”唐の国にまで知られる”と言われる元になったのは「馬頭夫人(めずぶにん)」の伝承です。唐の18代皇帝僖宗の第4后馬頭夫人は、優美で奥ゆかしく、皇帝の寵愛を受けます。ただ、顔が長く、鼻は馬に似ていました。嫉妬する他の后たちは、日中の宴席を設け、馬頭夫人の器量の悪さを皇帝に印象づけようとします。悩んだ夫人は、仙人に相談します。すると、日本国は長谷寺の観音様こそ極位の菩薩ゆえ、東方を礼拝せよ、と言われます。夫人は七日七夜祈り続けます。すると観音様が現れ、良い香りの瓶水を夫人の顔に注ぎます。
絶世の美女となった馬頭夫人は、小舟に御礼の財宝を積み、東方へと送り出します。小舟は、長い年月を経て、奇跡的に明石の浦に漂着し、宝は、無事、長谷寺に納められます。既に馬頭夫人は死んで護法善神となり、人々に慕われていたと言います。長谷寺は、馬頭夫人社を造り、夫人を祀りました。馬頭夫人が寄進した宝のなかに、牡丹の種があり、長谷寺は牡丹の名所になったというわけです。もちろん、信じがたい話ですが、なぜこんな話ができたのか、何か元になった逸話があったのか、といったところが気になる話ではあります。
唐の僖宗帝の在位は9世紀後半、黄巣の乱で唐が滅亡へ向かう時期にあたります。日本からの最後の遣唐使は、838~839年のことであり、僖宗帝の即位前でした。894年にも遣唐使派遣が企画されますが、唐の情勢が混乱していることから中止となっています。注目すべきは、朝廷が、唐の情勢を知っていたことです。最後の遣唐使のなかで唐に残った僧侶の記録もあり、また、空海十大弟子の一人真如こと薬子の乱で廃位された高岳親王が、864年に入唐し、その後、天竺(インド)を目指して旅立ち、消息を絶ったことも知られています。
いずれにしても、正式な遣唐使とは別に、唐との人の往来が、それなりにあったわけです。ちなみに、資治通鑑等中国の文献に、僖宗帝の后に関する記述は見当たらないようです。当時の長安で流布された噂話が伝えられ、長谷寺の箔付けに活用されたということでしょうか。それにしても、その頃、すでに長谷寺は名刹として知られ、霊験あらたかな観音様は大人気だったようなので、なぜ、あらためて箔付けの話を創作する必要があったのか、実に不可思議だと思います。(写真:馬頭夫人像 出典:moonsunwish.com)