2021年4月30日金曜日

モンゴリアン・ヒップ・ホップ

日本のヒップホップ文化は、1980年代初め、ブレイクダンスから始まりました。ラップは、やや遅れて試行が始まりました。母音だらけの日本語では無理があったからだと思います。当初の日本のラップは、どうしてもモタモタした感じになり、子供向けといった風情でした。最初のヒットは、吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」だと言われます。それが大きく変わったのは90年代後半からだったと思います。象徴的には、Dragon Ashの登場だったのではないでしょうか。詞の深さもリズムのノリも日本のラップと言えるものになったと思います。リズムに乗せるために、日本語の発音を多少英語っぽくしたり、あるいは英語を多用するなどして、母音の多さをカバーしていきました。ただ、それでも母音の壁は厚く、ヴァリエーションは乏しく、メロディで変化をつけるスタイルが多いように思います。

今や世界中で、それぞれ独自のラップが歌われています。風体は、アメリカのものまねばかりですが、言葉の特性の違いが独自性も生んでいます。エスニック・ラップの時代とも言えます。モンゴルでも同じですが、その浸透度合いがすさまじく、モンゴルはラップの国になっているようです。意外な印象を受けるのは、私たちがモンゴルを知らなすぎるからなのでしょう。モンゴル語は、子音が多く、リズムに乗せやすいようです。また、祝い事の際、韻を踏んだ即興の祝詞が披露される伝統があり、ラップはモンゴル発祥だと言い切る人までいるそうです。加えて、経済格差が大きな社会問題となっており、若者たちの閉そく感が強いことが背景にあります。ラップが、NYのブロンクスで発祥した時と同じく、若者が表現せざるを得ない厳しい現実があるわけです。

モンゴルの歴史は、とても古く、中国の中原に起こった国々と常に戦ってきました。農耕民である漢民族の歴史は、北の遊牧民との戦いの歴史でもあります。モンゴル最初の統一国家は、紀元前4~5世紀の匈奴だと言われます。その後、鮮卑、突厥、契丹、金等を経て、13世紀初頭、モンゴル族のテムジン、チンギス・ハンが登場します。世界最大の帝国となったモンゴル帝国ですが、その後、分裂、衰退します。モンゴル高原も、内蒙古と外蒙古に分断され、清朝支配下に入ります。20世紀初頭には、ソヴィエトの介入のもと、外蒙古は清朝から独立し、モンゴル人民共和国が建国されました。ソヴィエト崩壊後の1992年には、社会主義を捨て現在のモンゴル国になっています。機動性に優れた騎馬戦力をもってユーラシアを席捲したモンゴルは、その後、隣接する二大国に挟まれ、難しい生き方を強いられてきたといえます。

市場経済へ移行した後は、豊富な地下資源を背景に経済成長を続けてきましたが、貧富の差の拡大、官僚の汚職といった問題に悩まされ、政治的安定も確保できていません。遊牧民は、人口の1割まで減り、国民の半数がウランバートルに住んでいます。しかもウランバートルは、富裕層が住む一部を除き、スラム化が進んでいると聞きます。モンゴルの失業率は、2020年、12%に達しています。また、1日2ドル未満で暮らす貧困層の割合は4割と言われます。320万人という人口の少なさ、政治的不安定さが、厳しい経済状態を生んでいます。若者たちの閉そく感や絶望感が、モンゴリアン・ヒップホップの原動力になっており、多くの支持を集めていることは容易に理解できます。日本のラップとの根本的な違いがここにあります。

モンゴルの畜産業は、依然として鉱業に次ぐ主要産業です。ただ、緑成す草原を馬に乗って疾走する遊牧民というモンゴルのイメージは、過去のものになりつつあるのかもしれません。数千年に及ぶ伝統が消えつつあるということは、モンゴルの文化がアイデンティティの危機にあると言えのでしょう。ここ数年、モンゴリアン・ヒップホップには、民族音楽や伝統を取り入れたものが増えているようです。危機感の現れでもありますが、エスニック・ラップとしては自然な姿だと思います。新しいモンゴル文化が生まれようとしているのかもしれません。なお、モンゴルのヒップホップ事情を紹介したドキュメンタリー映画に「モンゴリアン・ブリング」(2012)があります。残念ながら未見ですが。(写真「モンゴリアン・ブリング」ポスター 出典:filmarks.com)

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