2023年10月21日土曜日

いつもの

荒木町の小料理屋
昔は、店の常連客であることを誇示し、自己満足に浸る人たちがいたものです。典型的には「いつもの」というオーダーです。常連客も、「いつもの」オーダーも否定するものではありません。ただ、常連ぶりでマウンティングしたがる人たちの浅薄さにはあきれました。個人的には、よく行く店があっても、そんな常連客にはなりたくないと思います。そもそも自慢げな態度は見苦しいと思います。加えて、常連になると、その店に行かなければならない、というプレッシャーがかかり、塩梅が悪いものです。行く店も、注文する品も、制約なしに、好きに選びたいと思います。店の人と雑談することは嫌いではありませんが、名前で呼ばれるようになったら、しばらくその店には行かないようにしていました。

会議でローマに一週間滞在したおり、"do as the Romans do"というわけで、毎朝、同じカフェへ行き、ローマ式にペイストリーとカフェ・ラテの朝食をとりました。2日間、たまたま同じペイストリーを注文したら、3日目の朝には、おばさんが、だまって同じペイストリーとカフェ・ラテを持ってきました。図らずも「いつもの」になったわけです。短期滞在だったこともありますが、これは店側の配慮なので、許容できるケースです。店にとっては、常連客というリピーターを確保することは、経営を安定させる上で重要です。その際、味はもとよりですが、居心地の良さ、いわゆるホスピタリティ面も大きな要素となります。店主や女将の性格も味のうち、というわけです。それは、何もにぎやかな気さくさばかりを意味しません。

基本的は、客への気配り・気遣いがリピーターを生むのだと思います。贔屓にしてくれる客に、さりげない心配りを見せる店が、一番心地良いと思います。居酒屋であろうが、高級レストランであろうが同じです。俺は常連だと声高に言う客も、常連に気安くしすぎる店も、如何なものかと思います。また、客をよく叱る頑固親父や女将というパターンもあります。私も、30年通っているのに、お愛想の一つもないどころか、いつも不機嫌な親父の店を知っていました。それは、意図的なものではなく、性分の問題であり、いわゆる職人気質なのでしょう。ただ、信じがたいと思ったのは、頑固親父に叱られたことを自慢げに話す客の存在です。「いつもの」オーダーと逆パターンに見えますが、本質的には同じです。

過ぎた常連ぶりは、甘えの構図であり、場合によっては他の客を不愉快にさせることもあります。四谷の荒木町界隈は、小さな店がひしめく街です。常連以外は入りにくい店が並びます。ある小料理屋へ、常連だという人に連れて行かれたことがあります。暖簾をくぐると、割烹着姿の女将が「お帰りなさい」と言って出迎えます。家庭のようにくつろいでもらいたいという思いで、常連だけではなく、フリの客にもそう言うのだそうです。肴の味もよく、分け隔てのない、でしゃばり過ぎない気遣いが心地良い店でした。一流の店とは、こういうものなのでしょう。客と飲食店との関係の基本は、煎じ詰めれば味につきます。味を評価し、味に自信があれば、味以外のことは、味を邪魔しない程よさが大事なのだと思います。

1970年代に大ヒットした倉本聰のTVシリーズ「前略おふくろ様」のワン・シーンだったと思うのですが、老舗料亭”分田上”出身の板前が任された小料理屋の場面が記憶に残っています。開店と同時に、ごま塩頭の老人が入ってきて、酒と肴を注文します。カウンターで静かに飲んでいたその客は、帰りしな、ぼそりと「分田上の味も落ちたもんだね」と言います。常連ならではの一言は、深川風で実にカッコいいと思ったものです。正直なところ、この言葉を言ってみたくなる店もあります。しかし、本当の常連は、そんなことは言わないのだろうとも思います。何も言わずに、ただ去って行くのみだろうと思います。ひょっとすると、ごま塩頭の老人は、「いつもの」と言いたがる類いの客だったのかも知れません。(写真出典:arakicho.com)

マクア渓谷