2021年7月2日金曜日

チップ

チップや心付けという習慣は、どうもしっくりこないものがあります。チップが生きた習慣として残る国へ行けば、忘れないように気を付けています。日本では、ほぼ廃れた習慣なので、普段、気にすることはありません。今でも心付けを渡す機会としては、温泉宿や料亭の仲居さん、相撲観戦でお茶屋を通した際の出方さん、ゴルフ場のキャディーさん、タクシーの運転手さん、稀ですが引越しの際の作業員さん、といったところでしょうか。心付けを裸で渡すことは、失礼だとされています。とは言え、滅多にあることではないので、ついついポチ袋を忘れ、ティッシュ・ペーパーに包んで渡すことになります。

 チップがしっくりこない理由は、2つあります。一つはチップが、”施し”のように思える点です。いま一つは、給与との関係です。”施し”に関して言えば、イスラムのザカートと同様、儒教等にも喜捨の精神はあり、恐らく世界中、同じような考え方があるのだと思われます。ですから、寄付や援助については十分理解できます。ただ、温情的な”施し”は、身分制度や職業の貴賤を前提にしており、相手の尊厳を傷つけるのではないか、と思ってしまうわけです。また、給与との関係については、提供されるサービスのコストは、人件費として認識されて当然であり、給与化されるべきだと思います。現在の日本では、そういう考え方が主流となり、サービス料という仕組みが存在します。欧米で見られる、不確性の高いチップを前提に、給与を低く抑える方式は、いくらサービスの向上につながると言われても、どうも釈然としません。

チップや心付けの歴史は、はっきりしていません。おそらく喜捨の精神に基づく気持ちの問題として、古くから、ごく自然に行われてきたからなのでしょう。また、かつて物品やサービスの定価が無かった時代には、価格の一部という性格もありました。典型的だと思うのは、今でも酉の市で熊手を買う際、値引きしてもらった分は、心付けとして渡す習慣があります。初めから正札方式でいいじゃないかと思ってしまいます。また、江戸期の宿代は、幕府の価格統制下で低く抑えられていたため、泊り客は、お茶代として心付けを渡す習慣があったようです。このように慣習化、あるいは制度化されたものに関する歴史的記述は、多く見つけることができますが、発祥は不明なわけです。チップや心付けの語源すら判然としません。

チップ(tip)という言葉の初出は、18世紀初頭の演劇だとされます。17世紀の犯罪社会において、手渡すといった意味のスラングとして使われており、18世紀には、タブーな物品のの不必要な贈与を意味する言葉になったようです。言葉自体は、また、習慣としてのチップの語源には有名な話があります。18世紀、イギリスのパブでは、”To Insure Promptness(早いサービスを受けるため)”と書かれた箱が置いてあり、客がお金を入れ、従業員が分配していたというのです。それ自体は事実かも知れませんが、語源、あるいは発祥とは思えません。また、かつてイギリスの床屋が行っていた悪い血を抜くサービスは価格が決まっていなかったため、チップを渡す習慣が始まったという説もあります。これも事実なのでしょうが、発祥というのは眉唾です。

ざっくり言えば、気持ちとしての心付けは、古くから世界中に見られ、社会慣習化されたチップは、欧州に深く根を張っているように思えます。その違いの背景には、市民階級の発生という歴史が関わっているように思います。つまり、歴史も古く、市民革命まで起こすほど力を持った欧州のブルジョワジーの階級意識の現れだったのではないでしょうか。近年、欧米では、チップ不要論も多く議論されているようです。いささか合理性に欠けるチップですから、当然の成り行きだと思います。(写真出典:chatelaine.com)

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