2021年4月9日金曜日

熊野(ゆや)

能楽の世界には、昔から「熊野松風に米の飯」という言葉があり、「熊野(ゆや)」と「松風」は、米の飯のごとく、何度観ても飽きることがない演目だと言われているそうです。それほどまでの傑作、あるいは能楽らしい能楽ということなのでしょう。いずれも、シテは女性で、和歌が重要なモティーフになっています。桜の「熊野」は春に演じられ、月の「松風」は秋に演じられることが多いようです。今回、初めて観世流の「熊野 村雨留」を見てきました。

平家物語に題材をとった「熊野」のあらすじは、次のようなものです。平宗盛が遠江国池田宿から連れてきた愛妾の熊野は、病に倒れた国の母親が気がかりで、一刻も早く、故郷に戻りたいと思っています。宗盛に暇を願い出ますが、断られています。宗盛は、東山で花見の宴を開き、熊野を慰めたいと考えます。熊野を乗せた牛車は、春の都を清水寺へと向かいます。春の都の道中は、熊野の心情に重なっていきます。清水寺に着き、観音堂で祈っていた熊野は、宴の場へと呼び出され、舞います。その時、突然、村雨が降り、花を散らします。熊野は「いかにせん 都の春も 惜しけれど 馴れし東の 花や散るらん」と歌を詠み、宗盛に差し出します。さすがに宗盛も負けて、熊野に暇を出します。熊野は、その場から遠江国を目指します。

一見、シンプルなストーリーに見える「熊野」には、いくつかの対比構造が埋め込まれ、深みのある展開になっています。帰りたい熊野と帰したくない宗盛、京の春のあでやかさと熊野の憂鬱が重なる東山の暗い一面、清水寺における観音堂の祈りと花見の宴席、華やかな舞と熊野の憂い、舞と無常観、宗盛の栄華を誇る宴席と忍び寄る滅亡の気配、等です。それらが、美しい詞の謡、緩急をつけた囃子、そして実に能を感じさせる舞とともに情感を深めていきます。いわば対比の美学によって、一曲のなかに濃密な世界を築いています。「米の飯」と言われるだけのことはあります。なお、小書(特殊演出)の「村雨留」は、中ノ舞が村雨によって終わることで、熊野が歌を差し出す場面を、より効果的に演出していました。

平宗盛は、清盛の三男で、清盛が没した後、平家の頭領となります。宗盛の責任とばかりは言えないにしても、平家一門を、都落ちから壇ノ浦での滅亡まで追いやりました。壇ノ浦で、一門が入水するなか、一命をとりとめ、捕虜になります。死にきれなかったのは、泳ぎが上手かったからとも、肥満体が水に浮いたからだとも言われます。宗盛は、愚鈍、かつ傲慢だったと言われます。父に先立ち病死した兄重盛が人望の厚い武将だったことと比較されがちな面もあります。捕虜として鎌倉に連行され、見苦しく命乞いをするなど、やはり頭領に相応しい人だったとは思えません。ただ、一方で、情に厚い、優しい人柄だったとも言われます。特に家族への愛情は強く、妻に先立たれた時には、官職を辞し、ふさぎ込んでいたようです。この性格が、熊野への複雑な思いの伏線にもなっているのでしょう。

熊野は、遠江国池田宿の遊女ですが、実在した人とされています。池田宿は、現在の磐田市池田に名を残し、天竜川沿いの行興寺には熊野の墓があります。行興寺は、樹齢850年という長藤がよく知られており、「熊野御前ゆかりの藤」と呼ばれているそうです。熊野は、本尊の十一面観世音菩薩を深く信仰し、境内に長藤を植えたと伝えられているそうです。(写真出典:shitashimu.dreamlog.jp)

マクア渓谷