2024年5月2日木曜日

「シュトロツェクの不思議な旅」

ヴェルナー・ヘルツォーク・シリーズの第2弾として「シュトロツェク」を観ました。印象やイメージが、意識のなかに静かに染みこみ、しかもなかなか消えない、という奇妙な魅力を持ったロード・ムービーでした。自然主義的な演出や美しい映像がゆえでもあるのでしょうが、なんといっても主演するブルーノ・S(Bruno Schleinstein )のピュアな存在感によるところが大きいと思います。ブルーノ・Sは、彼を取材したドキュメンタリーを見たヘルツォークによって見いだされた素人です。ヘルツォークは、彼を「カスパー・ハウザーの謎」の主演として起用し、彼のためにわずか4日で脚本を書きあげ、本作を撮影しました。

ブルーノ・Sは、売春婦の子としてベルリンに生まれます。父親は不明でした。彼は、学習障害児として、3歳から施設に送られ、以降、教育を受けることもなく、施設や刑務所で23年間を過ごします。統合失調症という診断も受けていたようです。独学でピアノ、アコーディオン、鉄琴などの演奏を習得していきます。刑務所を出たブルーノ・Sは、フォークリフトの運転手をしながら生活し、週末には団地の中庭で自作の曲を演奏していました。本作の主人公シュトロツェクのキャラクターはブルーノ・S自身であり、作中に登場するアパートも、彼が実際に暮らす部屋だったようです。映画後半のアメリカでのパートは創作ですが、限りなくドキュメンタリーに近い作品であり、自然主義の究極の映画とも言えそうです。

ヘルツォークは、生けるカスパー・ハウザーに出会ったわけです。ヘルツォークは、自然児が文明社会に適応できない姿を端的に表現するために、アメリカへの移住という設定を考えたのでしょう。人間の本質と文明社会との不調和は、ヘルツォーク映画の変わらぬテーマです。ベルリンにおけるシュトロツェクの生活は、周囲の人々の支えもあり、奇妙ながらも成立していました。それが、強欲をベースに構成された文明社会の典型アメリカに移住することで崩壊していくわけです。シュトロツェクは、アメリカは夢の国だ、アメリカに行けば、皆、金持ちになる、と信じています。確かに、自由の国アメリカには成功に恵まれ易い構造があります。ただ、それ以上に、多くの破産者を生み出す社会でもあります。

ヘルツォークは、それを分かりやすく表現するためにローンをモティーフに使っています。物質文明の塊であるアメリカでは、いとも簡単にローンが組まれて多くの物を手にすることができます。同時に、支払いが滞れば、いとも簡単に全てが失われていきます。私も、NYに赴任した時、実に恐ろしい国だと思ったものです。船板一枚下は地獄、とは危険と隣り合わせの漁師という仕事の特性を表わす言葉ですが、アメリカ社会を表わすのにも適した言葉だと思いました。アメリカに渡ったシュトロツェクは、社会に取り残された人々を見ることになります。時代からも社会からも棄てられたインディアン居留地がラスト・シーンに選択されたことは、実に意味深いものがあります。

シュトロツェク、エヴァ、そしてベルリンの隣人である変わった老人という3人組は、中古車で目的地ウィスコンシンを目指します。ドライブ・シーンは、実に美しく、センチメンタルで、心に残る映像でした。そこで流れる音楽は、チェット・アトキンスが演奏する「The Last Thing On My Mind」です。1960年代の初めに、フォーク・シンガーのトム・パクストンが、”The Leaving of Liverpool"という船員たちに伝わる古い唄に基づき作曲しています。もとは甘くセンチメンタルな別れの唄ですが、実にカントリーらしい名曲になっています。チェット・アトキンスのインストゥルメンタルも、そこはかとなく郷愁を誘う名演です。見事な選曲です。たまらなくアメリカに行きたくなりました。(写真出典:imdb.com)

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