監督:ピッパ・アーリック、 ジェームス・リード 2020年南アフリカ
☆☆☆☆
実に不思議な映画です。上質な小説を読み終えたような印象を持ちました。ドキュメンタリー映画製作者のクレイグ・フォスターと真蛸との交流が、丁寧に描かれています。蛸は知能が高いとは聞いていました。擬態、あるいは足や吸盤を自在に使うわけですから、なかなかの知能と言えます。しかし、人間を認識して、交流まがいのことまでできるとは驚きです。まるで猫や犬と同じです。とても不思議な気分になります。撮影開始から公開までには10年かかっていますが、それはそれは大変な撮影だったろうと容易に想像できます。真蛸の知能には驚かされるものの、この映画は単なる蛸の生態映画ではありません。仕事で心身ともに疲れ切ったクレイグ・フォスターが、故郷の海のケルプの森に潜り、自然と一体化することで再生するというストーリーが、しっかりと縦糸を成しています。そして、横糸として、彼女と呼ばれるメスの真蛸との交流、そして彼女の短い一生が語られます。十分に科学的でありながら、従来の科学系ドキュメンタリーとはまったく異なる映画と言えます。実に画期的であり、ドラマと言っても言い過ぎではありません。そのあたりが評価されたのか、今年のアカデミー賞の長編ドキュメンタリー映画賞はじめ、数多くの賞を獲得しています。
真蛸は、軟体動物のなかで、ほぼ最高の知能を持つと言われているようです。体表には無数の突起があります。この突起も、体表面の色を変えるのと同じ速さで出し入れできます。それによって、真蛸は、岩や海藻にも擬態できます。また、海藻を体に巻き付けたり、無数の貝殻で鎧兜のように体を覆い、サメ等の捕食者から身を守ることもできます。その映像は、はじめてみましたが、驚異的なものです。主な餌は、甲殻類や貝類です。通常、魚類は、特定の捕食方法に応じて体形を進化させます。真蛸は、状況に応じた多彩な捕食方法を繰り出します。知能の高さが理解できます。固い殻を持つ貝を食べる時には、腕の付け根にある突起を使い、貝の特定の筋肉を狙って、殻に小さな穴を開け、毒を注入すると言います。まさに注射そのものです。まさに驚異の生き物です。
真蛸との交流の話をしながら、真蛸を食べる話は、多少気が引けますが、日本で最も多く食べられている蛸は、この真蛸です。食材としての歴史は古く、弥生時代の遺跡からも蛸漁に使う蛸壺が出土するようです。欧米では、地中海沿いを除き、蛸はデビル・フィッシュと呼ばれ、食べる習慣がありません。理由としては、見た目が気持ち悪いから、とよく言われますが、これはあり得ません。人間は、なんでも食べてきました。恐らくユダヤ教のコーシャ、聖典に基づく食事規則が影響しているものと思われます。コーシャでは、ウロコとヒレのないものは不浄であり、食べてはいけない、とされています。理由は、よく分かりません。想像ですが、地中海東部にあっては、毒素を持ったものが多かったのか、痛むのが早かったからではないかでしょうか。あるいは、妙に知能を感じさせるものが多かったからかも知れません。
この映画の原題は「My Octopus Teacher」となっています。クレイグ・フォスターが、”彼女”から自然を学んだという意味なのでしょう。悩んだ末のタイトルのように思いますが、内容の深さからすれば、今一つです。もっとひどいのがこの邦題です。これでは、蛸の生態を記録したありきたりなドキュメンタリーのタイトルです。この映画の奥深さや革新性は、まったく伝わりません。しかし、自分なりにタイトルを考えてみましたが、なかなか妙案も浮かびませんでした。それくらい画期的な映画と言えるのかも知れません。(写真出典:filmarks.com)