2021年7月30日金曜日

イエロー・リボン

NYにいた頃、友達の家での誕生日会に参加した長女を迎えに行くと、もうすぐ終わるから、と言われ、大きな居間に通されました。既に10人くらいのアメリカ人のお父さんたちが待っていました。ちょうど湾岸戦争の最中であり、その日は、地上戦”デザート・ソード作戦”発動直前でした。 居間の大きなTVでは、湾岸戦争の発端となったイラクのクウェート侵攻を解説していました。解説をする軍事評論家は、クウェート侵攻を真珠湾攻撃に例えます。宣戦布告なきだまし討ちだというわけです。居間の空気が凍り付きました。

誰も話さず、目も合わせない状態がしばらく続きました。ようやく誕生日会がお開きになった時には、ホッとしました。真珠湾攻撃から半世紀を経て、ルーズベルト大統領による陰謀説もよく知られていても、「リメンバー・パール・ハーバー」というプロパガンダは、依然、大きな影響力を持っているわけです。イラクが、突如、クウェートに侵攻したのは、1991年8月2日のことです。イラン・イラク戦争の戦時債務と石油価格の低迷で経済的苦境にあったイラクは、OPECの協定を破って増産を続け、かつ隣接する油田の採掘を巡って争っていたクウェートを激しく非難していました。

各国による調停もむなしく、イラクは機甲師団をクウェートに侵攻させます。国連安保理は、即時撤退要請を決議しましたが、国連軍の編成まではできず、アメリカを中心とした有志による多国籍軍が編成されます。9月には、多国籍軍がサウジへの兵力の集結を開始。アメリカ国内では、予備役の召集が始まります。知人のなかで招集された人はわずかでしたが、その家族や友人、そして顧客企業の従業員の多くがサウジへと向かいます。TVは、連日、戦場の状況を伝え、郵便局には”戦地へ手紙を送ろう”という大きなポスターが掲げられ、そして家族を出兵させた家を中心に黄色いリボンが木々に結ばれました。突如、アメリカは、戦時下の国になりました。

イエロー・リボンの起源は、17世紀、イングランド内戦の際、ピューリタン側が黄色いリボンを身に付けて戦ったことにあります。その伝統は、新大陸にも伝えられ、アメリカ陸軍騎兵隊が黄色いバンダナを好んで使うことになります。20世紀初頭には、出征した恋人を思って、女性が黄色いリボンを首に巻く、という俗謡が流行ります。ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の「黄色いリボン(She Wore a Yellow Ribbon)」(1949)で、イエロー・リボンのイメージは定着します。それを木に結び付けるという習慣は、1973年、ドーンがヒットさせた「幸せの黄色いリボン(Tie a Yellow Ribbon Round the Ole Oak Tree)」がきっかけとなったようです。ヴェトナム戦争末期のことであり、多くの家の木にイエロー・リボンが結び付けられました。

「幸せの黄色いリボン」は、刑務所から出所した男と妻の話です。出典には、いくつかの説があります。ピート・ハミルが、フロリダで聞き、71年にニューヨーク・ポストに書いた記事が初出という説。60年代には、ある信者の話として、教会関係者の間で広まっていたという説。「幸せの黄色いリボン」の作詞者は、軍隊で聞いた話としています。山田洋次監督のヒット映画「幸せの黄色いハンカチ」は、ピート・ハミル版を原作としています。山田洋次の映画のヒットは、日本人に、黄色いハンカチと刑務所というイメージを植え付けました。アメリカでは、依然、イエロー・リボンは、出征兵士の帰還を願うサインであり、戦争の都度、多くの家で見かける光景です。(写真出典:spu.edu)

マクア渓谷