監督:侯孝賢(ホウ・シャオシェン) 1989年台湾・香港
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確かに夜の九份は絵になります。とは言え、一角だけのことであり、印象に残ったのは、土産物屋と観光客の多さだけでした。九份が台湾きっての観光地になったのは「非情城市」がきっかけだったと聞きました。「非情城市」は、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲得した台湾ニューシネマの金字塔とも言える作品です。エドワード・ヤンと並ぶ台湾ニューシネマの旗手ホウ・シャオシェンの実写的作風も見事ながら、台湾ではタブーとされてきた国民党による白色テロが初めて描かれた作品としても、世界に衝撃を与えました。基隆港と九份を舞台に、日本から国民党へ統治者が変わるなか、船問屋の一族が時代に飲み込まれていく様が描かれています。「犬が去って、豚が来た」は有名な言葉です。同化政策をとった日本はうるさい犬、たいして国民党、いわゆる外省人はひたすら貪るだけの豚、という意味です。国民党軍の精鋭たちは、大陸で共産党軍と交戦中であり、台湾へ来たのは二線級のモラルの低い部隊だったとされます。汚職・強姦・強盗・殺人とやりたい放題だったと言います。本省人、つまり台湾人に対する差別意識もあったのでしょう。1947年2月27日、台北でヤミの煙草を売っていた女性が、外省人官憲に摘発され、殴られたうえに商品も持金も没収されます。騒ぎに集まった本省人に対して官憲が発砲し、一人が死亡します。これが引き金となり、外省人に対する本省人の怒りが爆発し、瞬く間に全島に暴動が広がります。国民党軍は、大陸から援軍を送り込み、徹底的な武力鎮圧を行います。いわゆる「二・二八事件」です。
国民党は戒厳令を布きます。戒厳令について、日本では日清・日露戦争中の軍港に布かれた例などはあるものの、あまり馴染みがありません。戒厳令下では、憲法や法令の効力が一時停止され、軍が武力をもって、行政と司法を指揮します。実に恐ろしい話です。台湾では、本省人のエリート層が理由もなく逮捕され、拷問され、殺害されます。一般人では虐殺も起きています。犠牲者数は、いまだにはっきりせず、政府見解では1.8~2.8万人とされますが、10万人近いという説もあります。為政者によるテロ、つまり白色テロです。一度解除された戒厳令は、1949年に再発令され、結局、1987年まで続きました。70年代から台湾は、経済発展を続けてきました。その主役の多くは本省人でした。ただ、その間も戒厳令下にあったわけです。本省人が真に解き放されたのは、1988年、李登輝が本省人初の総統になってからだと言われます。
台湾ニューシネマの特徴は、対象を客体化し、より自然に撮ることで、よりリアルに台湾の現実を伝えることです。本作でも、その手法が生きています。大げさな演出や演技で本省人の無念を伝えるのではなく、日常を自然に、かつ丁寧に叙述することで、日常に浸透する恐怖や無念さをより一層際立たせています。ホウ・シャオシェンの有名な定点的カメラ・ワークも、そのために採られている手法だと思います。こうした作風は、戒厳令下で台湾社会を映し出すために必要な手法だったとも言えそうです。本省人の無念を描いたホウ・シャオシェンの「非情城市」、そして60年前後の外省人の不安定な状況や不安を描いたエドワード・ヤンの「牯嶺街少年殺人事件」は、台湾ニューシネマの対を成す名作だと思います。ちなみに、両監督とも外省人二世です。
二・二八事件の際、本省人は、台湾語と日本語が話せるかどうかで、外省人をあぶり出したと言います。本作でも、そういう場面がありました。台湾には二十を超す山岳部の少数民族がいます。なかには、台湾語も日本語もうまく話せない民族もいたようです。そこで外省人判別に使われたのが、君が代だったと言います。日本の徹底的な同化政策によって、君が代を歌えない本省人はいなかったそうです。(写真出典:movies.yahoo.co.jp)