2021年4月20日火曜日

日本一の砂丘

猿ヶ森砂丘
本州最北端の下北半島は、平安期から続く日本三大霊場の一つ恐山、あるいは大間のまぐろ等で知られます。ただ、観光地も少なく、アクセスも良いわけはなく、青森県内ですら馴染みの薄いところです。。下北半島について、ほとんどの日本人が知らないと思われることが4つあります。海上自衛隊の五大基地の一つ大湊港があること、原発関連施設が集中する原発センターであること、かつて会津藩の国替先の斗南藩が存在したこと、そして日本一の砂丘があることです。

原発関連施設としては、六ヶ所村に使用済核燃料の再処理工場、ウラン濃縮工場、放射性廃棄物埋設センターがあり、東通村には東北電力の軽水炉、および建設中の東京電力の軽水炉があります。さらに大間には、フルMOX炉の原発が建設中であり、むつ市にも、審査待ちの使用済み核燃料の中間貯蔵施設があります。もともと土壌も気候も耕作地には適さない土地でした。ゆえに1960年代、むつ小川原開発計画が策定され、巨大な石油コンビナートや製鉄所が建設される予定でした。立ち退きや農業や漁業の補償も終わったところで、オイル・ショックが勃発、計画は頓挫します。すでに広大な用地があったため、核燃料サイクル施設等の受け入れが決まり、今に至ります。もちろん、反対運動はありました。しかし、目的は違うものの、用地買収や補償問題が解決済であったことが、特殊な状況を作ったと言えます。

1869年、戊辰戦争に敗れた会津藩領は、明治政府直轄地とされ、会津松平家は、下北半島に国替えとなり、斗南藩と命名されました。斗南とは、南部藩の外という意味だとされますが、南、つまり薩長と斗う(戦う)決意を示すとも言われます。翌年には藩士・領民17,000人が、会津から下北へと移住します。痩せた土壌に、やませと呼ばれる北東の風が強い土地で、移住者たちは、地獄の苦しみを味わいます。薩長による苛烈な会津への報復と言えます。それほど会津の戦力は恐れられていたとも言えます。1871年には、廃藩置県が行われ、斗南藩は青森県に編入されます。それと同時に、移住者の多くは、会津へと帰っていったようです。一部は残留し、日本初の近代的牧場等で成功します。現在のむつ市の方言には、会津弁の影響が残っているとも言われます。

日本で砂丘と言えば、何といっても鳥取砂丘ということになります。しかし、最大の砂丘は、下北半島の太平洋側に連なる猿ヶ森砂丘です。東西2km、南北17kmという広大な砂丘です。ほとんど知られていない理由は、戦後、アメリカ空軍三沢基地の射爆場として接収されていたからです。要は日本人の入れない土地だったわけです。ただし、日曜には訓練がないので、入ることができました。私も、かつて一度だけ入ったことがあります。近隣の農家の人たちが、薬莢拾いをしていました。鉄くずとして売れたわけです。現在は、自衛隊の下北試験場となりましたが、依然として射爆場として使われています。もちろん、今も一般人は立ち入り禁止です。

下北半島は、マサカリの形をしていますが、その刃に当たる陸奥湾沿いにニホンザルが生息しており、「北限のサル」と呼ばれます。私も、奇岩の景勝地・仏が浦で見たことがあります。海藻類を主食にしているという珍しいサルです。それなりに知られている「北限のサル」ですが、多くの人は、ニホンザルの北限生息地だと思っています。それもそのとおりですが、実は、人間以外の霊長類として、世界最北に生息するサル、というのが本当の意味です。下北半島は、人間にとっては厳しい地ゆえ、自然は豊かで、半島全体が国定公園にもなっています。厳しい地ゆえ斗南藩が置かれ、厳しい地ゆえ射爆場となり、厳しい地ゆえ原発半島となっているわけです。(写真出典:travel.star.jp)

マクア渓谷