2023年10月31日火曜日

寮歌

盛岡一高応援団
小学校、中学校、高校の校歌は、一切、思い出せません。体が記憶しているということもあるので、誰かが歌えば、一緒に歌えるのかも知れません。一方、大学の寮歌「都ぞ弥生」は、今でも歌えます。一番だけなら、歌詞もそらんじています。忘れていない理由は簡単です。在学中はもちろんのこと、卒業後も歌う機会がしばしばあったからです。大学OBが集まる宴会では、例え少人数であっても、会の最後には肩を組んで歌っていました。最も正しい「都ぞ弥生」は、太鼓とともに、「吾等(われら)が三年(みとせ)を契る絢爛のその饗宴(うたげ)は、げに過ぎ易し」で始まる前口上に続き「 明治45年度寮歌、横山芳介君作歌、赤木顕次君作曲、都ぞ弥生、アイン、ツヴァイ、ドライ」と掛け声がかかり、歌い出されます。

都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴遊の筵 尽きせぬ奢に濃き紅や その春暮ては移らふ色の  夢こそ一時青き繁みに 燃えなん我胸想ひを載せて 星影冴かに光れる北を 人の世の 清き国ぞとあこがれぬ

慶応の三田会、早稲田の稲門会はじめ、多くの大学が立派な同窓会組織を持っています。北海道大学にもエルム会という同窓会はありますが、組織的にはあっさりとしたものです。ただ、北大OBは、「都ぞ弥生」を歌うことで、いつでも、どこでも一つになることができます。

寮歌は、1892年、旧制第一高等学校(現東京大学)に始まるとされます。1890年、寮の自治が認められると、毎年、自治寮誕生を記念し、寮歌が作られることになります。その風習は、他の大学にも広がっていきました。明治期には、一高の「嗚呼玉杯に花うけて」など、世間でヒットした寮歌も生まれます。他にもよく知られている学生歌がありますが、早稲田の「都の西北」は校歌、慶応の「若き血潮」は応援歌、「琵琶湖周遊の歌」は三高ボート部の歌です。寮歌としては、一高の「嗚呼玉杯」はじめ、三高(現京都大学)の「紅燃ゆる丘の花」、八高(現名古屋大学)の「伊吹おろし」等があります。旧帝国大学系には校歌が存在せず、寮歌が代替している面もあります。

学生寮の自治化が寮歌誕生の背景にあるわけですが、文化的には「バンカラ」という気風と密接不可分な関係にあると思います。バンカラとは、“ハイカラ”へのアンチテーゼとして、古風な気骨を示すために生まれました。弊衣破帽、つまり貧しい服に破れた帽子と、粗野さ、むさ苦しさを強調した服装や言動を特徴とします。明治末期に、一高から始まったとされます。”ハイカラ”とは、西洋風の服装や生活スタイルを揶揄する言葉として、明治後期に生まれました。ワイシャツの襟に付けたハイ・カラーが語源とされます。当世風の浮ついた流行を批判する気持ちは、今も変わらないと思います。ただ、バンカラには、当時、数も少なかった大学生のエリート意識が、強く反映されているものと思います。

1950年の学制改革によって旧制高校が姿を消すと、寮歌の歴史も終わります。ただ、北大の自治寮である恵迪寮だけは作り続けているようです。バンカラも、すでに死語になって久しいものと思います。私が学生の頃ですら、その背後に感じられるエリート意識も含めて、すでに時代錯誤的でした。ただ、一部、伝統を重んじる応援団などには、その気風が残っているようです。国の近代化のために一身を捧げんとした明治期、軍国主義の反動から左翼闘争に明け暮れた戦後、そして目的を失いモラトリアム世代と呼ばれた昭和後期と、学生の気質は、時代とともに大きく変わってきました。失われた30年間と呼ばれる今の時代の学生気質は、どう表現すべきなのでしょうか。少なくとも、寮歌の世界観とは大いに異なるとは思いますが。(写真出典:mainichi.jp)

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