2021年6月30日水曜日

浪曲

広沢虎造
国立演芸場で、日本芸術文化振興会が主催する花形演芸大賞の受賞者の会がありました。表彰式と受賞者8人による公演が行われました。さすがに勢いのある芸人たちばかりなので、大いに楽しめました。 大賞は、2年連続となる古今亭文菊。今、一番チケットの取れない落語家の一人です。文菊は、なかなか難しいネタ「稽古屋」を見事に演じていました。金賞には、大人気の講談師神田伯山も入り、ネタ下ろしで「出世の春駒」を読みました。落語的な要素も入れた伯山の講談は大いにウケます。浪曲からは、唯一、関西の菊池まどかが銀賞を受賞しました。浪曲は、あまり好むところではありませんが、楽しめました。声量豊かで、伸びのある声は見事でした。演目は、ベタな新作ストーリーでしたが、きっちり客席の涙を絞り出すあたりはさすがです。

落語、講談、浪曲は、日本の三大話芸とされます。そのなかで、浪曲、あるいは浪花節だけは、少し毛色が異なります。というのも、寄席で演じられるようになったのは、明治以降のことであり、それまでは、いわゆる門付の大道芸でした。噺家や講談師からすれば、一段も二段も格下の芸能だったわけです。また、門付芸ゆえ、即興性も高く、演者の個性が反映される面が強く、それは芸能としての型や流儀が確立されていないとも言えたわけです。浪曲は、6世紀頃、大陸や半島から渡来した説教・祭文に、そのルーツがあるとされます。祭文は、神に捧げる祝詞が、独特の節回しや語りを活かして門付芸になったものです。その後、様々な民間芸能の要素を取り込み、また時事ネタも扱い、芸として続きます。江戸末期、大阪の浪花伊助が、これを「浮かれ節」と命名して演じ、人気を博します。これが浪曲の基本型となり、また浪花節と呼ばれる所以でもあります。

明治後期には、桃中軒雲右衛門が登場し、浪曲は完成されたといわれます。雲右衛門は、日本初の右翼団体玄洋社、辛亥革命に関与した宮崎滔天等との交流が深く、代表作「義士伝」はじめ、演目は武士道の鼓舞を身上としたようです。1925年にラジオ放送が開始されると、浪曲は、最も人気のある番組になっていきます。浪曲とラジオは、切っても切れない関係になりました。ラジオ放送とともに、2代目広沢虎造が大人気を博します。広沢は、寄席、ホール、ラジオ、映画といったメディア・ミックス戦略で、浪曲ブームを作り上げました。得意演目の「清水次郎長伝」は大流行となり、”森の石松”は、知らぬ者とていない存在になりました。「酒呑みねえ、寿司食いねえ」や「馬鹿は死ななきゃなおらない」といったセリフは、浪曲に馴染みのない私の世代でも、誰もが知っていました。

浪曲は、戦前・戦中、軍部との結びつきを強めていきます。愛国浪曲なるものが一世を風靡したそうです。戦時統制が始まると、寄席も影響を受け、落語や漫才は弾圧を受けます。ただ、浪曲だけは、位置づけが異なっていたようです。寄席で格下の扱いを受けてきた浪曲は、時の権力と結びつくことで、地位向上を図ったのかも知れません。あるいは、その国粋主義的傾向が、政権に利用されたのかも知れません。敗戦後は、反動的と批判もされましたが、庶民、特に地方では、肌になじんだ浪曲の人気は衰えることがなく、再びラジオの人気番組になっていきます。しかし、テレビ放送が始まり、ラジオが衰退を始めると、メディア・ミックス戦略が逆回転して、浪曲人気も急速に落ちていきます。高度成長の賭場口にあって、浪曲が得意としてきた演目の価値観や押しつけがましさが、国民の肌に合わなくなったということもあるのでしょう。講談も同様の理由で衰退していったように思います。

一方、落語は、江戸期から変わらぬ庶民目線の落ち噺。講談や浪曲と重なる噺もありますが、基本的には庶民の生活が反映された演目です。落語は、それなりに人気を保ちます。また、浪曲の穴を埋めるように、漫才が演芸の主流になってきました。講談は、笑いの要素もうまく入れて演じる伯山の登場で、人気を回復しつつあります。浪曲も、スターが必要なのでしょうが、その硬直的なスタイルからして、それだけでは人気回復は厳しいと思います。かつて3,000人を超す浪曲師がいたようですが、現在は60人とのこと。対して講談師は90人。 落語家は、 江戸期以降、 最大と言われる1,000人まで回復しているようです。(写真出典:tokyo-np.co.jp) 

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