2021年4月7日水曜日

三百年の争い

燕三条地場産業振興センター
新潟で聞いた面白い言葉に「はんばぎ脱ぎ」があります。古い言葉ですが、新潟なら、だれでも知ってると聞きました。「はんばぎ」とは、「脛巾(はばき)」がなまった言葉です。脛巾は、農作業や旅の際、動きやすくするために、すねに巻き付けたもので、藁で作れていました。後の布や革製の脚絆やゲートルと同じものと言えます。「はんばぎ脱ぎ」の意味は、旅装を解く、ということですが、翻って、旅から帰ってきた際のご苦労さん会、反省会、あるいは土産話を聞かせる会のことです。酒好きの新潟のことゆえ、なんでも酒を飲む理由にしたようにも思います。ただ、興味深いのは、江戸期から続く風習だという点です。

江戸期、農民の移動は原則禁止されていました。ただ、お伊勢参りといった宗教行事、あるいは湯治などの旅に関してはお目こぼしがあり、比較的緩やかに運用されていたようです。とは言え、滅多に旅など行けない時代から、はんばぎ脱ぎという言葉が一般的だったとすれば、新潟の農民は、比較的多く旅をしていた可能性が高いということになります。そこで思いつくのが、家内手工業です。冬場、雪に閉ざされる新潟では、農家の内職が盛んで、織物、日本酒、金属加工、漆器、箪笥などは、後に産業化され、現在では新潟の名産になっています。昔は、仲買人や問屋が、発注し、製品を回収してまわっていたようですが、農民が、直接、江戸や関東の問屋へ持ち込む場合もあり、また、行商も行っていたようです。

内職が産業化した代表例の一つが、燕市と三条市の金属加工です。燕・三条には、家族で営む小さな工場がひしめき、両市とも社長さんの多い町です。江戸初期、毎年、水害等に苦しむ領民を見た代官が、江戸から和釘職人を呼び、農民に技術を伝えたといいます。時代とともに、製品は多様化し、会津から伝わった鋸(のこぎり)や鉋(かんな)、仙台から伝わった銅器、あるいは煙管等も作るようになります。隣接する二つの町ですが、次第に製品や商売に違いが生まれます。行商をよく行った三条は商人の町、一方の燕は職人の町と言われます。三条の行商人は、燕の製品を買いたたき、職人を泣かせたものだ、と燕の人たちは言います。三条の人に限らず、それが商売だとは思いますが、燕の人たちの恨みは蓄積されていきます。一方、三条の人たちにも許せないことが起こります。

戦後、アルミ加工に長けた燕は、カトラリーの輸出で大成功します。三条の人たちに言わせると、その頃、燕の人たちは大儲けして、傲慢になり、三条を見下した、今でもそれは許せない、ということになります。もちろん、やっかみという部分も大きいとは思います。その対立が、世間にも広く知れ渡ったのは、新幹線の駅、そして高速道路のインターを巡る問題でした。どこに作るか、名称には両市の名前を入れるとして、燕が先か、三条が先か、という問題でした。場所は、真ん中しかないでしょうが、名称は、理詰めの議論で答えが出るものでもありません。これには田中角栄も頭を抱えたようです。天下の知恵者といわれた角さんの出した答えは、駅名は”燕三条”とし、場所は三条市におく、インター名は”三条燕”とし、燕市におく、という、いわば痛み分けでした。

いつの世でも、妥協が生むのは不満だけです。角さんの裁定で、上越新幹線と北陸自動車道の建設は進みましたが、両市の仲が良くなったわけでもなく、不満だけが残りました。ところが、平成の大合併のおり、地元財界から両市合併の話が出されます。世界的な企業も存在する金属加工のメッカは、ブランド力強化のために、二つの町名よりも一つの名前の方がいいと思います。ところが、案の定、すったもんだの議論が巻き起こり、住民投票の結果、合併案は否決されました。合併否決については、今でも、双方を非難する声があるようです。三百年の争いは、まだまだ続きそうです。ちなみに、燕三条駅の前には、珍しく両市が共同して設立した「燕三条地場産業振興センター」があります。1986年にオープンし、今は、道の駅としても運営されています。共同事業ですが、ある意味、きっちり伝統に則り、名前は燕三条ですが、住所は三条となっています。(写真出典:iri.pref.niigata.jp)

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