2021年4月23日金曜日

プロイセン参謀本部

大モルトケ
いまや軍や企業の組織では当たり前となっているスタッフ・システム、いわゆる参謀制度を完成させたのは、19世紀のプロイセンだとされます。参謀は、情報・作戦・兵站等の面から指揮官を補佐すると同時に、指揮官に対する牽制機能も持ちます。また、参謀が組織化されることで、軍全体の作戦遂行の統一を図る機能もあります。大昔から、指揮官を補佐する参謀は存在していました。軍師がそれに当たりますし、腹心、右腕、懐刀等と呼ばれた人たちは、概ね参謀と言えます。プロセインは、それを組織化し、平時から常設した点で、近代的な参謀の始まりと言われます。

プロイセンの歴史は、12世紀、ドイツ騎士団の結成から始まります。ドイツ騎士団は、パレスティナにおける十字軍国家の常備軍としての役割を果たします。十字軍が終わりを迎えると、ドイツ騎士団は、プロイセン等の異教徒のキリスト教への改宗、植民地化にあたります。16世紀には、騎士団修道院から世俗化して、プロイセン公国が初のプロテスタント国として誕生します。17世紀のフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯時代には、常備軍が創設され、当時、欧州最強と言われたスウェーデン軍を範に、兵站組織も設置されます。後のプロイセン参謀本部です。軍事力を高めたプロイセンは、18世紀、ポーランド、スウェーデンの支配から独立し、王国となりました。

プロイセン参謀本部が、その名を世界に轟かせたのは、ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ、いわゆる大モルトケが参謀総長の時でした。1866年、オーストリアを盟主とするドイツ連邦から、プロイセンが脱退したため、オーストリアはプロイセンを攻めます。普墺戦争の勃発です。結果には、短期間でプロイセンが勝利し、以降、ドイツ統一は、オーストリアを外し、プロイセン中心に進んでいきます。その際、大モルトケは、開戦前から、輸送網、情報網を敷設するとともに、各部隊に参謀を配置することで、作戦の統一を図ります。これらが、プロイセンに短期間での勝利をもたらしたとされます。

大モルトケは、戦争を変えた、とも言われます。ナポレオンの時代までは、兵力集中が軍事の基本でした。対して、大モルトケの戦術は、分散進撃、包囲、一斉攻撃を基本としていました。その思想的背景には、プロイセンの大先輩であるカール・フォン・クラウゼヴィッツの絶対的戦争論があり、それを支える技術面では、鉄道と電信の発達という近代科学の成果がありました。大モルトケ以降、包囲殲滅戦が軍事の基本となりました。1870年に普仏戦争が開戦されると、大モルトケの作戦は冴えにさえ、雌雄を決したセダンの戦いは、典型的な包囲戦となりました。普仏戦争は、ドイツ統一に向け、諸邦の一体化を図るため、ビスマルクがフランスを挑発して起こした戦争です。大モルトケの準備も万全だったわけです。なお、普仏戦争中、プロイセン国王は、ドイツ皇帝となり、ドイツ帝国が誕生しています。

普仏戦争後、世界各国の軍隊は、プロイセンの参謀システムを取り入れ、クラウゼヴィッツの戦争論を研究します。プロイセン参謀本部の大きな特徴は、既に指揮官の輔弼機関等ではなく、事実上の総司令部であったことです。また、大モルトケは、参謀主体の作戦遂行にとって、自律的に判断・行動できる参謀の養成が要であることを十分に理解し、育成に力をいれたとも言われます。プロイセン参謀は、2年周期で、前線に送り込まれ、参謀に戻されていました。2年の意味は、「鼻から硝煙の匂いが消えるころ」だったと言います。日本企業の官僚化した本社スタッフの皆さんに聞かせたい話です。(写真出典:ja.wikipedia.org)

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