2021年7月21日水曜日

馬頭夫人

能楽「玉鬘(たまかずら)」は、源氏物語が出典であり、夕顔の娘”玉鬘”の死してなお苦しむ霊が成仏する物語です。妄執に苦しむ玉鬘の霊が舞うカケリは見ごたえがあります。舞台は、奈良県東部、初瀬山の長谷寺です。国宝の本堂に鎮座する巨大な十一面観世音菩薩は霊験あらたかとされ、また牡丹の名所としても知られます。源氏物語でもモチーフとして登場する「二本(ふたもと)の杉」は、同じ根から二本の幹が伸びている杉ですが、長谷寺の境内に今も残ります。源氏物語と同様、能楽でも、長谷寺は”唐の国にまで知られる”寺として紹介されます。

”唐の国にまで知られる”と言われる元になったのは「馬頭夫人(めずぶにん)」の伝承です。唐の18代皇帝僖宗の第4后馬頭夫人は、優美で奥ゆかしく、皇帝の寵愛を受けます。ただ、顔が長く、鼻は馬に似ていました。嫉妬する他の后たちは、日中の宴席を設け、馬頭夫人の器量の悪さを皇帝に印象づけようとします。悩んだ夫人は、仙人に相談します。すると、日本国は長谷寺の観音様こそ極位の菩薩ゆえ、東方を礼拝せよ、と言われます。夫人は七日七夜祈り続けます。すると観音様が現れ、良い香りの瓶水を夫人の顔に注ぎます。

絶世の美女となった馬頭夫人は、小舟に御礼の財宝を積み、東方へと送り出します。小舟は、長い年月を経て、奇跡的に明石の浦に漂着し、宝は、無事、長谷寺に納められます。既に馬頭夫人は死んで護法善神となり、人々に慕われていたと言います。長谷寺は、馬頭夫人社を造り、夫人を祀りました。馬頭夫人が寄進した宝のなかに、牡丹の種があり、長谷寺は牡丹の名所になったというわけです。もちろん、信じがたい話ですが、なぜこんな話ができたのか、何か元になった逸話があったのか、といったところが気になる話ではあります。

唐の僖宗帝の在位は9世紀後半、黄巣の乱で唐が滅亡へ向かう時期にあたります。日本からの最後の遣唐使は、838~839年のことであり、僖宗帝の即位前でした。894年にも遣唐使派遣が企画されますが、唐の情勢が混乱していることから中止となっています。注目すべきは、朝廷が、唐の情勢を知っていたことです。最後の遣唐使のなかで唐に残った僧侶の記録もあり、また、空海十大弟子の一人真如こと薬子の乱で廃位された高岳親王が、864年に入唐し、その後、天竺(インド)を目指して旅立ち、消息を絶ったことも知られています。

いずれにしても、正式な遣唐使とは別に、唐との人の往来が、それなりにあったわけです。ちなみに、資治通鑑等中国の文献に、僖宗帝の后に関する記述は見当たらないようです。当時の長安で流布された噂話が伝えられ、長谷寺の箔付けに活用されたということでしょうか。それにしても、その頃、すでに長谷寺は名刹として知られ、霊験あらたかな観音様は大人気だったようなので、なぜ、あらためて箔付けの話を創作する必要があったのか、実に不可思議だと思います。(写真:馬頭夫人像 出典:moonsunwish.com)

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