2021年4月14日水曜日

常在戦場

河井継之助
「常在戦場」は、越後長岡藩の質実剛健の気風をよく表しています。藩内では、戦場の辛苦を忘れず、今日の安息に感謝する気持ちで忠勤せよ、と教えられていたようです。もとは藩主牧野家の家訓です。牧野家が三河牧野氏の一門であったことから、三河武士の心意気を表す言葉とも言われます。越後長岡藩は、7万4千石という小藩ながら、新田開発、新潟湊の発展によって、江戸末期の実高は14万石を超えていたようです。ただ、幕末も近づくと、新潟湊が天領になり、諸費用も嵩み、逼迫した財政の立直しが必要となります。郡奉行として改革を命じられたのは河井継之助でした。河井家は、新参の中堅家臣であり、継之助の出世は破格だったようです。

活発で利発、何よりも熱い心を持つ青年は、藩主の目にとまり、2度、江戸に遊学し、見聞を広げます。1度目は黒船来航を目の当たりにし、2度目には、西国へも赴き、備中聖人と呼ばれた山田方谷に弟子入りしています。継之助の開明的でプラグマティックなスタンスは、江戸遊学で培われたのでしょう。藩政改革にあたり、継之助は、兵制の近代化、藩学の朱子学への統一、遊郭の廃止等を打ち出しますが、最も有名なのは、家禄の見直しです。千石の士も百石の士も、君に報ずるところは首1つ、として、上を削り、下を厚くすることで中央集権体制の強化をねらったと言われます。郡奉行に就いたのは1865年のことですが、その後、小諸牧野家のお家騒動を解決するなどの活躍もあり、1867年には、家老格の家柄ではない者としては最高位の中老となります。

この年10月、ついに大政奉還が行われます。一報を受けた藩主と継之助は、急ぎ上洛し、朝廷に建言書を提出し、公武斡旋を試みています。その際、継之助が目指したのは、内戦回避と言われますが、基本的には藩と領民の安泰だったのだろうと思います。翌年正月早々、鳥羽・伏見の戦いが勃発。将軍慶喜の戦線離脱直後、継之助は、江戸で、南北戦争後流出した米国の武器を大量に購入します。当時、日本に3門しかなかったガトリング砲も2門入手しています。武器を大量調達したことから、継之助が目指したのは武装中立だったとも言われます。ただ、継之助が唱えた”獨立特行”は、武装中立のことではないようです。継之助は、早くから硬直化した江戸幕府に先はないと見ており、一方、薩長の強引な武力倒幕にも批判的でした。イメージしていたのは各藩による連合国家だったと言われます。

会津討伐に向け進軍する新政府軍と、長岡近郊の小千谷で会談に臨んだ継之助は、幕府・会津との停戦を提案します。しかし、新政府軍はこれを拒否。継之助から戊辰戦争の大義を問われた軍監岩村精一郎は、これに答えられず、交渉は決裂します。徳川に成り代わらんとする薩長の魂胆は見え透いており、痛い所を突かれたわけです。こうして戊辰戦争最大の戦いとなった北越戦争が始まります。3倍を越す兵力の新政府軍に対し、小藩長岡藩はよく戦い、攻防は3か月に及びました。ついに継之助も被弾し、残兵とともに会津を目指します。只見の塩沢村に至った継之助は、死期を悟り、自ら火葬の準備を指示して死んだとされます。その際、付き添った藩士に「これからは実力のある者の時代だ。商人になれ」と福沢諭吉への添書を書いて渡しています。藩士の名は外山脩造。後に阪神電鉄やアサヒビールを創業しました。

東北の多くの城には城郭が残っていません。朝敵とされた奥州越列藩同盟の城は、すべて薩長が破壊しています。しかし、他の同盟各藩の城跡は公園や公官庁になっているのに対し、長岡城跡はJR長岡駅になり、城の再建はおろか、偲ぶことすら出来ません。薩長の長岡藩に対する遺恨は深く、長く深く朝敵の烙印を押されていたわけです。筆頭家老格の家柄ながら継之助をよく補佐した山本帯刀は、北越戦争で戦死、お家断絶とされます。その後、家系断絶は解かれたものの、跡取りがおらず、長岡の人たちは相談のうえ、町で一番優秀な少年を山本家の養子にします。後の海軍大将山本五十六です。山本五十六は、長岡藩の怨念を背負っていたとも言えます。田中角栄の秘書だった早坂茂三は、長岡藩怨念の系譜として、河井継之助、山本五十六、田中角栄の3人を挙げています。見事に常在戦場を地でいった人たちとも言えます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷