蜂須賀家は、稲田家を洲本城代として淡路島を任せます。稲田家は、世間から事実上の大名として認められていたようです。しかし、その関係は、時代とともに変質していきます。幕末に至り、公武合体派に与する蜂須賀家と尊皇攘夷を唱える稲田家は、反目を露わにします。明治政府は新たな身分制度を施行し、大名クラスは華族、武士は士族、武士の家来は卒族となります。家臣団の構成が藩によって異なったため、政府は、その格付けを各藩に委ねます。徳島藩では、蜂須賀家家臣を士族とする一方、稲田家家臣を卒族とします。この判断は合理的な面もありますが、実態的ではありません。当然、稲田家は、これに猛反発し、藩としての独立も画策します。これを良しとしない蜂須賀家の家臣が、暴挙に及んだわけです。
中央集権化を目指す新政府は、これを機に蜂須賀家を取り潰すべく、徹底的な捜査を行います。しかし、その時点では新政府の力は全国に及んでおらず、藩知事を処分することで、第二、第三の奥州越列藩同盟を誘発する恐れがありました。結果、家臣だけが、多数、打ち首(後に切腹へ変更)、遠島、禁固、謹慎に処されます。稲田家側では、淡路島が兵庫県に編入され、家臣は兵庫県の士族とされます。同時に、稲田家は、北海道の静内・色丹へ移封され、その開拓を命じられます。まだ力のない新政府は、建武式目以来、武家社会の大原則とされてきた喧嘩両成敗に沿うようにバランスを取ったわけです。いかに士族身分を得たとは言え、北海道の原野を開拓するなど、実に過酷な処分だったと思います。
戊辰戦争の際、会津藩が最果ての地である下北半島に、斗南藩として移封されたことを思い起こさせます。庚午事変も、権力移行の過渡期に起きた悲劇と言えます。庚午事変は、船山馨の「お登勢」、池澤夏樹の「静かな大地」、あるいは行定勲監督の映画「北の零年」でも描かれています。十数年前、稲田家家臣の末裔の方と知り合い、お話しを伺う機会がありました。聞けば、池澤夏樹も、岡本太郎も、池部良も、稲田家家臣団の末裔であり、他にも多くの末裔たちが政財界で活躍しているとのことでした。厳しい開拓を成し得た人々の子孫も逞しく、かつ勉学にも優れていたのでしょう。家臣団という強固な組織を維持しつつ、かつ怨念を秘めながら開拓にあたったことが、成功につながったように思えます。
実は、私の母親も静内の生まれです。ただ、稲田家家臣団とは一切関係なく、祖父が、教員として、一時、静内に赴任していたのだそうです。祖父は、戊辰戦争で賊軍とされた南部藩士の家に生まれたので、教員くらいしか進路は無かったと聞きます。母方の祖母は、佐賀鍋島藩の屯田兵の娘でした。北海道開拓には、激変した世の中で職を失った多くの武士たちが貢献していたと言えそうです。静内は、国内最大の競走馬の産地です。その歴史にも稲田家家臣団が関わっているのかと思いきや、どうも違うようです。1872年(明治5年)に、この地を視察した北海道開拓使長官・黒田清隆が、野生馬が群をなす様を見て、牧場を開いたことがはじまりだったようです。ちなみに、静内は、17世紀に起きた最大のアイヌ蜂起を率いたシャクシャインの本拠地としても知られます。(写真:静内二十間道路 出典:shinhidaka-hokkaido.jp)