監督:クリストファー・ノーラン 2023年アメリカ
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アカデミー作品賞、監督賞はじめ多くの賞を獲得した話題作が、世界から半年遅れで、ついに日本でも公開されました。公開の遅れは、配給元であるユニバーサルが、日本人の心情に配慮した結果とされます。8月公開を避けたことは理解できますが、ここまで遅くなったことに関しては意味不明です。原爆投下に関するアメリカ人の意識が気になるところです。原爆投下が戦争を終結させ、日米の多くの兵士の命を救ったというのが、アメリカ人の定番の理屈です。兵士の命を守るためなら多くの市民の命が犠牲になっても良い、というのはいかにも無理のある話です。アメリカ人もその論理矛盾には気付いているのだろうと思います。いかに総力戦の時代とは言え、一般市民の大量殺戮は許しがたい戦争犯罪としか言いようがありません。希代の才人であるクリストファー・ノーランが、そのあたりをどう描くのか、興味津々でした。結果的に言えば、オッペンハイマーの苦悩と矛盾した性格にフォーカスし、原爆に関する議論に関しては、各論併記に徹し、中立的立場を貫いていたと思います。そうしたスタンスに商業的視点も加わり、広島・長崎の悲惨な実態が映像化されていません。また、市民の大量虐殺という点に関しても、さらりと触れるに留まります。ヒューマニズムという観点からすれば、慎重になりすぎて、画竜点睛を欠く結果になったと言わざるを得ません。とは言え、核兵器を巡る議論、物理学の難解さといった難しい題材を見事にエンターテイメントに仕上げるクリストファー・ノーランの才能には、あらためて感服させられました。
本作のモティーフは、あまりにも多く、かつ、一つひとつが濃すぎます。混乱した映画になって当然とも言えますが、クリストファー・ノーランは、カットと音楽によって、巧みにすべてを処理し、流れるようなスムースさを実現しています。これまでも、時間といった物理学的モティーフをエンターテイメントに仕上げてきた監督の手腕の確かさです。その特徴は、各ファクターを疎かにすることなく、かつ決して深掘りせずに流していくというスタイルです。今回は、前半部分で、ハリウッド伝統のサクセス・ストーリーの演出手法が取り入れられています。ハリウッドが最も得意とするところであり、アメリカ人が最も好むところでもあります。クリストファー・ノーランのツボを心得た演出が光ります。
映画は、オッペンハイマーと原子力行政の担い手であったルイス・ストラウスの対立構図を縦糸に置いています。本作が成功したポイントの一つがここにあると思われます。基本構図が明確なので、モティーフの多さによる煩雑さが和らいでいます。カラーと白黒の使い分けによって、分かりやすい演出の工夫もしてあります。オッペンハイマーとストラウスとの関係は、科学と政治との関係を象徴するだけではなく、科学が宿命的に持つ進化の哲学的側面を問うているようにも思われます。20世紀は、科学的進化の時代でしたが、それを実現したのは人間の強欲でした。今、我々は地球と人類が崩壊していく過程に直面しているとも言えますが、それは前世紀の科学的進化のツケを払わされているということでもあるのでしょう。
オッペンハイマー役のキリアン・マーフィー、ストラウス役のロバート・ダウニーJrの演技が光ります。アカデミー賞では、それぞれ主演男優賞、助演男優賞を獲得しています。オッペンハイマーの恋人ジーン・タトロックを演じたフローレンス・ピューの存在感も見事でした。この人の才能には驚かされます。本作で極めて重要な役割を担ったのは音楽です。音楽のルドウィグ・ゴランソンは、本作で2度目となるアカデミー作曲賞を獲得しています。まだ若いにも関わらず、既に巨匠の領域に入りました。本作がクリストファー・ノーランの最高傑作とする声も多いようです。確かに、多くのアカデミー賞を獲得し、記録破りのヒットも成し遂げています。ただ、監督の力量の高さを余すところなく伝える傑作ではありますが、”らしさ”という点では少し違うようにと思います。(写真出典:eiga.com)