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勝連城址 |
世界遺産や国指定史跡になっているグスクは別として、他は整備も十分にされず、ほぼ荒れたままになっています。浦添グスク、および王の墳墓である”浦添ようどれ”も、国指定史跡にも関わらず、残念な整備状況にあります。浦添グスクは、伝説とされる舜天王は別としても、英祖王統、察度王統が200年間に渡り居城とし、第一尚王朝が首里に移るまで、琉球の中心だったグスクです。いわば統一琉球が生まれた歴史的な地と言えます。また浦添グスクは、太平洋戦争末期の沖縄戦有数の激戦地でもありました。戦時中は、日本軍からは前田高地、米軍からはハクソー・リッジと呼ばれ、トム・ハンクス主演の映画にも描かれています。その戦いによる破壊、そして戦死者の多さが整備を阻んでいるのかもしれません。
沖縄学の父とされ、浦添グスクの重要性を唱えた民俗学者・伊波普猷の墓は、この浦添グスクにあります。伊波は、農耕の開始、部族社会化とグスク構築、三山時代、尚王朝による統一という琉球の歴史のスタンダードを確立した人でもあります。ただ、各地のグスクの曲面城壁、高度な石組技術、正殿の位置や向き等が、あまりにも似ている点がやや気になります。伊波説のとおり、各地の按司と呼ばれる豪族がそれぞれ勝手にグスクを建てたのであれば、もっと多様性があるはずだと思うからです。近年、伝説とも言われた英祖王の実在性とその影響力の大きさが認識されているようです。つまり、英祖王が島の大部分を支配下におき、その後、英祖王統によって各地の大型グスクが建築されていったと考えるべきなのでしょう。
琉球の稲作は、12世紀に始まります。文化人類学的には、本土や中国との交流を通じて稲作を知っていたはずなのに、なぜ琉球は稲作を選択しなかったのか、ということが謎とさているようです。素人考えでは、食料があふれていたことに加え、沖縄の土壌や地形が稲作に適していなかったからだと思います。とすれば、なぜ12世紀に至り、突然、稲作が始まったのか、という疑問が生じます。恐らく技術革新があったからであり、それは外から持ち込まれたと考えるべきなのでしょう。つまり、英祖王の一族が、稲作とグスク建築の高度な技術を持ち込み、影響力を増していったのではないでしょうか。王墓の遺骨の平均身長を比べると、尚王朝よりも英祖王統が5cm以上高いと聞きます。英祖王の一族は、中国本土から渡ってきた渡来人と考えるのが自然だと思います。
今回、勝連城址を訪れた際、現代版組踊「肝高の阿麻和利」を知りました。2000年から、うるま市の中高生によって演じられているとのこと。高い評価を得て、国立劇場や海外でも公演したことがあるそうです。勝連城主の阿麻和利は、海外との交易で利益を得るなど勢いのある按司でした。1458年、第一尚王朝時代に護佐丸・阿麻和利の乱が起こります。琉球王朝の正史では、中城城主・護佐丸は忠臣、阿麻和利は謀反人として伝えられます。しかし、尚王家が、かつての今帰仁城主であり奄美に利権を持つ護佐丸、喜界島と連合を組む阿麻和利を滅ぼし、その利権を奪取したという異説もあります。事実、乱の後、琉球王権は、奄美と喜界島に遠征し、支配下に置いています。「肝高の阿麻和利」は、民衆の人気が高かったという阿麻和利の実像に迫ろうという試みでもあるのでしょう。(写真出典:uruma-ru.jp)