2021年4月1日木曜日

神奈川宿田中屋

初めて横浜の「割烹 田中屋」に行ってきました。文久三年(1863)創業、旧東海道沿いの割烹料亭です。広重の東海道五十三次「神奈川」にも描かれている老舗です。浮世絵ついでに言えば、北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」とは、まさにここ神奈川湊の沖ということです。古くからの湊があり、東海道があり、多摩へぬける道があり、かつては随分栄えたものだったようです。安政5年(1858年)、神奈川湊沖に碇泊していたポーハタン号上で日米修好通商条約が締結され、神奈川湊は、開港五港の一つとなります。湊近くには、各国の領事館等も設置されていきます。

しかし、実際に開港されたのは、神奈川湊ではなく、対岸の寒村横浜でした。幕府は、往来の多い神奈川宿と外国人の間に距離を置き、もめ事を避けたかったようです。横浜村は、港が整備され、外国人居留地が作られます。以降の横浜の発展は、よく知られるとおりですが、神奈川宿も、港を横浜村にとられたとはいえ、宿泊や食事の拠点として栄えたようです。最盛期、神奈川宿には、1,300軒の宿屋や飯屋が軒を並べ、芸者衆も600人いたようです。明治5年(1872)には鉄道が開通します。当時の横浜駅は、現在の桜木町駅にあったようです。鉄道開設のために神奈川湊は埋め立てられました。それでも東京湾越しに房総半島を望む神奈川宿は、京浜随一の景勝を誇っていたようです。

なかでも田中屋は、200畳敷の座敷を擁する神奈川宿随一の大店として繁盛したようです。加えて田中屋には、大きな利点がありました。英語に堪能、大酒飲みで男勝りの仲居がいたことで、外国人が多く集まったと言います。仲居の名前は「おりょう」、坂本龍馬の妻です。龍馬の名が世間に知られるようになったのは、明治後期のことです。当時は、龍馬の妻として世間に知られていたわけではないでしょうが、西郷隆盛、勝海舟等、幕末の志士や明治政府の重鎮たちが田中屋を使うようになります。龍馬死後、高知はじめ各地を転々としていたおりょうを田中屋に紹介したのも、勝海舟だったようです。おりょうは、京都の医者の娘で学もあり、わがままな面があったことから、海援隊の生き残りの間でも評判は良くなかったようです。仲居としても、実に使いにくい人だったと聞きました。

横浜が、国際貿易港として発展していくなか、神奈川宿は、忘れ去られていきます。二階から釣り糸が垂らせたという眼前の海は、すっかり陸地化され、今は、商業ビルやマンションが立ち並びます。店の脇に残る急な階段だけが、かつての海辺の崖を偲ばせます。田中屋は、大戦中の空襲時にも焼けずに生き延びています。この家にには何か力がある、と五代目女将が言っていました。74歳になるという女将は、田中屋の娘で、永らく海外に暮らしていましたが、後継ぎの兄が急死したことで、急遽、呼び戻され、家を継いだと言います。パワーポイントで豊富な資料を用いて、田中屋の歴史を話してくれました。横浜で最も古い店で、神奈川宿を歴史を宿す建物に対して、横浜市は、何の理解も支援もしてくれない。それどころか、木造建築禁止区域として、改築さえ許さない、と憤っていました。

田中屋の前は、旧東海道ですが、「台の坂」と呼ばれる坂道になっています。広重の浮世絵のとおり、やや急な坂道ですが、いい風情の坂道だと思います。ただ、現在、坂の両側はマンションだらけ。マンション街の谷間にひっそり佇む田中屋は、いささか侘しげにも見えます。店には、龍馬がおりょうさんに宛てた直筆の手紙が飾られています。おりょうさんは、この一通を除き、すべて焼き捨てたと語っています。店をやめる時、世話になったと、残していったそうです。田中屋には、他にも明治初期の着色写真など、貴重な資料が多く残っています。横浜市ではなく、その名の由来ともなった神奈川県が、文化財として保護すべきではないかと思います。(写真出典:restaurant.ikkyu.com)

マクア渓谷