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門中墓 |
ただ、友人の所属する門中では、遺骨を2週間だけ門中墓に安置し、その後、各家族の墓に埋葬するのだそうです。家族の墓といっても、ミニ門中墓のようなもので、大きな墓に複数家族が埋葬されています。なぜこのような風習が生まれ、なぜ今も生き残っているのか、気になりました。門中の起源は、17世紀後半、琉球王朝が、士族に対して家系図の作成・提示を命じたことにあるようです。家譜編纂は、士族支配・管理の手法として理解できますが、その後、庶民の間にも広がっていき門中の発生につながったようです。その背景には、仏教の影響による先祖崇拝の浸透があったとされます。先祖崇拝は、しばしば王朝による社会管理の手法にも使われてきました。門中の普及には琉球王朝の意図も働いていたのかもしれません。
ただ、それ以上に門中成立に大きな影響を与えたのは「ゆいまーる」の存在だったのでしょう。農業は多くの労力を必要とします。古くから行われてきた農村における共同作業体制の沖縄版がゆいまーるです。その伝統に、家譜編纂が組織的な形式を与えたものと思われます。琉球における稲作は12世紀頃に始まったようですが、稲作に適しない土壌や地形なども多くあり、早くから共同作業が必要不可欠だったのでしょう。ゆいまーるは、今も沖縄の精神風土にしっかり残っています。門中もさることながら、今も盛んな沖縄独特の互助制度「模合」も、その一例なのでしょう。糸満の友人も、複数の模合に参加していると聞きました。もっとも、現代の模合は、定期的な飲み会の仕組みのようにも思えます。
沖縄県立図書館で開催されていたブラジル移民の写真展を観てきました。ブラジルへ移民した沖縄県民たちが、ゆいまーる精神に基づき開拓にあたっていたことを知りました。沖縄の海外移民は、明治期のハワイ移民に始まります。定住率の悪さから幾度か中断されながらも継続され、戦後は基地に農地を奪われた農民の南米への移民が行われています。沖縄県の海外移民総数は、広島県に次ぐ第2位です。沖縄にルーツを持つ移民は、現在、世界各地に40万人いるとされています。なかでもブラジルが最も多いようです。およそ移民たちは辛酸をなめることになったわけですが、沖縄県出身者たちは、一致団結して共同開拓にあたり、成功を収めていきます。まさにゆいまーる、あるいは門中の力だったと言えるのでしょう。
1990年から5年に一度開催されている世界ウチナンチュ大会には、世界中から数千人の移民とその末裔たちが集まります。これもゆいまーる精神と門中の賜物なのでしょう。さらに言えば、敗戦後、困窮した沖縄県民を助けるために、世界各地の移民たちが食糧支援などを行っています。厳しい環境のなかで培われたゆいまーるの精神は、今もしっかり生きているわけです。ただ、門中や門中墓には、逆風も吹き始めているようです。負担感もあるのでしょうが、厳密に運用される父系という縛りが、現代風の家族感と相容れなくなってきたためだと聞きます。沖縄に限らず、世界中で家族の形は大きく変わりつつあります。沖縄の伝統に根ざした門中と言えども、さすがに難しいところに来ているのでしょう。(写真出典:mikuni-ohaka.com)