2023年10月30日月曜日

「平原のモーセ」

監督: チャン・ダーレイ   制作総指揮:ディアオ・イーナン  2023年中国

☆☆☆☆ー

本作は、TV用に制作されたミニ・シリーズですが、東京国際映画祭で全6話が一挙上映されました。休憩なしの432分ノン・ストップ上映でした。ただ、長すぎると感じることもなく、ポップ・コーンとコーラだけでがんばりました。中国のミニ・シリーズですから、NetflixやAmazonで配信されることもないと思い、観に行ったわけですが、なんと上映当日から配信が始まりました。中国で本作を配信した会社が、日本でも直接配信を始めたのです。知っていれば、ネットで休憩しながら楽んだのにとがっかりしました。ただ、映画館で一気に観たことで、その世界観を十分に堪能することができました。監督も才能を感じさせますが、なんと言ってもディアオ・イーナンらしい東北ルネサンスの世界が広がっていた作品だと思います。

原作は、やはり東北部出身のシュアン・シュエタオの短編集「平原のモーセ」です。物語は、内モンゴル自治区で起きた警官殺しに関するミステリを軸に展開します。しかし、主題は、1980頃から現代に至るまで政治に翻弄されてきた東北部の大衆の姿なのだろうと思います。ディアオ・イーナンが、ベルリンで金熊賞を受賞した「薄氷の殺人」がそうであったように、ミステリ仕立ては、当局の検閲をかいくぐるための手立てだと思われます。漢民族にとって東北部は、モンゴル族、満州族、朝鮮族、そして日本といった異民族が覇権を争う貧しい辺境の地でした。中華人民共和国が誕生すると、東北部は、豊富な鉱物資源を背景に工業化が進められます。大規模な国営企業と近代的な社宅が林立する都市が生まれ、共産主義の巨大な実験場、あるいはプロパガンダのショーケースになりました。

国営工場では、鉄飯椀という言葉が生まれるほど、安定した雇用が保たれていました。しかし、文化大革命の嵐が過ぎ、改革開放の時代を迎えると、歯車は逆回転を始めます。非効率的な国営工場は、民間企業に駆逐されていき、東北部は深刻で慢性的な不況へと陥ります。共産党の庇護のもと栄えた東北部では、改革開放体制への順応が大幅に遅れます。かつて共産主義の成果ともてはやされた工場、社宅、遊戯施設などは、廃墟化し、放置されます。東北部の大衆は、改革開放に沸く沿岸部とは対象的に、時代の変化に戸惑い、経済的辛酸をなめることになります。国策によって持ち上げられ、国策によってどん底に突き落とされた東北部の大衆は、釈然としないものを抱えつつ時代を生きてきたと言えます。

主知的で、理想主義的な主人公の母親は、家事や育児に興味がありません。母親は、古い中国共産党を象徴しているものと思われます。かつての紅衛兵であり、金の亡者として世間を渡る父親は、改革開放後の中国政府や中国社会の象徴です。主人公は、父にも母にも違和感を覚えながら反抗的に育ちます。成績もよく、控えめな性格の近所の少女は、主人公が唯一心を寄せる存在であり、人間が本来持つ純真さを現わしています。少女の父親は、国営企業を解雇され、殺人犯に間違えられ、もみあう中で誤って警官を殺してしまいます。その際、交通事故にあった少女は片足を失います。少女と父は姿を隠さざるを得ませんでした。純真さの象徴である少女は、時代の荒波にもまれ、日陰の人生を歩むことになります。

自然主義的タッチで描かれる映像には、劇伴音楽もほぼなく、素人役者も多く使われています。内モンゴル自治区の首都であるフフホト市で撮影されたようですが、東北部の厳しい風土、寂れた街の様子がよく伝わります。餃子や焼売が頻繁に登場するのも、東北部を象徴しているのでしょう。きっちりと同じテンポを刻む展開には、監督の才能を感じます。TVのミニ・シリーズにはそぐわないほど映画的な作品ですが、映画にすれば、かなり長時間の映画にせざるを得ず、ミニ・シリーズが選択されたのかも知れません。いずれにしても長い映画でした。空腹を抱えながら映画館を出て、まず向かった先は中華料理屋でした。もちろん、焼売を食べるためです。(写真出典:filmarks.com)

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