2024年4月30日火曜日

東京ジャーミイ

100ヶ所以上あるという日本のモスクのなかで最大規模を誇るのが、代々木上原の東京ジャーミイです。ジャーミイとは、トルコ語で、金曜の合同礼拝を含む、一日5回の礼拝を行う大型モスクを指します。毎週日曜の午後に開催される見学ツアーに参加してきました。当日は、ウイグル族のジャナーザが、100名程度の参列者によって営まれた後だったらしく、モスクのロビー、集会所は混み合っていました。ジャナーザは、イスラム教における埋葬後の礼拝です。亡くなった方の遺体は宗教弾圧が続く新疆ウイグル自治区にあり、日本に逃げてきている親族、友人が集まってジャナーザを執り行ったようです。ジャナーザが行われたのは1階にある広い集会所です。東京ジャーミイのメインとなる礼拝堂は2階にあり、最大2千人が同時に礼拝できるそうです。

キリスト教や仏教とは異なり、偶像崇拝を固く禁じるイスラム教のモスクには礼拝すべき神仏像はありません。マッカの方角に向かって礼拝するものの、礼拝の対象はあくまでも唯一神アッラーです。従って、モスクは礼拝する場所を提供しているに過ぎず、いつでも、誰にでも等しく門戸が開かれています。ジャナーザがあったので、当日はウイグル族の方々が多かったわけですが、ロビーには実に様々な肌の色の人たちがいました。西アフリカのトーゴから来たという幼い兄弟たちにも合いました。イスラムはアラビア半島発祥の宗教ですが、現在、イスラム教徒の6割以上にあたる約10億人が、アジア・太平洋地域に分布しています。東京ジャーミイに集う人々も、恐らくアジア系の方々が多いのでしょう。

東京ジャーミイの建物は、二代目になります。初代は、1938年に落成しています。1917年にロシア革命が起きると、イスラム教徒の多くが国外に脱出します。日本にも千人程度が渡ってきたとされます。タタール系を中心に礼拝所建設の動きが起こり、日本政府の支援もあって「東京回教礼拝堂」が建てられました。当時の日本政府は、キリスト教国との戦争を想定しており、対イスラム宣撫政策がとられていました。東京回教礼拝堂の落成式には、大アジア主義を唱える玄洋社の頭山満、そして陸海軍の幹部たちが出席していたようです。言うまでもなく、対イスラム宣撫政策は、その後の大東亜共栄圏へとつながっていくわけです。落成から50年も経たない1984年、老朽化の進んだ初代モスクは閉鎖され、取り壊されています。

木造だった初代モスクを建てたのは宮大工だったと言います。もちろん、当時、イスラム建築のプロなどいるはずもなく、寺院だからというので宮大工が施行を任されたようです。日本の寺社仏閣は、屋根で防水する構造を持っています。檜皮も瓦も使わないイスラム建築では、結果的に防水が不十分となり、老朽化が早く進んでしまったようです。東京トルコ人協会は、モスク再建をトルコ政府に働きかけます。政府の呼びかけに応じてトルコ国内では多大な寄附が集まったといいます。それをもとにトルコ政府は、建築資材と多数の職人を送り込み、2000年、現在のモスクを完成させています。現在、東京ジャーミイの管理・運営はトルコ政府宗務庁が行い、モスクの指導者であるイマームも、宗務庁が選出し、派遣しています。

今回の見学ツアーで驚いたことの一つは、ガイドしてくれたトルコ人から聞いたチュルク系言語の話です。例えばチュルク系民族としては西端近くに存在するトルコ人と、トルコからは数千キロも東に離れたウイグル族は、さほど支障なくコミュニケートできると言うのです。ユーラシア大陸に広く分布するチュルク系民族ですが、なかでも中央アジア一帯に分布するチュルク語族同士は、会話に困らないと言います。考えてみれば、当然と言えることなのでしょうが、改めて聞くと、結構、驚きでした。イスラム化した国々では、パキスタンのウルドゥー語のようにアラビア語化している国も多くあります。また、中央アジアには長くロシアに支配されてきた国も多く、完全にロシア語化しているものだと思い込んでいました。しかし、多くの地域でチュルク語は失われていなかったわけです。(写真出典:kajima.co.jp)

マクア渓谷