2021年4月26日月曜日

三千世界の鴉

奇兵隊
「子曰く、学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)」は、論語の一説です。知識を学んでも、自ら考えなければ、何もわからない。自ら考えるばかりで、知識を学ばなければ、危険である、といった意味になります。実に的を得た言葉です。高杉晋作を思うと、この言葉が浮かびます。松下村塾の俊才ですから、勉学にも優れていたはずです。ただ、吉田松陰は、晋作がさっぱり勉強しない、と嘆いています。学問ではなく、行動の人だったと想像できます。では、晋作は”思いて学ばざる”人だったのでしょうか。ここが気になります。歳若くして病死し、残された文章類も少ないことから、幕末の志士としては高名ながら、やや分かりにくい人でもあります。

高杉晋作は、戦国時代から毛利家に仕える名家の生まれです。勉学にも、剣術にも非凡な少年は、1857年、18歳で松下村塾に入塾、久坂玄瑞とともに塾の双璧と呼ばれたそうです。翌年には、藩命で江戸に遊学します。その年、 幕府は、 勅許無きまま日米修好通商条約を締結します。 これに激怒した松蔭は行動にでますが、翌年、安政の大獄で捕縛されます。 晋作は 牢に通ったようですが、 国元に戻され、その後、 松蔭は死罪となります。 晋作の攘夷は、 師の志を継ぎ、 ここに始まるのでしょう。1862年には、藩命によって、幕府使節随行員として上海へ渡航します。植民地された清国を見て、攘夷の決意を新たにしたようです。ちなみに、晋作が上海で購入した拳銃は、その後、坂本龍馬に贈られ、寺田屋遭難の際、龍馬の命を救っています。

1863年、長州は外国船砲撃を行い、逆に米仏の攻撃を受けます。この下関戦争の際、下関防衛を任された晋作は奇兵隊を創設しています。武士と庶民の混成部隊である奇兵隊は、松陰の西洋歩兵論に基づいて編成されたと言います。1864年、蛤御門の変で朝敵となった長州に対して、幕府は長州征伐を行います。長州藩内では、幕府に恭順すべしとする保守派が主流となります。晋作は、下関の功山寺に諸隊を集め、挙兵。保守派を一掃し、藩の実権を握ります。功山寺挙兵は、クーデターそのものです。その後の維新への流れを左右した重要な出来事であり、晋作の維新への最大の貢献とも言えます。1866年には、晋作が進めていた薩長同盟が、龍馬の仲介で成立します。第二次長州征伐は、徳川家茂の死によって、幕府側の総崩れとなり、一気に大政奉還へと進んでいきました。ただ、晋作は、大政奉還を知ることなく、肺結核で死んでいます。享年27歳。

幕末の志士、明治の元勲たちが、口を揃えて「群を抜いた人物」と評する高杉晋作ですが、四国への逃避行の際には、愛妾おうのを同行し、三味線だけを持参したと言われます。命を狙われ逃げたわけですが、なんとも肝の据わった、粋な逃避行です。盟友龍馬の新婚旅行にも通じます。「三千世界の鴉を殺し 主と朝寝がしてみたい」という都都逸は晋作の作とされます。遊女たちは、顧客を繋ぎとめるために、神社札の裏に「あなた一筋です」と書いて渡したものだそうです。いわゆる起請文です。一番人気があったのが熊野三山の牛王法印であり、約束を破ると神の使いの鴉が死に、本人は地獄に落ちるとされていました。つまり約束を破ってでも、あなとと一夜を過ごしたいという歌です。なんとも粋なものです。

高杉晋作は、学びて思い、思いて学んだうえで、今、必要なのは”果断な行動”である、という判断をした人のように思えます。辞世の句は「おもしろきこともなき世をおもしろく」とされます。随分と高いところから時代を見切っていた数少ない天才かもしれません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷