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歌川広重「新吉原仁和歌之圖」 |
もともと吉原は、江戸初期、今の人形町あたりに作られた幕府公認の遊郭です。当時は、海岸近くの葭の生い茂る原っぱであり、葭原と呼ばれたようです。江戸の市街地が急拡大し、この付近にも武家が住むようになり、また明暦の大火で焼け出されたこともあり、1668年、浅草浅草寺の裏手、日本堤の沼地を埋め立て、移転します。新吉原と呼ばれる所以です。18世紀初頭には、遊女2千人と記録されているようですが、最盛期には5千人いたとも言われます。当初は、武家のための遊郭でしたが、時代と共に、武家の多くは、江戸城に近い新橋、柳橋等の江戸六花街を使うようになり、吉原は庶民化していったようです。日に千両といわれ、現在価値にすれば、一日の売り上げは1億以上という賑わいをみせ、歌舞伎と並び江戸の庶民文化の花形になりました。
新吉原には、早い段階からガイドブック「吉原細見」が存在しました。地図、妓楼と所属遊女、揚げ代、茶屋、船宿などが書かれていたようです。年に2回刊行され、定期刊行物としては、明治まで続いた「役者評判記」に次ぐ息の長さを誇ります。版元は、鱗形屋と山本でしたが、18世紀後半になると、蔦屋重三郎が独占していきます。江戸を代表する出版業者となる蔦屋は、新吉原の書店からはじめ、細見や遊女の評判本等の出版へと商売を広げていきます。当時、版元が集まっていた日本橋に越した蔦屋は、洒落本、黄表紙、狂歌本でヒットを飛ばします。しかし、蔦屋と言えば、なんといっても錦絵、つまり彩色した浮世絵です。歌麿、写楽、広重等の売れっ子を抱え、大繁盛したようです。ちなみに、大阪の書店から始まったTSUTAYAは、かつて創業家が営んでいた置屋の屋号にちなみ、また蔦屋重三郎にあやかって命名されたようです。
遊郭に過ぎない吉原が、なぜ歌舞伎と並んで江戸文化の中心になれたのでしょうか。役者と遊女が出版のメイン・コンテンツであることは、人気の高さを現します。古典落語の演目からも、当時のファッションの流行からも、それはうかがい知れます。商工業の隆盛と都市化の進展に伴い、娯楽が産業化していったということですが、幕府公認ということは、特権と上納金で構成されていたことになります。とは言え、芸者中心の花街、夜鷹や湯女等もぐりの遊女といったライバルも存在しました。そこで吉原は、マーケティングに注力したのでしょう。見物だけでも入れる町は夜でも明るく、夜中まで三味線の音が響き、毎年、3月の1ヶ月間だけは、仲通りに桜の木が移植されるという大人のテーマパーク。また各種のしきたりや遊女の階層化は通を惹きつけリピーター化します。マーケターの皆さんは、フィリップ・コトラーの本を読むだけでなく、吉原を研究すべきと思います。
明治以降、キリスト教的倫理観が持ち込まれるまで、日本は性風俗に寛容だったと言われます。とは言え、「明烏」の奥手の倅は、吉原に来ることで、親戚にとがめられることを心配します。実は、商家が懸念するのは、吉原に行くことではなく、吉原に入れ込むことだったのだろうと思います。小遣いで遊ぶうちはいいのですが、遊女といい仲にでもなれば、店の売上に手をつけるのは目に見えています。華やかな吉原ですが、人身売買された遊女の悲惨さもよく知られるところです。夜も明るい遊郭は、内にも外にも、濃い影を作っていたわけです。(写真出典:news.livedoor.com)