中華人民共和国は、社会主義市場経済を標榜していますが、ジャーナリストの楊継縄は、その著書「文化大革命五十年」(2019)のなかで、これを「権力市場主義」と呼んでいます。楊継縄は、中国共産党員で、新華社の優秀な記者として表彰も受けています。2001年に新華社を退職、炎黄春秋社の副社長に就き、多くの書籍を発表しています。ただ、次第に当局から警戒されるところとなり、大躍進運動を分析した代表作「墓石」(2008)や本作も香港で出版されています。香港の一国二制度が瓦解した今、楊継縄はじめ、中国国内から香港経由で共産党批判を発信していた人たちの今後の活動が大いに懸念されます。
楊継縄は、中国現代史を、「官僚集団」というキーワードをもって、実に分かりやすく解き明かしています。1966年に発動された文化大革命は、大躍進運動の失敗で影響力を失った毛沢東による権力奪還闘争であると理解されています。それは否定できないとしても、背景には、当然、毛沢東の共産主義への狂信があります。毛沢東は、その実現に向けて、党や国家の官僚化が阻害要因となることを、早い段階から憂慮していたと考えられます。共産主義が掲げるプロレタリアート独裁は、バクーニンが指摘したとおり共産党幹部による独裁であり、ロシアでも革命直後からノーメンクラトゥーラと呼ばれる共産貴族が生まれています。毛沢東が、右派、修正主義者、走資派、実務派と呼び、趣旨一貫、闘争の対象したのは、この官僚集団の発生・拡大だったとも言えます。
国家の効率的運営にあって、官僚制は、欠くべからざる存在です。ただ、独裁体制のなかでは、その権力は絶大化し、いわば無菌状態のなかで留めもなく自己増殖していきます。官僚の肥大化を説いたパーキンソンの法則の超拡大版が展開されるわけです。文化大革命は、毛沢東の支持する革命継続派と官僚集団の戦いだったといえますが、毛沢東の死もあり、最終的に勝利したのは、官僚集団でした。10年に渡り国を混乱させた文化大革命を収束させた官僚集団が直面した課題は、経済と政治でした。官僚集団が、自らの保身、あるいは利権拡大のために出した答えが、社会主義市場経済でした。政治的には独裁を継続しつつ、経済は市場経済を導入し、その恩恵をも独占的に享受するということです。結果、生まれたのが貴族階級としての官僚集団であり、それに賄賂や縁故で連なる富裕層であり、そして取り残された大衆と言う構図です。
この構図は、独裁体制がゆえに生まれ、独裁体制がゆえに固定化していきます。官僚の子弟は、良い教育を受け、官僚になるか、厚遇をもって民間企業に迎えられます。一方、貧しい民衆の子弟は、金のかかる高等教育を受けることは出来ず、親が借金して教育を受けたとしても、就職先もままなりません。民主的と言われる国でも貧富の格差が固定化する傾向はあります。その主因は教育機会の偏在だとされています。独裁国家にあっては、賄賂とネポティズムが、格差を固定化していきます。我慢の限界を超えた貧民たちが、各地で暴動を起こしてきたようです。しかし、資金潤沢な官僚集団は、官憲を拡充し、単に暴動を鎮圧するだけではなく、未然防止のためにも徹底的な弾圧を加えます。香港で起きていることも同様の文脈にあると言えます。借金して大学を出た若者たちのなかには、絶望して自殺する者も少なからずいるようです。
民主主義揺籃の地である古代ギリシャにあって、最も民主制が隆盛を極めたと言われるのは、ペリクレスの治世下です。ただ、皮肉にも、民主制を完成させたペリクレスの政治手法は独裁的だったと言われます。そのペリクレスが行った官僚改革は、市民による無給の仕事であった官僚を給与制にして仕事に専念させ、給与を出す以上、抽選制にしたことでした。日本には、官僚を指す”公僕”という言葉があります。日本の場合、漢字の多くは中国由来ですが、公僕に関しては、英語の”public servant”に由来する訳語です。公僕という考え方は、民主国家にしかないものなのでしょう。(写真出典:viator.com)