2023年10月1日日曜日

戊辰その後

柴五郎陸軍大将
戊辰戦争の際、薩長新政府は、奥州越列藩同盟を賊軍、朝敵と呼びます。しかし、列藩同盟が、天皇に弓を引いたことなどありません。列藩同盟が求めたのは、苛烈に過ぎる会津藩・庄内藩への処分を免ずることでした。しかし、260年の宿敵である徳川打倒に燃える薩長にとって、会津松平は幕府そのものであり、これを拒絶します。列藩同盟は、筋を通さぬ”君側の奸”薩長を討つとして立つことになります。戊辰戦争に理はありません。いわば武家同士の私闘です。列藩同盟は、圧倒的な新政府軍の兵力に屈したわけですが、薩長による”官軍・賊軍”という情報操作に負けた面も大きいと言えます。実に効果的だった賊軍というレッテルは、戊辰戦争が終わっても、大きな影を落とすことになります。

列藩同盟各藩の城郭は、その必要がなかったにも関わらず、全て焼き払われます。革命政権が最も恐れるのは革命です。関ヶ原以来の宿怨を晴らした薩長は、宿怨の怖さを十分に知っていたと言えます。各藩の象徴である城を破壊し、団結の芽を摘んだわけです。会津藩は、斗南藩として辺境の下北半島へ移封されます。さらに、新政府は、廃藩置県で、一藩一県を徹底的に回避し、団結力を削ぎます。また、列藩同盟出身者は、行政に携わることが許されませんでした。江戸期の泰平を通じて、武士は官僚化していました。明治の世になり、彼らにできる仕事は行政だけだったと言っても過言ではないと思います。その道を閉ざされた”賊軍”出身者は、行政の周辺部である軍人か教育者を目指すしかなかったと言われます。

”賊軍”藩士たちは、汚名を晴らすべく各分野で活躍し、頭角を現わしていきます。平民宰相と呼ばれた南部藩出身の原敬、白虎隊士だった東大総長・山川健次郎、南部藩出身の国際連盟事務総長・新渡戸稲造、仙台藩出身の大蔵大臣・総理大臣・高橋是清、会津出身の野口英世、仙台藩出身の満鉄総裁・後藤新平、南部藩出身の東洋学者・内藤湖南等々、各分野に多くの著名人がいます。しかし、最も特徴的だったと思われるのが軍人です。帝国陸軍は長州、海軍は薩摩が牛耳っていました。軍政は別としても、戦場は実力主義の世界であり、軍功があれば昇進します。台湾出兵、江華島事件、西南の役、乙未戦争、義和団事件、日清戦争、日露戦争と、明治の世は軍人が活躍する場に事欠きませんでした。

会津出身の角田秀松海軍中将、柴五郎陸軍大将、仙台藩の松川敏胤陸軍大将、あるいは同じ賊軍であった伊予松山藩の秋山兄弟もよく知られています。昭和の軍国主義の時代になると、陸軍では、板垣征四郎、石原莞爾、東條英機、今村均、畑俊六、小磯国昭、海軍では、山本五十六、米内光政、斎藤実、及川古志郎、井上成美、南雲忠一等々、”賊軍”出身者は枚挙に暇がありません。日本を泥沼の戦争と敗戦に導いたのは、”賊軍”出身の軍人たちだった、という言い方があります。さすがに、それは言い過ぎだと思います。賊軍の汚名をそそぐべく、人一倍の努力を重ね、階級を駆け上った人たちです。逆に言えば、そのような言いがかりがあるほど、”賊軍”出身者が軍の中枢を占めていたということなのでしょう。

もし、日本が太平洋戦争に負けることなく、軍部が維持されたとすれば、“賊軍”出身者たちが薩長を軍から駆逐していたかも知れません。強い力が急激に加われば、必ず反作用が起きます。実高200万石と言われた西国の雄・毛利家は、関ヶ原の合戦後、36万石まで減封され、萩に押し込められました。その怨念は、260年間熟成され、幕末に爆発するわけですが、それだけに奥州越列藩同盟に対する処分も厳しかったと言えます。そして、その苛烈さが、再び”賊軍”の怨念を生むわけです。力による支配を基本原則とするがゆえに、武家の世界では、作用・反作用の法則が、延々と繰り返されるものだったのでしょう。(写真出典:mainichi.jp)

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