遊びですが、縁起の良い言葉なので、かつては、額にして掛けてある店も見かけたものでした。江戸庶民の好きな遊びの一つが「地口」です。ダジャレに近い言葉遊びです。慣用句化して、今も残っている地口もあります。慣用句と言えば、格言や警句もありますが、例えば”猫の手も借りたい”とか”目からウロコ”といったカジュアルな表現もあります。

地口は、もっとくだけたもので、語呂合わせや掛詞が多くあります。例えば、私も含めて一定年齢以上の人たちは、三重県桑名と聞けば、自動的に「その手は桑名の焼き蛤」と言ってしまいます。”その手はくわない”と桑名名物の蛤を掛けているわけです。ただ、”その手は食わない”以上の意味はまったくありません。「恐れ入谷の鬼子母神」も同じです。”恐れ入りました”と、江戸三大鬼子母神の一つである入谷の鬼子母神を掛けただけです。江戸の流行りが今に残ったのは、恐らく落語や物売りの口上を通じてのことなのでしょう。落語はともかくとして、縁日などの物売りは絶滅状態だと思います。我々が知っている物売りは、ほぼスクリーンを通して見るフーテンの寅さんだけです。

小気味よい口上で、客を寄せて物を売る商売は”啖呵売”と呼ばれます。よく知られている啖呵売と言えば、門司港発祥のバナナのたたき売り、筑波山のがまの油売りあたりでしょうか。その伝統は今も実演販売に引き継がれているとも言えます。また、アメ横のお菓子屋は、まだ店先で啖呵売をやていますが、さすがに地口は言いません。安いよ、おまけを付けるよ、だけの啖呵売は退屈なものです。そこへ行くと、寅さんの口上は人を惹きつけ、集める力があります。何度も聞いているお馴染みの口上ですが、耳に心地良い五七調の滑稽な地口、渥美清のキレの良い語り口に引き込まれます。思わず「買った!」と声をかけたくなります。それは、もはや芸の域であり、渥美清が長生きしていれば、無形文化財登録もあり得たかも知れません。

寅さんがよく口にする地口と言えば、「田へした(大した)もんだよカエルの小便、見上げたもんだよ屋根屋のふんどし」あるいは「結構毛だらけ猫灰だらけ、けつのまわりは糞だらけ」などがあります。また、寅さんの売り口上は、数え歌形式になっており「物の始まりが1ならば、国の始まりが大和の国、島の始まりは淡路島。泥棒の始まりが石川の五右衛門なら、博打打ちの始まりが熊坂の長範」で始まります。「四つ、四谷赤坂麹町、ちゃらちゃら流れる御茶ノ水、粋な姉ちゃん立ちしょんべん」、あるいは「七つ、長野の善光寺、信州信濃の新蕎麦よりも、わたしゃあなたのそばがいい」といった具合に、地口を交えながら続きます。そこに、その日売りたい品物に関するアドリブが、随時、入るわけです。

浅草の伝法院通りには、地口と絵を書いた地口行灯が並んでいます。江戸時代、お稲荷さんの初午には地口行灯がよく掛けられたものらしく、今も一部にはその風習が残っているようです。江戸の人たちは、本当に地口好きだったようですが、人付き合いの潤滑油にしていたものと思われます。言葉遊びは、世界中にあるのでしょう。例えば、アメリカのイディオム(慣用句)には、地口っぽいものも多くあります。Okie Dokie(OK)、See you later, alligator(またね)、What’s the deal, banana peel ?(どうしたの)等々、挙げればキリがありません。イディオムを知らないと、アメリカ人同士の会話にはついて行けないこともあります。同様に、日本語を多少話せる外国人であっても「あたりき車力」は通じないと思います。もっとも、地口の多くは、若い人たちにも通じないのでしょうが。(写真出典:intojapanwaraku.com)

2023年10月25日水曜日

「ヒッチコックの映画術」

監督:マーク・カズンズ  原題:My Name is Alfred Hichcook  2022年イギリス

☆☆☆

サー・アルフレッド・ヒッチコックは、最も重要な映画人の一人です。かつ、自作へのカメオ出演、TVシリーズ「ヒッチコック劇場」によって、最も良く知られた映画監督だと思います。監督としての51年間のキャリアのなかで56本の長編映画を撮っていますが、うち9本はサイレント映画です。そして、作品のほとんどが商業的成功を収め、サスペンス映画というジャンルを確立しました。それに留まらず、映画の文法を確立した人でもありました。商業的な作品性ゆえ、映画評論の世界では、永らく重要視されなかったようです。1951年に創刊されたフランスの映画評論誌「カイエ・デュ・シネマ」に集ったロメール、ゴダール、トリュフォーといった評論家が、ヒッチコックを研究対象とし、絶賛したことから、その評価が高まったとされます。

言うまでもなく、カイエ・デュ・シネマでヒッチコックを絶賛した若手評論家たちは、その後、映画制作に進出し、監督としてヌーベルヴァーグ旋風を巻き起こすことになります。1966年にトリュフォーが出版した研究書「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」は、長時間のインタビューに基づき、ヒッチコックの映画文法を詳細に分析しています。ヒッチコック研究の最高峰とされるだけでなく、”映画の教科書”とも呼ばれています。本作の「ヒッチコックの映画術」というタイトルは、この本を意識したものなのでしょう。内容的にも、ややマニアックな映画ファン向けといった風情があります。研究され尽くした感のあるヒッチコック映画を、文法的ではなく、ヒッチコックの内面的なこだわりという面から分析しています。

映画は、ヒッチコック自身が自作を語るというスタイルになっています。脚本は、ヒッチコックのインタビュー等での発言に忠実に従い、かつナレーションは役者がヒッチコックの声色で行うというこだわりぶりです。ヒッチコック映画の断片が次から次へと映し出されるだけでも、映画ファンは大喜びだと思います。そもそもオールド・ファンは、ヒッチコックの話をすることが大好きなものです。本作は、高い評価を得ているようですが、ヒッチコック映画という素材の良さゆえ、という印象もあります。新たな視点とされる分析には、さほどの驚きはありません。かつ、ヒッチコックの声色でのナレーションは面白いアイデアですが、一人称だけで語られるドキュメンタリーは、平板なものにならざるを得ない面があります。

サスペンス映画の”ハラハラ、ドキドキ”などは当たり前のように思えるでしょうが、実はヒッチコックの発明です。ヒッチコック映画で登場したプロットの多くが、今でもサスペンス作品の枠組みとして使われています。また、ヒッチコックは、観客をハラハラ、ドキドキさせるために、技術的なアイデアを、様々生み出しています。その一つひとつが、基本的な映画の文法となっていきました。ヒッチコックの代表作を挙げるとすればキリがありません。私のお気に入りは、「レベッカ」(1940)と「北北西に進路を取れ」(1959)です。アカデミー作品賞も獲った「レベッカ」は、その流麗なタッチがロマン派の交響曲を思わせます。「北北西に進路を取れ」は、洒脱さも含めてエンターテイメント映画の最高傑作の一つだと思います。

カイエ・デュ・シネマ誌が生み出したとされる概念に”作家主義”があります。画家、作曲家、小説家等と同様に、映画監督もその個性を表現する芸術家だとする考え方です。今では当たり前になっています。トリュフォーによれば、アート系作家ではないヒッチコックやハワード・ホークスは、娯楽性を徹底的に追求することによって映画の本質を極めた作家ということになります。確かに、ヒッチコック映画は、監督の強い個性が表れているとも言えますが、それ以上にエンターテイメント映画としての普遍性を高いレベルで獲得しています。映画監督を目指す人たちは、まずはヒッチコック映画をすべて見るところから修行を始めるべきだと思います。(写真出典:eiga.com)  

2023年10月23日月曜日

中世の終わり

ジャック・カロ「戦争の悲惨」
日本の歴史の分水嶺とも言われる応仁の乱ですが、とても分かりにくい面があります。背景、きっかけ、経過などが複雑だったとしても、AとBが戦い、Aが勝ちましたというシンプルな構図であれば分かりやすいものです。応仁の乱では、そこが複雑なわけです。欧州の三十年戦争も、応仁の乱と同様、歴史の分水嶺であり、かつ非常に分かりにくい戦争です。最終にして最大の宗教戦争と言われる三十年戦争は、実態的には13もの戦争を一括りにしています。長期に渡ったこと、プレイヤーが多すぎること、対立構図が重層的であることが、三十年戦争を分かりにくくしています。1648年、包括的にウェストファリア講和条約をもって終結したことから、一括に三十年戦争と呼ばれるのでしょう。

ウェストファリア条約によって、プロテスタントが公認され、神聖ローマ帝国が事実上崩壊し、300近いドイツの領邦国家が承認され、オランダがスペインから独立しました。ウェストファリア条約は、主権国家、国際法、勢力均衡で成り立つ欧州主権国家体制の始まりとされます。主権国家とは、主権・領土・国民の三要素を持つ国家体制とされます。中世までの欧州には国家という概念がありませんでした。土地を所有する領主たちは、有力領主や教皇と主従契約を結び、土地を譲ったうえで借り受け、所有地を守ってもらいました。いわゆる欧州式の封建制度です。封建制度を支えていたのは農奴の存在でした。しかし、貨幣経済の浸透、ペストによる働き手の減少が、農奴の立場を強くし、農奴は減っていきます。

さらに、小氷期による飢饉、民衆の暴動、地図上の発見がもたらした経済の拡大と都市化の進行、オスマン・トルコの脅威等々が封建制を終焉へと導きます。そこに、宗教改革やルネサンスが起き、近世への移行が始まるわけです。なお、近年、ルネサンスを中世の終わりとする説も有力と聞きます。主権国家誕生のきっかけは、15世紀末から半世紀に渡って戦われたイタリア戦争にあるとされます。イタリア戦争は、イタリアでの覇権を巡る神聖ローマ帝国のハプスブルク家とフランスのヴァロア朝の戦いです。当時の戦場における主力は傭兵でしたが、ヴァロア朝は直轄軍を組織し、高度な戦術を展開します。また、火砲の実用化に伴い、戦闘は騎士ではなく歩兵が中心となっていきます。いわゆる軍事革命です。

大砲は、14世紀の中国に生まれ、15世紀には欧州の戦場にも登場します。それを小型化して鉄砲が誕生します。鉄砲を持った歩兵団を抱えるにはコストがかかります。そこで安定的な税収が必要となり、その前提となる領土と国民の線引きと抱え込みが起こります。これが主権国家を生むことになります。主権国家は、絶対王政に始まりますが、その後、革命等によって市民国家が誕生していきます。つまり、火砲が主権国家を生み出したと言ってもいいように思います。応仁の乱でも、軍事革命が起きています。都の市中での小競合いの中から足軽が登場します。その後、戦闘の主体は、騎乗した武士から足軽に変わっていくわけです。応仁の乱に始まる下剋上の時代は、足軽から身を起こし天下を取った秀吉を生みます。秀吉による太閤検地と石高制が、従来の荘園制を終わらせ、日本は近世へと入っていきます。

「封建的」という言葉はよく使われます。上下関係を重視し、個人の自由や権利を軽んじる、あるいは家父長制的、専制的、閉鎖的といった意味で使われます。しかし、欧州の封建制度は、あくまでも契約関係に基づく主従関係であり、日本の場合も、平安末期に関東武士の間で生まれた“御恩と奉公”という双方向的な関係が基本にあります。決して専制的、片務的なものではなかったようです。江戸幕府は、幕藩体制を布き、中央主権化を実現しますが、秩序を維持するために、儒教を活用し、武家諸法度や身分制度等によって社会をコントロールします。封建的という言葉は、この時期の秩序維持のシステムに由来するのだと思います。ただ、それとて、貨幣経済の浸透等によって徐々に崩れて行き、幕末を迎えることになります。貨幣と火砲が中世を終わらせたと言えるのかも知れません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2023年10月21日土曜日

いつもの

荒木町の小料理屋
昔は、店の常連客であることを誇示し、自己満足に浸る人たちがいたものです。典型的には「いつもの」というオーダーです。常連客も、「いつもの」オーダーも否定するものではありません。ただ、常連ぶりでマウンティングしたがる人たちの浅薄さにはあきれました。個人的には、よく行く店があっても、そんな常連客にはなりたくないと思います。そもそも自慢げな態度は見苦しいと思います。加えて、常連になると、その店に行かなければならない、というプレッシャーがかかり、塩梅が悪いものです。行く店も、注文する品も、制約なしに、好きに選びたいと思います。店の人と雑談することは嫌いではありませんが、名前で呼ばれるようになったら、しばらくその店には行かないようにしていました。

会議でローマに一週間滞在したおり、"do as the Romans do"というわけで、毎朝、同じカフェへ行き、ローマ式にペイストリーとカフェ・ラテの朝食をとりました。2日間、たまたま同じペイストリーを注文したら、3日目の朝には、おばさんが、だまって同じペイストリーとカフェ・ラテを持ってきました。図らずも「いつもの」になったわけです。短期滞在だったこともありますが、これは店側の配慮なので、許容できるケースです。店にとっては、常連客というリピーターを確保することは、経営を安定させる上で重要です。その際、味はもとよりですが、居心地の良さ、いわゆるホスピタリティ面も大きな要素となります。店主や女将の性格も味のうち、というわけです。それは、何もにぎやかな気さくさばかりを意味しません。

基本的は、客への気配り・気遣いがリピーターを生むのだと思います。贔屓にしてくれる客に、さりげない心配りを見せる店が、一番心地良いと思います。居酒屋であろうが、高級レストランであろうが同じです。俺は常連だと声高に言う客も、常連に気安くしすぎる店も、如何なものかと思います。また、客をよく叱る頑固親父や女将というパターンもあります。私も、30年通っているのに、お愛想の一つもないどころか、いつも不機嫌な親父の店を知っていました。それは、意図的なものではなく、性分の問題であり、いわゆる職人気質なのでしょう。ただ、信じがたいと思ったのは、頑固親父に叱られたことを自慢げに話す客の存在です。「いつもの」オーダーと逆パターンに見えますが、本質的には同じです。

過ぎた常連ぶりは、甘えの構図であり、場合によっては他の客を不愉快にさせることもあります。四谷の荒木町界隈は、小さな店がひしめく街です。常連以外は入りにくい店が並びます。ある小料理屋へ、常連だという人に連れて行かれたことがあります。暖簾をくぐると、割烹着姿の女将が「お帰りなさい」と言って出迎えます。家庭のようにくつろいでもらいたいという思いで、常連だけではなく、フリの客にもそう言うのだそうです。肴の味もよく、分け隔てのない、でしゃばり過ぎない気遣いが心地良い店でした。一流の店とは、こういうものなのでしょう。客と飲食店との関係の基本は、煎じ詰めれば味につきます。味を評価し、味に自信があれば、味以外のことは、味を邪魔しない程よさが大事なのだと思います。

1970年代に大ヒットした倉本聰のTVシリーズ「前略おふくろ様」のワン・シーンだったと思うのですが、老舗料亭”分田上”出身の板前が任された小料理屋の場面が記憶に残っています。開店と同時に、ごま塩頭の老人が入ってきて、酒と肴を注文します。カウンターで静かに飲んでいたその客は、帰りしな、ぼそりと「分田上の味も落ちたもんだね」と言います。常連ならではの一言は、深川風で実にカッコいいと思ったものです。正直なところ、この言葉を言ってみたくなる店もあります。しかし、本当の常連は、そんなことは言わないのだろうとも思います。何も言わずに、ただ去って行くのみだろうと思います。ひょっとすると、ごま塩頭の老人は、「いつもの」と言いたがる類いの客だったのかも知れません。(写真出典:arakicho.com)

2023年10月19日木曜日

Jeremiah the Innocent

テキサス州の州都であるオースティンと言えば、音楽・映画・IT系の祭典であるサウス・バイ・サウスウェスト(SXSW)が開催される街として知られます。また、オースティンは「世界のライブ・ミュージックの都」と自称するだけあって、ライブハウスが300店近くあるとも聞きます。土地柄、カントリーやブルースの店が多いと思われますが、実に多様な音楽が演奏されているようです。ギター・ブルースのスティーヴィー・レイ・ヴォーンの本拠地でもあり、彼はライブで「from Austin, Texas」と紹介されていました。他にも多くのミュージシャンがオースティンから生まれているのでしょうが、伝説的人物の一人が、ローファイ・シンガー・ソング・ライター、アウトサイダー・アーティストのダニエル・ジョンストンです。 

ダニエル・ジョンストンは、ビートルズと並び賞されるほど才能豊かなソング・ライターですが、精神的、身体的な病に苦しみ、生涯を、ほぼアンダーグラウンドのアーティストとして過ごしました。高校生の頃から、ウェスト・バージニア州のニュー・カンバーランドにあった自宅地下室で、自作の歌を安っぽいサンヨーのラジカセに録音していました。その後、オースティンに移り、地元の新聞社に自作テープを持ち込みます。それが始まりでした。多少、知られる存在となった彼は、オースティンに訪れたMTVの取材に押しかけ、取り上げてもらいます。1985年のことです。ただ、地元の有名人になったのも束の間、双極性障害が悪化して、入院を余儀なくされます。以降、10年弱、入退院を繰り返し、その後も薬を飲み続けることになります。

私が、ダニエル・ジョンストンを知ったのは、ドキュメンタリー映画「悪魔とダニエル・ジョンストン」(2005)でした。冒頭で流れる「Story of an Artist」にやられました。家族にも、周囲にも理解してもらえない孤独と苦悩がストレートに歌われ、それでいて例えようのない優しさに包まれた奇跡の歌だと思います。社会的コミュニケーションに障害がある一方で、特定分野で高い集中力を発揮するアスペルガー症候群の人たちは、高い確率で総合失調症や双極性障害といった二次障害を起こしやすいと聞きます。恐らくダニエル・ジョンストンもそうだったのでしょう。アスペルガー症候群と芸術家は深い関係があります。音楽と絵画に優れた才能を開花させたダニエル・ジョンストンは、ベートーベンやモーツァルト、ゴッホやアンディ・ウォホール等々の才能と苦悩を引き継いでいたわけです。

カセット・テープのみだったダニエル・ジョンストンの音楽は、友人が版権確保のために設立した会社でレコード化されます。メジャーに注目された彼は、1995年、アトランティックで1枚だけアルバムをリリースします。評価されたものの、売上は振わず、再びアンダーグラウンドの世界へと戻ります。あまりにも純粋で素朴な彼の歌は、時代とかけ離れ過ぎていました。ニルヴァーナのカート・コバーンは、ダニエル・ジョンストンに魅せられ、代表作であるカエルの「Jeremiah the Innocent」のTシャツを好んで着ていました。それが、ダニエル・ジョンストンの名を世界に知らしめることになります。双極性障害を患うカート・コバーンは、同じ苦しみを持つダニエル・ジョンストンに自分を重ねていたのでしょう。コバーンは、超メジャーになった自分に苦しみ、持病を悪化させ自殺しています。

人と違うというダニエル・ジョンストンの孤独と苦悩は、音楽と絵画によって救われた面もあるのでしょう。献身的に彼を支え続けた家族の存在も大きかったと思います。もう一つ、彼を完全な破滅から救っていたのが、ローリーの存在だったのでしょう。ローリーは、学生時代に彼があこがれた女性です。結ばれることはありませんでしたが、ダニエル・ジョンストンは、生涯、ローリーを思い続け、多くの曲が彼女を歌っているとされます。ダンテのベアトリーチェそのものです。「悪魔とダニエル・ジョンストン」のDVDには特典映像として、映画の公開を機に、彼とローリーが20数年ぶりに再会する様子が収められています。言葉を発することもなく、ひたすらローリーを抱きしめるダニエル・ジョンストンに涙が止まりませんでした。ダニエル・ジョンストンは、2019年、心臓発作を起こし亡くなっています。58歳でした。(写真出典:en.wikipadia.org)

2023年10月17日火曜日

赤瓦

沖縄赤瓦
北京の故宮博物院の広大さと数々の工芸品には圧倒されますが、最も感動したのは、景山からの眺めでした。故宮のすぐ北にある景山は、故宮建設時に出た瓦礫で作られた人工の山です。景山から故宮を見下ろすと、そこには瑠璃瓦の海が広がっています。ちょうど夕刻だったこともあり、黄色い海は得も言われぬ高貴な輝きを放っていました。中国では、黄色は高貴な色とされ、黄色い釉薬をかけて焼いた贅沢な瑠璃瓦は、紫禁城と離宮にのみ使われました。景山は、瑠璃瓦の海を賞美するために造られたのではないか、とさえ思いました。部屋数9,000を超すという故宮は、それだけで一つの街と言えますが、瓦の色は街の景色を左右する重要な要素だと思います。

中世の風情を残す欧州の街では、赤い瓦が特徴的です。とりわけドゥオモの上から見るフィレンツェの町並みは、赤い瓦の連なりが印象的です。スペインの古い街も、ドイツのロマンチック街道沿いの街々も、欧州の街は赤い瓦で覆われています。欧州では、瓦を焼くために使う粘土が赤土なのだろうと思っていました。ところが、実際のところ、赤い色は焼き方に由来していました。瓦は、釉薬をかけるか否か、そして、焼く時に窯に酸素を送るか否かで違いが生じます。酸素を送れば酸化焼成、送らなければ還元焼成となります。これは陶器を焼く際でも同じです。酸化焼成すると、粘土の中の鉄分が酸化鉄になり、赤い色になります。酸化焼成は、工程が単純で、燃料も少なくても済むというメリットがあります。

ただ、酸化焼成の瓦は吸水性が高くなります。雨や雪の多い多湿な地域には不向きです。乾燥している欧州には、酸化焼成の赤瓦が適していたわけです。沖縄の伝統家屋も、白い漆喰で止めた赤瓦が特徴です。赤瓦は、雨を吸い込みますが、日が差すと、その水分が蒸発し、気化熱によって家全体がクールダウンされます。沖縄赤瓦は呼吸するとも表現されるようです。沖縄の気候に適した瓦だったわけです。島根県の石見地方の石州瓦も赤い瓦です。三州瓦、淡路瓦と並び日本三大瓦の一つとされます。1300度という高温で焼かれ硬く締まった瓦は、湿度、凍結、塩害に強く、日本海側、中国地方の山間部等で多く使われています。石州瓦が赤いのは、釉薬として使う出雲の来待石が焼成の過程で酸化するためだそうです。

記紀によれば、瓦は、6世紀に、仏教とともに半島から伝来したようです。当初は、寺社、宮廷等、公の建物にのみ使われて、順次、貴族や武家の屋敷に広がったようです。庶民の家にまで普及するのは、江戸期になってからです。8代将軍徳川吉宗が、防火を目的として庶民の家にも瓦を使うことを許します。日本の瓦の6割を占めているのが愛知県・三河地方の三州瓦です。三河は、良質な粘土を産することから、瀬戸・常滑はじめ窯業が盛んな土地柄です。瓦も古くから作られてきたようです。三州瓦は、耐火性、耐震性にも優れているとされます。江戸で瓦屋根が普及すると、港に近く船運が容易だった三州瓦が江戸へ運ばれます。現在も最大シェアを誇っているのは、江戸の市場を押さえたことに起因するのでしょう。

日本における瓦の出荷量は、この25年で、1/4まで落ち込んでいるようです。そう言えば、新築の建売住宅に瓦屋根を見ることはありません。最大の減少理由は初期コストの高さであり、次いで地震の際の被害が懸念されているようです。確かに、地震が起こると、民家の瓦が落ちている映像をよく見ます。ただ、これは古い家に限った話であり、新しい工法では問題ないようです。また、重量のある瓦屋根では、いわゆるトップ・ヘヴィー状態となり、地震による揺れが増幅することになります。これについても、最近の耐震基準をクリアした家の構造が強くなっていること、そして、瓦の改良が進んで軽量化されたことによって、大きな問題にはならないようです。風土にあった屋根という観点はもとより、木と紙でできた日本の家では耐火性という観点からも、もっと瓦屋根が増えてもいいように思います。(写真出典:simabukurokawara.com)

2023年10月15日日曜日

月の光

そもそも音楽のジャンル分けなどは無意味であり、音楽は音楽だと言えます。ただ、聞く前に、その音楽の傾向を知ろうと思えば、なかなか有用でもあります。”クラシック音楽”というジャンルは実に奇妙な命名だと思います。一般的には、17世紀から20世紀初頭にかけてのバロック音楽、古典派、ロマン派を指すとされます。同時代にあっては、クラシックと呼ばれたわけもなく、後世の命名であることは明らかです。ただ、現代に作曲された音楽もクラシックに分類されます。また、作曲家が譜面を書き、宮廷やホールで演奏された音楽に限られることが多く、大衆音楽は除外されます。芸術的、非商業的という言い方もありそうですが、それも曖昧な定義です。歴史ある楽器で演奏される音楽かと言えば、そうとも限りません。

ひょっとすると、クラシック音楽の定義は、音楽の父と呼ばれるバッハが構成した楽理の枠内で作曲された音楽ということにつきるのかも知れません。”クラシック”ではなく、バッハ音楽という呼び方が適切で分かりやすいと思います。バッハ音楽は、優れた作曲家を輩出し、数々の名曲を生み出してきました。バッハ音楽は、石材でしっかりと組み上げられた西洋建築を思わせるものがあります。その音楽は、宮廷、あるいはコンサート・ホールに出入りする特定階層を対象としているとも言え、スノッブなところがあります。素人考えですが、それを大きく変えたのはドビュッシーだったのではないかと思います。ドビュッシーは、決してバッハ音楽を否定した革命家ではなく、あくまでも音楽の解放者だったように思えます。

フランス料理に例えれば、壮麗な宮廷料理をコース料理に展開したエスコフィエに重なるものがあります。20世紀の音楽は、より人間的で、より多様で、より身近なものとして展開していったように思います。個々人のあいまいな感性に訴えるかのようなドビュッシーの音楽は、すべての20世紀の音楽の起源なのではないかとさえ思います。最も良く知られるピアノ曲「月の光」などは、ポップスの曲、ジャズの曲、あるいは映画音楽と言われても何の違和感もありません。ドビュッシーは、しばしば印象派の始まりと言われ、ラヴェル等が後に続きます。20世紀初頭に生まれた印象派音楽は、19世紀の主流であったロマン派音楽へのアンチテーゼとされます。確かに、ドビュッシーはワーグナーの対極と言えます。

バッハ音楽は、その理論的に構成された調和性の高さゆえに急速に普及しましたが、同時に、その制約がゆえに行き詰まっていきます。ロマン派は、そのピークだったのでしょう。ドビュッシーは、音楽形式の否定、長調と短調の曖昧化、非機能和声(モード)、全音音階、不協和音等々を用いて、バッハ音楽を解放したとされますが、それらを音楽理論として説明することは、門外漢にとって至難の業です。ただ、全てのパーツが寸法通りに結合される建築がバッハ音楽だとすれば、ドビュッシーの音楽は近代絵画のように多彩な色を曖昧に塗り重ねて全体を構成しています。例えば、輪郭線の曖昧な筆遣いが絵画の表現力を高めたように、音階を拡張的に使うモードはバッハ的和声を超えた表現を獲得したわけです。

そもそも、モードは、ペルシャ、インド、中国、ジャワ等において、古くから存在していました。西洋でも、古代ギリシャに存在し、バッハ以前の教会音楽でも使われていました。世界の長い音楽の歴史のなかで、バッハ音楽はモードを制限的に単純化することで高い調性を得た特殊な例に過ぎないのかも知れません。ドビュッシーの解放とは、バッハ音楽の成果を踏まえた上での原点回帰とも言えそうです。また、ドビュッシーの音楽は、一人の才能と探究心から生まれたものですが、同時に、時代が生み出した音楽という側面もあると思います。産業革命を経て、市民の時代が到来し、バッハ音楽を育んだ宮廷や教会は力を失いました。また、植民地競争によって、西洋は他文化に対する知見を深めることになりました。ドビュッシーの音楽は、産業革命が生んだと言えば、やや言い過ぎでしょうか。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2023年10月13日金曜日

ヅケ茶

今年の春は、初鰹が豊漁で、味もいいと評判でした。一方、戻り鰹の漁は控えめとのこと。ただ、ことのほか脂がのっていて、とても美味しいと思います。刺身やタタキを食べると、必ず切れ端が出るものです。私は、それをヅケにしておいて、翌朝、ヅケ茶漬けとして食べます。漬け汁は、醤油・酒・みりんを同量というのがお決まりですが、めんつゆでも十分です。鰹のタタキをヅケにする際には、余った生姜、小ネギ、しその葉といった薬味、さらに胡麻も振りかけ、漬けておきます。翌朝、ヅケ丼にしてもいいのですが、私の好みは出汁茶漬け。わさび、海苔をのせて食べれば、至極の味になります。

子供の頃、ヅケなど食べた記憶がありません。ヅケは、魚介類の保存法だったのでしょうから、港町では必要なかったのかも知れません。学生になってから、鮨屋で、初めてマグロのヅケを食べたように思います。マグロのヅケは、鮨屋と縁が深いと言えます。魚介類の保存法としては、太古の昔から、干すか塩漬けにするかしかなかったのでしょう。稲作が始まると、中国南部の山間部で、なれずしが生まれます。塩と米で乳酸発酵させたなれずしは、雑菌の繁殖を抑えることで長期保存が可能となり、かつ旨味が増していきます。日本には、稲作と同時に伝わったようです。現在も残るなれずしとしては、琵琶湖の鮒寿司や北国の飯寿司があります。江戸期になると、発酵期間を短縮するために酢を使う早ずしが登場します。

食用酢の生産が始まったことが背景にあるようです。当初の早ずしは、箱鮨に酢を振りかけたものだったようですが、後に酢飯に新鮮な魚貝を乗せる江戸前の握り寿司が生まれます。考案者は、両国「與兵衛鮓」の華屋與兵衛、あるいは深川「松之鮨」の堺屋松五郎と言われます。両者とも19世紀前半の創業です。それより100年以上前の18世紀早々、松崎喜右衛門が人形町に「毛抜鮓」を創業しています。ネタを丁寧に酢漬けにし、酢飯とともに、殺菌効果の高い笹の葉に包んだものです。この3店は、江戸三鮨と呼ばれ、江戸の名物だったようで、文献や浮世絵にもしばしば登場しています。なお、毛抜鮓だけは、小川町で「笹巻けぬきすし総本店」として現在も営業を続けています。

当初、江戸前寿司は、棒振りや屋台で提供されていただけに、ネタの足は早く、様々な工夫が凝らされます。酢じめ、湯引きなどとともに、醤油漬けも一般的だったようです。恐らく、これがヅケの直接的な発祥なのでしょう。当時、マグロは扱いにくく、ネタになっていなかったようです。江戸後期、マグロの赤身を湯引きし醤油漬けにして出したところ、大人気となります。以降、マグロのヅケは、定番ネタの一つとなります。その後、冷蔵技術が発達し、物流が改善されると、鮨屋では生のネタが主流となります。各種保存法も、ここで役割を終えたわけですが、マグロのヅケ、しめ鯖、コハダの酢じめ等は今も残ります。保存法としてではなく、風味の良さから江戸前鮨の”仕事”を残しているわけです。

ヅケは鮨由来というわけですが、ヅケ茶に関しては、もともと漁師飯なのではないか、という気もします。伊豆の郷土料理に「まご茶漬け」があります。新鮮なアジをたたきにしてご飯の上にのせ、お茶をかけて、醤油とワサビで味を調えます。漁師が舟の上で食べていたものだそうです。“まご”とは、まごまごしないでかき込め、という意味だとされます。新鮮な食材を使う漁師飯は、簡単で美味いものと決まっています。余談ですが、スーパーの鮮魚売り場には、時折、魚のアラが売られています。安価にアラ汁が楽しめます。スーパーでは刺身の盛り合わせも売っています。ということは、切れ端も出るはずですが、恐らく廃棄されているのでしょう。フードロス削減の観点から、ヅケ丼・ヅケ茶にどうぞ、とでも言って売れば、大人気間違いなしと思うのですが。(写真出典:katsuoya.net)

2023年10月11日水曜日

シャクシャインの戦い

和人に対するアイヌの蜂起は数多くあったのでしょうが、特に良く知られているのは、1457年のコシャマインの戦い、1669年のシャクシャインの戦い、1789年のクナシリ・メナシの戦いです。トリガーは異なるにしても、基本的には、和人の蝦夷地進出によって圧迫されたアイヌの反撥という構図は同じです。それぞれの戦いには、和人による蝦夷地侵略の経過が反映されているとも言えます。和人とアイヌの交流は、縄文時代から行われていたようです。弥生時代になっても、稲作に不向きなほど寒冷な北東北や蝦夷地では、縄文時代の営みが継続されます。紀元7世紀頃まで続いた蝦夷地の続縄文文化では、和人との交流によってもたらされた土器、鉄器、あるいは農耕の跡も確認されています。

和人の本格的な蝦夷地進出は、鎌倉時代、津軽半島の十三湊を拠点に栄えた安東氏によって始まります。安倍一族の末裔ともされる安東氏は、鎌倉中期、蝦夷管領という地位を利用して、北東北一円を支配下に置き、アイヌや大陸との交易で財を成します。その後、安東氏は分裂します。室町期、台頭した南部氏に圧迫された津軽の安東氏は渡島半島へと渡ります。安東氏は、渡島半島南岸に道南十二館を築くなどして基盤を固めます。この頃、蝦夷地へ渡る和人が増え、アイヌとの交易も盛んになります。そこで発生したのがコシャマインの戦いでした。注文した小刀の品質と価格を巡って鍛冶屋と争ったアイヌが殺害されます。これに怒った渡島半島東部の首長コシャマインの呼びかけによって、アイヌは団結し和人を攻撃します。

戦闘はかなり広範囲に広がり、余市付近にまで達していたようです。そこまで和人が進出していたわけです。コシャマインは、十二館のうち10館まで攻め落とします。安東氏は、前年、本州へ戻っており、権力の空白がねらわれたとも言われます。和人側の中心は守護の蠣崎氏でしたが、その客分であった武田信広が敗残兵を集めて戦い、自らの弓でコシャマインを倒します。リーダーを失ったアイヌが総崩れとなる一方、武田信広は和人たちの中心となり、後の松前藩の始祖となります。米作をしない松前藩は、家臣に領地ではなく商場を割り当て、アイヌとの交易権を与えます。独占的交易権を守るために、松前藩は自由な交易や通行を制限します。交易相手を制限されたアイヌは不利な条件での取引を押しつけられます。

このような状況下、静内を境に東のアイヌと西のアイヌが漁猟権を巡って争います。西のアイヌは松前藩に支援を依頼しますが拒否されます。その使者が、疱瘡に感染して死ぬと、松前藩によって毒殺されたという噂が広がります。東のアイヌの首長シャクシャインの呼びかけによってアイヌは結集し、和人を襲い多くの犠牲者を出しました。劣勢に陥った松前藩は幕府に支援要請します。幕府は、津軽・南部・秋田三藩に出兵を命じます。援軍を得た松前藩は反攻に転じ、追い詰められたシャクシャインは和睦に応じました。和睦の酒宴の最中、シャクシャインはじめ首長たちはだまし討ちにあって命を落とします。以降、松前藩は、渡島半島の和人地に限られていた領地を各地に拡大し、アイヌを隷属させていきます。

クナシリ・メナシの戦いは、道東の商場を任された商人の横暴に対するアイヌの暴動でした。これを鎮圧した松前藩は、商人も処分しています。さらに、ロシアの南下に脅威を感じる幕府は、道東の商場を直轄化します。蝦夷地と琉球の日本への取り込みは、国内統一ではなく植民地化そのものです。15世紀に中央集権化された琉球王国と違い、蝦夷地は部族社会のままでした。3世紀の倭国も部族社会でしたが、大乱を経て部族連合が形成され、卑弥呼が率います。それを継いだヤマト王権は、外圧を背景に中央集権化を進めます。外圧に対するコシャマインやシャクシャインの戦いは、部族連合国家へつながる可能性があったのでしょう。農耕は人口増をもたらします。農耕を行わないアイヌの人口が少なかったことは、独立という観点からは致命的だったのでしょう。かつて、弥生文化を前に縄文文化がたどった道でもあります。(写真:シャクシャイン像 出典:ja.wipipedia.org)

2023年10月10日火曜日

庚午事変

庚午(こうご)事変は、1870年(明治3年)に起こりました。淡路島の洲本で、徳島藩主・蜂須賀家の家臣たちが、淡路を本拠地とする同藩筆頭家老・稲田邦植の別邸等を襲った事件です。前日には、徳島にある稲田屋敷も焼き討ちにあっています。明治政府による廃藩置県の前年のことであり、各藩による版籍奉還は行われたものの、藩主がそのまま知事となり各藩の体制が維持されていました。徳島藩主・蜂須賀家と筆頭家老・稲田家の関係は、戦国時代にさかのぼる興味深いものです。ともに織田信長、豊臣秀吉のもとで戦った蜂須賀小六と稲田植元は義兄弟の契りを結びます。ともに大名に取り立てられますが、稲田植元は、これを辞退し、阿波・淡路を拝領した蜂須賀家の客分になります。

蜂須賀家は、稲田家を洲本城代として淡路島を任せます。稲田家は、世間から事実上の大名として認められていたようです。しかし、その関係は、時代とともに変質していきます。幕末に至り、公武合体派に与する蜂須賀家と尊皇攘夷を唱える稲田家は、反目を露わにします。明治政府は新たな身分制度を施行し、大名クラスは華族、武士は士族、武士の家来は卒族となります。家臣団の構成が藩によって異なったため、政府は、その格付けを各藩に委ねます。徳島藩では、蜂須賀家家臣を士族とする一方、稲田家家臣を卒族とします。この判断は合理的な面もありますが、実態的ではありません。当然、稲田家は、これに猛反発し、藩としての独立も画策します。これを良しとしない蜂須賀家の家臣が、暴挙に及んだわけです。

中央集権化を目指す新政府は、これを機に蜂須賀家を取り潰すべく、徹底的な捜査を行います。しかし、その時点では新政府の力は全国に及んでおらず、藩知事を処分することで、第二、第三の奥州越列藩同盟を誘発する恐れがありました。結果、家臣だけが、多数、打ち首(後に切腹へ変更)、遠島、禁固、謹慎に処されます。稲田家側では、淡路島が兵庫県に編入され、家臣は兵庫県の士族とされます。同時に、稲田家は、北海道の静内・色丹へ移封され、その開拓を命じられます。まだ力のない新政府は、建武式目以来、武家社会の大原則とされてきた喧嘩両成敗に沿うようにバランスを取ったわけです。いかに士族身分を得たとは言え、北海道の原野を開拓するなど、実に過酷な処分だったと思います。

戊辰戦争の際、会津藩が最果ての地である下北半島に、斗南藩として移封されたことを思い起こさせます。庚午事変も、権力移行の過渡期に起きた悲劇と言えます。庚午事変は、船山馨の「お登勢」、池澤夏樹の「静かな大地」、あるいは行定勲監督の映画「北の零年」でも描かれています。十数年前、稲田家家臣の末裔の方と知り合い、お話しを伺う機会がありました。聞けば、池澤夏樹も、岡本太郎も、池部良も、稲田家家臣団の末裔であり、他にも多くの末裔たちが政財界で活躍しているとのことでした。厳しい開拓を成し得た人々の子孫も逞しく、かつ勉学にも優れていたのでしょう。家臣団という強固な組織を維持しつつ、かつ怨念を秘めながら開拓にあたったことが、成功につながったように思えます。

実は、私の母親も静内の生まれです。ただ、稲田家家臣団とは一切関係なく、祖父が、教員として、一時、静内に赴任していたのだそうです。祖父は、戊辰戦争で賊軍とされた南部藩士の家に生まれたので、教員くらいしか進路は無かったと聞きます。母方の祖母は、佐賀鍋島藩の屯田兵の娘でした。北海道開拓には、激変した世の中で職を失った多くの武士たちが貢献していたと言えそうです。静内は、国内最大の競走馬の産地です。その歴史にも稲田家家臣団が関わっているのかと思いきや、どうも違うようです。1872年(明治5年)に、この地を視察した北海道開拓使長官・黒田清隆が、野生馬が群をなす様を見て、牧場を開いたことがはじまりだったようです。ちなみに、静内は、17世紀に起きた最大のアイヌ蜂起を率いたシャクシャインの本拠地としても知られます。(写真:静内二十間道路  出典:shinhidaka-hokkaido.jp)

2023年10月8日日曜日

アラベスク

アルハンブラ宮殿を訪れた際には、イスラム建築の心に染み入るような美しさに魅せられました。とりわけアラベスクは印象的でした。アラベスクとは、幾何学的なパターン等を反復して作られるイスラム紋様です。偶像崇拝を禁じるイスラム教の戒律が生んだ装飾美術ではありますが、実は、単なるデザインに留まらない奥深い意味を持っていると言われます。アラベスクには、幾何学的模様、動植物、あるいはアラビア文字のカリグラフィーといったパターンがあります。単に具象性を廃するだけでなく、反復されるパターンが無限を意味し、唯一神アッラーの普遍的存在を象徴しているとされます。アラベスクは、単なる装飾ではなく、祈りそのものではないかとも思います。

アラベスクは、アラブ風というイタリア語がフランス語化したものだそうです。しかし、その発祥はアラブというわけではなく、古代エジプトで生まれ、古代ギリシャやペルシャに伝播したと言われます。古代ギリシャのアカンサス模様等はよく知られていますが、それが5世紀頃、日本にも伝播し、後に唐草模様となります。それがアラブ風と呼ばれることになったのは、イスラム文化のなかで特徴的な発展を遂げたからなのでしょう。そして、その発展に大きな影響を与えたのは、古代エジプトの数学者・天文学者エウクレイデスだと言われます。エウクレイデスは、紀元前4~3世紀、アレクサンドリアで活躍したギリシャ人ですが、幾何学の父とも呼ばれます。

エウクレイデスは、英語読みのユークリッドの方ががよく知られています。いわゆるユークリッド幾何学は、19世紀に非ユークリッド幾何学が登場するまで唯一の幾何学でした。それほどまでにユークリッドの図形に関する定義・公理・定理は完璧に近かったわけです。幾何学は、英語でいえば”geometry”です。接頭語の”geo”は、地球、地上、地理等を表わします。幾何学は、土地測量の必要性からエジプトで生まれました。毎年、氾濫するナイル川が農地を洗い流すため、土地の測量が必要とされたわけです。イスラム社会でも、ユークリッド幾何学は盛んに研究され、その中心となったのがアッバース朝が9世紀にバグダッドで設立した図書館”知恵の館”だったとされています。

アラベスクは、10世紀頃に、ユークリッド幾何学をベースに、ピタゴラスやプラトンといった古代ギリシャの学究的成果を総合して誕生したとされます。アラベスクは、”知恵の館”が生み出した成果とも言えるのでしょう。そもそもメソポタミア文明は、天文学と数学に優れており、数学は、古代ギリシャで生まれ、イスラムで進化したとされます。また、ユークリッドやピタゴラスがそうであったように、数学者は哲学者でもあります。数学は哲学から生まれたとも聞きます。普遍的な真理を探ること、そしてその方法論が同じであるということなのでしょうか。幾何学的正確さと精神性の高さを併せ持つアラベスクは、正しくその象徴的な存在なのかも知れません。

中世までの自然科学の進化は、明らかに中国、インド、そしてイスラムが西洋を上回っていました。近世に至り、西洋が大きな躍進を遂げることになったのは何故か、という疑問があります。よく言われるのは、ルネサンスと宗教改革がゆえ、という説です。いずれも神の絶対性に対して盲目的であった中世のくびきから解放されたから、というわけです。すべては神が創りたもうた、と言えば、それ以上、真理の探究は行われません。分からない、と認めることから科学は始まるとも言われます。ただ、誤解してはいけないのは、ルネサンスと宗教改革は、神を否定したのではないという点だと思います。むしろ、神が創造した真理を、自然のなかに探求していく行為が科学だったとも言えるかも知れません。だとすれば、幾何学的な真理を追究することで神の存在を伝えるアラベスクスも、方法論においては、自然科学そのものと言えるようにも思えます。(写真出典:tehrantimes.com)

2023年10月6日金曜日

「ジョン・ウィック:コンセクエンス」

監督:チャド・スタエルスキ   原題:John Wick: Chapter 4  2023年アメリカ

☆☆☆☆ー

人気シリーズ4作目の完結編ですが、最高傑作が生まれたと思います。マーベル風のCGアクションが主流の時代にあって、リアルにこだわる怒濤の格闘シーンは見応えがあり、歴史に残るアクション映画になったと思います。キアヌ・リーブスと格闘家にしてスタントマン出身の監督のこだわりが詰まっています。監督は、ジョン・ウィック・シリーズ1作目でデビューし、シリーズ全作品を監督しています。シリーズ1作目は、やはりスタントマン出身で“ワイルド・スピード・シリーズ”や”ブリット・トレイン”を監督することになるデヴィッド・リーチとの共同監督でした。デヴィッド・リーチにとっても初監督作品でした。この二人に監督させたことは、制作総指揮をとるキアヌ・リーブスの大手柄だったと思います。

ジョン・ウィックは、当初からシリーズ化が予定されていたわけではありません。リアルな格闘へのこだわり、そして暗殺者たちの裏帝国といったユニークな世界観も評判を呼び、大ヒットしてシリーズ化されました。キアヌ・リーブス主演で大ヒットしたウォシャウスキー兄弟の「マトリックス」(1999)も、同じように大ヒットを機にシリーズ化されました。マトリックスのアクションも、基本的には日本や香港映画の技法を多く取り入れていましたが、最も特徴的だったのは、バレットタイム等といった斬新な映像技術でした。バレットタイムは、高速で動く被写体を、多数のカメラで撮影し、マルチ・アングル的なスローモーション効果を出します。マトリックスでは、のけぞって銃弾をかわすシーンが有名になりました。

それはそれで衝撃的でしたが、おそらくキアヌ・リーブスは、よりリアルな格闘シーンを求めており、ジョン・ウィックに至ったのではないかと想像できます。マトリックスの象徴がバレットタイムだとすれば、ジョン・ウィックの象徴は”ガン・フー”ということになります。ガン・フーは、カンフーと銃器を組み合わせた格闘シーンのことです。ジョン・ウィックでは、格闘のなかで、至近距離から銃が撃たれます。そのこと自体は、実に理にかなっています。短銃は、数メートル離れただけで、命中確率が極端に落ちると聞きます。これまでの映画でも、至近距離からの発砲は珍しくありませんが、ジョン・ウィックでは、流れるような格闘の一部として多用されます。まるで、新しい格闘技の流派のようでもあります。

キアヌ・リーブスもチャド・スタエルスキ監督も、千葉真一の大ファンとして知られます。監督は、日本映画はアクション映画の原点とまで言っています。オートバイ好きのキアヌ・リーブスは鈴鹿8時間耐久ロードレースのスターターを務めたことがあり、監督は日本で修斗の試合に参加したこともあります。日本好きの二人が、アクション・シーンの舞台として大阪を入れたことは頷けるものがあります。デヴィッド・リーチ監督のブリット・トレインも新幹線が舞台でした。それはそれでいいのですが、アメリカのアクション映画に登場する日本のケバケバしいイメージには辟易します。そんな風に見えているのか、と心配になりますが、実際の日本というよりも、サニー千葉の映画に登場する背景が原点なのでしょう。

ガラス・ケースの部屋でのアクションは、ジョン・ウィックではお馴染みです。加えて、今回、驚かされたのは、パリの凱旋門での車と人が入り乱れるアクション、そしてモンマルトルの階段でのアクションです。優秀なスタントマンが世界中から招集されていたのでしょうが、フランス人が多いのではないかと思われます。そのレベルの高さに、さすがパルクールの国と、あらためて感心させられました。イップ・マンのドニー・イェン、人気SSWのリナ・サワヤマの出演も驚きでした。ジョン・ウィック・シリーズは、本作をもって終わりますが、ヒット・シリーズを終わらせる決断は尊敬に値します。ホテル・コンチネンタルのコンシェルジェ役でお馴染みのランス・レディックが、今年、亡くなったことも影響しているのかも知れません。なお、スピン・オフも計画され、その一つはNetflixで既に公開されています。(写真出典:movie.jorudan.co.jp)

2023年10月4日水曜日

新婚旅行

宮崎の新婚旅行光景
日本初の新婚旅行は、坂本龍馬とお龍さんの霧島旅行だと言われます。1866年に行われた霧島旅行は事実ですが、初の新婚旅行とは、ややこじつけっぽいところがあります。二人が祝言をあげたのは半年以上前のことです。旅行を勧めたのは西郷隆盛ですが、寺田屋事件で負傷した龍馬の療養を兼ねつつ、幕府方から身を隠すことが目的の逃避行だったのでしょう。寺田屋事件の際、龍馬は、お龍さんの機転で一命をとりとめますが、そのドラマチックな展開と併せ、初の新婚旅行と喧伝されたのでしょう。話の出所は、1883年の新聞小説であり、当時まだ新婚旅行という言葉はなく「ホネー、ムーン」と書かれていたようです。ハネムーンを、新婚旅行と訳したのは、仏教哲学者で東洋大学創始者の井上円了であり、1886年のことです。 

新婚旅行の原型は、19世紀前半、英国の上流階級で始まったとされます。結婚式に参列できなかった親族等を夫婦で訪問するという慣習があったようです。とは言え、両親も同道するなど、新婚旅行と言うよりも挨拶回りといった風情です。日本の”婿入り”という風習に近いようにも思えます。婿入りとは、祝言後、新郎が初めて新婦の実家に挨拶に行くことであり、狂言にも登場する古い風習です。今の形の新婚旅行は、19世紀後半、やはり英国から始まったようです。産業革命による交通網の発達、市民の経済力の高まり、そして植民地の存在等を背景に、観光旅行ブームが起き、新婚旅行も一般化するわけです。明治期の日本では、皇族等が行う例もあったようですが、一般化するのは戦後のことだったようです。

それもそのはず、戦前の結婚と言えば、基本的には家同士が行うものであり、個人対個人という関係が一般化するのは、民主憲法が制定された戦後のことです。戦後復興が進むと、神武景気や岩戸景気といった好況が産業構造や社会構造を大きく変えていきます。二次産業化、都市への労働力の流入が起こると、恋愛観や結婚観にも変化が起こり、婚姻件数も増加します。そして、新婚旅行も浸透していくわけです。行先としては、関東では熱海・箱根、関西では南紀白浜といった温泉地が人気だったようです。1959年の皇太子ご成婚で起きたミッチー・ブームは、TVの普及や恋愛結婚の増加などにもつながります。皇太子ご夫妻が宮崎を訪問した際のTV報道が大きな反響を呼ぶと、南国宮崎が、一躍、新婚旅行のメッカとなります。

当時の新婚夫婦は、皇太子ご夫妻にならって、フォーマルなスーツ姿で宮崎へ乗り込んだようです。宮崎への新婚旅行がピークを迎えた1970年頃には、3組に1組が宮崎へ行っていたようです。この頃、戦後のベビー・ブーマーたちが結婚し、婚姻件数は年間110万件とピークをうっています。その後、新婚旅行の行先は、返還された沖縄へと、そして海外旅行ブームと共にハワイへと移っていきました。考えてみると、新婚旅行の移り変わりも、見事に世相を反映していたわけです。ちなみに、2021年の婚姻件数は50万件と、ピーク時の半数以下となっています。少子化、晩婚化、非婚化が進んだことが背景にあります。かつて主流だった見合い結婚、媒酌人をたてた結婚式など、ほぼ絶滅状態。結婚式を挙げないケースも多く、新婚旅行も激減しているのでしょう。

余談ながら、我が家の新婚旅行の行先は、スペインとモロッコでした。1979年当時、長い休暇など夢のまた夢であり、新婚旅行くらいじゃないと取れませんでした。正月休みとかけて2週間弱の休暇を取りましたが、行先も含めて、当時としては珍しいケースでした。新婚旅行先については、父親から、NYかロンドンに行くなら旅費を出してやると言われました。この際に、世界の中心を見ておくことは有意義だというわけです。旅費を出してもらうのはありがたいのですが、恐らくNYもロンドンも仕事で行く時代が来ると思っていたので、貴重な長期休暇には遠くまで行きたいと考えた次第です。NYに関して言えば、実際、後に赴任することになりました。当時、新婚旅行で初めて海外へ行く人たちが多かったと思いますが、我々夫婦にとっても初めての海外旅行でした。それも含めて、時代を感じさせる話です。(写真出典:pref.miyazaki.lg.jp)

2023年10月2日月曜日

「伯爵」

監督: パブロ・ラライン     2023年チリ

☆☆☆+

白黒のゴシック・ホラー的映像が特徴的なブラック・コメディです。チリの独裁者アウグスト・ピノチェトを、今も生きている吸血鬼としたアイデアは、実に秀逸だと思います。南米各国の貧富の格差、権力者による支配構造を考えれば、世代を超えて続く権力構造=不死の吸血鬼、という発想は、シンプルで分かりやすいものがあります。この発想だけで、この映画は6割方、成功していると思います。吸血鬼・ゾンビ映画の人気が絶えないことには驚かされますが、単純なホラー映画だけではなく、様々なヴァリエーションも展開されています。特に吸血鬼ものは、人を襲うという側面ではなく、不死の憂鬱をプロットに据えると、哲学的で深みのある映画になる傾向があります。本作も、その枠組みをうまく使っています。

陸軍総司令官だったアウグスト・ピノチェトは、1973年、軍事クーデターによって政権を奪取します。倒したのは、史上初めて自由選挙で選ばれた社会主義政権、サルバトール・アジェンデ政権でした。まさに民衆の意志を踏みにじるクーデターであり、左翼ドミノを恐れる米国がバックアップしていたことでも知られます。軍政を布いたピノチェトは、1974年には大統領に就任し、以来、独裁を続けます。その間、徹底的な左翼弾圧を行っています。ベルリンの壁が崩壊すると、米国がピノチェトを支援する理由も消えます。1990年、ピノチェトは、選挙に敗れ、退陣します。退任後も影響力を保持したピノチェトでしたが、在任中の悪事や蓄財が追及されます。しかし、2006年、判決が下される前に死去しています。

吸血鬼ピノチェトは、フランス革命の際に生まれたという設定もうまいと思います。革命が起これば、必ず反革命の動きも起こります。中南米でも革命勢力は闘争を続けてきました。ただ、定着を見た革命政権はキューバくらいではないかと思われます。時代を超えて南米を支配してきた権力者たちは、まさに不死の吸血鬼だと言えます。昨今、南米ではピンク・タイドという傾向が広がっています。赤ではなくピンク程度の穏健な左翼政権が相次いで誕生しています。チリも、ピノチェト後に保守政権が続きましたが、新自由主義経済やコロナ禍で貧富の差が拡大し、ついに左翼系大統領が誕生しました。そのなかで制作されたこの映画は、気を付けろ、吸血鬼は死んではいないぞ、という警告を発しているように思えます。

南米では、保守であろうが、左翼であろうが、政治はポピュリズムがベースとなっているように思えます。南米政権の危うさの源と言えますが、そのなかで古くから経済を支配し続ける富裕層の力はかなり強いものがあります。本作のストーリーは、吸血鬼ピノチェトの隠し財産を巡って展開されます。財産は5人の子供たちに分散されることなく、ピノチェトが持ち続けるというプロットです。まさに、気を付けろ、というわけです。さらに、ここに教会が絡む点も興味深いものがあります。表面的には吸血鬼に対するエクソシスムでありながら、実態的には教会もピノチェトの隠し財産をねらっています。南米では、宗教勢力と言えども、権力者と同衾することも厭わない同類だと警告しているのかも知れません。

ポピュリズム政権が失敗するきっかけは、経済運営の行き詰まりというのがお決まりです。それこそ、まさに世代を超えて富を蓄積してきた富裕層の思う壺であり、保守の巻き返しが起こります。今般広がるピンク・タイドが、安定的な経済運営をいかに実現するかという点が注目されますが、同時に、しぶとい吸血鬼とどう向き合うのかということも大きな課題だと思います。また、南米保守層の後ろ盾として機能してきた米国の影響力が低下し、代って中国が存在感を高めています。中国が富裕層とどう付き合うのかが注目されます。伝統的に、中南米はアメリカの裏庭と言われてきました。今は、まだ淡いピンクだとしても、今後、一層チャイナ・レッドに染まっていけば、裏庭で火災が発生することも懸念されます。(写真出典:en.wikipedia.org)

2023年10月1日日曜日

戊辰その後

柴五郎陸軍大将
戊辰戦争の際、薩長新政府は、奥州越列藩同盟を賊軍、朝敵と呼びます。しかし、列藩同盟が、天皇に弓を引いたことなどありません。列藩同盟が求めたのは、苛烈に過ぎる会津藩・庄内藩への処分を免ずることでした。しかし、260年の宿敵である徳川打倒に燃える薩長にとって、会津松平は幕府そのものであり、これを拒絶します。列藩同盟は、筋を通さぬ”君側の奸”薩長を討つとして立つことになります。戊辰戦争に理はありません。いわば武家同士の私闘です。列藩同盟は、圧倒的な新政府軍の兵力に屈したわけですが、薩長による”官軍・賊軍”という情報操作に負けた面も大きいと言えます。実に効果的だった賊軍というレッテルは、戊辰戦争が終わっても、大きな影を落とすことになります。

列藩同盟各藩の城郭は、その必要がなかったにも関わらず、全て焼き払われます。革命政権が最も恐れるのは革命です。関ヶ原以来の宿怨を晴らした薩長は、宿怨の怖さを十分に知っていたと言えます。各藩の象徴である城を破壊し、団結の芽を摘んだわけです。会津藩は、斗南藩として辺境の下北半島へ移封されます。さらに、新政府は、廃藩置県で、一藩一県を徹底的に回避し、団結力を削ぎます。また、列藩同盟出身者は、行政に携わることが許されませんでした。江戸期の泰平を通じて、武士は官僚化していました。明治の世になり、彼らにできる仕事は行政だけだったと言っても過言ではないと思います。その道を閉ざされた”賊軍”出身者は、行政の周辺部である軍人か教育者を目指すしかなかったと言われます。

”賊軍”藩士たちは、汚名を晴らすべく各分野で活躍し、頭角を現わしていきます。平民宰相と呼ばれた南部藩出身の原敬、白虎隊士だった東大総長・山川健次郎、南部藩出身の国際連盟事務総長・新渡戸稲造、仙台藩出身の大蔵大臣・総理大臣・高橋是清、会津出身の野口英世、仙台藩出身の満鉄総裁・後藤新平、南部藩出身の東洋学者・内藤湖南等々、各分野に多くの著名人がいます。しかし、最も特徴的だったと思われるのが軍人です。帝国陸軍は長州、海軍は薩摩が牛耳っていました。軍政は別としても、戦場は実力主義の世界であり、軍功があれば昇進します。台湾出兵、江華島事件、西南の役、乙未戦争、義和団事件、日清戦争、日露戦争と、明治の世は軍人が活躍する場に事欠きませんでした。

会津出身の角田秀松海軍中将、柴五郎陸軍大将、仙台藩の松川敏胤陸軍大将、あるいは同じ賊軍であった伊予松山藩の秋山兄弟もよく知られています。昭和の軍国主義の時代になると、陸軍では、板垣征四郎、石原莞爾、東條英機、今村均、畑俊六、小磯国昭、海軍では、山本五十六、米内光政、斎藤実、及川古志郎、井上成美、南雲忠一等々、”賊軍”出身者は枚挙に暇がありません。日本を泥沼の戦争と敗戦に導いたのは、”賊軍”出身の軍人たちだった、という言い方があります。さすがに、それは言い過ぎだと思います。賊軍の汚名をそそぐべく、人一倍の努力を重ね、階級を駆け上った人たちです。逆に言えば、そのような言いがかりがあるほど、”賊軍”出身者が軍の中枢を占めていたということなのでしょう。

もし、日本が太平洋戦争に負けることなく、軍部が維持されたとすれば、“賊軍”出身者たちが薩長を軍から駆逐していたかも知れません。強い力が急激に加われば、必ず反作用が起きます。実高200万石と言われた西国の雄・毛利家は、関ヶ原の合戦後、36万石まで減封され、萩に押し込められました。その怨念は、260年間熟成され、幕末に爆発するわけですが、それだけに奥州越列藩同盟に対する処分も厳しかったと言えます。そして、その苛烈さが、再び”賊軍”の怨念を生むわけです。力による支配を基本原則とするがゆえに、武家の世界では、作用・反作用の法則が、延々と繰り返されるものだったのでしょう。(写真出典:mainichi.jp)

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