2023年10月23日月曜日

中世の終わり

ジャック・カロ「戦争の悲惨」
日本の歴史の分水嶺とも言われる応仁の乱ですが、とても分かりにくい面があります。背景、きっかけ、経過などが複雑だったとしても、AとBが戦い、Aが勝ちましたというシンプルな構図であれば分かりやすいものです。応仁の乱では、そこが複雑なわけです。欧州の三十年戦争も、応仁の乱と同様、歴史の分水嶺であり、かつ非常に分かりにくい戦争です。最終にして最大の宗教戦争と言われる三十年戦争は、実態的には13もの戦争を一括りにしています。長期に渡ったこと、プレイヤーが多すぎること、対立構図が重層的であることが、三十年戦争を分かりにくくしています。1648年、包括的にウェストファリア講和条約をもって終結したことから、一括に三十年戦争と呼ばれるのでしょう。

ウェストファリア条約によって、プロテスタントが公認され、神聖ローマ帝国が事実上崩壊し、300近いドイツの領邦国家が承認され、オランダがスペインから独立しました。ウェストファリア条約は、主権国家、国際法、勢力均衡で成り立つ欧州主権国家体制の始まりとされます。主権国家とは、主権・領土・国民の三要素を持つ国家体制とされます。中世までの欧州には国家という概念がありませんでした。土地を所有する領主たちは、有力領主や教皇と主従契約を結び、土地を譲ったうえで借り受け、所有地を守ってもらいました。いわゆる欧州式の封建制度です。封建制度を支えていたのは農奴の存在でした。しかし、貨幣経済の浸透、ペストによる働き手の減少が、農奴の立場を強くし、農奴は減っていきます。

さらに、小氷期による飢饉、民衆の暴動、地図上の発見がもたらした経済の拡大と都市化の進行、オスマン・トルコの脅威等々が封建制を終焉へと導きます。そこに、宗教改革やルネサンスが起き、近世への移行が始まるわけです。なお、近年、ルネサンスを中世の終わりとする説も有力と聞きます。主権国家誕生のきっかけは、15世紀末から半世紀に渡って戦われたイタリア戦争にあるとされます。イタリア戦争は、イタリアでの覇権を巡る神聖ローマ帝国のハプスブルク家とフランスのヴァロア朝の戦いです。当時の戦場における主力は傭兵でしたが、ヴァロア朝は直轄軍を組織し、高度な戦術を展開します。また、火砲の実用化に伴い、戦闘は騎士ではなく歩兵が中心となっていきます。いわゆる軍事革命です。

大砲は、14世紀の中国に生まれ、15世紀には欧州の戦場にも登場します。それを小型化して鉄砲が誕生します。鉄砲を持った歩兵団を抱えるにはコストがかかります。そこで安定的な税収が必要となり、その前提となる領土と国民の線引きと抱え込みが起こります。これが主権国家を生むことになります。主権国家は、絶対王政に始まりますが、その後、革命等によって市民国家が誕生していきます。つまり、火砲が主権国家を生み出したと言ってもいいように思います。応仁の乱でも、軍事革命が起きています。都の市中での小競合いの中から足軽が登場します。その後、戦闘の主体は、騎乗した武士から足軽に変わっていくわけです。応仁の乱に始まる下剋上の時代は、足軽から身を起こし天下を取った秀吉を生みます。秀吉による太閤検地と石高制が、従来の荘園制を終わらせ、日本は近世へと入っていきます。

「封建的」という言葉はよく使われます。上下関係を重視し、個人の自由や権利を軽んじる、あるいは家父長制的、専制的、閉鎖的といった意味で使われます。しかし、欧州の封建制度は、あくまでも契約関係に基づく主従関係であり、日本の場合も、平安末期に関東武士の間で生まれた“御恩と奉公”という双方向的な関係が基本にあります。決して専制的、片務的なものではなかったようです。江戸幕府は、幕藩体制を布き、中央主権化を実現しますが、秩序を維持するために、儒教を活用し、武家諸法度や身分制度等によって社会をコントロールします。封建的という言葉は、この時期の秩序維持のシステムに由来するのだと思います。ただ、それとて、貨幣経済の浸透等によって徐々に崩れて行き、幕末を迎えることになります。貨幣と火砲が中世を終わらせたと言えるのかも知れません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

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