2023年9月29日金曜日

「ヒンターラント」

監督:シュテファン・ルツォヴィツキー  2021年オーストリア・ルクセンブルグ

☆☆☆ー

映像は「シン・シティ」を思い起こさせますが、傾いたり、ゆがんだりした街や建物を見ていて思い浮かんだ言葉は”ドイツ表現主義”です。1920年代のベルリンを中心に花開いた前衛芸術運動です。19世紀に印象派が開いた主観的表現を、コンセプトの表現という20世紀のアートへと展開させました。ゆがんだ街は、第一次大戦直後の帰還兵の困惑、ウィーンの混乱が反映された主人公の心象風景なのでしょう。背景は、CGではなく、ブルー・スクリーンとVFXで構成されているようです。それが、またドイツ表現主義的な印象を強めているのでしょう。戦後の混乱や困惑、帝政の崩壊に、ソヴィエトの捕虜収容所というモティーフを加え、猟奇的殺人というストーリーが展開します。実に魅力的で興味深い設定です。

ただ、残念ながら、凡庸な脚本が、モティーフをこなし切れておらず、意欲的なVFXの背景の威力も発揮しきれていません。素材の面白さに力が入りすぎ、やや収拾がつかなくなった感があるように思います。一定のムードや緊張感の維持には、監督の力量の高さを感じさせるだけに、残念な結果だったと思います。監督は、オーストリア出身で、CMやミュージック・ビデオで実績を積み、映画に進出したようです。2007年には「ヒトラーの贋札」でアカデミー外国語映画賞を獲得しています。ナチスが英国ポンドの贋札づくりを行ったベルンハルト作戦に基づく映画でした。コメディですが「エニグマ奪還」なる映画も撮っていますから、時代への執着があるのかもしれません。

ソヴィエトでの捕虜収容所というモティーフは興味深いものがあります。通常、戦争捕虜は、後方攪乱の意味から脱走や騒動を企てます。そのための組織化ならば、理解できるところです。ただ、管理側に与して保身を図る捕虜組織がうまれると、捕虜の間に軋轢や怨嗟が生まれます。また、ソヴィエトの場合、赤化教育という問題もあり、各国は帰還兵の扱いに神経を使います。日本のシベリア抑留は、戦争捕虜ではありませんが、同じような問題が起きています。帰国した捕虜たちの多くは、こうした問題を語ろうとしません。極めて異常な状況下で起きた事と諦めているのか、あるいは関係者が多すぎるので発言が憚られたのかも知れません。世界中の捕虜収容所で起きたことの多くは闇の中だと思われます。

オーストリア=ハンガリー帝国は第一世界大戦に敗れ、650年続いたハプスブルク家の時代が終わります。カイザーのいないウィーンは天地がひっくり返った状態となり、帰還兵たちはカイザーのために戦った兵士として白い眼で見られます。敗戦後の日本も似たような状況だったのでしょうが、天皇は残り、帰還兵も白眼視されることはありませんでした。とかく敗戦国の帰還兵は苦労するものなのでしょうが、第一世界大戦後のオーストリア兵の状況はとりわけ厳しいものだったと思います。厳しかったのは帰還兵だけではありませんでした。ハプスブルク王朝が滅亡しなければ、中欧の諸国はこれほど永い苦難の歴史を経験しなくともすんだであろう、とはチャーチルの言葉です。

いずれにしても、興味深いモティーフが多く、個々のモティーフを深掘りした映画が見たくなります。さて、肝心な脚本ですが、着想は悪くないのですが、ミステリの作り方が分かっていないのではないか、と思わせるほど展開が良くないわけです。例えば、判じ物のバラしが早いので、もう一段、二段のどんでん返しがあるものと思っていました。あるにはあったのですが、素人にも予測出来るような代物でがっかりしました。監督や脚本家が再度ミステリを作ることがあるとすれば、是非、ヒッチコック映画を研究してからにした方がいいと思います。(写真出典:imdb.com)

マクア渓谷