2021年7月14日水曜日

坐禅

永平寺禅堂
うちの宗派が曹洞宗であることもあり、本山永平寺には何度か行きました。といっても宗教行事ではなく、単なる観光としてですが…。数年前には、坐禅体験をさせてもらいました。1回の坐禅は”一炷”と言われ、線香が燃え尽きるまでの約40分間行います。姿勢と呼吸を整え、半眼にして坐禅に入ると、アッと言う間に終わりの鐘が鳴りました。うまく表現できないのですが、なにかスッキリした印象があり、次は3泊4日の参禅に参加しようと思いました。ところが、参禅してきたという友人がおり、体力が持たないからやめた方がいい、と言われ、断念しました。

禅宗では、修行僧は”雲水”と呼ばれます。行く雲,流れる水のように、一切の執着を断ち、禅の境地をめざすという意味です。参禅では、雲水たちと同じ修行を行います。3時30分に起床、偈文を唱えながら洗面、すぐに1回目の坐禅に入ります。坐禅は、1日5回行われます。暁天坐禅の後は朝の勤行です。そして、道元禅師が定めた作法に則り、粥に香の物だけという、ごくわずかな朝食を取ります。その後は、全力で雑巾がけ等の作務に打ち込みます。以降、勤行、坐禅、作務を繰り返し、夜9時に就寝となります。激しい作務は体力勝負であり、少量の食事で空腹状態が続き、かつ作法だらけの食事は食べた気がしないと言います。

夕食は”薬石”と呼ばれます。かつて、雲水の食事は日に1度だけで、後は温めた石を抱き、空腹に耐えたものだそうです。薬石の由来です。雲水は、ひと月もすると少食に慣れてくるそうですが、その時点で栄養失調になっているとも聞きます。文字通り、道元禅師の「只管打坐」実践の場ということです。山に入るには、相当の覚悟が必要であり、世間との関わりを一切断つ、まさに”出家”ということになります。永平寺には、常時、150人程度の雲水がいます。寺を継ぐために修行する若い僧たちに加え、禅にあこがれて飛び込んだ人たちも多いようです。彼らは高学歴者が多く、雲水の出身大学を見れば、東大が最も多いとも聞きます。勉学に励み、エリートとして社会に出て、初めてアイデンティティの危機に直面した人たちなのでしょう。

ヒンドゥーの瞑想は、3千年を超える歴史があり、様々な形へと進化しています。仏教の中の瞑想や坐禅も、その一つと言えます。近年、アメリカ生まれのマインドフルネスが評判になっています。職場でのメンタル問題への対応として、評価されているようです。マインドフルネスは、宗教色を消した瞑想と言われます。意識を集中させる仏教の瞑想法サティが元になっています。対象に一切判断を加えずに意識を集中し、何事にも惑わされない状態を得ることが目的です。対して坐禅は、同じ仏教であっても、まったく異なります。単純に言えば、坐禅に目的はありません。ただひたすら坐禅することが目的だと言えます。まさに”只管打坐”であり、修行がそのまま悟りであるとする”修証一如”ということになります。流れ来る様々な想いを、そのまま流し、呼吸に意識を集中していきます。その先には”心身脱落”という道元禅師が悟りを得た境地があります。

私は、永平寺で坐禅の際に使う丸座布団も買い込み、家で坐禅をしておりました。しかし、家での坐禅では、今一つ没入できない面もあり、最近は、ほとんど行っていません。ただ、丸座布団は、国技館のマス席で相撲観戦をする際、私の必須アイテムとして活躍しております。道元禅師には、怒られそうですが、実に塩梅が良く、心静かに観戦しております。(写真出典:fukui-tv.co.jp)

マクア渓谷