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船場の旧小西家住宅 |
大阪弁のイメージも、吉本の隆盛とともに変わってきたように思えます。かつて大阪弁の主なイメージは、商人言葉、下品といったものだったと思いますが、70年代くらいからは、怖い、というイメージが加わります。恐らく河内弁がやくざ映画等で多用された影響でしょう。そして漫才ブーム以降は、お笑いと結びつき、違和感なく受け入れられるようになりました。大阪弁と言っても、大きくは摂津弁・河内弁・泉州弁に分かれます。TVでよく耳にするのは摂津弁です。言葉は時代とともに変わっていって当然です。摂津弁も、随分、変遷があったはずです。残念なのは船場の言葉がほぼ失われたことです。商習慣の変化、船場自体の地盤沈下ゆえのことですから、致し方ありませんが。
船場は、大阪城築城後、秀吉の命によって、京都・伏見から商人が集められ形成された商人町です。江戸初期には日本の経済・流通の中心として機能しました。現在で言えば、地下鉄御堂筋線の淀屋橋から心斎橋、堺筋線では北浜から長堀橋のあたりが船場でした。その一画に、多くの商店・船宿・料亭等が集まり、経営者家族と住込みの従業員が暮らしていました。独特の習慣や言葉も形成されていきます。船場言葉は、京ことばの流れをくむ上品さがあったとも言われますが、商人の町であり、お客さまを立てる丁寧語・尊敬語が基本となっていたようです。例えば「勉強させてもらいます」は船場言葉です。標準語では「勉強させていただきます」となるところですが、随分とへりくだった言い回しになります。また、「ごりょんさん(主人の妻)」、「いとはん(長女)」、「こいはん(末娘)」なども典型的な船場言葉です。
上品な船場言葉は、谷崎潤一郎の「細雪」で楽しむことができます。大阪弁は、文字にすることが、なかなか難しい言葉です。ただ、谷崎にかかると、見事に雰囲気が伝わります。その筆力は、さすがと言わざるを得ません。谷崎自身は、東京の生まれ育ちですが、関東大震災後、神戸に移住します。そこで、当時、人妻だった森田松子と不倫関係の後、三度目の結婚をします。松子は、四人姉妹の次女として大阪の裕福な一族に育ち、老舗問屋に嫁ぎます。「細雪」は、四人姉妹が経験したことを、ほぼ忠実に書いているといわれます。時代は、昭和初期。船場は勢いを失いつつありました。「細雪」は、船場の大店の生活と文化を描き、その落日の淡い光を滲ませます。日本の近代を描いた作品とも言えます。幼少期は豊かな家に育ち、その後家業が傾き、貧乏に苦しんだ谷崎は、船場の大店の生活に深いシンパシーをもっていたのでしょう。
いつも感心させられる大阪弁があります。尊敬語の「はる」です。大阪の人たちは、ごく自然に他人の行為に「はる」を付けます。食べてはる、思うてはる、といった具合です。また、相手のことを「自分」と言います。標準語なら、君、あなた、となります。私を中心に考えれば「あなた」ですが、相手を中心に考えれば「自分」となるわけです。お客様を中心に考える船場言葉の精神が、今の大阪弁にも生きてはるのかも知れません。(写真出典:ja.wikipedia.jp)