2021年4月10日土曜日

具眼の徒

「千載具眼の徒を竢つ」とは、伊藤若冲55歳のおり、相国寺に「釈迦三尊像」の周囲を飾るための「動植綵絵」30幅を全て寄進した際の言葉だと言われます。見る目を持った人が現れるのを千年でも待とう、といった意味で解釈されています。若冲ブームが起こったのは、2000年、京都国立博物館にて没後200年を記念して開催された『若冲展』からだとされます。永らく忘れられていた画家の、予言的で、かつ正鵠を射たとも言える言葉としてもてはやされました。しかし、この言葉には、少し不思議な面があります。生前の若冲は、既に高い評価を得た高名な絵師でした。わざわざ千年も具眼の徒を待つ必要はなかったはずです。しかし、若冲は、没後、しばらくの間、忘れられた存在となります。若冲は、そのことを見通していたのでしょうか。また、なぜ、そのように考えたのでしょうか。

若冲ブームの最中、2016年、東京都美術館で「生誕300年記念若冲展」が開催され、相国寺の「釈迦三尊図」と相国寺が皇室に献上した「動植綵絵」全30幅の同時公開ということで、大人気になりました。私も、かつて「バーンズ・コレクション展」で2時間行列に並んだ経験があったので、ある程度、覚悟を決めて出かけました。ところが、そんな覚悟では及びもつかない3~5時間待ちという、まさに異常事態。もちろん、断念しました。空前の若冲ブームに会期はわずか1か月という設定。開催側は責められるべきだと思いました。いずれにしても、いまや若冲の二文字が入った展覧会は、どこでも大入り満員状態です。私は、若冲の墨絵が好きです。「鹿苑寺大書院障壁画」などの大胆な構図はモダンさすら感じさせ、若冲の異才が際立ちます。多くのファンの好みは、「動植綵絵」に代表される極彩色の細密画なのでしょう。

若冲は、宋代の花鳥画の模写に専念し、後には実物写生へと移ったようです。しかし、若冲は、いずれとも異なる画風を持ち、その最大の違いは、超絶技法による細密性だと思います。それはリアルさの追求ではなく、ディテールの追及による新たな実在の創造だと言えるのではないでしょうか。その意味において、超現実的であり、独特なシュール・リアリズムだとも言えます。若冲の鶏は、すでに鶏ではなく、鶏の細部から再構成された何か別の存在です。もはや天地創造神の領域であり、当時、その絵が高く評価されたとしても、その超現実性については、世間の理解をはるかに超えていたのでないでしょうか。生前の若冲がそのことを認識していたとすれば、あえてそれを語らず、あるいは語ることはできなかったのではないかと思います。せいぜい言えた言葉が「千載具眼の徒を竢つ」だったのではないでしょうか。

若冲が、しばらく奇想の画家としてキワモノ扱いを受けていた理由は、かつての日本に、リアルさを追求するという画風が存在しなかったからだと思います。画材、特に油絵具を持たなかったこともありますが、何よりも仏教の影響から、精神性が重視されたからだと思います。リアルさは低俗だとされていたのでしょう。例えば、日本の花鳥画と英国のボタニカルアートでは、目指しているものがまるで違います。それが変わったのが文明開化だったということになります。本格的に西洋画がもたらされ、その前提である油絵具や遠近法、そしてその背景にある自然科学が伝わり、絵画は変わります。安土桃山の頃、宣教師たちが西洋画を持ち込んではいましたが、日本の絵画に大きな影響を与える前に、禁教令によって影を潜めました。若冲も、西洋画は目にしていたのではないでしょうか。恐らく、他の人たちとは異なる視点で見ていたようにも思えます。

若冲とヨハネス・フェルメールは、似たところがあると思います。ディテールへのこだわり、超絶技法、高価な画材、そして、没後、独自の画風もあって、しばらく忘れられていたこと等です。絵画は、強大な権力、膨大な財力の庇護のもと、発展する傾向があり、また、そこで生まれた作品は後世へと伝わりやすくなります。若冲と相国寺との関係、フェルメールの事業家のパトロンはあるにしても、二人とも、幕府や王侯貴族の庇護は受けていません。若冲のプルシアン・ブルー、フェルメールのラピスラズリといった高価な画材の使用は、ほぼ個人的裕福さを背景にしています。権力との関係が無かったことは、若冲が、具眼の徒を待たなければならなかった理由の一つかも知れません。(「群鶏図」東京富士美術館蔵 写真出典:fujibi.or.jp)

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