2023年10月11日水曜日

シャクシャインの戦い

和人に対するアイヌの蜂起は数多くあったのでしょうが、特に良く知られているのは、1457年のコシャマインの戦い、1669年のシャクシャインの戦い、1789年のクナシリ・メナシの戦いです。トリガーは異なるにしても、基本的には、和人の蝦夷地進出によって圧迫されたアイヌの反撥という構図は同じです。それぞれの戦いには、和人による蝦夷地侵略の経過が反映されているとも言えます。和人とアイヌの交流は、縄文時代から行われていたようです。弥生時代になっても、稲作に不向きなほど寒冷な北東北や蝦夷地では、縄文時代の営みが継続されます。紀元7世紀頃まで続いた蝦夷地の続縄文文化では、和人との交流によってもたらされた土器、鉄器、あるいは農耕の跡も確認されています。

和人の本格的な蝦夷地進出は、鎌倉時代、津軽半島の十三湊を拠点に栄えた安東氏によって始まります。安倍一族の末裔ともされる安東氏は、鎌倉中期、蝦夷管領という地位を利用して、北東北一円を支配下に置き、アイヌや大陸との交易で財を成します。その後、安東氏は分裂します。室町期、台頭した南部氏に圧迫された津軽の安東氏は渡島半島へと渡ります。安東氏は、渡島半島南岸に道南十二館を築くなどして基盤を固めます。この頃、蝦夷地へ渡る和人が増え、アイヌとの交易も盛んになります。そこで発生したのがコシャマインの戦いでした。注文した小刀の品質と価格を巡って鍛冶屋と争ったアイヌが殺害されます。これに怒った渡島半島東部の首長コシャマインの呼びかけによって、アイヌは団結し和人を攻撃します。

戦闘はかなり広範囲に広がり、余市付近にまで達していたようです。そこまで和人が進出していたわけです。コシャマインは、十二館のうち10館まで攻め落とします。安東氏は、前年、本州へ戻っており、権力の空白がねらわれたとも言われます。和人側の中心は守護の蠣崎氏でしたが、その客分であった武田信広が敗残兵を集めて戦い、自らの弓でコシャマインを倒します。リーダーを失ったアイヌが総崩れとなる一方、武田信広は和人たちの中心となり、後の松前藩の始祖となります。米作をしない松前藩は、家臣に領地ではなく商場を割り当て、アイヌとの交易権を与えます。独占的交易権を守るために、松前藩は自由な交易や通行を制限します。交易相手を制限されたアイヌは不利な条件での取引を押しつけられます。

このような状況下、静内を境に東のアイヌと西のアイヌが漁猟権を巡って争います。西のアイヌは松前藩に支援を依頼しますが拒否されます。その使者が、疱瘡に感染して死ぬと、松前藩によって毒殺されたという噂が広がります。東のアイヌの首長シャクシャインの呼びかけによってアイヌは結集し、和人を襲い多くの犠牲者を出しました。劣勢に陥った松前藩は幕府に支援要請します。幕府は、津軽・南部・秋田三藩に出兵を命じます。援軍を得た松前藩は反攻に転じ、追い詰められたシャクシャインは和睦に応じました。和睦の酒宴の最中、シャクシャインはじめ首長たちはだまし討ちにあって命を落とします。以降、松前藩は、渡島半島の和人地に限られていた領地を各地に拡大し、アイヌを隷属させていきます。

クナシリ・メナシの戦いは、道東の商場を任された商人の横暴に対するアイヌの暴動でした。これを鎮圧した松前藩は、商人も処分しています。さらに、ロシアの南下に脅威を感じる幕府は、道東の商場を直轄化します。蝦夷地と琉球の日本への取り込みは、国内統一ではなく植民地化そのものです。15世紀に中央集権化された琉球王国と違い、蝦夷地は部族社会のままでした。3世紀の倭国も部族社会でしたが、大乱を経て部族連合が形成され、卑弥呼が率います。それを継いだヤマト王権は、外圧を背景に中央集権化を進めます。外圧に対するコシャマインやシャクシャインの戦いは、部族連合国家へつながる可能性があったのでしょう。農耕は人口増をもたらします。農耕を行わないアイヌの人口が少なかったことは、独立という観点からは致命的だったのでしょう。かつて、弥生文化を前に縄文文化がたどった道でもあります。(写真:シャクシャイン像 出典:ja.wipipedia.org)

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