翌日からは、私が通訳を務めました。私は、英語を聞くと、単語をいちいち日本語に転換しながら、話の内容を日本語で理解し、日本語で話します。バイリンガルの人は、英語の話は英語で理解し、そのうえで英語の文章を日本文に翻訳するという作業を行って、はじめて日本語を発します。英語を自らの言葉として完璧に理解するがゆえに、文章の翻訳という手間のかかる別作業が必要になるわけです。結果、英語であっても、完全に日本語ベースでしか理解しない私の方が早く通訳できることになります。もちろん、日本語への通訳に限っての話ですが。通訳という仕事は、見事に一つの技術であり、特に同時通訳となると、極めて特殊な技術なのだと思いました。
そもそも、日本語で理解しようが、英語で理解しようが、理解した内容は同じではないか、という意見もあると思います。ただ、抽象的な事柄を表す単語には、多少ニュアンスが違う場合もありますし、翻訳できない言葉もあります。また、文法の違いが思考経路の違いを生じている場合もあります。言語は思考に影響するか、という議論は大昔からあったようです。近年の代表として言語的相対論があります。言語は認識に影響を与える思考の習性を提供する、というものですが、あくまでも仮説です。実例や実験結果等もありますが、メカニズムが解明できていない分野だと言えます。
世界の言語数は、定義如何ですが、3,000とも、8,000とも言われます。集団がおかれた環境や歴史的経緯のなかで、それぞれの思考や文化が育ち、それらを基盤に、それぞれの言語が形成されます。そして、言語は、基盤となった思考を再現し、共有化し、さらに抽象的思考を拡大していきます。科学的に証明できずとも、言語による思考への影響は明白だと思えます。例えば、常に主語・動詞・目的語がセットになる英語を使うアメリカ人は、自己の主張を明確にする傾向があります。対して、日本人は、より曖昧な表現を好みます。しかし、その日本人が、アメリカに長く暮らすと、アメリカ人と同様な傾向を持つに至ります。
ちなみに、日本語は曖昧で、英語は論理的構成を持っている。ゆえに日本人は、英米人に比べて論理的思考に欠ける。と言った人がいます。違うと思います。そもそも、すべての言語は、体系的、論理的に構成されていると思います。日本語の曖昧表現は、そのうえに築かれた日本独自のコミュニケーション技法なのだと思います。日本語は、英語に比べて、より高度な言語表現を持っているとも言えます。(写真出典:swedishnomado.com)