2024年4月4日木曜日

北上川

平泉を訪れるなら、まずは中尊寺にお参りし、藤原三代の栄華を偲ばせる金色堂を拝観すべきでしょう。中尊寺は、標高190mという丘の上に伽藍が点在しています。月見坂と呼ばれる参道は、なかなかに厳しい上りです。それだけに、上からの景色は見事なものです。東北きっての大河である北上川が、ゆったりと蛇行する姿に思わず見とれます。北上川は、岩手県北部の岩上町に発し、旧北上川は宮城県の石巻で太平洋に注ぎます。下流域での度重なる水害の対策として掘削された新北上川は、登米で分流して東へ流れます。分流工事は、明治末期から昭和初期にかけて、23年という月日を要した難工事でした。

古来、北上川は東北の大動脈でした。北上川という名前は、日高見(ひたかみ)国に由来すると言われます。日高見国とは、特定の国を意味するのではなく、おおむね東北地方を指す古代の言葉とされます。日本書紀等にも登場しますが、解釈を巡っては多くの議論があるようです。四方を見渡せる高台を意味する一般名詞とも言われ、日が昇る方角にある地域を指すという説もあります。日向に発した天孫家からすれば、大和は日高見国であり、天孫家が東進して大和に国を建てると、その東が日高見国と呼ばれることになったとも言われます。常陸(ひたち)という地名は日高見国に由来するという説もあります。いずれにしても、ヤマト王権が関東に進出すると、東北地方一円が日高見国と呼ばれるようになります。

ヤマト王権による東征の最も古い記録は、宋書・倭国伝にある倭王武の上表文だとされます。5世紀後半のことです。倭王武は、考古学上確認できる最古の天皇である雄略天皇だとする説が有力です。ただ、さらに古い伝説としては、景行天皇の子である日本武尊(ヤマトタケル)の東征があります。1世紀ころ、上総から海路で北上川流域に進出し、戦わずして蝦夷の首魁を服従させたというものです。日本武尊は、あくまでも伝説上の存在なのでしょうが、複数のヤマト王権の戦いが象徴されているとも言われます。時代が下り、7世紀後半になると、宮城県南部までは律令体制に組み込まれます。それより北に位置する北上川とその支流沿いでは、蝦夷と朝廷とのせめぎ合いが長く続くことになります。

8世紀初頭には、多賀城が塩釜に創建され、以降の陸奥経営、蝦夷征討の拠点とされます。8世紀中葉には金が発見され、朝廷による東北進出は加速されていきます。それに伴い、蝦夷の抵抗も強まり、三十八年騒乱の時代へと入ります。9世紀に入ると、征夷大将軍坂上田村麻呂が北進し、北上川とその支流沿いに胆沢城、志波城等を築き、象徴的にはアテルイの降伏もあって蝦夷征討がほぼ完了することになります。以降、東北は朝廷によって支配されるわけですが、11世紀中期、奥六郡を支配する豪族安倍氏による反乱が起こります。前九年の役です。その直後、前九年の役の収束に功があり、結果、東北を支配することになった出羽の清原氏に内紛が起こり、これに源義家が介入して後三年の役が起ります。

戦いの結果、清原氏の養子であった清衡が奥州全域を支配することになります。清衡は、実父の藤原姓を名乗り奥州藤原氏が誕生します。奥州藤原氏は、産出する金を背景に、3代100年の栄華を誇りました。その拠点が平泉です。海から北上川を遡上すると、平野部の先に山間の隘路が出てきます。一ノ関です。関を越えたところに平泉は位置します。その後背には平野部が広がり、穀倉地帯となっています。平泉は、まさに北上川の要衝に位置し、奥州を守っていたわけです。1189年、奥州藤原家は、源頼朝によって滅ぼされます。義経を匿ったことが契機となりましたが、鎌倉にとって目障りな平泉は、遅かれ早かれ攻められる運命にあったのでしょう。ちなみに、兵員輸送の担い手だった舟運は、戦国時代に入ると陰が薄くなります。応仁の乱で登場した足軽によって兵員数が増加したことが影響しているのでしょう。(写真出典:tabi-mag.jp)

マクア渓谷