1957年に毛沢東が発動した大躍進運動は、急激な共産主義化推進と無謀な農工業の増産政策であり、数千万人が餓死するという大惨事となります。これによって毛沢東は実権を失います。1966年、復権をもくろむ毛沢東は、学生で構成される紅衛兵を扇動して文化大革命を発動します。中ソ対立で巻き起こった修正主義批判、世界的潮流であった学生運動と呼応した大衆運動でした。毛沢東は、大躍進運動からの回復に取り組む劉少奇や鄧小平等を走資派と呼び、政権から引きずり下ろすことを目指します。文革小組と呼ばれた陳伯達・康生・江青・張春橋、いわゆる四人組を使い、旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣の四旧を打破しなければ革命は成就しないと、全国の紅衛兵を煽ります。「造反有理」、「革命無罪」、「司令部を砲撃せよ」といった言葉にマスヒステリア状態となった紅衛兵は、各地で文化財を破壊し、幹部たちを攻撃します。
行政機能がマヒしていたこともあり、紅衛兵の総数は不明です。ただ、66年8~10月、天安門広場で毛沢東の接見を受けた紅衛兵だけでも1,000万人と言われます。赤い腕章を巻き、毛沢東語録を掲げる紅衛兵たちは、毛沢東の登壇で、異様な興奮状態に入ります。大衆運動としての文革のピークでした。紅衛兵の破壊行為や暴力行為は留まることを知らず、国は無政府状態となります。ついに劉少奇や鄧小平も批闘会に引きずり出され、激しい糾弾を受けます。劉少奇は監禁され、繰り返し暴力にさらされ、亡くなりました。鄧小平も同様でしたが、毛沢東が「あれはまだ使える」と言ったことから、命と党員資格をはく奪されることはありませんでした。四人組は、各地で生じた統治機構の不在を革命委員会の設置で補います。紅衛兵たちの暴力は、委員会の主導権を握るべく、内紛へと向かいます。ついに毛沢東も、混乱の収束に乗り出します。
紅衛兵の役割は終わったということです。毛沢東は、人民解放軍を投入し、一部では紅衛兵の虐殺も起こります。さらに、農村に学べ、という毛沢東の指示によって、1,000万人の青年たちが、僻地の農村へと送り込まれます。いわゆる下放は、信じがたい政策ですが、個人崇拝が極限まで高まっていた毛沢東の指示は絶大でした。個人崇拝を進めたのは、副主席の林彪でした。林は、毛沢東の威光を借りて、全権を手中にしつつありました。これに気づいた毛沢東は、林彪批判を始めます。焦った林彪は、71年、毛沢東暗殺を画策しますが、事前に発覚。軍用機でソヴィエトへと逃亡を図ります。ただ、燃料切れのためモンゴル平原に墜落し、炎上します。林彪死亡後は、我慢を強いられてきた実務派周恩来が勢力を盛り返し、四人組との権力闘争になります。四人組は、批林批孔運動を展開。表向きは、林彪と孔子を批判しながら、周恩来追い落としを図ります。
1976年、1月に周恩来が死に、9月には毛沢東も死にます。毛沢東が後継に指名した華国鋒は、後ろ盾を失った四人組を逮捕します。10年に渡り、国を混乱に陥れた文革の終焉です。文化大革命で、政治・経済は混乱し、伝統文化が失われ、何よりも多くの人材と一世代の教育機会を失ったことは、その後の中国に大きな影響を残しました。昨今、散見される中国人の個人主義や拝金主義を生んだとも言えます。1981年に至り、中国共産党は、「文化大革命は、毛沢東が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱である」という、毛沢東に配慮した歴史決議を行いました。しかし、三度復権した鄧小平は、毛沢東について「七分功、三分過」と発言、これが現在も中国共産党の基本スタンスとなっています。(写真出典:rfi.fr)